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高遠菜穂子さんに聞くイラクの現実

2003年3月20日に開戦したイラク戦争から今日で4年。イラク戦争終結後の2003年5月1日、イラク人支援のために入国し、一時は拘束された経験を持つ高遠菜穂子さんにオーマイニュースはインタビューし、イラクの現状について語ってもらった。

■4年前を振り返って■

――みんなの記憶から消えているイラク戦争を振り返るために、2003年に高遠さんが見てきたものを語っていただけますか。

 初めてイラクに入ったのは2003年5月1日で、その日はアメリカのブッシュ大統領が「大規模戦闘終結宣言」を発表した日です。厳密に言うと、その前日の夜中、4月30日の夜中に、隣国のヨルダンのアンマンを出て、朝方、国境に着きました。そこからどんどん東に向かっていくわけですが、そのときは、日本人の方3人と私、4人で行きました。

 国境は一応、米兵がイラク側にいました。国境を数回行き来しましたが、1回目のときは、さすがに米兵がチェックしているなという感じを受けました。でも、それ以降はほとんどノーチェックみたいな感じでした。いることはいますが、なんとなくイラクに入るのはそんなに大変ではなかったというか……。

――イラクに入っていって、どんな感じでしたか。

 バグダッドまでの道のりは800キロぐらいだと思います。最初のころは、土漠(地面の硬い砂漠)がバーッと広がっている感じで、そこでは高圧線の鉄塔が全部倒れていて、爆撃された跡に車両や戦車が転がっているという状況です。「戦争をしている」というのは、イラクに入るとすぐに分かりました。

 バグダッドに入ったときには、ホテルなど泊まれるところがほとんどなくて、宿探しに結構苦労したのを覚えています。マスメディアは、シェラトンホテルなどの高級ホテルにプレスセンターがあったので、そこに入っていましたが、フリーのジャーナリストさんや私たちは、「何とかもう少し安いところを」と探しました。口コミで何軒かのホテルが分かってきて、行ってみたのです。すると、やはりフリーのジャーナリストがそういった安い宿を利用していました。

 そこには日本人もたくさんいました。ほかにも世界中のジャーナリストと、世界中のボランティアで来ている人。NGOもすごい数でした。特に目立ったのは、韓国から来ているクリスチャンのグループで、1団体20人ぐらい。年齢も結構若くて20代ぐらいの人が多くいました。彼らとは「あっちがどうなっている」とか「こっちがどうなっている」といった、いろいろな情報を交換しました。とにかく当時は、イラク人を支援しようという人たちが、世界中からたくさん来ていました。

――現在は、どういうなっていますか。

 (NGOなどの団体は)いませんよ。最後の最後まで残っていた「セーブ・ザ・チルドレン」もつい最近、撤退しましたし、国際NGOも国連も、もう何年間もイラクにいません。もちろん、現地スタッフのイラク人はいるでしょうけれど、外国人はいません。みんな、ほとんどがヨルダンにいます。

 今思えば、あのころは戦争が終わったという感じではなかった。けれども、今よりはマシだったな……と振り返っています。なぜかと言うと、バグダッドに入って宿に落ち着いてすぐに、私たちは銃で撃たれています。窓越しに「パン! パン!」と。もちろん、戦場に行っているわけですから、そんなことが起こる可能性はあります。

 当初の問題というのは、水が出ないということや、失業問題や電気がないといったことよりも、一般治安がよくないということでした。例えば、略奪が横行しているとか、銃を取る人が、無法状態になったので自衛をする。自分で守るのだということで、一家に1丁の銃を持つというような感じになっていったわけです。当初の問題は、それぐらいだったと思います。

 しかし、今はもう水がナイ、電気がナイというのは当たり前です。当たり前に、ナイ状態なのです。一般治安ももっともっと悪くなっているし、ちょっと言葉では言い表せないぐらい悪化しています。変な話、私がイラクに入ったころは、まだよかったんです。

■フセイン以後、外国の武装勢力が多数流入■

――当時も治安が悪くて、現在はさらに悪くなっているというのは、日本に暮らしていると理解できない部分もありますが、具体的にどういうことになっているのでしょうか。

 例えることができないぐらい複雑になっています。いろいろなものが入り乱れている。イラクというのは結局、いろいろな国と国境を接しているわけです。最初に国境の警備がすごくずさんだったと説明しましたが、サダム・フセインが倒れてから、国境を越えていろいろなところから、さまざまな人たちが入ってきてしまいました。

 要するに、もう軍も何もないわけで、多くの勢力が入ってきてしまったわけです。その勢力がイラク国内に流れてきた理由というのは、イラク国内に米軍がいるからです。彼らは米軍を攻撃したいのです。

