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オタクが人気者になれない理由

by Paul Graham
2003 年 2 月

中学生のころ、友人のリッチとぼくは、学食のテーブルの人気度マップを作った。楽勝だった。なぜって、子供たちは、人気度が同程度の連中だけで固まってメシを食うからだ。ぼくたちは、各テーブルを A から E にランクづけした。A ランクのテーブルにはフットボール選手やチアリーダといった連中がわんさか。E ランクのテーブルには、軽度のダウン症、当時の言葉でいう「知恵遅れ」の子供たちがいた。

ぼくたちが座っていたのは D ランクのテーブル。外見上、特に変わったところのない人間としては最低のランクだ。ぼくらのテーブルは、完璧なオタク(nerd)、思春期がなかなか来ない発育不良、最近移民してきたばかりの中国人でいっぱい。別に気取らないフリをして、自分たちを D ランクにしたわけじゃない。そんなことをいったら、まったくのウソになる。学校の中の誰もが、他人の人気度を正確に把握していた。ぼくたちも含めて。

ぼくの知り合いには、学校でオタク扱いされていた人が多い。そして、彼らは皆、口をそろえて同じ話をする。頭のよさとオタクになることの間には、強い相関関係があって、オタクになることと人気者になることの間には、それ以上に強い負の相関関係がある、って。頭がいいと、人気がなくなるようなんだ。

どうしてなんだろう?今、現に学校に在籍している人にとっては、これは愚問かもしれない。この現実はあまりに圧倒的なので、それ以外の可能性がありうるなんて、想像すらできないかもしれない。だが、ありうるんだ。頭がいいといっても、小学校では爪弾きになったりしない。大学卒業後の実社会でも、損になることはない。ぼくの知る限り、他のほとんどの国では、これほど問題は悪化していない。だが、典型的なアメリカの中高校(secondary school)では、頭がいいと、楽しい人生を送れないようなんだ。どうしてなんだろう?


ぼくの考えでは、設問を少し言い換えることが、このナゾを解くカギになる。頭のいい子供は、どうして自分を人気者にできないのか?そんなに頭がいいのなら、人気の仕組みを解明して、そのシステムを叩けばいい。共通テストならやっていることなのに、どうしてそれができないんだろう?

ある説によれば、これは不可能なんだそうだ。頭のいい子は、頭がいいせいで他の子たちにねたまれるから、なにをやろうと人気者にはなれない、というんだ。ほんとにそうだったらいいのに、とは思うよ。中学校時代、周りの子たちがぼくをねたんでいたのなら、よくまあ、ああもうまく隠しおおせたもんだ。いずれにしろ、頭脳優秀ということがほんとうにねたみの対象になるのなら、女のコたちが違った動きをしていたはず。男がうらやむような男なら、女のコにモテるはずだろ。

ぼくの通ってきた学校では、頭のよさはたいして重視されなかった。あこがれの対象でも、蔑視の対象でもない。他の条件がみんな同じなら、平均より優秀な方が、悪いよりはいいだろう。だけど、知的水準は、他の条件、たとえば外見上の見た目とか、カリスマ性とか、運動能力といったものにくらべて、はるかに低い評価しか与えられなかった。

知的水準がそれ自体では人気につながらないとしたら、頭のいい子たちが、決まって人気がないのはどういうわけだろう?ぼくの考えるところ、答えはこうだ。彼らは本気で人気者になりたいなんて、思っていない。

当時、そんなことをいう人がいたら、ぼくだって一笑に付しただろう。学校で人気がないと、どんなにみじめか。中にはあんまりみじめで自殺を図るやつだっているというのに。当時のぼくに対して、人気者になりたいとは思ってない、なんていうのは、砂漠でノドが乾いて死にそうな人に、水なんかほしくないだろう、というようなものだ。当然、ぼくは人気者になりたいと思っていた。

だが、実際はそうじゃない。それほどでもなかったんだ。もっとなりたいものが他にあった。それは頭のいい人間になることだ。学校の成績だけじゃない。それももちろん少しは関係あったけど、信じられないようなロケットを設計したり、うまい文章を書いたり、コンピュータのプログラム方法を理解したりするには、頭がよくなきゃ始まらない。一般的にいうと、すごいものを作れることが頭のよさの何よりの証拠で、定義としては、受動的な IQ テストよりも、そっちの方がずっと正確だ。

当時のぼくは、自分の願望を切り分けて、それぞれを天秤にかけてみるなんてことは、やったことがなかった。やってれば、わかったと思う。頭がいいことの方が、ずっと大事なんだって。学校一の人気者になるチャンスをもらっても、それと引き換えに頭の程度が人並みになる(笑)んだったら、ぼくは断っただろう。

人気がないことから来る苦痛も大きいけれど、こんな申し出を受けるオタクはそう多くないと思う。彼らにとっては、人並みの知能なんて、考えただけでも耐えられない。だが、たいていの子供はこの条件を飲む。そのうち半数にとっては、これはステップアップだ。最高を100として80ランクの人間(当時は、誰もがみんな、知性を量的に評価できると思っていた)でさえ、みんなに愛され、賞賛されることと引き換えになら、30ポイントを手離す気になるんじゃないだろうか?

