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鈴木 淳

すずき・あつし

『サトードトラートート』(199812〜)
http://web1.tinet-i.ne.jp/user/atsusi-s/index.htm



 「はじめに

 平成7年ALSとの闘いから5年が過ぎ、切望に切望を重ねた在宅生活が始まりました。 当時「ALS患者が在宅生活を?」という前例のない難題に、医師・看護婦をはじめ多くの方々が力強いチームワークで取り組んでくれたからこそでした。
そうして病院初のALS患者在宅1号になりました。
 その在宅生活も3年が過ぎ、今では何気ない普段の生活を家族とともに過ごしています。
 また泊まりがけの旅行も楽しんでいます。
 このホームページは自分自身の表現の場として、またコミュニケーションの場としてみなさんと一緒に楽しんでいきたいと思っています。
                       平成10年12月 鈴木 淳」

*以下も上掲の鈴木さんのホームページより。
 ぜひ直接鈴木さんのホームページをご覧ください。

名前  鈴木 淳(すずき あつし)
生年月日 昭和21年9月27日生
血液型 AB型
 住所  宮城県仙台市(市中心部の小高い山の上です)
 趣味  散歩、俳句・短歌を詠むこと
 家族  妻・息子3人・猫2匹
 年譜
昭和21年9月 仙台市にて生まれる
昭和37年   宮城県立仙台第二高等学校に入学・柔道を始める
       (柔道部のOBによる・「柔櫻会」の様子が気管切開に登場します)
昭和40年   東北学院経済学部に入学
昭和45年   カワイ楽器に就職・ピアノの営業などを約3年間勤める
昭和 年   家業である米穀業を継ぎ、自営業をスタートさせる 
平成 2年   発症の時期と思われる(告知は4年後だった)
平成 6年   告知・8月に気管切開、電極埋め込み、縦隔腫瘍の手術を行う
平成 7年2月 在宅を実現させる(当時入院していた大学病院でのALS患者としては第1号だった)

◆ALSとの闘い
 http://web1.tinet-i.ne.jp/user/atsusi-s/alstatakai.htm
 [気管切開(1)]1996
 http://web1.tinet-i.ne.jp/user/atsusi-s/kikan1.htm
 [気管切開(2)]1996
 [気管切開(3)]1996
 [私の臨死体験]

◆[気管切開(1)]より
 「平成六年三月主治医の斉藤助教授にALS(筋萎縮性側索硬化症)であることを告げられる。
 そんなことは二年前からカルテを盗み見てすでに分かってることだ、治らぬ病気と知りこの二年間必死で生きて来た、今更告知されても私は驚きはしなかった。常日頃冗談も飛び出す優しい先生でもあったが、この日ばかりは真剣眼差しで私を見つめ、「あらゆる機械を使ってでも生きなさい」 と言われた。
 このままいずれは死ぬのだと思っていた私は大いに驚いた。その機械とは人工呼吸器であると云うことを知ったのはしばらく後になってからことである。斉藤先生は私に告知して直に国立西多賀療養所の副院長として移られた。」

 

立岩の文章における言及

 [104]鈴木淳(宮城県)は一九九四年「三月主治医の斉藤助教授にALS(筋萎縮性側索硬化症)であることを告げられる。/そんなことは二年前からカルテを盗み見てすでに分かってることだ、治らぬ病気と知りこの二年間必死で生きて来た、今更告知されても私は驚きはしなかった。」(鈴木[1997])
 [164]鈴木淳は、カルテを見てすでに病名はわかっていたのだが[104]、一九九四年に医師から知らされた。「常日頃冗談も飛び出す優しい先生でもあったが、この日ばかりは真剣な眼差しで私を見つめ、「あらゆる機械を使ってでも生きなさい」 と言われた。/このままいずれは死ぬのだと思っていた私は大いに驚いた。その機械とは人工呼吸器であると云うことを知ったのはしばらく後になってからことである。斉藤先生は私に告知して直に国立西多賀療養所の副院長として移られた。」(鈴木[1997])
 [166]鈴木淳は一九九〇年に発症、九四年三月に告知される[104][164]。同年八月、「今日は朝から息苦しい、夕方の五時頃であろうか、しだいに意識がもうろうとしてくる。意識が覚めると今度は息が苦しい、何回となくその繰り返しが波のように襲ってくる。/段々とその波の間隔が短くなってくる。/これは由々しき事態だ。極めて危険な状態であることが私にもわかる。/肉体が生きたいと叫んでいる、苦しい、おそらく死とはこのようにやってくるに違いない。」(鈴木[1997])呼吸器装着の前後については後でも紹介する。
 [188]鈴木淳[166]、一九九四年六月。「望月先生が私に/「生きていくためにはぎりぎりの肺活量ですね」/「しばらくすると気管切開をして呼吸器を付けなければならなくなりますよ」 と言う、ここで初めて気管切開と呼吸器の話がでてくる。/そう云うことなのか、これから私が生きるということは呼吸器に繋がれて病院で一生を暮らすことなのだ、呼吸器に繋がれた自分を想像してみる。今まで自由に暮らして来た人間が突然自由を奪われ植物状態になる、それでも治るならまだよい。/治らぬ病気を抱えて一生を軟禁状態で暮らすのは耐えられない。死んだほうがましだ。死のうか生きようか何度か思ってはまた繰り返す。何度繰り返しても同じ事だ。終いにはどうにでもなれと云う気持ちになる。/この頃には会話らしい会話は全くできなくなる。話をすると胸が苦しい。アーとか、ハイとか返事だけにする。一日中横になったまま体力を消耗するのを抑え天井を見て暮らした。/妻が佐々木和義君へ呼吸器のことで電話をする。今より元気になるから是非付けろと云う御託宣だ。俺の気持ちも知らないで簡単に言ってくれるよ。/しかし和義君のその一言が後に呼吸器を付けるひとつのきっかけにもなる。」(佐々木は友人の医師)
 七月二十日「検査のために入院をする。おそらく医師の考えでは、そのまま気管切開をするつもりでいたのだ。/主治医が志賀先生へと変わる。この先生は何事にも慎重で優しく囁くように話をする医師で、多分に私の元気さにほんろうされることになるが、今までの医師の中で最も信頼しうる医師に変わりはない。再度ALSの症状や将来の事まで、こと細やかに説明する。/最後に、/「呼吸器をぜひ付けて下さい」/と懇願する。/私は驚いた。このように医師に丁寧に今までお願いされたことはない。付ける付けないはそれだけ重要なことなのだ、患者生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされている。呼吸器を付けることを拒否し毎年全国で数百名の患者が自ら命を断つと言われている。私はコックリと首を縦に振る。先生は安心したのか、緊張の顔に笑みがこぼれる。」(鈴木[1996])
 [202]九四年、鈴木淳[188]の「手術日の前日の夕方に看護婦が毛を剃りに来る。[…]右腕を剃りながら看護婦は囁く様に/「気管切開すると話す事が出来なくなりますが覚悟が出来ていますか」/と言う、それは今初めて聞いた。/医師から手術の事は説明を受けたがそんな事は言わなかったような気がする。半年も前からろくに話らしい話をしていないが、今更嫌だと言って手術を中止させるわけにもいかない。/私は覚悟は出来てるよと首を縦に振る。」(鈴木[1996])


※おことわり
・このページは、公開されている情報に基づいて作成された、人・組織「について」のページです。その人や組織「が」作成しているページではありません。
・このページは、文部科学省科学研究費補助金を受けている研究(基盤(C)・課題番号12610172)のための資料の一部でもあります。
・作成:立岩 真也
・20020803 更新:0911,1005,15,20020106,0211
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