 イラク人がなぜ、米軍に抵抗するようになったか、ということを説明しましょう。

 最初の段階では、レジスタンスというものは、はっきりは存在していません。地元イラク人の抵抗勢力、反米軍という人たちは、最初はいなかったのです。

 なぜレジスタンスが出てきたかと言うと、米軍が「テロとの戦いだ」ということで、いろいろなところで集中的に軍事作戦をやっていく。米軍は何万もの兵士で作戦に臨むし、戦闘機も、戦車もいくらでもある。そういう中で、民間人の被害が出るわけです。

 民間人が死ぬということは、その被害者たちの家族が遺族になるわけです。遺族の人たちが、米軍に対する報復のために武器を持ってしまう。これが地元の抵抗勢力の始まりです。

 同時に、イラク周辺のいろいろなところから、“イスラム教原理主義”と呼ばれたり、“過激派”と呼ばれたりする人たちが、開けっぱなしになった国境から入ってきた。そして、米軍がイラク国内にたくさんいるから、「これはいいや」ということで入ってきた。

 地元の抵抗勢力に対して、外国から入ってきた武装勢力が「こっちに来い。米軍を倒したら褒美(ほうび)をやるぞ」というような感じで、どんどんリクルート活動をしていったわけです。そうして、彼らは一緒になっていったのです。

 ところが、ここ数年間で地元の抵抗勢力と外国からやって来た武力勢力がパックリ分かれました。よくニュースで自爆テロというのをやっていますが、あれはレジスタンス(地元の抵抗勢力)の中ですごく嫌われています。中には、すごい過激派になって、例えば、有名なアル・カイダ系のグループに入ってしまう人も若干はいます。

 しかし、イラク人で抵抗勢力になったほとんどの人たちにとっては、毎日のように起きている自爆テロというのは、イラク人を殺してばかりで、イラク人の抵抗勢力にとっては本意ではない状況になっているのです。「なぜ、そんなことをするのだ」ということです。だから、「それをやる人たちとは一緒にいられない」ということで、分裂していったのです。

――分かれているけれども、どの勢力もイラクにいるわけですね。

 いろいろな主義主張のグループが入っています。最近、メディアでよく言われるのが、イスラム教の「シーア派」と「スンニ派」という、主に2つに分かれた宗派が、お互いに対立しているという構図です。その両派の中でも、また分裂が始まってきています。そして、そこに米軍を筆頭に外国軍である多国籍軍がいるわけです。

――それには、支援活動の名で日本も……。

 後方支援をしていますが、そういう外国軍もいるわけです。結局、ここ2年ぐらいは、こういう外国勢力が、スンニ派にしてもシーア派にしても、じゃんじゃんイラク国内に入ってきて、ものすごい残虐行為をやっているわけです。それに対して、一番大きな部隊の駐留米軍はちゃんと対処できていません。

 皆さんもご存じのように、ただただ死者数が恐ろしい勢いで増えている現状に対して、駐留の期間を延ばしてはいるものの、何もできていないのです。スンニ派とシーア派をはじめ、たくさんの人々が入り乱れている状態です。

――日本では、同じイスラム教なのに、なぜスンニ派、シーア派で対立するかというのが分かりづらい部分があります。

 いや、私もそれは分かりません。ここまでくると、だいたいの戦争は、最初は思想だなんだと言っているけれども結局、そんなものはどこかへ行ってしまっているのでしょう。末端で残虐行為などを実行している兵士や民兵たちは、そんな思想などはどこかへ行ってしまっているのだと思います。

――民族の対立があるというように言われるのも、もしかしたらそれと同じようなことなのでしょうか。

 民族と言えば、北部のクルド人自治区がありますが、イラクの中だけれども「クルド問題」というのは長年ずっとあります。本当にイラク全体で見ると、「治安が悪い」とひと言で言っても、その場所や地域によって治安要因が違っています。ですから、ひと言でイラク情勢を説明するというのは本当に難しい。

 簡単に言うと、大まかには3つに分かれます。バグダッド以南の部分、イラク西部、そしてクルドですね。主に、イラク西部というのはスンニ派が多いと言われます。少数ではありますが、もちろんシーア派もいます。

 バグダッドは、いろいろな民族や部族や宗派が混在していますが、シーア派が南部に多いと言われています。そんな状況ですから、「あちらで起きていることは、こちらではちょっと想像ができない」というふうになっています。例えば、同じイラクに住んでいるイラク人でも、イラク南部の人にはイラク西部で何が起きているかというのは分かりにくいのです。

■イラク西部の情勢■

――高遠さんは、どの地域にお詳しいのでしょうか。

 私はバグダッドから西側のイラク西部です。主に支援などでもカバーしているのはここです。今の支援の内容はほとんど緊急支援になります。例えば、輸血バッグや消耗品、一般薬などを送っています。