そしてこれが、ぼくの思うに、問題の根っこなんだ。オタクはふたりの主人に仕える。もちろん、人気者にはなりたい。だが、頭がよくなりたいという思いはもっと強い。しかも、人気は、片手間に得られるようなものじゃない。特にアメリカの中学校のように、競争のすさまじい環境では。


アルベルティ(Alberti)は「ルネッサンス人」の元型と称される人物だが、こんなことを書いている。「どんなに些細な技術であっても、それに卓越しようと思えば一生を捧げるしかない」。世界中どこを探しても、人気者になろうとして血眼になるアメリカの学校の子供たち以上に一生懸命な人なんていないんじゃないだろうか。あれに比べれば、海軍の特殊部隊(SEAL)や神経外科の実習生なんて、ナマケモノだ。彼らはたまに休暇も取るし、中には趣味がある人だっている。アメリカのティーンエイジャーの人気をめぐる努力は、起きている間じゅうずっと、1 年 365 日続くんだ。

彼らがみんな、意識してそうしているとはいわない。中には小さなマキャベリみたいなヤツもいるだろうけど、ここで言いたいのは、ティーンエイジャーが常に体制に順応することを強いられているということだ。

たとえば、10 代の子たちは、着るものにものすごく神経を使う。人気者になるために、意識して着飾ったりはしない。感じのいい服を着るんだ。でも、だれにとって?他の子たちにとって、さ。他の子の意見が、判断の基準になる。服だけじゃない。やることなすこと、ほぼすべて。歩き方にいたるまでがこの調子だ。だから、物事を「まとも」にこなすための努力は、彼らがそれを意識しているかどうかに関わらず、すべてが人気を得るための努力につながっている。

オタクにはこの理屈が通じない。人気者になるのに、努力が必要だなんて理解できない。だいたいにおいて、過酷な環境の外側にいる人には、そこでの成功の決め手が、コンスタントな(だが無意識的な)努力にかかっているってことがわからないものだ。たとえば、ほとんどの人は、絵を描く能力は、背の高さと同じで、天から与えられたもののように思っている。でも実際に絵を「描ける人」って、たいていは描くのが好きで、膨大な時間をこれに注ぎ込んできている。だからうまいんだ。それといっしょで、人気というのは、あるとかないとかいうものではなく、自分で「なる」ものなんだ。

オタクに人気がない主な原因は、彼らには他に考えることがあるという点だ。興味の対象は本だったり、自然界だったりするけれど、ファッションやパーティだったりはしない。水の入ったコップを頭から落とさないようにしながらプレーするサッカー選手みたいものだ。ゲームだけに全神経を集中するプレイヤーが出てくれば、簡単に蹴散らされてしまう。で、勝った連中は、不思議に思うんだ。どうしてこいつらこんなにヘタクソなの?ってね。

たとえ、オタクが他の子たちと同じくらい人気を気にしていても、そのためには人一倍の苦労がともなう。人気者の子は、人気を集め、人気者になりたいと思うように教えられている。それはちょうどオタクが、頭をよくし、頭がよくなりたいと思うように教えられているのと同じだ。親がそう教えるんだ。オタクが正解を出す訓練を受けている間に、人気者の子は人を喜ばせる訓練を受けている。


これまでのところ、ぼくは頭のよさとオタクとの関係をぼやかしてきた。両者が入れ替え可能であるかのように扱ってきたんだ。実際には、単なる前後関係でそうなるに過ぎない。オタクとは、社会にうまく適応できない人間のことだ。だが、どれくらい「うまく」ないといけないかは、状況次第。典型的なアメリカの学校では、カッコよさの基準は非常に高い(少なくとも、かなり細かい)。それゆえ、あえてダサさを演出しなくても、他人より十分ダサくなれるのである。

頭のいい子で、人気を気にする余裕も合わせ持っている子は、めったにいない。たまたま見た目がよかったり、生まれつき運動の才能に恵まれていたり、あるいは年上の兄弟が人気者だったりといったことがないかぎり、彼らはオタクになりがちだ。このために、頭のいい人間は、おおむね 11 歳から 17 歳の間に、人生で最悪の時期を迎えることになる。人生で人気がこれほどの力を持つ時期は、これ以前にも、以降にもない。

それ以前の子供の生活は、他の子たちではなく、両親に支配されている。小学校でも他の子にどう思われているかはやっぱり気になるけれど、後にそうなるように、それだけが生活のすべてということはない。

だが、11 歳あたりから、彼らは家族を昼間の仕事みたいに扱うようになる。自分たち自身で新しい世界を創り出し、家庭内での立場よりも、この世界での立場の方が重要になってくる。それどころか、家庭でトラブルを抱えていると、こっちの世界での評価が高まることだってあるくらいだ。

問題は、子どもたちが自分で作りだしたこの世界は、初めのうち、ひどく残酷な世界だということだ。11 歳の子どもたちを、自分たちで作った仕掛けの中に放り込むと、彼らはたいてい『蝿の王』みたいな世界を創り出す。たくさんのアメリカの子供と同じように、ぼくもこの本を学校で読んだ。おそらく、それは偶然ではなかったのだろう。ぼくたちは野蛮だ。ぼくたちが自分で作った世界は残酷で馬鹿げてる。このことを、誰かがぼくたちにわからせようとしていたのかもしれない。でもぼくには、微妙すぎた。この本の内容は、まったくありそうな話だと思ったけど、そこに付け足されたメッセージはわからなかった。お前たちは野蛮人だ。お前たちの世界は馬鹿げてる。率直にそういって欲しかった。


オタク君が自分の人気のなさを自覚しても、単に無視されるだけならまだ耐えられる。だが残念なことに、学校で人気がないと、積極的に迫害の対象になってしまうんだ。

どうしてそうなるんだろう?今現に学校に在籍している人にとっては、これも、やっぱり不思議な質問だと思うだろう。それ以外にどんな可能性があると言うのさ?でも、あるんだ。普通の大人は、オタクを迫害したりはしない。じゃあどうして 10 代の子はやるんだろう?

