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京須偕充氏 特別寄稿

追悼・六代目三遊亭円楽さん
 六代目三遊亭円楽さんが亡くなった。年齢より若く見える人だったから、70才を過ぎていたのか、と思う。才覚があった人だけに、あと数年は活躍して「生意気な落語家」の人生を全うしてほしかった。

 円楽さんとは特別に親しく交ったつもりもないが、1970年代の「楽太郎」の姿が印象に残っている。その頃は大師匠、つまり師の師・六代目三遊亭圓生の全盛期で、その独演会を手伝う楽太郎青年とはよく顔を合わせた。聴衆と圓生の一問一答をさばく楽太郎には近い将来の落語家像を見る思いがしたものだった。

 1990年頃低迷する落語市場を何とかしたく、当時の銀座・ソニービル8Fのソミドでしばらく若手落語家のミニ独演会をやったことがある。その頃の楽太郎はテンポが速く聴衆を笑いのルツボに叩き込んですこぶる魅力的だった。

 笑点のレギュラーの地位を得たのは「楽太郎」改メ円楽のひとつの到達点だったが、笑点は一問一答が基本。そのシステムにはまってしまうと、速いテンポでことを進めるのはむずかしい。

 その転換期を乗り切ったとは言えない段階で円楽さんは病魔に襲われた。

 それでも頼めば大ネタにも取り組む円楽さんにはCDを4枚ほど作ってもらったが、往年に迫力が戻ったとはいえない。

 振り返ってみれば、雲の上の圓生の手伝いをしていた前途洋々の楽太郎クンこそが彼の青春の象徴であって、大師匠の名前など継いだら苦労がもっと大きかったのではないだろうか。



【三遊亭円楽 プロフィール】

青山学院大学在学中、師匠・五代目三遊亭圓楽の目に留まり、落語の世界に誘われ、前座修行をしながら同大学を卒業。入門時から将来を嘱望され、昭和52年(1977年)には、弱冠27歳にして笑点の大喜利レギュラーメンバーに抜擢、持ち前のキャラクターで大喜利に欠かすことのできない存在となりました。

また、数多くのテレビ・ラジオに出演し活躍する一方、精力的に独演会を催し、研鑽を重ねてきました。さらに、各種団体・自治体からの講演依頼も多く、現代日本の抱える諸問題・人間関係の再生・心の健康増進について、「笑い」を基軸に楽しく説いてきたことでも知られています。ゲートボールでは、一門若手とチームを結成し、日本全国で円楽ゲートボール大会を開催し、好評を博しました。

2007年から、福岡市にて「博多天神落語まつり」のプロデュースを手がけ、同地においては既に秋の風物詩として定着し以降、規模を拡大して開催しています。

2019年より「さっぽろ落語まつり」のプロデューサーも務め、東西の落語界の交流に力を注ぎ、「落語」の底上げと活性化、そして更なる文化の高みへと牽引してきました。


【主な経歴】

昭和25年(1950年) 東京・両国生まれ

昭和45年(1970年) 青山学院大学在学中、五代目三遊亭圓楽に入門

昭和54年(1979年) 放送演芸大賞最優秀ホープ賞受賞

昭和55年(1980年) 税務大学校講師就任

昭和56年(1981年)「にっかん飛切落語会」若手落語家努力賞受賞。同年、真打昇進

平成4年(1992年) 国税庁長官より表彰を受ける

平成6年(1994年) 中央福祉医療専門学校客員教授就任

平成8年(1996年) ハワイ・オワフパークゴルフ協会名誉顧問就任

平成22年(2010年) 六代目三遊亭円楽を襲名



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著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。