 基本的に、ディアラから西側のサマラ辺りは、中央からの食糧配給や医療配給はほとんど来ていません。中央からこちらに向かうまでには、ガッチリと米軍の検問所があって、常に軍事作戦が行われているので西側には入れません。

 なぜ入れないのか……。なぜ政府の物資なのに米軍が止めるのか……。よくは分かりません。でも、米軍が包囲している間は誰も入れてくれません。たとえ救急車でも入れてくれません。それがイラクでは「普通」です。やはり日本での「普通」とは違いますね。

――そうした物資がまったく届かない地域で、緊急的な支援活動をされているわけですね。

 はい。あとは、食料や水の支援をほかの外国のNGOと一緒にやっています。もちろん、海外のNGOも、国連の職員も、私たち日本人支援者も、イラクには入れません。というのも、これだけ複雑な勢力争いになっている中に、もし私たちが入ったら、私たちを守ろうとするイラクの友人たちが、何者かにあっという間に殺されるでしょう。私もこれ以上身近なところでイラクの友人を亡くしたくありません。

 止めようもないぐらい、毎日数百人も死んでいます。実際に私たちの周りでも殺された人がたくさんいるので、私たちが今イラクに入ることは、彼らを危険に晒(さら)してしまうと考えています。行きたくても行けないのです。

――イラクで、今一番の問題だと思うことは何でしょうか。

 それも地域によって異なってきますが、例えば、バグダッド以南の地域(シーア派が比較的多いと言われる地域)では、イスラム教シーア派の民兵組織が猛威を振るっています。そこでは、それが一番の問題です。

 特に首都のバグダッドは、スンニ派の人たちが生きていけなくなっています。スンニ派狩りと言うか、スンニ派浄化作戦みたいな状況になっているので、スンニ派に特有の名前、例えば「オマル」とか「マルワン」といった名前を名乗っただけで、シーア派の民兵に逮捕され、拷問(ごうもん)されて殺されてしまいます。目をくり抜かれたり、舌を抜かれたり、内臓を取られたり、脳を取られたりして……。それが民兵組織によって路上に捨てられていたり、遺体を家族に売りつけたりするわけです。「遺体が欲しければ、いくら払え」と。殺害前に身代金を要求することもあります。

 そういうことが、イラク移行政府が発足した2005年5月ぐらいから、もう2年になりますが、ものすごい勢いで増えました。少なく見積もっても4万人、一部では12万人というところもありますが、そのぐらいの数のスンニ派住民が拷問死しています。実際に私のところに送られてくる映像や写真も、そういうものばかりです。

 拷問されて死亡した遺体を発見した人が検証している映像で、「目が取られていますね」とか、「脳がないですね」とか、「ドリルで体に穴があけられていますね」とか、そういう何十体の映像や写真ですね。これは現在、非常に深刻な問題です。スンニ派の住民は、今はバグダッドでは生きていけない状況です。

■イラク避難民という存在■

――彼らはどこに逃げるのですか。

 最初のころはバグダッドはわりと、キリスト教でも、スンニ派でもシーア派でも、クルド人でも、混在している地区が多かったということです。シーア派居住区と言われるところもあるし、スンニ派が多いと言われるところもあるけれども、はっきり分かれていたわけではありません。

 そういう恐ろしいことが起き始めたとき、スンニ派の人たちはまず、バグダッド市内のスンニ派が多い地域に集まり始めました。そうすると、シーア派はシーア派で、周りにどんどんスンニ派が増えてきて、路上爆弾などによる事件が次々に起こって結局、シーア派の住民も、友だちではあったけれども、その友だちでさえスンニ派の人たちを疑うようになっていきます。「どこかでつながっているのではないか」と不信感を持ってしまう。それで、近所付き合いがなくなっていって、シーア派の人もスンニの中にはいられないから、「シーア派地区に行こう」という感じで、だんだんとバグダッド市内でスンニはスンニ、シーアはシーアと分かれてしまった。

 そこに拍車をかけるように、シーア派の民兵はシーアの地区。スンニ派の過激派武装勢力はスンニ派の地区で、自警団のように、「住民を守りますよ」という感じで、町をガードするわけです。そうするとやはり、中に住んでいるシーア派の住民たちは、「シーア派民兵は、なんていい人たちなのだ。ちゃんと食料も持ってきてくれるし、診療所に医薬品も入れてくれる」となる。

 スンニはスンニで、「あの(スンニ派の武装集団の)人たちは、実はいい人なのではないか」と考えるようになっていくのです。これで結局、より住み分けがなされていったわけです。