ティーンエイジャーとはいっても半分は子どもだから、という面はあるだろう。子どもの多くは、生まれつき残酷だ。蜘蛛の足を引っこ抜くのと同じ理由で、オタクをいじめる連中もいる。良心が芽生えるまでは、拷問は楽しい。

オタクを迫害するもうひとつの理由として、それで気分がよくなるということもある。水を踏みしめれば、水が押し下げられて自分は浮かび上がる。同様に、どんな社会階層であっても、自分の立場が不安な人は、自分より地位が下と思われる人たちにつらくあたることで、それを固めようとする。どこかで読んだことがあるけど、黒人にもっとも敵意を抱いているグループは合衆国の貧乏白人だ、というのは、これが理由なんだそうだ。

だが、ぼくのみるところ、オタク迫害のいちばんの理由は、それが人気メカニズムの一部になっているという点だ。人気のうちで、個人の魅力に左右される部分はごくわずか。もっと大きくモノをいうのは、同盟関係だ。人気を高めたければ、常に、他の人気のある人に近づくような行動を取り、共通の敵に近づくような行動は避けることだ。

政治家が、自分の都合が悪くなると地元有権者の気をそらすためにやるように、いなければでっちあげてでも敵を作るんだ。社会的に階層の低いものが、安全な敵となる。オタクをつるし上げ、迫害することで、上位階層の子どもたちは自分たち同士のきずなを作り出す。ひとりのアウトサイダーを攻撃することで、全員がインサイダーになれるんだ。いじめで最悪のケースが、集団で行われるのはこれが理由だ。どんなオタクにでも聞いてみるがいい。子どもたちが束になると、どんなにサディスティックな個人によるいじめより、ひどい仕打ちをする。

少しは慰めになるかもしれないから言っておくけど、でも、それは人間性の問題じゃないんだ。束になって君にちょっかいかける連中がやっていること、そしてその理由は、徒党を組んでハンティングに出かける連中とおなじ。やつらは本気でキミを嫌いなわけじゃない。単に、追いかけるものが欲しいだけなんだ。

オタクは最下位にいるから、どんな派閥にとっても安全なターゲットだ。ぼくの記憶が確かなら、いちばん人気のあった子はオタクを迫害しなかった。わざわざそんな低級な人間を相手にする必要がなかったんだ。いじめをやるのは、その下の子どもたち。つまり、ピリピリしたミドルクラスの連中だ。

やっかいなのは、こいつがやたらといることだ。ぼくは、人気の配分はピラミッド型じゃなくって、西洋ナシみたいに下の方がすぼんでるんじゃないかと思っている。人気最低のグループは、すごい少数派だ。(例のカフェテリア・マップでも、D ランクは、ぼくたちのテーブルだけだったはず)。だから、オタクをいじめる連中の方が、オタクよりもたくさんいる。

もしいじめがあるとすれば、それが活発なほど、人気バランスの半数は苦痛を避けられる。人気のない子を遠ざけるとポイントが加算されるのと同様に、近づけばポイントを失う。ぼくの知り合いの女性の話だが、彼女が高校の時、オタクたちが好きだったけれど、彼らと話をしているところを見られるのは怖かったそうだ。他の女の子たちにバカにされるからだ。嫌われ者は伝染病だ。オタクをいじめるほど悪くない子も、自分を守るために、彼らを村八分にする。

そういうわけで、頭のいい子たちは、中学〜高校と不幸な時代を過ごすことが多い。不思議でもなんでもない。別のことに夢中なので、人気のことを気にかける余裕はほとんどない。そうなると、人気はゼロサム・ゲームなので、彼らは全校の攻撃目標になる。妙な話だが、この悪夢のシナリオが生まれるにあたっては、意識的な悪意はまったくからんでいない。状況がそうさせているにすぎない。


今でもそうかどうかわからないけど、ぼくの学生時代には、頭のいい子たちの間では、しょっちゅう自殺の話が出ていた。知りあいの範囲内では、実際にやったやつはいない。でも、計画していた人は何人かいたし、試してみた人もいたかもしれない。だいたいは単なるポーズにすぎない。他のティーンエイジャー同様、ぼくらもドラマチックなことにあこがれていたし、自殺はすごくドラマチックに思えたからね。だけど、ひとつには、当時のぼくたちの生活が本当にみじめだったってこともある。こんな状況を作った大人たちには想像もできないくらいみじめだったんだ。

いじめは問題の一部でしかない。それ以外の、そしてたぶんもっとタチの悪い問題は、ぼくたちには、本物の手応えのある仕事がぜんぜんなかったってことだ。人間は仕事好きだ。世界中のほとんどで、仕事はアイデンティティになっている。ぼくたちのやっていたことはどれも無意味だった。少なくとも、当時の自分たちにはそう思えたんだ。よくいっても、それは遠い将来にやるかもしれない本物の仕事のための予行演習といったところだった。でも、先の見えない当時のぼくらには、それが何の練習なのかもわからなかった。大部分は、不定期にやってくるくぐり抜けなきゃいけないサーカスの輪みたいなもので、ほとんどはテストのためにだけ生み出されたような中身のない言葉にすぎなかった。(仏印戦争が起こった原因は主に3つあるが… テスト:仏印戦争の主な原因を3つあげよ)。

そして、そこからはずれる方法はなかった。これこそが大学へ進む道だと、大人が自分たち同士で決めてしまった。この空しい生活から逃れる唯一の方法は、服従しかなかった。

頭のいい子たちがきまって自殺にとりつかれているなんて、なにかおかしい。ぼくの学校だけじゃない。高校時代になんとなく自殺的な傾向を持っていた人には、今までたくさん会ってきた。

子どもがそんなことを考えると、その子に責任のある大人は、なにかと「ホルモン」のせいにしたがる。たしかにそういう面もあるだろう。だが、問題のほとんどは、子どもが強いられている生活にある。


このムショ勤めの中でも、中学校は最悪だった。子どもの文化は新しくて残酷、しかも、このあと頭のいい子を徐々に切り分けていく専門分化は、まだほとんど始まっていない。ぼくと話をしたほぼ全員がこう認めている。最悪の時期は、11 歳から 14 歳の間のどこかだったって。

ぼくたちの学校では、それは 8 年生だった。ぼくの年齢でいうと、12 歳から 13 歳にかけてのことだ。その年、ちょっとした騒ぎがあった。スクールバスを待つ女の子たちの話を立ち聞きした先生が話の内容にショックを受け、翌日、一時限まるごと使って雄弁を振るって、他人に対してあまりひどい仕打ちはしないよう嘆願したんだ。

特にこれといった効果はなかった。そのとき印象的だったのは、あの先生が驚いたってこと。彼女はほんとに知らなかったんだろうか。子どもたちが仲間うちでどんな話をしているかを。ほんとにあれが普通じゃないと思っているんだろうか?

