五年と十年の間で
立岩 真也 2012  『生存学』5

■1
 以下「中身」はほぼいっさい略した「楽屋落ち」的文章になる。外延のあまりはっきりしないたんに一つの――といってよいのだろう――集まり・営みにしばらく関わってきた人の▼感慨▲(▼▲内傍点以下同じ)といったものになる。そしてこの文章は依頼されて書かれ、本来は威勢のよさげな文章が望ましくのだろうが、さほどでもなく、そしてたいしたことも書いてないのに、ずいぶんと手間がかかった。ただ、人文社会科学の研究を、各自勝手なことをするという前提で成り立っている教育機関で、しかしなにかしらの集まり性をもつものとして続け、外に出していくことの難しさと意義について思ってきたことを書くことはまったくの無意味というほどではないかもしれない。
 私個人的には、自分がやっていることを含め「水準」に満足できずにもっとましなことをして世に出さねばと思い、同時に、「素人」がそれ(勉強・研究・学問)を(大学院で)やっちゃわるいか、とも思ってきた。また、一人でする時が一番仕事がはかどると思いながら、そしてその時間をまったく文字通り削られながら、しかし自分は二人(以上)にはなれず、一人ではできないことはやはりあって、やはり人が複数いてやっていくことの意義もわかり、しかし当然やはり一人ひとりは違うわけで、結局やはり手間はかかり、といったところにいてきた。
 絵に描いたような「理系」の研究機関というものにおいてのように、研究者稼業を始めた人がやがてあるある時期からは管理の役に徹し、基本的な目標ははっきりしており、有給や無給の人々にそれぞれ役に振ってというのではない。しかし、一人ひとりが自分の稼業に精を出し、その成果を人々に講ずるというのでもない。さらに一つの共同調査なり研究をいうのでもない。そういういずれでもないような形でここはやってきた。それはたぶん、たいへんだが、わるくはない。そんなことをしようとしているその途上にいるのかどこにいるのか、それはわからない。ただ、するべきことはあり、それは続いていくのだろうと思う。

■2
 文部科学省が予算を出すプログラムとしてのグローバルCOE「「生存学」創成拠点――障老病異と共に暮らす世界の創造」は二〇一一年度で終わる。「事業仕分け」でCOEという仕組み自体がなくなるからである。二〇〇七年度からの五年間、ということになるが、実質的には四年半ほどのものだった。ただもちろん私たちがやっていくことが基本的に変わるわけではない。同時に設立した大学内の組織としての「生存学研究センター」は続いていくことになり、この雑誌『生存学』も――(まがりなりにも商業)出版物として成立する限りはその形態で――続けていく。
 そこが何をめざしで何をしているかについては、昨年三月に出た三号で、天田城介さんが超元気な聞き手のものすごく長いインタビューでへとへとになりながら、ずっと話している(あまり長かったので、同じ年に出た四号にその続きが載っている)――いずれも残部があるから、それを(買って)読んでいただきたい。私としては空虚な宣伝文、よりはましなことを話していると思う。
 予算は多くはなかった。私たちの拠点はCOEとしては全国で最も小規模なもので、いわゆる「科研費」(科学研究費というものもいくつかあるが普通は文部科学省関係のそれを指す)の大きめぐらいものだった。年間三千万円ほどである。それでも多いと「納税者」のみなさんは思うかもしれない。ただ、具体的な言い訳は省くが、一桁多い予算を使っているところより、つまり相対的には、費用対効果ということでいえば、まず量的に、そしてときに質的にもまともな仕事をやってきたと思う。
 他方わずらわしいこともきわめてたくさんあった。その中にはわざわざその意義を問われ語るという仕事もあった。やっていることを説明し、知っていただくこと自体の意義の必要を私はまったく否定しない。むしろ熱心に行ってきた。また、すこしも高望みをしているわけでもない。私は、話せば結局は誰でもがわかるはずだといった楽観的な立場には立たない(立てない)が、同時に、わかる人には当然にわかるが、そうでない人にはわからなくてかわまわないといった高踏的な、独善的なことを言うつもりもない。目標としまた実際にやってきたことはこのうえなく明確でわかりやすいことであったし、これからもそうだ(→『生存学』第三号、あるいはHP→「趣」)。学者であっても、普通に人文社会科学をやっている人であれば、またいわゆる自然科学の方面についても自らの仕事に対する一定の自意識をもっている人であれば、自明にわかることのはずである。ただ「<学>として(の<体系性>云々)がどうか?」という問いには閉口した――実際には、黙っているわけにもいかない場ではいろいろとしゃべったたのではあるが。生存「学」などと言ってしまったこちらがよくないのかもしれないが、women's studies や gender studies や queer studies や disability studies の「studies」だって――○○について勉強すること・学ぶこと・考えること・調べること、ということだが――訳せば「障害学」というように「学」になる。
