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良い死?
立岩真也 2008/10/25 『朝日新聞』2008-10-25朝刊・京都:31 コラム「風知草」3
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『良い死』
という題の本を先月筑摩書房から出してもらった。
「尊厳死」や「終末期医療」や「治療停止」といった主題について書いた本ということになる。よしあしについての意見が分かれるテーマだ。それとも、「安楽死」はよくないが「尊厳死」の方はよいものと既に決まっているのだろうか。しかしその二つはどう違うのだろうか。またその違いは重要な違いなのだろうか。などと考えると、よくわからなくもなる。
だから、意見のある人も、なんだかよくわからない人も、読んでいただけたらと思う。全体としては長く理屈っぽい本だが、雑誌「通販生活」の「通販生活の国民投票」という欄で話したことを再録した部分など、手早くわかってもらえる部分も置くようにした。
それにしてもいっとき、つまり六十数年前の戦争の時、そしてその後、人々は、「良い死」といったものをあまり信じてはならないと思ったのではなかったか。そのことを身近に実感した人たちがいて、その後の人たちはそのことを教わってきたのではなかったか。
もちろんそれは今どきの「良い死」とは関係がないと思うのももっともなことではある。つまり、かつてのそれは、ただ国が強いる死に、嘘の美しさ・良さを貼り付けたものであったのに対して、今のものは違うと言われる。
そうかもしれない。なにより今あるのは、自らが自らのことを考えてよしと判断した上での死であるから。たしかにそんな部分はある。そのことを本では第1章「私の死」で考えてみた。またそれは「自然な死」の望みでもある。そのことについては第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」で考えてみた。
ただ同時に、今の尊厳死にも、身近な家族を思いやったり、国家の財政を心配したりといったところに発する部分はある。そして身近な人の負担が大きくなってしまうことには、政治が関わっている。他方、かつての戦場での死も、その思いとしては真摯であった、皆のために犠牲になるという行ないにも立派なところはあったと言えよう。となると、やはり違わないところもあるのかもしれない。どう考えたらよいか。
例えば私たちは、犠牲になろうという人に、「そんなことをしてもらうには及ばない、やめて下さい」と言うことになってきたのではなかったか。ところが今は、本人の言う通りにしさえすればよいという。それが自己決定だとされる。おかしくはないか。そんなことも考えたくてこの本を書いた。
◆2008/10/04
「社会経験生かす大学院」
『朝日新聞』2008-10-11朝刊・京都:31 コラム「風知草」1
◆2008/10/11
「「障老病異」個々で探究」
『朝日新聞』2008-10-11朝刊・京都:31 コラム「風知草」2
◆2008/10/18 「良い死?」
『朝日新聞』2008-10-18朝刊・京都:31 コラム「風知草」3
UP:20081014 REV:20081020
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立岩 真也
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