ここを理解しておくことがかんじんだ。大人たちは、子どもたち同士でどんなことをしているか知らない。子どもたちがお互い同士、バケモノのように残酷だってことは、観念的にはわかっている。それは、貧しい国では拷問が行われているってことを、ぼくらが観念的に理解しているのと似ている。だけど、ぼくら同様、彼らも、そんな気分の滅入るようなことは受け入れたくない。だから、はっきりしたいじめの証拠があっても、それを探してでもいない限り、彼らの目に入らないんだ。

公立学校の教師は、刑務所の看守とかなり似たポジションにある。看守の主たる関心は、囚人を建物から出さないこと、食べ物を切らさないこと、そしてできるだけお互い殺しあわないようにすること。それ以上は、囚人とはできるだけ関わり合いになりたくないと思っている。だから、あとはどんな社会組織であれ、勝手に作らせておくわけだ。本で読んだところでは、囚人の作る社会は、常軌を逸した野蛮で支配的なもので、その最下層にいるのは、まったく不愉快なことらしい。

大筋でいうと、ぼくの通っていた学校もこれと変わりなかった。いちばん重要なのは建物から出ないこと。そこでは、エライ人たちがぼくらに何かを食わせ、公然たる暴力を防止し、何かを教えようとはしてくれる。だが、それ以上は、子どもと深く関わりたくないと思っている。

これは 100 %理解できる。アメリカのティーンエイジャーは、頭痛の種だからだ。ひとり、ふたりでも手一杯なのに、学校全体などとても無理だ。そこで刑務所の看守と同様、教師たちは、ぼくたちを勝手にやらせておくわけだ。そして、囚人と同様、ぼくらの創り出す文化は原始的だ。


実社会では、オタクの風当たりがずっと柔らくなるのはどうしてだろう?その答えは、大人たちで構成されているから、ということで片付いてしまいそうだ。成熟した大人は他人をいじめたりしない。だが、これは真実とは思えない。刑務所の大人どもは、間違いなく他人をいじめている。実社会の主婦だって、明らかにそうだ。マンハッタンのある地域では、女性の生活はほとんど高校の延長のようなもので、つまらない策略がうずをまいている。

ぼくのみるところ、実社会に関して重要なのは、大人で構成されているということではない。とても広大で、さらに自分の行動が現実的な影響力を持っているという点だ。これこそが、学校にも、刑務所にも、ランチ仲間の奥様方にも欠けているものだ。これらどの世界の住人も、ちいさなバブルの中に閉じ込められていて、何をやろうとローカルな影響力しかない。自然と、こうした社会は野蛮状態へ退化する。形態が従うべき機能が何もない。

自分のやることが本物の影響力を持つようになると、楽しいだけではすまなくなってくる。正しい答えを出すことが大事になってくるんだ。そして、これこそが、オタクが優れている点だ。当然、ビル・ゲイツのことが思い浮かぶだろう。社会的スキルのなさでは悪評高いが、彼は正しい答えを出す。少なくとも売上的には。

もうひとつ、実社会で違うことは、それがとても広大なことだ。十分な広さのあるプールなら、いちばん小さい少数派ですら、束になれば相当な数になる。実社会では、オタクは一定の場所に固まって自分たちの社会を構成する。そこでもっとも重視されるのは知的能力だ。ときには、この風潮が逆行しだすこともある。大学の数学系や科学系に多いんだけど、オタクたちは、時に頭を良く見せようとして、あえて奇行をとることがある。ジョン・ナッシュはノーバード・ウィーナーを尊敬するあまり、壁に触りながら廊下を歩くという彼のクセを真似していた。


13 歳のぼくには、いま自分に見える範囲を超えた世界に関する経験はあまりなかった。自分たちの住む歪んだ小さな世界だけが、ぼくにとっての世界だった。その世界は残酷で退屈だったけど、ぼくにはどっちの方がまずいのか自信がなかった。

ぼくはこの世界に溶け込めなかった。だから、ぼくは自分がおかしいのに違いないと思っていた。オタクの居場所がないのは、自分たちが一歩先へ進んでいるせいだなんて、理解できなかった。ぼくたちは、実社会で重要になるようなことをすでに考えていたんだ。他の連中みたいに、過酷でいて、しかもほとんど何の意味もないゲームに全時間を注ぎ込むなんてことはしなかった。

ぼくたちはちょっと大人みたいなところがあった。中学校に押し戻された大人には、どんな服を着たらいいのかわからないだろうし、どんな音楽がいいのか、どんなスラングがイケてるのかもわからない。子どもからみたら、完璧なエイリアンだ。重要なのは、彼には、連中がどう思おうと気にしないだけの分別があるってこと。ぼくらにはそんな確信はなかった。

多くの人は、頭のいい子にとっても、人生の初期の段階で、「ふつう」の子たちといっしょに育つのはいいことだと思っているようだ。たぶんそうなんだろう。でも、少なくとも場合によっては、オタクが現実に溶け込めないのは、彼以外の全員が狂っているせいってこともあるんだ。高校の時、「壮行会」の観客席で、こんな光景をみたのを覚えている。チアリーダーが敵側の選手の人形を客席に投げ込むと、観客がそれを粉々に引き裂くんだ。どこかの部族の妙ちくりんな儀式を目撃する探検家になったみたいな気分だった。