 さらに副題に「…と共に暮らす世界の創造」とあるわけで方角も明確だったし、明確であり続けている。ただここでいささかの迷いはあった。つまり、「殺せ」――は不穏当であったとしても――「死なせてあげれば」と言う人々もいてよいと思っていたし、思っている。いろんな意見があった方が議論になる。ただ最初からもっとはっきり繰り返し方角を語った方が、とりわけ「実学」が盛んなこの御時世ではよかったのかもしれない。評価であるとか報告であるのとかの場でも、途中から▼臆面もなく▲そのことを語るようにはなった。(そして加えれば、例えば「生命倫理学(Bioethics)」よりも「体系的」であることはそんなに難しいことではない。ある種の、と加えてもによいが)生命倫理学がたしかに幾つかの原理を有していること、しかしその優先順位を示していないこと、そのことにおいて体系をなしてるとは言えないことは誰の目にも明らかであり、その上で、やはり主流はあって現実と手を携えてやってきた。それに別のものを「対置」することはできるし、私個人としては行おうとは思うし、行ってきたつもりでもある。ただそれは一つのまずは一人の立場であり、勉強・研究がなされる場はもっと広い方がよいと思ってきた。だから)それでも、今でも幅はあった方がよいと思ってもいる。肯定するにせよ否定するにせよいずれでもないにせよ、何かを言うためには▼について▲調べたり考えたりせねばならないわけで、そこでは様々が起こった方がよいと思う。(さらに加えておくと、今年中には刊行されるはずの丸善の生命倫理学のシリーズのものの一巻(最終巻?)で「生命倫理学から生存学へ」という題を与えられた章を――やはり積極的に書く気持ちになれず手間取ったが――書いている。そして、ほとんどすべての催は泡沫のようなもので、私たちはCOEの五年間できるだけイベントをやらないと応募書類にも書いたのだが、そしてならばあくまで逃げて回ればよかったとも思うのだが、同じ年の生命倫理学会の大会は立命館大学で開催されることになる。)

■3
 そんなこんなで余計な手間をとったという思いはあるが、仕事の本体の方は面倒ではあるが、すくなくとも無意味なことをしてはこなかった。
 一つ、いまだこちら側ができたこととして十分とは到底言えない部分も多々あり、なぜこう遅いのだろうという気持ちはありながら、非常に単純な意味で、おそるべく大きな穴が開いている様々についての基礎的な情報をいくらかずつでも積んできた。HPにあるものはある。ないものはない。ないもの、あるいはないに等しいものの方がずっと多い。それでも年にヒットが一千百万ぐらいになっている――検索してやってきた人を失望させることが多いのではないか→おわびせねばならない。その一部として、本を(今年度は予算がなくてほとんど買えなかったのだが)買って、一冊ずつのページを作って、関連する項目のページに関連文献リストを作っていくといったことをしてきた。このごろはオンラインの学術論文検索などはできるようになっている。入手も以前より容易になっている。たいへんけっこうなこと、というか当然のことであり、それはそれとして専門の機関に引き続きやってもらわねばならない。問題はそれで足りるかということだ。足りない。学術論文以外に集めるべきもの、何が書いてあるか知っておくべきことが多々ある。私たちも機関紙やビラの類をいくらか集めているが、これを整理するのにはさらに困難がある。いつ出されたものか、わからない人にしかわからないもの、さらには誰にもわからないものがあったりする。そしてそのわからなさは日々増大している。
 例えば一九五〇年代から七〇年代、振り返れば愚かであったと思えることを含め様々があったのだが、それに関わりそれを知る人がここ二年ほどだけをとっても幾人も亡くなってしまった。私個人の仕事――という水準に達していないのだが、『現代思想』の連載の一部として書かせてもらっている――に即しても、たしかにどうでもよいのかもしれないのだが、単純にわからないこと(がわからないとどうでもよいのかどうかもわからないこと)がいくらも出てくる。私が書いているようなことに関係する方面で名の知れた精神科医だけでも、島成郎の二〇〇〇年は早すぎたとして、小澤勲(二〇〇八)、藤沢敏雄(二〇〇九)、浜田晋(二〇一〇)、広田伊蘇夫(二〇一一)と亡くなっている。
