2023/05/20 - 2023/05/20
225位(同エリア312件中)
gianiさん
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高知県東部の室戸市は、
弘法大師が悟りを開いた土地、
鯨文化が詰まった土地、
伝統的建造物群保存地区の吉良川と
観光資源てんこ盛りの町です。
奇岩や海の幸も豊富、宿泊してナンボの土地です。
クルマがなくても、バスで移動できるのもメリットです。
※鯨は周知のとおり哺乳類ですが、文脈上「魚」と表現する箇所があります。悪しからず。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 交通手段
- 高速・路線バス JALグループ
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まずは室戸岬から。
現地は、ツーリストを歓迎。
室戸は、捕鯨のメッカでした(後述)。
商業捕鯨が禁止されてからは、ホエールウォッチングのメッカです。 -
中岡慎太郎もお出迎え。
落成式の演説の一節から、桂浜の龍馬像と見つめ合っているという都市伝説が生まれました。中岡慎太郎像 名所・史跡
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室戸岬
左が紀伊水道、右が土佐湾。まさに最先端。海岸線がモヤっとしているのは、今もハイペースで地面が隆起しているから。
展望台より撮影。中岡慎太郎像上展望台 名所・史跡
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岬周辺は、灌頂ヶ浜と呼ばれます。
けっこう殺伐としています。灌頂ケ浜 自然・景勝地
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メインは、泥岩の黒、砂岩の灰です。
白く見えるのは、白骨化したサンゴの死骸(石灰岩の手前の段階)です。あと、白く砕けた荒波。一応、晴天の春真っ只中の天気です。
「室戸岬」というタイトルのメジャー系演歌も存在するらしいです。室戸岬 自然・景勝地
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名前のない奇岩がいっぱい。
ユネスコ世界ジオパークに指定されています。
地球の歴史が、地表に露出しています。 -
子授けの岩
斜面になっている部分に石を投げて、転げ落ちなければ子供を授かります。 -
牛角岩
焼肉屋さんではありません。 -
土佐日記 御崎の泊 と書かれた石碑が。
紀貫之が、任期を終えて都へ帰る途中に滞在しました。ここで阿倍仲麻呂が帰国時に詠んだ有名な歌(百人一首にも選定)を思い出し、「都にて やまのはに見し 月なれど なみより出でて なみにこそ入れ」と詠みました。
この碑の立つ海食台には、昭和天皇が1950年に訪れた際の御立ち台があります -
烏帽子岩
ジオパーク的に説明すると、地中の隙間に入り込んだマグマが冷えて固まったもの。
相対的に硬い岩で、浸食後に残りました。 -
個人的には、こっちの方が烏帽子に近いです。
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実は、びしゃご岩という名前でした。
おさごという絶世の美女を巡って若者の争いが絶えず。心優しい彼女は憂いて身を投げしたという伝説が残ります。
このエリアは、室戸阿南海岸国定公園に指定されています。室戸阿南海岸国定公園 自然・景勝地
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行水の池
乱礁遊歩道には1200年前に弘法大師が、身体を洗ったとされるスポットもあります。右側の窪みは、大師が岩に身体をこすりつけて洗ったことによるとされます。若いころ、ここで修業しました。
波の浸食と生物の巣から、1000年前より4m隆起しているとわかります。
つまり、紀貫之や空海が見た景色とは、微妙に違います。乱礁遊歩道 自然・景勝地
