More Web Proxy on the site http://driver.im/
『薬害の社会学――薬と人間のアイロニー』
宝月 誠 編 19860105 世界思想社,254p.
■宝月 誠 編 19860105 『薬害の社会学――薬と人間のアイロニー』,世界思想社,254p. 1900円 ISBN-10: 479070291X ISBN-13: 978-4790702917
[amazon]
〈目次〉
序章 クスリと人間の生活 宝月 誠
技術の発展の二面性/クスリの発達/自己回復力の喪失/過剰なクスリ/医師を支配するクスリ/クスリの管理化/クスリのアイロニー=「薬害」/本書のねらい=社会学とクスリの問題
第1章 日本人とクスリ 伊藤 公雄
はじめに
1 クスリの安全性
クスリへの不安/スモン事件/相次ぐ製薬企業の不正事件/新薬開発に伴なう不正/安全性における不確実性/情況的不確実性/研究開発の構造的不確実性/薬務行政の構造的不確実性/医療現場の構造的不確実性/クスリを「資本の論理」/医療の文化・歴史的不確実性/安全性をめぐる根本的不確実性
2 日本のクスリ小史
消費する側の問題/中世以前のクスリ/売薬の出現と大衆化/商品としてのクスリ/近代薬学の導入と医薬分業/薬学教育の欠陥/大衆薬の流行
3 現代日本のクスリ文化
クスリをめぐる意識の変化/健康ブームと日常意識/健康ブームの背景/クスリと健康観の変化/健康観の四類型/「自然」主義と環境主義/「手段」による健康/新しいクスリ文化へ
第2章 薬害被害者の意味世界の諸相 栗岡 幹英
はじめに――被害者の手記の分析/対象としての手記
1 身体と患者役割
役割変遷の仮説/社会的役割の概念/社会人と私秘的生活者/社会人役割への復帰/スモン患者の役割
2 依存意識と意味世界の変動
依存の意識/依存の正当化/意味世界の崩壊/奇病のラベル
3 被害者から告発者へ
キノホルム説の受容/被害者の役割の獲得/主体的な役割形成/医師への態度の変更
4 意味世界の再構築
再び社会の一員に/薬害告発者への自己形成/新たな意味の獲得/被害者運動の方向
5 薬害被害者の意味世界の分析枠
役割形成の諸契機/主体の意味世界の変容
第3章 製薬企業の世界――企業逸脱としての薬害の発生 宝月 誠
1 クスリの安全性の軽視・無視
「薬害」の人為性/「安全性」無視の諸過程/「薬害」の今日性/分析視角
2 企業逸脱について
企業逸脱への関心/企業逸脱とは何か/製薬企業が関与する逸脱/クスリの安全性と企業逸脱との関係/なぜ、企業は逸脱するのか/われわれの企業逸脱の分析枠組/データについて
3 製薬企業の企業逸脱を生み出すもの
(1)経営者の環境の認知
製薬企業の現状/経営者の環境の認知/環境の厳しさは企業逸脱を生むのか/経営者の「あせり」/企業逸脱の仮説I
(2)組織の自己規制力
社内の意思決定過程に影響力を及ぼすもの/担当者の意見の圧殺/担当者の意見の無効化/組織の官僚制化/政治的駆け引きと集合的無責任/企業逸脱の仮説II
(3)外部統制力の影響
企業逸脱の仮説III/経営者の統制環境への不満/不満がもたらすもの
(4)有利な環境の形成
企業逸脱の仮説IV/医師への働きかけ/研究者や統制者への働きかけ/有利な環境づくりがもたらすもの
4 薬害の主要な契機と製薬企業の課題
何が重要な要因か/製薬企業の行動の内と外/経営者の企業逸脱に対する意識/「薬害」は果して不可避か/業界の体質/自己犠牲の限界
第4章 薬害と企業組織 井上 眞理子
はじめに――企業組織の犯罪/組織とはなにか
1 組織環境
二つのアプローチ/製薬企業の環境の不確実性/製薬企業の三つの環境/現実の意思決定過程/環境認知の変更/外部環境の内部化
2 組織目標―組織構造
企業の規範システム/企業目標―企業規範の分化/主要規範と副次規範との葛藤
第5章 製薬企業労働者の告発運動――大鵬薬品労組のケーススタディ 牟田 和恵
はじめに/本章のねらい
1 大鵬薬品労組とダニロン事件
ダニロン事件/大鵬薬品労組の誕生/旗上げ後
2 労働組合運動と反薬害運動
運動の二面性/コアの形成/反薬害運動としての成長/大鵬薬品労組をとりまくネットワーク
3 労働組合運動としての展開
地下活動の段階/運動の公然化/少数労組の組織特性/二面の融合/おわりに
第6章 薬害における逸脱と裁判 栗岡 幹英
はじめに――逸脱者の生成の問題
1 薬害の発生と逸脱のレイベリング
逸脱役割の変動/加害者のラベルの拒絶/逸脱不在の主張/薬害の全体性/規範の不備と運動の影響力