13 歳のころの自分に戻って何かアドバイスができるとしたら、いちばんいいたいのは、前を向いて周りを見渡してみろ、ということだろう。当時は実際それがわかっていなかった。だけど、自分たちの生きているこの世界すべてが、オカマと同じくらいフェイクなんだ。学校だけじゃない。町全体がそう。どうしてみんな郊外に引っ越すんだろう?子どもを作るためさ!だから、退屈で没個性なのは無理もない。その土地全体が巨大な託児所であり、はっきりと、子どもを育てることを目的に作られた人工都市なんだ。

ぼくが育った町は、行きたいところも、やりたいこともないって感じだった。これは偶然じゃない。郊外は、あえて外部の世界を遮断するべく設計されている。なぜなら、そこには子どもを危険にさらす何かが含まれている恐れがあるからだ。

学校に関して言うと、この見せかけの世界の中でペンを握っているに過ぎない。表向き、学校の目的は子どもの教育ってことになっている。実際には、彼らの主な目的は、子どもたち全員をひとつの場所に閉じ込めて一日の大部分をそこで過ごさせ、大人たちが用事を済ませられるようにすることだ。これについては、ぼくも文句はない。専門的な産業社会では、子どもたちを勝手に走り回らせておくなんて、とんでもないことだから。

ぼくがひっかかるのは、子どもを監獄に閉じ込めておくことじゃない。問題なのは、(a) 彼らがその事実を知らされていないこと、そして (b) その監獄の運営が、ほぼその囚人によって行われているということだ。子どもたちは、6 年間、意味のない事実を頭に詰め込むために、楕円形の茶色いボールを追いかける巨人階級が支配する世界に送り込まれる。あたかもそれがもっとも当然なことのように。そして、このシュールな集団を前にしり込みでもしようものなら、はみ出し者と呼ばれるんだ。


このねじれた世界で生きていくのは、子どもにとってストレスが高い。オタクだけじゃない。どんな戦争でもそうだが、勝者でさえダメージを受けるんだ。

大人たちには、子どもがいじめられている光景が、いやでも目に入ってくる。だったら、どうして何か対策を講じないだろう?思春期のせいにしておけば済むからだ。大人たちは自分にこう言い聞かせる。子どもたちがこんなに不幸なのは、あの恐るべき化学物質やホルモンがいよいよ彼らの血管を流れだし、すべてをめちゃくちゃにしたせいだ。システム自体には問題はない。あの年ごろの子どもがみじめなのは、しかたのないことなんだ。

この考え方はとても広く行き渡っていて、子どもたちですらそう信じている。でも、それはたぶん何の助けにもならない。足が痛いのは生まれつきだ思っている人も、いつまでたっても、靴のサイズが合わないせいかもしれないという疑いを捨てることができない。

この理屈は疑わしいと思う。13 歳の子どもが、そもそもめちゃくちゃだなんて。生理的な問題なら、普遍的な事実のはず。モンゴルの遊牧民でも、13 歳になれば誰もがニヒリストになるんだろうか?歴史の本をたくさん読んできたけど、普遍的と思われているこの事実にふれたものは、20 世紀以前にはひとつも見たことがない。ルネッサンス期の 10 代の徒弟たちは、元気で熱心だったようだ。もちろん、お互いにケンカしたり騙しっこしたりはした(ミケランジェロは、いじめっ子に鼻を折られたことがある)けど、頭はおかしくなかった。

ぼくの知る限り、ホルモンでおかしくなったティーンエイジャーという考え方は、郊外都市と同時期に生まれたものだ。偶然の一致とは思えない。ティーンエイジャーがヘンになるのは、彼らに強いられている生活のせいだと思う。ルネッサンス期の 10 代の徒弟たちは、作業犬だった。今のティーンエイジャーは、神経症にかかった愛玩犬だ。彼らの狂気は、いたるところにいる怠け者の狂気と同じだ。


10 代の子どもたちは、かつて社会でもっと大きな役割を果たしていた。産業化が始まる前は、どんなティーンエイジャーも、何らかの形の徒弟だった。商売かもしれないし、牧場かもしれない。軍艦ということもあったろう。彼らは、勝手に自分たちの社会を作ったりはしなかった。大人社会の若い一員だったんだ。

かつてのティーンエイジャーは、今よりも大人を尊敬していたらしい。彼らが身に付けようとしているスキルに関しては、大人たちは明らかにエキスパートだったからだ。今の子どもの多くは、自分の親たちが遠く離れたオフィスで何をしているかほとんど知らないし、学校でやっていることが、自分が大人になってからする仕事にどんな関係があるのか(実際、ほとんど何にもない)まったくわかっていない。

ティーンエイジャーがもっと大人を尊敬していれば、大人にももっとティーンエイジャーの使い道があっただろう。2 年の修練を積めば、徒弟は実際に使いものになった。入りたての徒弟でさえ、伝言や仕事場の掃除をさせることができた。

今の大人には、これといったティーンエイジャーの使い道がない。オフィスにいたって邪魔になるだけだろう。だから、通勤の途中で学校に放り込んでいくわけだ。週末旅行に行く時に、ペット預かり所に犬をあずけていくのに近い。

で、どうなったか?ここで、難問に立ち向かう。この問題の原因は、現代の多くの病と同じ、すなわち専門化だ。仕事の専門性が高まるほど、訓練の期間も長期化せざるをえない。産業化以前の時代の子どもたちは、遅くとも 14 歳になれば働いていた。ほとんどの人の生活の場であった農場では、もっとずっと早かった。今、大学に進学する子どもがフルタイムで働きだすのは、21 か 22 になってからのことだ。何らかの学位、医学(MD)やその他の博士号(PhD)などが求められる職場では、訓練が終わる頃には 30 を超えている。この年齢は、中世なら、ほとんど平均寿命に近い。