 ところが最近は、イラク軍やイラク警察などにシーア派民兵が大量に就職してしまっているから、ただの民兵ではなくなってしまいました。“警察官”になってしまったので、警察車両、パトカーに乗って、夜中にスンニ派地区で片っ端から男の人たちを連行して、拷問所に連れていくというようなことになってしまった。だから、スンニ派の人間はバグダッド市内のスンニ派地区にもいられないということになってしまいます。

 今の状態は、テロとの戦いの最大拠点と言われている、イラク西部アンバール州にバグダッドのスンニ派住民は流れていっています。一番多いのはファルージャです。私たちが拘束されたのがファルージャ郊外なのですが、ここ数カ月はあの辺りに避難民として流れていっています。多くの人が驚かれるかもしれませんが、「ファルージャの地域の方が危ないんじゃないの?」という印象があるかもしれませんが、どうですか。

――なんとなく、そんな感じがしますよね。

 そうだと思います。ファルージャというのはさんざん総攻撃でダメージを受けたので、そのように思われるだろうと思います。もちろん、今も確かに危険です。軍事作戦が行われていますし、民間の死者も多数出ています。

 しかし、バグダッドのスンニ派住人は、「より安全だから」ということでこちらに来ています。米軍に占領されているここは、敵が米軍だとはっきりしているからまだマシだと言うのです。バグダッドにいると、家の中で息を潜めていても、夜中に突然民兵が来るか、警察が来るか、軍が来るか、ギャングが来るか。どんな勢力が押し入ってきて、連行されて殺されるか分からない。

 そうしたバグダッドの深刻な状況に比べれば、最も危険だと言われたアンバール州などに逃げる方が安全だと言うのです。ですから、イラク国内でそうした避難民がすごくいます。スンニ派の多いアンバールやサラハディンなどでも、米軍の作戦によって家を壊されたり、占拠されて「出ていけ」となったわけです。

 去年は、ラマディというアンバール州の州都でもイラク戦争後初めて、ほとんどの住民が家を離れることを余儀なくされてしまいました。ほとんど全員が町から出なければいけなくなったのです。それはイラク戦争後初めてですが、そのぐらいに大変なわけです。

 まだまだ多くの人たちが自分の町に戻れないので、砂漠地帯に避難してテントや空き家、廃屋や学校での生活を、かなり長期にわたって強いられています。そこに、新たにバグダッドのスンニ派住民が加わってきた。

――何もかも足りないところに、人だけがまた増えたということですね。

 そうです。この前も、この地域に、海外のNGOと一緒に水や食糧の支援をしましたが、ファルージャ郊外のモスクで支援物資を現地スタッフが配りますが、避難民の人たちは、政府発行の配給カードがもらえるのですが、皮肉なことに、配給カードでもらうのは政府からの食糧配給ではなく、海外NGOからの食糧支援や水だという状況です。

 そういう避難生活を強いられているのがイラク国内に170万人いると、国連が今年の1月に発表しました。国連の予測では、今年中にあと100万人増えるだろうとしています。要するに、イラク国内に270万人の国内避難民が出るということで、これは緊急に対処しなければならないと言われています。

――現状170万人の人たちは、できればイラクから出たいわけですよね。それを周辺諸国はどのように対処していますか。

 最初のころに一番多くの避難民が殺到したのは、ヨルダンでした。

――恐らく治安もいいだろうと。

 周辺諸国では、かなりいいですね。観光地ですし、アンマンを中心にイラクの人たちが殺到していました。私もかつては、イラク国境を無事に超えられれば、アンマンで簡単にできました。ところが、ヨルダンに100万人以上もイラク避難民が押し寄せてきてしまって、去年は入国制限がされました。現在は、それがもっと厳しくなってきて、ほんの一部のVIPクラスの人ぐらいしか入れなくなっています。一般のイラク人はヨルダンにほとんど入れない状況が今、起きています。

 結局、入れないということになったので、滞在ビザが切れてしまうとイラクに戻るしかない。そうなると、それからシリアに避難する。去年は、半年足らずで100万人ぐらいのイラク避難民がシリアに……。

 今、アンマンにいるのは70万人ぐらいです。それと、シリアに100万人ぐらい。この2カ国だけでも170万人の避難民がいるのです。

――そこに、あと100万人増えるということですね。

 はい。国内に避難民が170万、シリアに100万人、ヨルダンに70万人と言われています。それから、レバノンにも4万人ぐらい。エジプトにも8万人ぐらいです。

 ところが、レバノン、エジプトも、ヨルダンと同様、去年辺りから入国制限をするようになりました。私も去年、エジプトに行っていましたが、結局、私の友人のイラク人は誰も入ってこられませんでした。ほとんど、イラク人の入国に関しては、シャッターを下ろしてしまった感じです。まずビザを出してくれない状況なのです。以前は入国できたレバノンも今は、ビザをほとんど出さない状況です。出しても3~4日(の滞在ビザ)しか発行してくれません。