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では、修行の場へ移動します。
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弘法大師修行之地の碑が。
1200年で5m以上隆起しているので、当時は海岸線がもっと近かったです。ヤッコカンザシの巣作りの際の習性に着目して、年代と当時の海岸線を割り出します。 -
崖に洞窟があります。落石防止のために通路に屋根があります。
神明窟と呼ばれ、若き日に修業した坑です。御厨人窟と神明窟 名所・史跡
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中は、こんな感じです。
口の中に明星が飛び込む神秘体験をし、悟りを開きます。 -
左側の洞窟は御厨人窟と呼ばれ、修行中に寝起きした生活空間。
ここからの景色は、空と海しか見えないことから、空海と名乗ります。
生まれは香川ですが、悟りは高知でした。 -
近所には、大師修行の地を記念してお寺が建てられています。
悟りを開いた若き日の大師の像が建ちます。室戸青年大師像 名所・史跡
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天狗岩
横顔です。彫りが深くてイケメン? -
市街地へ移動します。
高知県東部を網羅する、その名もズバリ「高知東部バス」を利用しました。 -
既にお察しかと思いますが、地震多発地帯です。
集落ごとに津波避難タワーがあります。ここは室戸市の中心部なので、結構な密度(マンション感覚)で存在します。高知県東部沿岸のあるある光景です。 -
室津港(浮津港)
荒磯の岩盤を掘り込んだ港で、1629年に最蔵坊の手で着工しました。その後、土佐藩の執政野中兼山、一木権兵衛に引き継がれ1667年に現在の内港が完成しました。奥行きがあり、多くの船が避難できたため、津呂港を凌ぐ良港でした。 -
なぜそこまでして藩が肩入れして難工事を遂行したかというと、紀州から伝わった捕鯨産業の基地として整備されたからです。捕鯨は、藩に莫大な利益をもたらします。
地震の度に地盤が隆起するので、その度に掘り下げる必要もありました。 -
室津と津呂の2港は、唯一藩から捕鯨を許された漁港です。
津呂も野中兼山が整備し、荒磯の岩盤を掘り込んでいます。工事に当たり、港口を塞ぐように3つの大きな岩が海中にあったのを、『張扇式の堤』により取り囲み、中の海水を抜いてから大鉄槌やのみで砕いたと伝えられています。
※呂津は室津から3km南東にあり、現在は室戸岬漁港と呼ばれます。位置情報は乱礁遊歩道をクリックしてください。 -
捕鯨が衰退する中、戦後の遠洋マグロ基地として賑わった頃には、漁から戻った船がこの港に着き、漁師は港に面した通りの料亭で豪快にお金を落としました。お店の方から当時の話を伺いましたが、それは景気が良かったそうです。今は静寂です。
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掘り込み前から交通の要衝で、紀貫之が土佐国司の任期を終えて帰京する際は、海の難所室戸岬を回れずに、ここに10日間も留まっています。
※帰京の旅を書いたのが「土佐日記」 -
津照寺
807年に弘法大師が開基と伝わります。四国八十八霊場第25番札所です。津照寺(津寺) 寺・神社・教会
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境内は、江戸時代から続くお遍路ブームで、大師堂を中心とする中腹が栄えています。
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本堂は、その上です。
小高い丘の上にあります。
写真は鐘楼付の山門で、仁王像が階段を見守ります。その先が本堂です。 -
本堂より
津(港)を照らす寺の名前通り、山の頂上から港を見下ろすロケーションです。 -
本堂
海の安全と大漁を願って、空海が楫取(かじとり)地蔵菩薩が安置。1602年には、難破しかかった山内一豊の乗った船を救ったとされます。 -
