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Twitterの良かったところと、Facebookがあまり好きになれないところ

2011/8/8-1

Twitterの話題が減るとともにFacebookの話題が増え、さらにはGoogle+がFacebookを抜くか抜かないかという話題が出つつある今日この頃ですが、個人的にTwitterとFacebookの違いみたいなものをボンヤリと考えたことを書いてみます。 話題になっていることや、日本的には流行っているんだかどうか良くわからない状態とはいえ世界的には超巨大サービスであることなどから、Facebookを何となく使っているのですが、どうも好きになれません。 実名強要とか、個人情報とかプライバシーとか、アメリカのパトリオット法との関連とか、そういう細かい話ではなく、何となく本気で使う気持ちになれないのです。

で、何でだろうなぁと漠然と考えていたのですが、自分なりの答えが先ほどわかりました。 私は「日常」をネットコミュニケーションに求めておらず、ネットコミュニケーションに求めているのが「非日常」なのだろうということです。

私はmixiもあまりやる気が起きなかったのですが、Facebookも同様に真面目には使っていません。 「友達」として相互に接続するために双方の同意が必要な環境は、「知り合いがベースのネットワーク」という形であり、どうしても「日常」に近くなります。

一方で、私がTwitterを使っていて楽しいのは、恐らく「非日常」だからだと思われます。 フォローと被フォローが非対称でありつつ、オープンであることが前提なので、日常だけでは繋がり得ない人々と繋がることが出来ます。 一方で、どこで誰が見ているのか全く予想がつかないため、多くの人々がディフェンシブな書き込みを心掛けています(そうせずに炎上してしまう事例は多々ありますが)。

このように、私がネットに求めているのは「非日常」であると自分で思い始めましたが、一方で「日常として利用するネット」というのもあります。 個人的なやり取りで行うメールや、状況によっては限定された状況でのWeb、新聞や雑誌とともに情報収拾メディアとしてもWebなどが私にとっての「日常として利用するネット」です。

ただ、「日常」として限定されたメンバーで楽しむのも悪くないと思う事もあります。 私が大学生の頃に、Facebookなどがあれば、きっと友達と「繋がる」ことで楽しんだだろうと思います。 とはいえ、大学を卒業し、大学のサークルのように限定された範囲ではなく色々な方々と現実世界で知り合う機会が増えた事で「限定されたメンバー」という概念の境界線が引きにくくなり、「誰とまでなら友達申請すべきか」という境界線が非常に曖昧になるとともに、「友達申請」という概念そのものが煩わしく思えるようになったのかも知れません。

登場して間もない頃のブログもそうであったのですが、「非日常としてのネットの良さ」を効率化しているのがTwitterであるというのが私の考えです。 FacebookやGoogle+がそうなっているかというと、現時点の私にとってはそういう風な使い方はできてないなぁというのが感想です。

一応補足

なお、「非日常だから」ということで「ネット上では非常識に振る舞っても良い」と言っているわけではないのでご注意下さい。 個人的にはネットも現実世界の延長上だと思っているので、ネット上だから何をやっても良いという考えは私にはありません。 こういう文章を書いていると、そうやって誤読する方々が登場する可能性を感じるので、念のため。

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