 いろいろ複雑な事情があってもそれは変わりません。例えば、ヨルダンの病院で手術を受けなければいけないような状況でも、入国できなかったりします。

――人道的支援でも入国できないのですね。

 (人道的支援と)見なされない場合が非常に多くて、(ビザが)出ても3日だけという感じで、ほとんどシャッターが下りてしまっています。シリアは一応、アラブ国家なので、アラブ人は国境に来ればすぐに、2カ月のビザを以前は出してくれていました。それが、だんだんビザの滞在期間が短くなってしまい、満了すると外国に出なければなりません。

 だから今は、国境周辺で行ったり来たりしている人たちがたくさんいます。そういう人たちが今、一番(多く)いるのは、シリア国境付近です。ここでも居住権があるわけでもなく、ビザの関係もあるし、ほとんど就職できません。

 国内避難民も配給が届かず、状況が深刻です。ですが、海外に出られたラッキーだと思われる人たちも、結局は外国の地で仕事に就けないから、みんな貯金を崩していて、急激に貧困になっています。以前会ったイラク人女性は、「私はまだ余裕がある」と言っていました。しかし、ほかの女性たちはだいたい、だんなさんを殺されてしまっているので、子どもを抱えて1人でシリアに来ているけれども、お金がないからストリッパーになったり、売春をしたり、そういう闇(やみ)でしか働けなくなって、そういった問題がすごく深刻だと聞いています。

――幸運にもその場で生き続けられたとしても、子どもたちの貧困というのはまだまだ続くわけですね。

 ええ。その貧困というのが問題です。イラクの中でも、今の治安状況だと子どもたちを学校に行かせること自体、すごく大変なわけです。特にスンニ派の人たちは、まず大人が外に出たら自分が殺される危険性があるので、子どもを学校に送りに行けないというのがあります。また大学などは、シーア派民兵そのものに抑えられているので、スンニ派は学生も教授も全部殺されたか、脅迫されてそこから追い出されています。

 シリアには、スンニ派だけではなく、クリスチャンもいますし、シーア派の友だちもいます。ありとあらゆるイラク人がみんなシリアにいて、私の友だちもたくさんいます。宗派は関係ないのですが、やはりみんな貧困になっていっています。結局、シリアで学校に行かせられなくて、落第してしまう子が続出しています。1年落第した、2年落第したとか。

――能力のためではなくて、お金がないから。

 貧困のために、(学校に)行かせることができない。治安の問題で行かせられなくて外国に逃げたけれども、今度は経済的事情で行かせられない。

――それは、恐らく連鎖していくであろうことですね。

 あと10年後にどうなっているかですね。アラブ周辺、中東諸国の中で、イラクというのは非常に識字率も高く、教育大国と言われていたらしいです。実際に大学を出ている人はだいたい、英語はブロークンですがしゃべります。また、技術系の人たちはすごく多くいましたし、湾岸戦争前、国連の経済制裁以前は、医療水準などはトップクラスでした。

 しかし、これからの10年で、教育水準の低下が気になります。例えば、識字率といったことです。

■なぜ、続けるのか■

――イラクの戦争を牽引(けんいん)してきたアメリカとイギリスですが、アメリカは今回、増派を決定しています。一方でイギリスは、5月に撤退する予定です。日本も、イラク特措法が7月に切れ、それをもう1年延期しようという動きがあって、つい先日の朝日新聞のアンケートで69%の日本国民が延長に反対しているとありました。この4年間、ずっとイラクにかかわり続けてきた経験から、日本が今後どういうかかわり方をしていくべきだとお考えでしょうか。

 2004年1月に自衛隊の先遣隊がイラクに到着しました。それはイラクでも大きなニュースになって、多国籍軍は40カ国ぐらいあるのに、集中的に取り上げられるのが日本ばかりでした。そのぐらい、イラクとその周辺国の中でも、日本が軍を送ってきたというのは大事件でした。私は、その3カ月後に、「おまえは日本人だな。アメリカの側だな」ということで、スパイとして一時拘束されました。

 私が今思っているのは、日本人であるということで、私たち3人を含め、日本人でないほかの外国人も、そういうことで危険度は逆に目に見えて高まっていると思います。

 私個人的には、あのような思いはほかの日本の人たちにはしてもらいたくないというのがすごくあります。現在も、バスラの南のクウェートという隣国に日本の航空自衛隊が待機していて、輸送機C-130で後方支援をしている。要するに、米軍の後方支援です。それを知っている人は意外と多いのです。