 そして人や人の記憶だけでなく、紙もまた散失し消滅していく。なんら系統立ててでなはいなのだが集められるものを集めている。それらの書誌情報(まれに全文)の入力を始めたものがあるといったところだ。ただここしばらくの間に何件か、ありがたいことに資料・史料の提供をしていただいた。中には存在は知っていたが実物は見たことがなかったといったものもあった。大切にさせていただこうと思う。ただそれを整理し、せめて配列していく必要はある。
 これには時間がいる。そして中断させられない。継続性が必要だ。そしてあまりに私たち(というか、本来そんなことをしてよかった人々)は仕事をしてこなかったから、そして日々起こってほしくないことも含め起こることはあるから、やることがありすぎて、一人でできない。面倒なことだと思いながら組織として研究を進めていくのは、まず、ごく単純に、そんな理由からである。

■4
 一つ、先端総合学術研究科という研究科(大学院)およびこの拠点・センター(訳せば同じだ)がなかったら書かれ公刊されることがなかっただろう大学院生やその修了者によって書かれた本・他がいくつか出たし――昨年は教員以外による値段のついた本を一ダースほど刊行させていただいた――これからも出るだろう。それを手伝うことができた(HP→「成」等)。(研究科とセンターの関係が外からわかりづらいのは当然だが、簡単で、研究科――二〇〇三年度に開設された――の大学院生・教員のわりと多く+別のところに所属しているいくらかの人たちがこのセンターに浅くなかにはそれなりに深く関わっているということだ。)
 この「教育」について。ほっといても書ける人という人もいないではない。それは試験などすればおおむねその結果に対応したりもする。しかしそういう人については、助力を要しないということなのだから、極言すれば、そもそも大学院などなくてもよいようなものであったりもする。本当にまったく不要な人は少ないのかもしれないが、そういう人たちは、より学費も安い旧帝大の大学院の方が得であることも多い。(私は)そういうところでと競っても仕方がなかろうとも思ってきた。そして、そういった「学府」でいったいどれほどのことがこれまでなされてきただろうかという思いも(私には)あった。それには、こんなことを今さら言ってどうするよと思いながら、そういう大学の百周年を「祝うな」みたいなことを言う、盛り上がりようのない「運動」にいくらか関わったこともわずかに関係ががなくはない。というか、その時も、学問の「犯罪性」とかいったことより、またというだけでなく、▼普通に▲ここは何をしているのだろうという思いがあった。
 ここからは大きく二つの方向に分かれる。というか、組み合わせになる。この大学も授業料の値下げは始めたし――奨学金等の仕組みがわかりにくいために、わかりにくくはあるが、またすべての場合にではないが――実際にはかなり安くなっている。教員がどれだけ仕事をし教えられる人たちであるかという点でも、他にそうひけをとらないだろうと思っている。(けれど私たちは昨年、突然、遠藤彰――心筋梗塞で倒れた――を失ってしまった。)だから普通の、というか――言いたければ――▼高等な▲大学院として、またその一部でもあり、それだけもないこの「センター」としての実質を備えるという方向が一つにあるだろう。この方面についても、繰り返すと相対的には、やれてきている部分はあるし、あと幾分か強化できるだろうとも思う。それはそれでよかろうとは思う。
 ただもう一つ、自覚的・戦術的にというわけではないが、そのような選抜の仕組みであったとしたらはじかれてしまったかもしれない人がやってきている。ふたをあけてみたらそんな人が多かったということがある。とくに自己推薦入試については、そして外国人留学生の入試、また三年次入学(修士・博士と分かれている大学院では博士課程に相当)はこの大学院の場合、書類と面接でよい。何をもって推薦するかといえば、それは自分の経験であったりあるいは自分の身体であったりすることができる。評価の基準は各人によって違うが、おおむね何をしたいかがわかり、それをやる気がありそうだったどうぞ、ことわる理由はない、と(私は)考えている。仕事ができない人はその間はじっとしていればよいのだし、それでもいよいよとなれば去ればよい。こちら(教員・事務側)のコストがかさむことはあるが――手間のかからない人をはじけばかからなくなるのは当然である――、許容できる範囲なら、拒むことはない。「未来はない」ことをはっきりわかっているのであれば――私は「パターナリズム」を原理的に否定する立場に立たないことを幾度も述べてきたが、こうした「さほどのことではないこと」については――未来がなさそうであることを理由に拒むのは、本来は望ましいことではないのだろうし、それを言うなら、そもそも三〇人定員の五年一貫の、というこちらの研究科そのものが、荒唐無稽とは言わないまでも、かなり無理な設定のもとに存在しているということでもある。
