ラカン
Jacques Lacan ( 1901-1981)
症例「エメ」(自罰パラノイア)
「ラカンにその理論的出発点を与えたのは、劇場で女優Zにナイフで切りかかり、防ごうとした女優の手に重傷を負わせた、一人のパラノイア女性である。…
エメは文学者になるべく、多くの書き物を書きためていた。三十歳を過ぎた頃、彼女は一時期、被害妄想にかかって、病院に入院していたことがある。そこを退院してから、彼女は自分の原稿をある出版社に送り、出版を断わられると、その出版社を訴えるべく訴状を認(したた)め、出版社の事務員につかみかかって警察の世話になる。この時は説諭のみで済んでいる。しかし彼女は女優Zと文学者P.B.とが結託して彼女のことを小説に書いているとか、Zが彼女の子供を殺そうとしているとかいった内容の妄想を発展させていた。この妄想を基にして、彼女はZに切りかかったのだった。
彼女の妄想の芽生えは、彼女が初めての子を産んですぐに亡くした時点にさかのぼれる。彼女はこのとき、姉が彼女の子供を盗んだという観念をすでに持っていた。この観念がある友人へと、そして実際に子供を産み育てるようになってからも消えないまま、次に女優Zへと、転移されていったのである。攻撃の対象となったこれらの女性像が、彼女の理想化された自己を表わしていたことは、比較的容易に見てとれよう。
右に述べた破壊行動が現実化したあと、妄想は潮が引くように消えていった。ラカンはこの症例を「自罰パラノイア」と名付けた。ここには、同性愛的な愛着が攻撃性を内に含む事実や、罪悪感のほうが犯罪に先立ち犯罪によって罪悪感が軽くなる症例についての、フロイトの観察が生かされている。エメは自らを犯罪者の位置に落とすことで、自己の理想を表わすこれらの女性たちによって罰せられ、見棄てられ、見放され、かくて初めて心の平安を得たのである。人間の根源的な攻撃性が、自と他の同一化の領域にこそ潜んでいるという事実が、ラカンにとっての動かし難い理論的出発点となる。…鏡像段階論は、そこからの必然的な発展である。」
(新宮一成『ラカンの精神分析』(講談社現代新書) から引用)
鏡像段階論
鏡像段階
「ラカンによる、人間形成の一時期をさす言葉。それは生後6ヵ月から18ヶ月の間に当たる。この時期子供はまだ無力で、運動調節能力もない状態であるが、自分の身体の統一性を想像的に先取りして我が物とする。この想像的統合は、全体的な形態として同じ姿をもった人間の像への同一化によって行われる。そしてその同一化は、幼児が鏡の中に自分の像を見るという具体的経験を通して起こり、現実のものとなって行く。鏡像段階において、将来自我となるものの雛型ないし輪郭が形成されると言えよう。
鏡像段階という概念は、J.ラカンの古い業績の一つであり、彼は1936年にマリエンバードの精神分析会でそれを報告している。
この概念は、実験に基づくいくつかの成果によって裏付けられており、それらは次の二つに分類できる。
1)一つは、鏡に映った自分の像を前にした幼児の振舞いに関する児童心理学および比較心理学から得られた成果である。ラカンは「―その鏡像を歓喜の表情で誇らしく引き受け自分のものにすること、また鏡像による同一化を我が物とするさいの遊戯的な自己満足」を強調している。
2)第二には、動物の生態研究から得られたもので、ある種の動物は自分と同類の動物を視覚的に知覚することのみによって、一定の生物学的成熟と構造化に達するという事実である。
ラカンによれば、人間の場合、鏡像段階が意味を持つのは、その早すぎる誕生―これは生まれた時の錐体路系の解剖学的未成熟によって客観的に証明されうるものだが―と生後数ヶ月の運動調節不全との関連においてである。」
(ラプランシュ/ポンタリス 『精神分析用語辞典』 村上仁監訳 より)
鏡像段階(atade du miroir)
「ラカンが初めて「鏡像段階」という表現を用いたのは1936年、フランス百科事典の「家族」の項においてである。ラカンは、その後この主題を再び取り上げて彼の教えの中で展開していくことになる。それというのも、鏡像段階は、直ちに理想自我、そして二次的同一化の基礎となる自我の最初の芽生えの成立を説明する理論だからだ。
鏡像段階は一次的ナルシシズムの到来であり、しかもこれはまったく神話の意味でのナルシシズムである。というのは、鏡像段階は死、つまりこの時期に先行する期間における生の不全という限りでの死を指し示しているからだ。実際、これは6ヶ月から18ヶ月の間に位置する人間存在の構成の一段階であり、この期間は神経系の未発達を特徴とする。この人間における特有の出生時の未成熟性は、分析治療で見られるような寸断された身体(