こんな感じで、土佐湾から入り組んだ港は、台風等の高潮や荒波から船を守ります。
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再びバスで移動。
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キラメッセ室戸バス停の真ん前にある鯨の博物館は、クジラと捕鯨について学べます。
鯨館「鯨の博物館」 美術館・博物館
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土佐とクジラ
鯨は哺乳類で、魚類よりも(体重における)脳の比率が高く、賢い生き物です。夏は極地へ、冬は南海へ回遊しますが、毎年同じ道を通ります。
土佐は両端が太平洋に大きく突き出でおり、南西の足摺岬沖を春に、南東の室戸岬沖を秋に通過します。土佐はクジラの通り道でした。 -
クジラは生物学的に、大きく2つに大別されます。
一つは、獲物を歯で噛み砕くハクジラ、もう一つは”ヒゲ”で水中のプランクトンを濾し取って餌にするヒゲクジラです。
ヒゲクジラは、シロナガスクジラ(体長27m体重120t)など相対的に大きな体です。ヒゲクジラは、マッコウクジラを頂点に、イルカやシャチを含む相対的に小さな体です。 -
古式捕鯨では、沿岸部を回遊することが大前提でした。
セミ(背美)クジラが最適でした。温和(暴れない)で、好奇心旺盛(警戒心が薄い)、浅瀬に現れ、身体も大きく、良いこと尽くしでした。脂肪分が多く水より軽いので、死んでも沈まないのも大きなメリットです。乱獲で、真っ先に減少します。漁法の発達に伴い、ザトウクジラや油がたくさん採れるマッコウクジラといった獰猛なクジラも捕獲できるようになりました。 -
捕鯨史
縄文時代以降、波の力で浜に揚がったイルカやクジラの死骸を食用にしていました。浜へ迷い込んだ、衰弱しているクジラを海岸線へ追い込んだりもしました。16世紀の伊勢湾で、クジラに銛を刺して狩る能動的な捕鯨が始まります。
写真は北斎の浮世絵(九州五島)で、クジラが暴れると凄まじい水流が発生するので、捕鯨船は一定の距離を保っています。別名は勇魚。 -
土佐藩の捕鯨(=海軍の副業)
最初のキーパーソンは、津呂村の多田五郎右衛門(初代)義平で、突捕鯨の始祖です。
旧領主長宗我部に恩義を感じる不穏分子を牽制するために、初代藩主山内康豊の命で海上警備に当たります。非常時には水軍を組織して任務にあたりました。しかし藩から支給された扶持(手当)が僅か9石(9人分を養える米に相当)で、防衛に必要な人員を養えない問題が、、、というわけで副業として1624年に紀州熊野灘近海での捕鯨を参考に突捕鯨を自ら考案します。
漁船13隻を建造し春は津呂(写真右下)、冬は椎名(写真右上 むろと廃校水族館の位置する地区)を漁場としました。山見所を8箇所設け、各々2人の遠見番を置き、1628年には200人を扶持(養う)出来るまでになります。鯨の減少に伴い、1637年に廃業。 -
再チャレンジ
捕鯨の経済効果を目にした藩は、野中兼山の藩政改革で浮津(室津)/津呂/佐賀崎(窪津)の3港を巨費を投じて整備します。地域(安芸郡)代官は、1651年に本場尾張から尾池四郎右衛門をリーダーとする捕鯨チーム(6隻から成る船団)を招聘します。土佐捕鯨の開拓者です。本場のノウハウで、狙った獲物は一頭も取り逃がさない。このようにして採算ベースに乗せる作戦です。 -
乱獲と資源枯渇
尾池は鯨組を組織し、突取法で捕鯨に従事します。津呂と佐賀崎(足摺岬付近)に漁場を設け、冬春両所へ交代で漁を行い活況を呈します。
藩も直営の鯨組(殿組)を組織し、勢子船を新造-城下種崎から船頭および用人衆をリクルート、浮津に役所を設置します。尾池組/殿組共同で経営に当たりますが、鯨の減少により尾池は1657年に帰国します。 -
中興の祖(土佐網取捕鯨の始祖)
津呂の多田吉左衛門(三代目 1626-1702)清平は、1660年に捕鯨を再開します。1664年には藩鯨方の肝煎に就任します。肝煎とは庄屋や長を意味し、藩捕鯨部門のトップということです。とはいえ扶持が9石相当の薄給、祖父と同じ問題に直面します。 -
