丸石ビルディング(旧太洋商会ビルディング)
オフィスマーケット 2002年9月号掲載
※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。
株式会社太洋商会が1931年に竣工した「丸石ビルディング」は、近世ロマネスク様式を採用した豪華なビル。1984年、1991年に内外の点検・補修を行ったが問題がなく、堅牢な設計が人々を驚かせた。時代に合わせて機能を常に見直しつつ入居テナントの満足度を高めている。
風景を記憶する獅子像 ―― 近世ロマネスク様式の稀有なる事例
威厳ある一対の獅子像。だが、その眼差しは穏やかで、むしろ優しさを湛えているように感じられる。
東京・神田のオフィス街の一角にそびえる丸石ビルディングの北側玄関両脇に鎮座する石造の獅子は、70年以上にわたってこの地の風景を見つめ、記憶してきた貴重な「歴史の証人」である。
現在もこの建物を所有・管理する株式会社太洋商会によって昭和4年(1929)に着工、昭和6年3月に竣工したこの建物は、現存する近代西洋建築としては非常に珍しい近世ロマネスク様式の貴重な事例である。地上6階(一部7階)地下1階、延床面積およそ四千平方メートル。三菱地所設計部から昭和3年に独立したばかりの「山下寿郎建築事務所」の記念すべき第一作である。施工は竹中工務店が担当した。構造は鉄骨鉄筋コンクリート造。自らが構造設計・工事管理を担当した旧丸ビルの竣工直後に関東大震災を体験した山下が、このビルの耐震・耐火性能に心を砕いただろうことは想像に難くない。建物の外観を特徴づける連続したアーチ構造は、同時に耐震性能を確保する点で重要な意味合いを付与されている。
とはいえ、戦火に暗く閉ざされる直前の輝ける時代を反映し、外装・内装ともに美術作品のように凝った仕上がりになっている。外壁1階部分には播州産の黄龍石を使用、玄関部分のレリーフパネルは同じく播州産の赤龍石として色合いに変化をつけ、随所に繊細で華やかな魅力に満ちたロマネスク風動植物像やレリーフを配置してある。2階以上の外壁はスクラッチタイル貼り、最上階下部の胴蛇腹は人造石洗い出し仕上げ、頂部はテラコッタ貼りである。
玄関ホールに足を踏み入れると、イタリア産大理石の重厚な壁面、モザイクタイルを組み合わせた床が、まず目を引く。さらに視線を上方に向けると、ヒマワリやショウブといった花をモチーフとした石膏彫刻で飾られた白い天井――現状でもまったく違和感がないのだが、これは竣工当初からの意匠ではなく、本来は花のそれぞれが美しく彩色されていたそうだ。第二次大戦末期の空襲で屋上に焼夷弾が直撃するなどの危機に遭いながらも、建物自体の被害は軽微で、逆に近隣被災者の避難所となった。その際に人々が地階で行った炊事の煙が階段室を通って玄関ホールに立ちこめ、煤で天井の彩色が見るかげもなくなってしまった。そのため、戦後、白一色に塗りつぶしてそのままにしてあるのだという。
1階エレベーターホールのアーチ型天井
さて、このビルの南側には、かつて「龍閑川」と呼ばれた運河が流れていた。幕末に埋め立てられた神田堀を明治16年に再開削したものだったが、第二次大戦後に再度埋め立てられ、現在は商店の立ち並ぶ通りに姿を変えている。冒頭に紹介した獅子像はもと四頭存在し、揃って「龍閑川」の水面に顔を映していた。それら獅子の本来の役割は、口から雨水を川に向かって吐き出すことだったのだ。平成6年(1994)、北側玄関脇に移設された今も、獅子は、水面に映る失われた時代の風景を確かに記憶していることだろう。
純白の天井もまた、戦前・戦中・戦後の70年間を通して迎え入れた多くの人々の表情一つひとつを、華麗なる自分本来の姿と共に記憶しているはずだ。おそらくは、戦災でここへ避難してきた人々が肩を寄せ合って食べた粗末な料理の味や香りさえも......。華やかな様式は"時代"を呼吸することで、歴史の持つ重みをも兼ね備えた稀有な存在となった。
そして、それら個々の建築物が有する記憶の集成が、やがて「都市の記憶」としてさらなる未来へと受け継がれていくのである。
細かな彫刻が施された玄関部分のデザイン
着工前後から竣工まで ―― 歴史と世相
昭和4年 (1929) |
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昭和5年 (1930) |