corps morcelé ) の諸幻想によって証明される。この期間こそメラニー・クラインが「分裂的」と呼んだもので、鏡像段階に先立つ時期である。
したがって幼児は、前鏡像期においては寸断されたもの生きている。たとえば自分の身体と母の身体との間、あるいは自身と外界との間に、なんらの差異も設けない。ところが母に抱かれた幼児は、自分の像を認めることになる。実際、幼児が鏡の中の自分を観察し、鏡に映った周囲を見ようと振り向くのを見ることができる(これは最初期の知性である)。そこでこの幼児の身振りとはしゃぎぶりから、鏡の中にある自分の像に対しある種の認知がなされているのがわかる。そして彼は、自分の動きが鏡に映し出された自分の像や周囲ともつ関係を、遊びながら試し出す。
鏡像段階は同一化の一つとして、すなわち主体がある像をわがものに引き受けるときに生み出される変容として、理解されるべきである。この像が形成的な効果を持ちうるということは動物行動学上の観察により証明されている。事実、鳩では生殖腺の成熟には同種が視界内に置かれていることが必要条件となる。しかもそれは鏡に映し出された自分の像で十分である。同様に、トビイナゴの弧棲型から群棲型への移行は、ある段階の個体に、類似の像の動きをただ視覚的に見せるだけで引き起こされ、この類似の像の動きとはその種固有の運動に十分近い様式の運動でありさえすればよい。これらの事実は同種形態的な同一化の次元に属する。そこで同時に像は、すでに自我の誤認
(méconnaissance) の機能を指し示すおとりの能力を保持していることが明らかとなる。
したがって鏡像こそが、幼児に自分の身体の直観的な形を与えると同時に、自分の身体から周囲におよぶ(内界
Innenwelt から環界 Umwelt におよぶ)関係も与えるということができる。すなわち幼児は、その身体の全身像を想像的に先取りする。「主体はみずからが二重化しているのを見て、反射された、束の間にすぎない、かりそめの自己支配の像によって構成された自分の姿を見て、ただ自分が想像していることによってのみ、自分が人間だと思う」。(ラカン、セミネール\、1964
『精神分析の四つの基本概念』 1973)。
しかし、鏡に映った身体像を我がものとして引き受けるという意気揚揚とさせる勝利において本質的なこととは、母に抱かれた幼児が、自分の発見に認証を与えてもらおうとするように、彼に眼差しを送っている母のほうへ振り向くことである。「そう、それがお前だよ、息子ペドロよ」と母に認めてもらうことによりはじめて、「それはお前だ」から「それは私だ」が導かれることになる。
幼児は一連の同一化の過程を経ることで、一定の自分の像を引き受けることができるのだが、しかし幼児の鏡への同一化の内実を、単なる経済論的な次元へ、あるいは(視覚的なモデルが主たる役割を持っているとはいえ)単なる鏡像の領域へ帰すことは不可能である。なぜなら、幼児が自分を見るのはつねに、自分の目によってでは決してなく、彼を愛したり嫌ったりする人物の目によってなのであるから。ここにきてわれわれは、幼児の身体像を基礎づけているものとしてのナルシシズムの領域を、母の愛、彼に投げかけられる眼差しという点から取り扱うことになる。幼児がこの像を我がものとし、内在化することができるためには、彼は大文字の他者(この場合は、母)において一つの場所を持たねばならない。ペドロという名で呼ばれる権利(ないしは呼ばれることの禁止)をもたらす、この母による認知のしるしは、一なる印として働くようになり、そこから理想自我が構成される。この点では、「盲人でさえ自分が眼差しの対象である主体である」。
しかし鏡像段階が、人間がはじめて自分が人間であるという経験をする原初の出来事であるとすると、人間が自分を認知するのは他者の像(他なる鏡)においてであることになる。人間はまずはじめに、他者として自分を生き自分を体験する。
さらに鏡の中に自分を認知するのと平行して、幼児には同等の年齢の者に対する特別な行動が観察される。幼児は他者を前にすると興味深く観察し、そのしぐさをいちいち模倣し、文字通りスペクタクル(光景=見せ物)のなかで、その他者を引きつけ、あるいはその気を引こうとする。それをただの遊びにすぎないとしてしまうことはできない。幼児はそうした行動によって、この年齢ではなお不完全な協調運動に先んじているのであり、また他者になぞらえることで自分を社会的に位置づけようとしている。重要なのは、彼を承認する資格を与えられている者を彼の方から承認することであり、その者に自分の価値を認めさせ、その者を支配することである。