 やはり、米軍の空爆を日常的に受けているアンバール州では、日本に対しては、「なぜアメリカの手伝いをするのだ。アメリカが何をしているか知っているのか」という思いの人がすごく多いです。そのように思われている限り、印象がよくなるとか、安全になるとか、そういうことはないと思います。

――最初に自衛隊がイラクに派遣されたときから、ずっとそういう状態ですか。

 私たちが最初にファルージャに入ったのも、あのときにファルージャが米軍の総攻撃を受けていたわけです。米軍によって殺された民間人死者のほとんどはファルージャ(で被害に遭った人たち)です。米軍による被害者が多いところでは、そういう思い(日本への悪印象)はすごく強いです。

 例えば、陸上自衛隊が行っていたサマワはどうかというと、あまり知らないですね。ほかの地域では、何百キロも先で起きていることは知らないし、サマワはほとんど米軍がいないところだし、知らないわけです。イギリス軍が南部に展開していますが、それほど大きな作戦はなかったので、そういう意味ではものすごいギャップがありました。

 サマワの人たちは、地元の新聞記者も含めて、日本の自衛隊が来るというときにまず何を言ったかというと、「企業が来ると思った」と。新聞記者がそう言っているので、地元の人たちもそう思いますよね。だから、数十人に話を聞きましたが、「まずいことになるんじゃないの?」というように答えたのは、大学教授1人と、病院のお医者さんでそういう人がいました。

 あとは、病院の(別な)お医者さんでも、やはり同じように「自衛隊って何? 軍じゃないんでしょう?」と。「Self Defense Forces」などと説明されるので何か分からないわけです。イラクは長く戦争をしているので、「セルフ・ディフェンス」のイメージがないわけです。だから、「どういうグループなの?」と思ったようです。

 だから、「軍隊」という言い方をしましたが、「とはいっても、銃を持っていないんでしょう? だって、広島・長崎があったしね。あれ以来、日本は戦争をしていないし、平和の国だと聞いている」と。

――非常にいいイメージを持っているわけですね。

 そうです。これはイラク人に限りません。会ったイラク人に必ず、広島や長崎のことについての話をしたうえで、「日本はとてもいい国だ」と言われます。なぜかと聞くと、「アラブ諸国でも、世界でも、何十年間も戦争をしていない。その代わりに、テクノロジーをものすごく進化させて、ナンバー・ワンになった。尊敬して止(や)まない」というようなことを言われます。

 だから、彼らにとっては非常にビックリしたと。実際に日本人が来たときに、みんな軍服を着ていて、ものすごく重装備で来たというのは、一瞬、みんな「ポカーン」という感じです。

 私はサマワに2回行っています。なぜ行ったかと言うと、サマワが放射能の汚染地域だということを言われていて、同行させてもらったのです。自衛隊が来る前が1回目で、自衛隊が来てからまた行きましたが、ガラッと変わっていてビックリしました。自衛隊が来る前が今言ったような状況で、みんなが浮かれていました。「トヨタ、日産、ソニー」と。「一家に1台プレステがもらえるらしい」みたいな、変なデマが流れたりして、どうしようもない感じでした。それで、自衛隊が入ってきてから行ったら、町がシーンとしていて、住民もすごくしらけていて、なんか雰囲気が変わってしまっていました。

――すごく大事な話だと思います。当時の報道では、自衛隊は非常に歓迎されていると言われていたという記憶があります。

 来る前は、町を挙げて歓迎されていましたよ。

――そのあとも、支援をしてくれて、地域の住民たちと仲良く写真を撮っているようなものがありました。

 それはもちろん事実です。でも、写真も、テレビの映像も長くて1分ですから、それがすべてではないのです。

 サマワは人口数万の小さな町で、1時間あれば全部回れるような感じですが、確かに復興支援を必要としている。例えば、上下水道のインフラ整備など、必要な部分はすごくあります。私が行ったのは、イラク戦争中の空爆被害者がまだたくさんいて、そのときもすごく爆撃されて、サマワは結構、激戦地でした。病院の先生も、イラク戦争中は本当に激務だった。産婦人科にもケガ人が多数かつぎ込まれたということです。

 だから、そういう支援も必要だったことは確かです。でも、人々はそういう戦争被害(からの復旧)を支援してほしい、インフラを整備してほしいと、いろいろあったのです。しかし、自衛隊が入ってきてからしばらく動きがなくて、水だということになったけれども、水の支援というのはその1年ぐらい前から、フランスのNGOが何十トンとやっていました。そういう意味で、なかなか全体的に喜ばれるという感じではなくなってしまいました。