1682年に紀州へ赴き、太地角右衛門から5年前に考案されたばかりの網取捕鯨を学び、翌83年に漁民70人を引き抜いて帰郷します。阿波の山内荘九郎に借財し、東は室戸・西は窪津を拠点とし捕鯨を営みます。その後、吉左衛門の津呂組は奥宮氏が継ぎます。
※只で教えてくれるはずはなく、代わりに紀州が必要としていた土佐独特のノウハウを伝授するバーター取引でした。 -
網取捕鯨の流れ
山見番(捜索/通信担当)
シーズンは冬、温暖な海域へ南下する鯨の群れが室戸岬東方を通過します(下り鯨)。周辺の高台に幾つも設置された遠見台から、山見番が目と耳を凝らして鯨の噴気(潮吹き)を探します。見つけると信号旗を掲げます(写真左上)。
※山見番は、視力の優れた若めの人物を起用します。発見者には、褒賞として鯨肉が支給されました。旗には意味が付され、例えばセミクジラを見つけると白旗2枚を掲げました。 -
山見番は、旗と山見台付近の海上でスタンバイしている勢子船と本部事務所に采や松明を振って、クジラの種類と進行方向を伝えます。
駆けつけた勢子船は、網を仕掛けた場所へクジラを追い込みます。勢子船の水夫たちは一斉に木槌で板を叩き、大声を出します。
※勢子船は手漕ぎで、最速30km/hを超えます。鯨の移動速度は30km/h未満です。 -
網に掛ける
写真のように、クジラの進路に4層からなる網を仕掛けます。網1反は、幅18m×深さ30-38mで、200反ほど使用します。丈夫で水にも強い麻系の素材です。網同士の繋ぎ目は藁縄を使用し、クジラが暴れると簡単に外れて身体にまとわり付く巧妙な仕掛けです。船団は12隻で構成され、網の両端が船と繋がり、対で一組、全6組体制です。
網に付ける浮(ウキ)は何と木樽!すべてがメガ級です。 -
勢子船(駆逐艦隊)
勢子船は、小型で自由自在かつ迅速に移動します。近代海軍でいう駆逐艦のような存在です。船団は16隻で構成されます。上位10隻は青色、下位6隻下位は赤色で塗られた船体です。勢子船には羽差(はざし 羽指とも表記)と呼ばれる船頭(リーダー)が配置され、筆頭は白旗、二番手は赤旗を掲げ(写真)、勢子船/網船/持双船から成る巨大船団を指揮しました。殊に筆頭/二番手の羽差を、沖配と呼びます。
上の網の図にも、最前線に白旗と赤旗が描かれていますね。
※網掛けの位置やタイミングも、沖配の号令の下に行われます。 -
銛突き
最初の網がクジラに纏わり付くと、沖配の合図で羽差がクジラ目がけて銛を投げます。銛がクジラに刺さると、勢子船に「コザシ」と呼ばれる旗を立てます。旗の立つ船が10隻を数える頃には、クジラは弱ってきます。 -
手形を切る
沖配の合図で、数名の羽差が泳いでクジラの身体に上陸します。刺さった銛を頼りに鼻孔(潮を吹く穴)へアプローチ、手形包丁で切り込みを2箇所入れます。
※一連の絵図は、幕末の河田龍二の筆で、漁の様子を至近距離で見学して描いた秀作です。羽差の持つ包丁の刃の向きに至るまで、正確に描かれています。 -
手形包丁
マッコウクジラは筋が多いので縦方向に、他は横方向に2箇所に切り込みを入れます。2箇所の切り口に腕を突っ込んで、両者が貫通させます。
手形切りは、赤船の羽差と見習い羽差が担当します。危険な作業のため、ライバル同士でありつつも義兄弟の契りを交わす(競い合い励まし合う)関係でした。
※彼らは褌一丁で活動したので、裸組とも呼ばれます。 -
大印旗
この時点で、納屋舟(重役が見守る御座敷舟)に大印旗が掲げられます。これを見た山見番は、本部に詳細を報告しに駆け出します。その際の姿は、片肌脱ぎなら1頭、両肌脱ぎなら2頭捕獲を意味します。 -
固定/牽引
手形切りが終わると、持双船の羽差が鼻の2本の穴に手形綱を通します。クジラを2隻の持双船で左右に挟み、持双船同士は全長9mの柱で固定され、手形綱は柱に結び付けられます。胴体の下(水面下)にも綱を通して、クジラを持双船に固定します。
※網取法が普及するまでは、せっかく仕留めたクジラが海底へ沈んでしまい、今までの努力が水の泡ということも度々でした。個体の脂肪分が少ないと沈みます。網で捕らえることで、改善されました。 -