今のティーンエイジャーには使い道がない。ファーストフードなどで安価な労働力になるくらいだ。こういった業界は、まさにこの事実を逆手にとって発展したんだ。それ以外のほとんどの仕事では、彼らは損にしかならない。だが、保護者なしにほっておくには若すぎる。誰かが見守っていなきゃいけない。効率よくやるには、一箇所に集めるのがいちばんだ。これなら大人が数人いれば、全員を見張れる。

ここでおしまいなら、今の話は文字通り刑務所ということになる。パートタイムってとこが違うだけだ。問題なのは、ほとんどの学校が、実際にここで止まってしまっていることだ。表向き、学校の目的は子どもを教育することにある。だけど、これをちゃんとやらせるような外圧はまったくない。だから、たいていの学校は教える仕事がすごく下手で、子どもたちも真面目にとりあわなくなる。頭のいい子たちでさえそうなる。ほとんどの時間は全員が、学生も、教師も、両方ともただ形式的に動いているだけだ。

ぼくの高校時代のフランス語の授業では、ユゴーの『レ・ミゼラブル』を読むことになっていた。でも、この大作を読みきるだけのフランス語力を身につけていた人は、誰もいなかったと思う。クラスの他の連中と同じように、ぼくもアンチョコを斜め読みしてただけだ。この本に関するテストがあった時、設問が妙なのに気がついた。その先生が使いそうもない長ったらしい単語でいっぱいだったんだ。この問題はどこから出てきたんだ?フタを開けてみると、なんと例のアンチョコさ。先生も使ってたんだ。ぼくたちはみんな、見せかけのフリをしていただけ。

中には本気で教えようとしていた先生もいた。彼らの置かれていた環境を考えると、なおのこと感動的だ。(ここで謝っておかないと。ドラム先生、あなたの微積分はすばらしかった。もっと一生懸命やるべきでした)。でも、彼らはひとりで流れに逆らって泳いでいるようなものだ。システム自体は変えられない。


人の集まるところ、ほぼどんな集団にでも階層がある。集団の目的が何であれ、トップに君臨するのは、それが得意な連中だ。プロのフットボール・チームなら、いちばんうまいプレーヤーがいちばん尊敬される。大学の数学科なら、いちばん目覚しい業績を上げた人がリーダーになるだろう。このことは、全体としては、健全だ。階層に問題はない。問題は、学校の階層が何を基準にしているかにある。

実社会で大人たちが集団を作るとき、普通、それには何か共通の理由がある。リーダーは、結局、それがいちばん得意な人間になる。ほとんどの学校で問題なのは、そこに何の目的もないことだ。表向きの目的は学問ってことになっているけど、これは冗談みたいなものだ。それがいちばん得意な連中でさえ、まともには取り合っていない。でも、絶対に階層はできるはずだ。そこで、子どもたちは、無からそれを作りだす。

さしたる基準もなくランクづけするとどういうことが起こるだろう。それを表現する言いまわしがある。そういう時、ぼくらは「もはや単なる人気投票でしかない」というんだ。そして、これこそが、まさにアメリカの学校で起こっていることだ。この集団には、現実的な目的が何もない。地位の裏付けになる自然な能力の尺度がない。ランクづけは、ほんもののテストではなく、自分のランクを引き上げる能力を主体に測られる。ルイ 14 世の宮廷みたいなものだ。外部に敵はいない。だから、子どもたちはお互いを敵対視して、容赦ないゼロサム競争に突入するんだ。

このせいでいちばんつらい目に会う人は、もしも学校の目的が本当に文字どおりのものだったら、もっとも幸せだったはずの人たちだ。ゼロサム・ゲームは、プレイヤーのほぼ誰にとってもつらいものだ。だが、オタクがいちばんつらい目に会う。なぜなら、彼らはパートタイムでしかゲームに参加しないからだ。

外部で本当にスキルを試す機会があるのなら、その階層で最下位であっても苦痛ではない。フットボール・チームの新人は、ベテランのもつスキルをひがんだりはしない。いつか彼のようになりたいと思い、彼から学ぶチャンスを得たことを幸せに思うだろう。ベテランはこれに応えて、新人に好感を抱く。成功によって得た地位が、それに応じた義務感をもたらすんだ。おそらく、学ぶ側の新人と同じくらい熱心に、自分の経験を伝えようとするだろう。そして、いちばん重要なのは、彼らの地位は、双方とも、お互いの足を引っ張り合うことではなく、どれだけうまく外部の敵に対処できるかにかかっていることだ。

宮廷の階層は、これとはまったく別物だ。この種の社会は、そこに足を踏み入れた者の品性を下げる。下の層には賞賛の念がなく、上の層には地位相応の義務感がない。殺るか、殺られるかだ。

これが、アメリカの普通の中高校で生み出される社会だ。こんなことになるのも、毎日一定の時間、子ども全員を一箇所に集めておくという以上の目的が、学校にないからだ。当時のぼくに理解できなかったことがある。実を言うと、つい最近までわからなかったんだが、それは学校生活の恐怖の双子、すなわち、残酷性と退屈の原因が同じところにあるということなんだ。


アメリカの公立学校の凡庸さは、たんに子どもたちを 6 年間不幸にするだけではすまない。学ぶべきことを積極的に遠ざける反抗性を育ててしまうんだ。

たぶんぼく以外のたくさんのオタクたちもそうだと思うけど、学校の課題図書になった本を読む気になったのは、高校を出て何年も経ってからのことだった。あらためて「マクベス」を手にとる気になったのは、24 歳になってからのことだ。しかも、今なお何か嫌な感じが抜けない。ヘミングウェイ、フォークナー、スタインベックといった作家が好きかどうか、いまだに自分でもわからない。彼らがご大層なアメリカ人小説家だというせいかもしれないけど、学校で読まされたせいなのかもしれない。