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昭和6年 (1931) |
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株式会社太洋商会
取締役社長
伊藤信夫氏
最上階の階段室。直線的なデザインの手すりと丸窓がうまく調和されている
幸福な建築―― 近世ロマネスク様式の稀有なる事例
「しあわせな建築」とは、平成12年(2000)年に丸石ビルディングが第9回BELCA賞のロングライフ部門賞に輝いた際、社団法人「建築・設備維持保全推進協会」の機関誌に掲載された記事のタイトルである。
受賞に際しては、建物の保存・維持状態はもちろんだが、建設当初の図面・仕様書はじめ工事中からオープン後までのさまざまな写真記録など多くの貴重な資料を大切に保管していたことも評価対象とされたという。記事タイトルには、それだけ"大切にされ""現役で活躍しているビル"というニュアンスがある。
「昭和59年(1984)に剥離が心配される外壁面の点検・補修を行い、さらに平成3年(1991)にコンクリートの強度・内部鉄筋の錆確認なども含む第二回目の点検・補修を実施しました。その結果、コンクリート・内部構造共に"まったく問題がない"ことがわかり、改めて昭和初期建築の堅牢性に驚くと同時に非常に意を強くしましたね」
伊藤社長によると、築後数十年を経ても建物本体の強度はいささかも劣化していなかったという。建築当時、基礎には最大15メートルもの松杭を全面に打ち込み、時間をかけてコンクリートを詰め込んでいく工法が採られた。1階4.55メートル、2階以上3.16メートルの天井高を確保する各フロアの床厚は40センチもあり「もし壊すとしてもとてつもなく困難」なほど頑丈なビルなのである。
「もちろん、さまざまなテナントが入居するオフィスビルとして、単に維持・管理しているばかりでは陳腐化は避けられません。要求される機能は常に見直しつつ付加してきました。電気関係の容量増大のため、変電室の移動、幹線の変更などを行い、電気・電話線ともに壁の一部を囲って配線を引いています。水道管も改修に際して全部新配管としましたし、トイレもそのときに洗浄便座・自動水洗化の最新設備に変更してあります」
そのほか、建築当初は重油焚きボイラーで蒸気を送る暖房設備だったものを平成6年の改修で全室エアコンによる個別空調方式とし、一部の部屋はフリーアクセスフロアとしてOA化に対応した。
かつては上下スライド式だった窓も、空調効率や騒音対策、災害防止を考慮して滑り出し式アルミサッシに変更してある。
こうした大がかりな整備ばかりでなく、日常的なメンテナンス活動に費やされる労力も並み大抵ではないはずだ。「商業ビルなのだから当たり前のこと」と受け流す伊藤社長だが、その表情には社の先輩たちから受け継いだ財産をさらに磨き上げ、最大限に活用していこうという強い決意が感じられる。
このビルはそもそも1、2階を太洋商会および姉妹会社の丸石商会(後の丸石自転車)と太洋自動車(米国ゼネラル・モーターズの販売代理店)が使用し、3階以上を賃貸オフィスとして使用するために設計された。竣工当初自動車のショールームであった1階と、同じくレコード会社日本ビクターの録音スタジオが置かれていた6階部分を通常のテナント用としたほかは、ほぼ現在まで用途・使用状態に変更はない。
竣工当時、ビルの1階に設けられた太洋自動車 (米国GM社の販売代理店)のショールーム
現在の1階フロア天井。竣工当時と変わっていない
現在の1階フロアの柱部分
「交通至便な立地に加え、時代と共に備わった"古き良きオフィス空間""建物自体の重厚感"といった付加価値が魅力となり、幸い、お客さまたちに満足していただいています。堅牢で完成度の高い建物があるなら、その資産を大切に使い続けるのが文化――それが私の揺るぎない信念です」
平成14年3月、丸石ビルディングは国の登録文化財にもなった。
「建築の経済行為によって文化を担う」という所有者の理念は、このビルの生命を、おそらくは百年を超えてさらに維持し続けていくことだろう。所有者と居住者双方にこよなく愛されての長寿――まさに「幸福な建築」というほかはない。
竣工時の丸石ビル外観。ビルの南側には、「龍閑川」と呼ばれた運河が流れていた
文:歴史作家 吉田茂
写真:小野吉彦