トドメの一撃
最期に羽差が、クジラに重くて長い剣(写真)でトドメを刺します。疲労/外傷/出血、いわゆる死の三重奏で、クジラは息絶えます。
持双船に固定されたクジラを、勢子船の船団が牽引し、浜まで引揚げます。
30隻を越える船及び300名を超える乗組員を指揮する沖配は、七か月大名」とも呼ばれました。
※奥の黄色く着色されたものは、明治期に使用された銛。 -
解体
浜では、魚切りと呼ばれる10名ほどの解体担当者が待ち受けています。山見番の報告のおかげで現場に轆轤(ろくろ)が準備され、尾びれの方から水際へ引き揚げます。
身体測定の後、身肉(赤身)/皮/サエドリ(舌)/フク(心臓)/百尋(大腸)/豆わた(小腸)/肝/筋/骨などに分けられました。
※赤身や皮は、部位ごとに細かく分類されました。 -
大きく切り分けられた皮や肉は浜に置かれました。
小切れの肉や内臓は、木塀で囲われた「魚場」に運び込まれました。 -
解体道具も様々。
写真は、骨を切る鯨骨斧です。大木を製材するような姿です。 -
販売
ここで初めて、莫大な費用を回収します。
鯨肉を扱う仲買人(通称:鯨商人)に解体したものを卸します。商人札(写真)を交付された鯨商人(津呂/浮津)は、入札権だけでなく、漁獲高の3%を配当として受け取りました。落札した鯨肉を運搬するために漁場近くの村人が雇われ、農閑期の収入源になりました。
※生肉や皮には塩が振られ、上等なものは大坂へ送られました。 -
鯨が揚がると七浦が潤う
鯨一頭で、7つの港と集落が潤うことを意味する言い回しが全国に伝わります。クジラは捨てる部位がなく、肉(食用)だけでなく、油は燃料等、歯やヒゲ等は資材、血や搾りカスは肥料になりました。古代捕鯨がもたらす大規模雇用と、経済効果を感じていただけたでしょうか? -
鯨油
クジラの巨大な頭部に詰まっているのは、脳みそではなく油です。鯨は潜水/浮上を自在にコントロールするために、大量の油を頭部に蓄えています。この点で、マッコウクジラは最高の獲物でした。石油が発見されるまでは、照明用の重要な燃料でした。ワックス成分は、クレヨン/化粧品/火薬原料/人工衛星の部品といった工業製品でも重宝されました。特に、精密機械の潤滑油では、1970年代まで唯一無二の存在でした。
※骨に含まれる油を抽出するために、骨を煮て取り出し、搾りかすは肥料にしました。 -
供養
人間は殺生をする罪深い存在。魂は、前世に犯した罪と現世に犯した罪に基づいて輪廻転生して、徳を積むまで六道を転生する。こうした仏教観に基づき、土佐でも捕獲した鯨の成仏を願う発想が生まれました。1837年に、通算1000頭目の鯨を捕獲した浮津組により位牌が奉納されました。永代供養するために、1840年には中道寺を開基しました。 -
中道寺
浮津集落にひっそりとたたずみ、鯨の位牌が安置(見学は要予約)されています。 -
土佐藩の古式捕鯨が、高度に組織化された事業かつ集金システムだと学びました。捕鯨が許されたのは、多田家の浮津組と奥宮家の津呂組だけでした。漁場は、室戸岬周辺と足摺岬周辺を隔年で使用しました。鯨漁期(約七か月)は、捕鯨に支障を来さぬよう周辺では通常の漁業が禁止されました。足摺岬付近の窪津は漁場を提供するだけで、鯨商人は浮津と呂津限定でした。
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軽く寄り道:ジョン万次郎(写真右)
現在の土佐清水市の漁師の家に生まれ、1841年(14歳)に嵐で遭難/漂流し、伊豆諸島の無人島で5か月に及ぶサバイバルを経て、アメリカの捕鯨船に救出されます。奇しくも、地元では禁断の魚を獲る船に乗る展開に。万次郎は、窪津から僅か5kmの中浜出身で、捕鯨期には漁業禁止対象となる浦の出身でした。
日本は鎖国中なので、身柄引渡のための入港は不可能でした。海外の捕鯨も日本に負けずにハードで、船員の怪我/病気/逃亡が付きものでした。というわけで寄港地では絶えず新規乗組員を募集。拾われたホイットフィールド船長(写真左)の下で捕鯨に従事。仕事の筋が良く、実力も認められ、皆から可愛がられます。 -