失ったのは本だけじゃない。「人格」や「健全」といった言葉が信じられなかった。大人たちのせいで、すっかり値打ちが下がってしまったからだ。当時の使われ方では、これらの言葉はすべて同じことを意味していた。つまり、服従である。こういう面で褒められる子どもは、よくいっても、頭の鈍い品評会の入選者だったし、まずいと、軽薄なおべっか使いだった。「人格」や「健全」がそういうものなら、ぼくはぜんぜん欲しくはなかった。

ぼくがいちばん誤解していたのは「気配り(tact)」という言葉だ。大人たちの言い方では、口を閉じるという意味に聞こえた。これにもとづいて、ぼくはこの言葉の語源を考え出した。「暗黙の(tacit)」とか「無口(taciturn)」と同じ語根から来てるものだと思ったんだ。文字通り、「静か」という意味だと思っていた。ぼくは誓った。絶対に気配りなんかしないぞ、と。やつらにはもう、ぼくの口を閉じさせることはできないぞってね。実際には、この言葉の語源は「触覚(tactile)」と同じで、感覚が敏感なことを意味している。気配り(tactful)は、無調法(clumsy)の反対だ。このことが、大学に入るまでわかってなかったと思う。

だけど、高校でハマった罠には、これ以上に性質の悪いのがあった。ぼくの学校では、みんなが、大学を一種の職業訓練校みたいに思っていた。ぼくは考えつくかぎりで、もっとも実用性のない科目を専攻しようと心に決めた。それは哲学だ。しかも何と、実際にそうしてしまったんだ。


オタクだけが、人気競争の敗者ってわけじゃない。オタクに人気がないのは、心ここにあらずだからだ。あえてそこから抜け出そうとする子どもたちは、ほかにもいた。プロセス全体に嫌悪感を抱いた連中だ。

10 代の子どもたちは、反抗的な人間でさえ、ひとりになるのをいやがる。このため、システムから抜けるときも、集団でやる傾向がある。ぼくの通った学校では、反抗の焦点はドラッグにあった。具体的にいうとマリファナだ。この種族の子たちは、コンサート会場で売っている黒い T シャツを着ていて、みんなから「フリーク」と呼ばれていた。今では、誰もが西海岸の言葉を使って「ストーナー」と呼んでいるみたいだけど。

フリークとオタクは同盟関係にあって、両者の間でオーバーラップする部分もかなり多かった。全般的にみて、フリークたちは他の子よりも頭がよかった。でも、勉強はまったくしない。少なくとも、表向きはそういうフリをしていた。この種族の価値観では、これが重要なことなんだ。ぼくはどちらかというとオタク陣営に近かったけど、フリークの友だちもたくさんいた。

彼らはドラッグをやっていた。少なくとも始めのうちは。自分たちの社会的きずなを強めるためだ。いっしょになってみんなでやれることだし、しかもドラッグは違法でもある。みんなで共有する反抗のバッヂみたいなものだ。

ドラッグでトラブルを抱える子どもがいるのは、すべて学校が悪いせいだとはいわない。時間が経つと、ドラッグは、それ自体の勢いを持つようになる。フリークの中には、最終的に、他の問題から逃れるためにもドラッグを利用する人が出てくる。それは間違いない。例えば、家庭の問題とか。だけど、少なくともぼくの学校では、ほとんどの子たちがドラッグをやりだす原因は、反抗にあった。14 歳の子たちがハッパを吸い始めるのは、それで厄介ごとが忘れられるらしい、という話を聞いたからじゃない。違う部族に加わりたいからなんだ。

悪政が叛乱を育てる、というのは別段目新しい話ではない。というのに、当局はいまだに、おおむね、ドラッグ自体が問題の原因があるかのように振る舞っている。


学校生活の空しさという真の問題を解決する気があるとして、具体的にはどうすればいいんだろう?対症療法はうまくいかない。

例えば、単にいじめを禁止(もしくは官僚の言葉でいうと「これを許容しない方針を策定」)」してもうまくはいかない。ひとつには、罰する前に、まずいじめの現場を押さえなくてはいけない。先生には、生徒全員を四六時中、見張っていることはできない。昔からいじめは、たいてい先生が目を離したスキに行われている。学校の行き帰りのバスの中とか、授業の合間の講堂とか、ランチタイムなんかに。

それに、いじめをどう定義するつもりなんだろう?肉体的な暴力は防げても、それでいじめがなくなるわけじゃない。女の子は殴りあったりはしない(少なくともうちの学校では)けど、誰もがいうように、男の子よりもはるかにひどいことをやりあっている。

子どもたちに人気をめぐって競争する必要があるかぎり、彼らは、なにかしらその方法を見つけるだろう。迫害の形態をひとつ除去したところで、たんに別の方法を考え出すだけだ。神はこれを禁じている。男の子の今の残酷ないじめを禁止しても、女の子のように巧妙になるだけだ。

いじめには、根の深い原因があるという事実を直視しない限り、この問題はどうやったって解決できない。残念ながら、根底に流れるこの原因は、教育施設が直視するにはつらいものだ。中学校は、単なる教育のパントマイムにすぎない。学生たちは、ひとりで大学でやっていける年齢になるまでの間、これを演じ続けるんだ。それから、学生には階層を作る必要があるけど、外部のしっかりとした能力の尺度がまったくないので、それ自体が存在理由という階層を生み出す。

いじめは、この体制順応主義の裏面にすぎないが、これが両者を動かしている。10 代の子には、それより他に考えることがない。彼らは、待合室に閉じ込められている。


イタリアに住んでいた頃、あっちのティーンエイジャーは、こっちの子どもが悩んでいるようなことは、ほとんど気にしていないようだった。彼らは陰気でも下品でもない。ニキビすら出ていない。もちろん、ファッションには気を使っていた。あそこは国中がそうだ。けど、戦争みたいな感じはしなかった。