互いに向かい合った幼少の子供にみられる転嫁現象(
transitivisme) にはじつに驚かされるが、そこでは文字通り他者の像にだましとられている。ぶった子がぶたれたと言い、そちらの子の方が泣き出してしまう。ここに認められるのは、想像的審級つまり双数的関係、自身と他者の混同であって、人間存在の構造にかかわる両価性と攻撃性である。
自我とは、反転した構造のうちにある鏡像である。主体は自分を自らの像と混同し、自分の似姿との関係の中で、写しによって同時に想像的にだましとられてしまう。したがって主体は、自ら差し出すことに決めた自分の像のうちに疎外されているのである。しかも主体はその疎外について無知であり、こうして自我の慢性的な誤認が形成される。主体の欲望についても同様のことが言える。つまり主体は、他者の欲望の対象の中にはじめて自らの欲望を見定めることができる。
鏡像段階とは構造論的な交差路であり、そこで交わっているのは以下のものである。
1.自我の形式偏重。幼児はある像へ同一化するが、この像は彼を形成する一方で、しかし原初的に彼を疎外し、他者に同一化する転嫁現象においては彼を「他者」としてしまう。
2.人間存在の攻撃性。自分が消滅されたくなければ、自らの場所を他者から勝ち取り、他者に自分の価値を認めさせねばならない。
3.欲望の対象の出現。その選択はつねに他者の欲望の対象に準拠している。」
(R・シェママ編 『精神分析事典』 弘文堂 より)
嘘をつく自我
物理学者ファインマンは、その自伝の中で、心理学の授業で催眠術にかかった体験を記述している。
若き日のファインマンは、自分は催眠術にかからないと確信しながら、催眠術師の言葉に耳を傾ける。催眠術師はファインマンを催眠状態に置き、「あなたは目が覚めたら、教室の窓を開けます」と言う。ファインマンはそれを聞きながら、自分がそんなことをするはずが無いと思っている。催眠術師が「あなたは目を覚まします」と言うと、ファインマンは目を開けて、自分の席に戻ろうとする。そりゃあ、窓を開けることもできるけど、それは自分の自由だ、と思う。窓を開けることも開けないこともできる。それで、ファインマンは窓を開けてから自分の席に戻る。
この時、誰かが、ファインマンに「なぜ窓を開けたのか」と訊いたら、ファインマンは、「教室が暑苦しかったから」と答えるだろう。
ファインマンは自分が催眠術にかかったとは思っていないし、暗示に従って窓を開けた訳でもないのだから、そうとでも答えるより他にない。(こうした現象は、催眠術にかかった患者にはよく見られるものである。)
フロイトとラカンによれば、これこそが自我の根本的な性格なのである。
自我は自己の無意識を知らず、自己の同一性を維持するために、常に偽るものなのである。
自我の同一性は、自我の外部にあり、自我は自己から疎外されている。
言い換えれば、自己を他者と同一化することで、自我は自己の同一性を確保する。そうしなければ、自分の居場所が奪われてしまうからである。
「主体」の場所
ラカンは世界を
現実界
想像界
象徴界
の三つに分ける。
現実界とは、それこそが「現実に」存在している、無意識の欲望の世界である。これは基本的に知りえない。
想像界とは、自我と意識の世界、知覚とイメージの世界であり、鏡像段階論は、ここにおける自我の疎外を物語る。
象徴界とは、言語という記号の世界である。ここで大文字の「他者」による、自我の更なる疎外が生ずる。
言葉(記号)の持つ意味作用を「シニフィアン(signifiant)」という。シニフィアンとは、エディプスであり、「父の名」である。
「精神分析における攻撃性」(『エクリ(Écrits)』)より
(準備中)
参考文献
とにかく難解で名高いラカンであるが、
"Lacan for Beginners"(1999) の翻訳
フィリップ・ヒル『ラカン』新宮一成・村田智子訳(ちくま学芸文庫)
はイラスト入りで読みやすいし、割と解りやすいと思うのだが、どうだろうか。
その他では、「日本一わかりやすいラカン入門」を目指したいう
斉藤環『生き延びるためのラカン』(バジリコ株式会社)
は、精神分析(フロイト)と言語理論という二つのハードルがあるので、それほど分かりやすいとは言えないと思うが、
現代社会の身近な現象を引き合いに出しながら、日常的な語り口調で解説しているという点では、類例がない。
また、上で引用した
新宮一成『ラカンの精神分析』(講談社現代新書)
も、比較的分かりやすい概説だと思う。