10年ほど捕鯨船の乗組員として、5つの海(北極海/南極海以外)と港を巡ります。陸上生活は、そのうちの3年ほど(通算)で、学校へ通い、航海術や樽造りなど、捕鯨に関連する技術も習得しました。
覚悟の上で、長崎入港を試みます(1851)。英語と世界情勢を評価され、黒船来航以降は幕府や明治政府のアドバイザーになりますが、近代捕鯨のノウハウを身に着けた最初の日本人でもあります。 -
古式捕鯨の幕引き
海防の副業として、伊勢湾のノウハウを吸収して始まった古代捕鯨は、藩営になり、明治維新後は県営事業になります。今も昔も、沿岸漁業は浦ごとの自治が原則ですが、県営時代も捕鯨優先の縛りが土佐には残りました。後に民営化されますが、ノルウェーで機械砲で銛を撃つ技法が誕生すると、自主廃業を決定し、1907年に土佐の古式捕鯨は終わりを迎えます。 -
その後
近代式捕鯨でもノウハウは活かされ、1907年発足の地元資本の捕鯨会社の下で、室戸は大いに栄えます。とはいえ、1936年までに近海からクジラは消え、以降は世界を股に掛ける遠洋捕鯨がピークに達します。1987年の捕鯨協定を以て、室戸の商業捕鯨は終了します。江戸時代から、乱獲による生息数の減少が終始ついて回りました。 -
キラメッセ前のバス停から、吉良川へ移動します。
昼前後を避ければ、ほぼ毎時運航です。 -
吉良川中町バス停で下車。
国道沿いには、駐車場も完備され、マイカー、レンタカーでも、気兼ねなく訪問できます。
海を背に歩くと、まちなみ館が。
街並みの解説とパンフレットがあります。
東西750m南北250mのエリアを学習できます。吉良川の町並み 名所・史跡
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吉良川町は、江戸時代から林業が盛んでした。
明治~昭和にかけて、炭焼きして付加価値を高めた高品質の備長炭がヒットし、大阪への積出港として廻船業とセットで大繁栄しました。
明治~昭和の伝統的家屋が150棟近く残ります。吉良川まちなみ館 名所・史跡
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吉良川の景観を構成する第一要因は、ズバリ台風。
昭和の三大台風の一つ「室戸台風(1934)」を始め、多くの台風が上陸する屈指の台風銀座です。 -
いしぐろ
いわゆる防風壁。敷地を石垣でガードします。玉石や半割石を、空積みや練積みします。 -
実際の光景
基盤は重量のある石を空積み、上部は半割石を練積みにして隙間を埋める。これがトレンドです。街道筋から裏へ入ると、日常の光景です。
街道の裏は、微高地。ジオパーク的に表現すると、地震で隆起した海岸段丘に面し、海からダイレクトに風が吹きつけます。 -
漆喰塗り
年間降水量が多いのも特徴。「雨は横から降る」という言い回しに現れるように、台風等の強風が伴い、横なぶりの降雨が特色です。家屋の壁は、板張よりも漆喰塗りの方がアドバンテージが。 -
街道沿いは石垣を築けないので、漆喰壁が大活躍。土佐漆喰は糊を使用せず、消石灰に発酵した藁を練り込むので、一年目はクリーム色ですが、日差しを受けて脱色し、このような純白の姿になります。
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一般に漆喰は防火対策が第一ですが、吉良川は防水が第一なので、通常の3倍の厚さで重ね塗りしているそうです。ちなみに、土佐漆喰の白は、高知城でも使用されています。
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そんなわけで、洋風エッセンスのある旧郵便局の壁も、白いペンキをチョイスして、調和を図っています。
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水切瓦
ずっと気になる特徴的な景観。壁面に垂直に突き出す庇のような瓦。という謎の景観。水切瓦と呼ばれ、壁に打ち付ける雨を水切瓦を経て、速やかに地面へ流す工夫です。沿岸部ということもあり、台風などでは海水の塩分を含んだ降雨なので、速く輩出したい事情があります。 -