 やってきた人たちは様々だが、よい仕事をしてくれた、してくれている人たちがずいぶんいると思う。昨年の一ダースの後には、まず、たぶん、人工透析――これが公費で負担される前、金がない人は死んでいた――の歴史について、韓国の障害者の運動の歴史について、作業療法の(というよりは作業療法学に現れた言論についての)現代史について本が出されるはずである。他にもどうしても本にしてもらいいたいと思う研究がいくつもある。
 中には他の大学院で修士課程を出た――こちらには三年次入学・後期課程(他では博士課程)への入学者が思いのほか多い――人もいる。聞くところではだが(だからそこの先生は本当は違うことを言ったのかもしれないが)、私には(きちんとやれば、本人は他の人たちよりあることをその場にいてよく知っていてそれをうまく生かせば)よい研究になると思うことが研究主題として認知されず、何か別のことをしないと「研究」「論文」にならないといったことを言われて困っていたという人もいる。そんなことで困ることはないだろうと思うので、すなおに、やってもらう。忘れないうちに、いや忘れているのだがまず覚えている限り、書いてもらう。
 そんな人たちにはなにか「学問的な基礎」があるわけでない人がいる。ただ――この号に収録されるシンポジウムでも述べていることだが――ある分野でそれを教える仕事をしようというのならそれではすこし困るが、そんなつもりはなく、なにか一つ仕事(博士論文)をまとめようというのであれば、そんなに知っていなければならないことはたくさんない。そして、もう人生かなり途中まで来ていて、「まず基礎を、その後で応用を」なんて言っていたら死んでしまうかもしれないことだってある。
 そうそう呑気なことは言っていられないのだ。そこで即席でまあなんとかということになる。なかには技術的なこともあるにはある。論文のような形をした文章――きまりでそうしたものが博士論文を書くまでに三本ないといけないことになっている――をまず書いてもらうということがある。その作法の中にはどうでもよいようなきまりごともある。ただ、そのいくらかは合理的なもので、例えば、知っていること、知ったことの出典を(わからなければそのことを)示すといったこともその一つだ。そうした部分は先輩諸氏が――つなぎのその先があるかという問題はありつつ、つなぎの仕事として、そして予算がある限り――ずいぶんやってくれている。で、私たちがすることは、自分(たち)ならどう書いていくか、考え――これはときにけっこうしんどい――伝えながら――これもかなり伝わりにいことはあり、しんどいことがある――その場その場で言えそうなことを言っていくということになる。ただそれは当然手間はかかることになる。それはそれで仕方がないと思う。むしろそのことに意味があると思う。
 そして今分けた両者はそうはっきり分かれているわけではなく連続線の上にあって、結果「多様」になる。それは、うまくいけば、わるいことではない。相乗効果のようなものも生じる、ことがある。ただ「多様なニーズ」に応えねばならない、そして相当に「ベーシック」なところから言わねばならないこちら側は、いくらか難しい。利口な学者はこの世にたくさんいると思うのだが、人々は多くのことを知らないという現象が存在することに気がつかなかったり、どうやらそんなこともあるらしいことを知っていらついたりするかもしれない。そういうできごとに動じず、あるいはあまり動じないふりができて、ものを語ること、とくにその方角を考えることを手伝うのは、利口な人には難儀なことであるかもしれない。

■5
 その上でできないことと、できなくはないが手間のかかることがある。
 できないことは研究者――さきに分けた二種ではおおむね前者、若い人たち――の労働市場の形態を変えることだ。ここはなるべくして供給過多になっている。(他方、市場がまったく別の形をしているのが「専門職(養成)」の一部、あるいはかなりの部分である。)職というか金というか得られるようになるためにできることはしてきたし、する。別の仕事を望む人が「自然に」増えるなら、その分楽にはなるし、私はそれは望ましいことだと思うが、それは結果そういうこともありうるということである。