――実際に何度か、基地の周辺に実弾が打ち込まれたり、デモもありましたよね。

 ありました。確かに、日本の自衛隊が来たことによって、例えば地主さんは基地を設営することで、すごく恩恵を受けています。あとは、州知事とか、恩恵を受ける人たちにとってはもちろん喜ばれました。しかし、それは、ごく一部だったのです。

 サマワのことだけではなく、すべてのニュースが一部しか真実を伝えられていないと思います。見る方も、それがすべてだと思ってはいけないと思います。そこでテレビに出ている数人だけではなく、町には何万人もいます。その中には「自衛隊が来て3カ月になる、6カ月になるのに、何も変化がないではないか」と言う人もいれば、「電気が全然、来ていないぞ」と言う人もいるわけです。

――恩恵を受ける人もいれば、まったくそうでなかった人もいて、貧富の差というのができてくるわけですね。

 そうでしょうね。もともと格差は結構あったのかもしれませんが、結局、一部だけがバブリーな感じで……。格差を拡大してしまったというのはあるかもしれないですね。

■日本人であるということを考えた■

――2006年末の段階で、米英は3000人、イラク人にいたっては、アメリカ発表で、一説では10万~20万人の死者が出ているという状況の中で、高遠さんご自身も支援活動を共にやってきた現地スタッフを2名亡くされています。そういう混沌(こんとん)とした状況の中でも、なぜまだ支援を続けようとしていらっしゃるのでしょうか。

 簡単に言うと、やめる理由がない。たとえ私がやめようと思って、イラクから離れようとしても、生きている限り、私の中からイラクがなくなることはないと思います。どこかでのんびり過ごしていても、いつでもイラクのことがあるし、だからもう無理ですよね。基本的にそうです。

 あとは、やりかけたことを途中でやめたくないというのもあります。それから、やはりショックでした。「日本人だから殺す」というのが。それが一番大きいかもしれません。

 日本人だから殺すと言われるのは、理解するのにちょっと時間がかかりませんか? でも、そうだったわけです。イラクの人たちに疑われたこと、それを取り返したいというか……。日本に新しく付いたイメージが、殺したくなるほど悪いイメージだというのは、ちょっと日本人としてはショックですよ。

 だから、なぜ支援を続けるのかと言われると、私はこんなに「日本人」を意識したことがないぐらい、今「日本人」を意識してやっている、イラクと向き合っている、というところはすごくあります。

 実際に支援をするうえで、「日本からの支援ならいらない」と返されることもあります。「日本からの支援だということがバレると殺されるかもしれないから、言わないでくれ」と言われることもあります。「関係者が殺されるかもしれないから、日本との関係は絶対ないしょにしてくれ」と言われることがすごく多い。

 そう言われれば言われるほど、「日本人として」という感じになってしまう。また、あのときのように「日本人は大好きだ」という関係を取り戻したいわけです。だから、絶対に見捨てないということを表現したい。

 表現したいけれど、イラクに行けないし、ヨルダンから物資を送っても「日本人からですよ」と書けない。なかなかうまくいきませんが、徐々に、ほんの狭い地域だけれども、「日本の民間人でも、私たちのことを気にかけてくれる人がいるらしいよ」というのは、少しずつですが広まりつつあります。この信頼回復のきっかけをすごく大事にしたくて、いつかまたみんなで「懐かしいね」と。イラクに行ったときに、「日本人は大歓迎」というように言われたいのです。変な理由かもしれませんが、そういう感じです。

――日本がどうかかわっていくべきかという点はいかがですか。

 私個人としては、今の段階では、安全管理の1つとして、実際に支援をしている中で、「日本からの支援ならいらない」「いや、違うよ。これは日本政府からではなくて、日本の一般の人たちだよ」「ああ、それだったら……」ということも実際にあるので、安全管理として、今はちょっと分けたいと思います。危険性が高まるという心配があるので。これは、ほかの国でもそうで、アメリカ人にしてもそうです。よく、「アメリカ人はいいけれど」と分ける感じがあります。

 だから私は、私たち一般人がイラクと向き合うときには、私個人は先ほど言ったような感じで向き合っています。でも、日本だけではなくて、各国がどのようにやったらいいかという答えは見えません。

 最近よく言われるのは、これだけ複雑に、イスラム教の宗派対立がすごい中で、駐留米軍が一気に引いてしまうと、より混乱が起きるということです。しかし、一気に兵を引くということ自体が物理的にまず不可能なので、イギリスのように段階的な撤退計画(が現実的です)。15万人もいるわけだから、絶対に一気には引き揚げられない。かなりの段階に分けないといけないと思います。だから、増派ではなく、縮小していく方がいいと思います。

 あとは結局、民主化のステップとされた選挙がいけなかったですね。2005年1月30日、初の国民議会選挙は、みんなテレビで「投票しましたよ」というのを見て、「よかったね」という感じだったのですが、あの選挙の問題性を取り上げられなかった。あの選挙はちょっとまずかったです。

