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女を働かせないで得する人はいるのか

立岩 真也 19960229
千葉大学文学部社会学研究室『NPOが変える!?――非営利組織の社会学(1994年度社会調査実習報告書)』
千葉大学文学部社会学研究室&日本フィランソロピー協会,1500,第8章追記,pp.173-174


  女性は男性と比較して、市場で働くことが少なく、稼ぎが少ない。なぜこんなことになっているのか。同時に、第8章で記されたようなある種の「特典」が、そのような女性に与えられている。なぜか。こうすることによって女性以外の誰かが(誰もが)得しているのだという見方がある。しかし考えてみるとそう簡単に言えない。
  まず女性を労働市場において差別する(労働能力と無関係な性別という属性によって不利益を与えることをここでは差別と言う)ことによって、市場(資本家そして消費者)は利益を得ない。ごく簡単に言おう。第一に、労働市場からの締め出しは可能な労働供給量を減らすから、労働を購入しようとする側にとっては不利である。また賃金等に格差を設けることも、実は利益にならない。例えば、同一の労働に高い賃金と低い賃金を設定するのと一律に両者の平均値を設定する場合とを比較してみればよい。他方、男性労働者は明らかに(不当な)利益を得ている。しかし、夫と妻の賃金が家庭内で合算されるなら、その家計総体をみた場合、やはり経済的な利益はない。(これらについては、立岩[1994c]でもっと詳しく論じた。)
  女性に家事をやらせるためだという考え方がある。とすると、専業主婦、収入が一定以下の主婦を「優遇」する税制や年金保険制度は、そのためにあるということになるか。
  しかし、そのようにも考えられない。たとえば、「専業主婦化」の前、女性は家事労働を担うとともにいわゆる生産活動にも従事していたのだが、そこから撤退させることが利益になるだろうかと単純に考えてみてもよい。「不払い労働」という言い方で、女性の置かれている状況の不当性と、男性・資本・国家の側が得ている(不当な)利益を言う主張があるが、これも詰めて考えていくと妥当性は疑わしい。ここでは詳しく論証できないが、ひとまず以下のようなことを指摘しておこう。第一に、サービスの対価を誰に求めるべきかという点をよく考える必要がある(たとえば育児労働の対価の全額を夫に求めることは、妻は育児に関わる負担主体でなくなることを意味する)。第二に、たしかに主婦の労働に対する支払いは行なわれていないが、主婦はともかくもその生活費を得ている。第三に、家の中で働かせるという要素だけでなく、家の外では働かないという要素も考えに入れる必要がある。
  たしかに(子供の、そして大人の)ケアの仕事は、少なくとも一時期については相当の時間をとられる。しかしそれ専用の要員を用意する(用意してその生活をともかくも保障する)ことにどれほどのメリットがあるだろうか。それが社会的に(すなわち家庭外の人々にとって)効率的であるという証拠はなく、むしろ、効率的でないとみる方が妥当だと考える。そしてこのことは、妻に家事をやらせている(やってもらっている)夫についても言える。
  歴史的にみた時、「専業主婦化」は、夫一人でも家計を維持していけること、妻が働かなくてもすむこと自体が、当の家族の家計の余裕を示し、自らの位置を高めることであるとされたことによるものと考えられる。経済的な合理性の観点、労働の配分の合理性の観点から見れば無駄であり、ある場合にはやせ我慢であることを人々はあえて行ったのである。(いわゆる家事労働が、家庭内の無償の労働として行なわれてきたことの説明は、別に行なわれるべきだと考える。cf.第7章付論、第11章付論)
  すなわち、この社会に存在する事態は、資本・市場の側からの要請ではない。また、少なくとも家庭内だけを見、家計の一体性を考え、生活の水準だけを見た場合に、夫が利益を得ているのでもないということになる。
  ただし、このように述べることは、ここに女性の男性への従属が存在しないということを意味しない。労働市場内部で、あるいは労働市場の内側と外側との境界で、男性労働者が不当な利益を得ていることは上に述べた。たしかに家計としては夫と妻の収入は合算され、両者がたとえば20万円ずつと30万円+10万円、40万円+0とでは総額は同じにはなる。ただ、この関係において、妻は生計を夫に依存することによって、従属的な立場に置かれうる――常にそれが顕在化するというわけではないのだが。
  つまり、西欧では19世紀以降、日本では主に戦後に現われ、今や衰退しつつあるとも言えよう専業主婦化というひとつの歴史的過程があり、それと同時に(その中に)――労働を不当に安く買いたたいているというのではない――男性による女性の支配、格差の保持がある。もちろん、パートタイム労働、「兼業主婦」が広範に存在するわけで、これについては別に考えるべき要素が出てくる。ただ、以上に述べた部分については、基本的な論点は動かない。(以上について、立岩[1994a])
  だから、第8章にとりあげられた税制や年金保険制度のあり方は、このような家族(のメンバー)、そしてこのような関係を通して優位を保とうとする男性に対する優遇なのであって、それ以外のものではない。(働いている人が育児等の費用の一部を税金から得ているのに対して、専業主婦のそれは全て私的負担であり不公平だという指摘もある。この指摘自体は当たっている。しかし、その不公平の是正は別の手段でなされるべきである。)
  この制度の「正しさ」はどこにもない。ただ、確かにこの制度のもとで税金が安くなり、(額は少ないにしても)年金を受け取れる人達はおり、その一家の人達にとってこの制度はあった方が有利なものである。これは既得権益であり、それを放棄することは損失である。だから、その人達は権益を失うことに抵抗する、あるいは、特権の拡大を主張することになる。ここに働いている利害は、基本的に以上のようなものである。以上のようなものでしかない。しかし、その力が一定以上のものであれば、どこにも「正しさ」はなくとも、現実は存続する。
  制度の変化を導く現実的な条件は、ひとつに、今よりもっと(より多く)労働市場内で女性が働くことが普通になり、専業主婦等が少数派になり、多数派としての力を行使できなくなること(例えば政治家がその人達の利害を考慮しなくてもさほどの票を失うことがなくなること)である。もちろん同時に、現実を変えたい人は、現在の制度がどういうものなのか、そしてそれによる利益(と不利益)がどの程度のものなのかを示していく必要がある。そして今あるものとは別の具体的な選択肢を示していく必要がある。そのために「正当性」について、また「利害」について――たとえば(個人単位でなく)家族単位で権利や義務が設定されているということがどういうことか――、考えるべきことを考えておく必要があるのだが、それが十分になされていない。これはこれまでフェミニズムが行なってきたことを踏まえた上でも言いうることだと、行なってきたことに対して言いうることだと、私は考えている。だから以上は、フェミニズム(の少なくともある部分)に対する反論でもある。論証を省いてしまったから「論」というには足りないものではあったのだけれども。


REV: 20161031
女性の労働・家事労働・性別分業  ◇『NPOが変える!?――非営利組織の社会学(1994年度社会調査実習報告書)』
立岩 真也
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