 一番近い道は学位をとってから看護学校に入って看護師の免許をもらうことかもしれない。するとそういう学校に職を得られる状況がたぶんまだ続いている。それは冗談の類であるとして、この市場がどんな具合になっているか――それは(例えば私)自身があってほしいと思う形ともちろん同じ形のものではない――について、すこし多くのことを知ってはいる。そうしたことは伝える。このことと似てているがすこし違うこと、労多くしてなかなか得るものを得るのが難しい領域・主題とそうでないものとの分布もすこし知っている――この辺になると自身の願望もたしかに混じってはくるのだが、例えば、さきに「大きな穴が開いている」と記したその辺のことを私は思っている(もう少し詳しくはやはり本誌三号)。こうしたことは伝える。ただ、今ここでできることと言えばそんなことぐらいで、それ以上のことはしないしできない。こういうことをわかってもらった上で、金に困るならさきに記した細々としたしかし大切な作業で細々と稼いでもらい、研究を楽しめる人が楽しんでほしいと思う。
 次に、そんなこんなをやっていながら、細々と差配したり調整したりしながら、「グローバル」はかなり厳しい。第三号でも述べたことだが、全体として世界への発信力が足りないのは事実で、「グローバル」COEへの/における宣伝文においてもここを充実させるとは述べたのだった。そしてこの部分は――いくつかの現実的な条件を所与とおけば――個人的な努力でどうにもならず、組織が必要だとすればその部分であるとも考えてきた。今も考えているし、その態勢は整ってきてはいる。ただそれが五年でどうにかなるとは、宣伝文に記したようには、考えておらず、実際そうだった。もちろんそれなりのことはしてきた。雑誌の方も二号まずは出してみた。ホームページ、メールマガジン、等の多言語化も進めてはきた。ただ、本当に見て読んでもらえるものにするにはあと十年ほどかかるだろうと思う。
 その理由の一部は既に(やはり本誌第三号等で)述べた。一つには、こちらにやってきてひと仕事しようという人のその仕事がそのまま「海外向け」にはならないということ。この一つとかなり重なることなのだが、もう一つ、穴が開いているから埋めて置こうというその仕事の相当の部分は、まずはこの国に起こったことを記録することであるなら、それをさらに伝える仕事は、また別途必要になる。単語の一つの訳語を考えるだけでうんざりする。これらをみな足し合わせた仕事の量は相当のものになる。
 できるものなのかどうか。これはかなりの部分、物質的諸条件による。ここでの生産物が売り物になって、それでやっていければ、お金をもっているところの顔色をうかがう度合いも減ってよいと思うことがある。(コリン・バーンズ氏がセンター長をしているリーズ大学の障害学センターでは、自分たちの本を売っている。ディスアビリティ・プレスという、この雑誌がお世話になっている生活書院よりさらに直接的なネーミングの出版社をやっているという。一般書店を通すとそこで差し引かれる額が大きいので、CDなどで自販・自送しているという。その売り上げで次の本を出すのだという。にわかに信じがたい、というか今でも本当には信じていないのだが、通約を介して、そのように聞いた。)まず自営は大学において形式的に可能か。それで昨年問い合わせてみたのだが、私が聞いたことが間違いでなければ、できないようだ。ただ寄付なら問題ないとのことで、その線を考えてみようとは思っている。
 次に実際に可能かと考えてみる。普通に考えてみて無理である。本が売れないことを私たちは嘆いているし、嘆いてよいことだと思うが、嘆いてもそれが現実ではある。そうたいそうなことは望まないとして、どのぐらいだったらできるか。こちらで電子書籍について研究を始めたのは、それが目が見えない他の人にとって便利なものであるようにできるからだが――にもかかわらずほっとくとそうならなそうであるからだが――、本を作る原料と流通に関わる経費を安くするために使うこともできる。そしてそれはさきほど記した「記録」にもかかわる。忘れ去られるほどのものではないと思う本のほとんどが今買えなくなっている。それを電子書籍で再刊してどれだけ売れるだろう? 思っているのはひとまず私であって、そんな人が他に何人いるかわからない。十人ぐらいしかいないような気もする。ただ試してみてもよいかなと思う。しかしそれはさらに仕事を増やすことにもなるわけだ。