たぶん、イタリアの学校はましなのだろう。だが、この違いのいちばん大きな理由は、イタリアでは家族のきずなが強いせいだろう。アメリカでは、自分の家を、寝場所に毛の生えたようなものとしか思っていない子どもが大勢いる。そこで、学校が彼らの世界の中心になる。

イタリアでは、家族が重要だ。学校がだめだとしても、だから何なんだい?たかが学校じゃないか。他の生徒によく思われていないとしても、だからどうだっていうんだい?大事なのは、家族がどう思うかってことなんだから。

もっと強い家庭があれば、少なくとも学校のダメっぷりを和らげることはできるだろう。比較的楽しかった小学校時代が、引き伸ばせるかもしれない。学校ではなく、家庭が生活の中心ならね。残念だけど、アメリカの家庭の弱さは、北部ヨーロッパの伝統に深く根ざしているようだ。強い家庭でもってティーンエイジャーの空しい生活に応えようとすると、難問をもって難問に換えることになるかもしれない。

だけど、個々のケースでは、イタリアの事例に学べることが確実にある。すなわち、家庭の絆が強ければ、ひとりひとりの子どもにとって、崩壊したシステムの中での生活が、少なくとも楽にはなるだろう。


崩壊したシステムは、どうしたら直せるだろう?抽象論でいいなら答えは簡単。10 代の子どもに、目的がないのがいけないんだ。だったら何か目的を与えればいい。でもどうやって?

徒弟制度に逆戻りしても、うまくいくとは思えない。昔の大人がティーンエイジャーを徒弟にしたのは、別に子どもの生活に意味を与えたかったからではない。経済的に意味があったからだ。もはやそうではない。母親たちと同じく、ティーンエイジャーは専門化の波にすっかり取り残されてしまった。

専門化から生まれた問題に取り組む方法は、たぶん、それに逆らうことではなく、それを利用することだ。いたるところに見られる圧倒的な専門化の波には逆らえない。逆方向に進みたいのなら、ジグザグに行くしかない。

結論がどうあれ、この問題の解決策にはかなりの変革をともなう。ぼくたちは、今の学校の形態を当然のように思っているけど、歴史的にみれば、かなり最近になって発明されたものなんだ。手をつけるのがためらわれるようなものではない。

答えは、たぶんすでに出ているのかもしれない。世界中にはたくさんの学校がある。中にはこの問題を解決したところがあるだろう。もちろん、中には他ほど問題が表面化していないところもあるだろう。

アメリカ国内でいうと、いい学校とだめな学校を分けるいちばんはっきりした違いとして、お金の話が出てくるだろう。だけど、いい学校がいいのは、お金が理由ではないと思う。豊かなコミュニティの方が、学問に重きを置いているせいだ。ぼくの母校の予算を 2 倍にしても、何も変わらないだろう。本が高すぎるから、フットボールを崇拝してるんじゃないんだ。


どんな解決策であれ、問題があるということを大人たちが認めない限りは、何も起こりそうにない。いち早くこのことに気付くのは、自分自身が学生時代にオタクだった大人たちだろう。自分の子どもに、8 年生の時の自分と同じ不幸を味わわせたいと思うかい?ぼくはいやだ。それなら、だ。そのために、ぼくたちにできることは何かあるんだろうか?もちろんある、といっていいだろう。現状のシステムには、必然性などまったくない。ほとんどは、怠慢のなせる技だ。

だけど、大人は忙しい。学校劇に出かけたかと思うと、教育官僚主義の片棒をかついだりもする。物事を変えようというエネルギーのある人は数人だろう。いちばん難しいのは、自分にも何かできるんだって理解するところだと思う。

学校に残っているオタクも、息をひそめていてはいけない。いつの日か、重装備の大人たちがヘリに乗って現われて、きみたちを救い出してくれるかもしれない。でも、それは今月の話じゃない。オタクの生活を今すぐ、少しでもましなものにするには、おそらくオタク自身が動くしかないだろう。

今の自分たちが置かれた状況を理解するだけでも、痛みはやわらげられるはずだ。オタクは負け犬じゃない。ただ、人とは違ったゲームを、しかも実社会に近いゲームをプレイしているだけだ。大人はそれを知っている。今成功している大人で、高校時代の自分はオタクじゃなかったと言い切れる人はめったにいない。

それから、学校は人生じゃないってことを理解しておくことが大事だ。学校は奇妙で、人工的なものだ。半分は不毛で、半分は野蛮だ。そこには、人生と同じようにあらゆるものが含まれている。でも、それはほんものじゃない。一時的なものに過ぎない。そのまっただ中にいても、目を見開けば、その先にあるものが見えてくるだろう。

子どもにとって人生が悲惨に思えるとしたら、それは、ホルモンのせいでみんながバケモノと化したからでもなく(両親はそう思っているかもしれないけど)、人生がほんとうに悲惨だからでもない(きみはそう思ってるかもしれないけど)。それは、大人たちが、もはや経済的な使い道のなくなったきみたちを放り出して、実質的な目的は何も与えずに、何年もせまいところに押し込んだせいなんだ。そんな社会は、どんなところであれ、住むのは悲惨だ。「オッカムのかみそり」のいうとおり、10 台の子どもが不幸な理由を、それ以上せんさくする必要はない。

この文章では、きついことも書いてきた。でも、実際のテーマは楽観的だ。せんじつめてみると、当然のように思っているいくつかの問題は、解決不能なものではない。10 代の子どもたちは、生まれつき不幸なバケモノなんかじゃない。このことは、子どもにとっても、大人にとっても、希望のわくニュースだと思う。

この文章の草稿に目を通してくれた Sarah Harlin、Trevor Blackwell、Robert Morris、Eric Raymond,、Jackie Weicker、それに写真をスキャンしてくれた Maria Daniels に感謝。


原文:Paul Graham: Why Nerds are Unpopular
<http://www.paulgraham.com/nerds.html>


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