実用性だけでなく、水切瓦の段数が多いことは財力のシンボルという意味合いも兼ねました。
水切瓦は、実は土佐全体で観られる一般的光景です。 -
細木家「炭問屋の家」
上方商家の様式を、色濃く残す住宅です。
細木家は炭問屋で、現在も炭を取り扱っています。 -
細木家「つしの家」
2階の左半分は厨子(ずし 吉良川では「つし」と発音)と呼ばれ、物置や使用人の寝室として使われました。右半分は、おなじみの2階の姿。
1階部分も、木材を組んだ格子、ナマコ壁が見られます。 -
目印は、辻にあるミラーです。
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細木家「格子のある家」
四辻を挟んで、つしの家の向かいにあります。京町屋のシンボル格子が見られます。でもナマコ壁の方が印象的です。 -
武井家
米穀商と遠洋漁業を営む商家。
明治後期の建築で、手前(正面左)は2階建て、奥は厨子という左右混合形式。 -
中央を境に混在していますね。
ちなみに、左側の壁は赤レンガです。
白黒写真しかなくて、ゴメンナサイ。 -
持ち送りも意匠に富みます。
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赤レンガ壁は、各所で観られます。
炭を積んで大阪へ向かった船は、バラスト代わりに赤レンガを積んで吉良川へ帰りました。 -
熊懐家
1926~65年まで、郵便局も兼ねた建物。 -
瓦にも意匠が施されています。
写真だと小さくてわかりませんが、天井の瓦のカタツムリの角のような部分(鬼瓦)の先端に、〒マークが浮き彫りになっています。 -
池田家
蔵をギャラリーとして開放しています。 -
匿名の家
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厨子の部分に、戦前の表記(右から左方向へ表記)で化粧品・文房具と書かれています。
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御田八幡宮
神の子と呼ばれる人形を、子宝に恵まれない女性たちが奪い合う御田祭は、日本三大奇祭の一つとされます。奇数年の5/3に開催。 -
まちなみ館に隣接するおまつり館で、展示を見られます。
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ほっこりとします。
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漆喰には、洋風の紋もあります。
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こちらは、土地改良区の事務所として使用。
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看板もレトロに。
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白黒の世界も悪くないです。
街道筋の2階建て伝統家屋の屋根と、石垣でおなじみ丘の上地区の伝統的平屋の屋根は同じ標高になり、海の風が乱気流にならないような配慮が施されています。石垣も、そよ風と生活に必要な日光を遮らない高さに設定されています。 -
おまけ
室戸岬沿いの料理自慢の民宿が満室だったので、
ディナーは、浮津のお店で地物をいただきました。釜飯 初音 グルメ・レストラン
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胃袋のコリコリの食感と、絶妙な味付けに旨みが凝縮。
食前酒が進みます。 -
メインができるまで、本日の水揚げを楽しみます。
-
室戸市が推しているキンメダイを堪能できるコース。
眼福口福な夕食でした。
次の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11836821
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