 まず、状況的に公平ではありませんでした。その選挙のときには、スンニ派の多いところでは空爆があったから、みんな投票に行けなかったのです。そこにまず不公平感があるし、結局、軍で治安能力を強化すると簡単に言うけれど、初めて軍人になった人を、プロフェッショナルになるまで育てることは簡単ではない。しかし、新しい政府はそれをしてしまったわけです。それまであった旧イラク軍を完全に解体して、幹部は全部出してしまって、新たに編成したわけです。

 今、米軍が「こんなに何もできない新イラク軍を置いて、われわれは撤退などできない」と言うのは、そこです。確かに、警察にしても軍にしても、どうしようもない。しかし、それは誰もが思っていたことなのではないかと思います。

 そういった問題を考えると、外国人は徐々に撤退していく方向でいった方がいいと思います。これ以上増やしても、危険度が増すだけです。しかも、イラクの中が(多くの勢力がひしめき合って)いっぱいいっぱいになって、世界中にそれが広がっていく。そのうち、今の周辺諸国も巻き込んで、イスラム教の穏健派と過激派のような分裂もあるし、シーアとスンニというのもある。そういう流れから、イラクを舞台にした世界大戦みたいなものが起こる危険性もあるのではないかというように思います。

――難民がまた増えて、外国に逃げたとしても、そこで生活ができないという。サダム・フセインが悪いことをたくさんしたと言っても、そのときの方がむしろ豊かだったのではないかという話もあります。

 私が行ったときにも、そういう声は徐々に出始めていました。去年、一昨年辺りは結構、そう言う人が多かったです。「サダム・フセインは大嫌いだけれど、それでもサダムの時代の方がマシだった」と。

 この辺の国は、拷問や処刑がいまだにありますよね。独裁者サダム・フセインは、自分に歯向かう者にはそうしたかもしれないけれど、今はもう(拷問や処刑される)理由が見当たらない。暗闇で連れ去られて、なぜ連れ去られたかも分からないままに、拷問されて殺される。

 逆に、よくイラク人が言っていたのは、「イラク戦争が始まってイラクにテロリストが入ってきた」ということです。「今では、路上爆弾はイラクでは当たり前になっているが、(前は)そんなことはなかった」という声を耳にします。イラク戦争をきっかけにテロリストが入ってきた。だから、イラクの抵抗勢力はテロリストと戦っています。イスラム過激派が入ってきて、「あいつらはテロリストだ」と言って……。三つ巴(どもえ)が、今度はもういろいろ複雑な感じになっている。

■あらためて、4年間を振り返る■

――最後に、この4年間を包括的に振り返ってみてどうですか。

 私は人が変わったと思います。イラクに行って。行く前は、もっとポジティブというか、前向きな人だったと思います。もっと面白い人だったと思う。結構、人を笑わせたりするような人間だったと思います。

 それが変わりました。やはり、戦争のことなどが頭を離れなくなってしまって、引きずってしまう。いつか頭の中からスパッと戦争がなくなるのかなと考えると、一生ないだろうなとしか思えない。一生、頭の中が戦争でいっぱいで生きていくんだろうなと考えると、「楽しい」というのが持続できないですね。一瞬、10分ぐらい楽しいと、ふとわれに返るという感じです。

 だから、戦争は引きずってしまう。ひと言で言うと、「最悪」。イラクを振り返る、この4年間は「最悪」以外の何ものでもないです。

――最悪なのに、やめる理由がないと……。

 やめられないですよ。

――現状を知ったことを「最悪」と言っているわけではないですよね。

 すべて最悪です。現状も最悪だし、今の私の精神状況も最悪。すべて最悪です。帰還米兵の3割がPTSDだと言いますが、すごくよく分かりますね。彼らはもっと凄(すさ)まじいものをやっているし、見ているし、そうなるでしょうね。すごく分かります。

――行かなければよかったと思いますか。

 それは思わないですね。また行くと思います。あのとき人間の盾になるか、ならないかで、すごく悩みました。私は、イラク戦争に行くのを決断するまでに「9.11」から1年以上悩んでいます。アフガンで行こうと思っていたけれど、怖くて行けなくて、それから1年間ずっと悩んで、イラク戦争が始まって、決断するのにまた数カ月かかって……。

 でも、私はファルージャの事件のときのことも、もしあのときに戻っても、あのタイミングで出たかどうかは分からないけれども、あのときと同じようなことをしたと思います。だって、緊急支援のためにわざわざ行っているから、「やっぱりやめた」というのは、普通は出てこないですよ。どうにかしようと考えますね。

――長い間どうもありがとうございました。