2 紛争解決と裁判
逸脱ラベルの相対性/紛争解決手段としての裁判/加害者の対応
3 裁判と逸脱者の生成
逸脱の遡及的発現/常習的な逸脱/新たな逸脱行動/被告による和解の申し出/原告の対応/逸脱者の生成/おわりに――確認書和解と終結
第7章 「薬害」の総体的認識に向けて――薬害の顕在化過程の分析 田中 滋
はじめに
ガンと薬害/薬害の顕在化過程への注目/従来のアプローチ
1 薬害の構造
(1)視点の複数化――関係と主体
関係、視点、対象の意味/関係と主体
(2)各主体間の相互認知とその構造
個人と組織との原則的関係/組織間の原則的関係/優位性の逆転/個人と組織との現実的関係/組織間の現実的関係/現実的関係と共謀的関係
(3)医薬品の意味、疾患の意味
医薬品の意味/疾患の意味
(4)薬害発生の構造的必然性
2 薬害の顕在化過程
(1)病気と薬害
薬害の自明度/薬害の隠蔽
(2)薬害の医学的認定
医学的認定の条件/スモン・ウイルス説の逆説/薬害顕在化の偶然性
(3)薬害の社会的認定
被害者の組織化の問題/訴訟上の問題
3 薬害防止の可能性
薬害の「不在」/法改正の落とし穴/薬害防止の可能性
あとがき
第7章 「薬害」の総体的認識に向けて――薬害の顕在化過程の分析 田中 滋
はじめに
ガンと薬害
一九八一(昭和五六)年、日本人の死亡原因の第一位は脳卒中からガンへと移り、その死亡者数も同年に一六万六、四〇〇人、八三(昭和五八)年には一七万六、二〇〇人と増加の一途を辿っている(1)。新薬の開発がその存廃を決するとさえいわれる製薬企業にとって、こうした市場性の高い制ガン剤は、「打ち出の小槌」ともなりうる夢の商品としてその開発が久しく望まれているものであった。そして、大鵬薬品が制ガン剤フトラフール(一九七四年発売)の成功によって急成長して以後は(2)、他の業界からの参入もあって制ガン剤の開発競争は熾烈なものとなっている(3)。先発制ガン剤メーカーと中央薬事審議会との癒着が疑われている丸山ワクチン不許可問題も、こうした熾烈な開発競争に絡んだ問題であると指摘されている(4)。
ガンの発生メカニズムはいまだ十分に解明されてはいないが、発ガン性が認められている主要な物質の一つに化学物質がある。戦後、化学工業が急速に発達し、われわれの日常生活はこの化学物質に取り囲まれたものとなっている。そして、われわれは、この化学物質を医薬品、食品添加物、残留農薬等といったかたちで直接に摂取してもいるのである。医薬品はむろんのこと、食品添加物や農薬の多くが製薬企業に、<0213<よって生産され、しかもこれらの化学物質に発ガソ性があるとするならば、製薬企業が制ガン剤の開発に躍起となっているという現状はどう解釈されればよいのであろうか。製薬企業は医薬品等の化学物質の生産・供給をとおして利益をあげる一方で、ガンという「病気」を生み出し、さらにそのガンに罹患した人びとを対象とする医薬品(制ガン剤)の生産によって再び利益をあげようとしていることになる。しかも制ガン剤の一種であるアルキル化剤にはそれ自身に強い発ガン性があると言われているのである(5)。製薬企業は医薬品等の商品を消費者に供給することによってガンを発生させ、制ガン剤という商品の消費者を直接に生み出しているとさえいえるのである。「不治の病気」として恐れられているガンは、実は、「不治の薬害」である可能性があるのである。年間一八万人近くにのぼるガンによる死亡者のいったい何分の一がこうした「薬害」としてのガンによる死亡者なのであろうか。ガンの発生メカニズムが十分に解明されていない以上、その数字を特定することはできない。しかし、総数が一、二〇〇人、その内で生存者が二〇九人といわれるサリドマイド被害者や、同じく総数が三万人ともいわれるスモン患者と比べ、はるかに大規模なものとなるであろうことだけは予想される。そうであるならば、現代の代表的な「病気」であるガンこそ、これまでで最大の「薬害」であるということになろう。
ガンと「薬害」との関連が問題とされた事件としては、たとえば、アメリカで最高裁まで争われ被告.製薬企業数社の共同不法行為が認められたシンデル事件がある。この事件は、妊娠中の母親が服用した流産予防薬によって、出生した女児が一定の潜伏期間(一〇ないし一二年)を経た後にガンに罹患したというものである(6)。ほかに、日本では、発ガン性を示すデータの隠蔽が労働組合の内部告発によって明らかにされた大鵬薬品のダニロン事件がある(詳細については、第5章参照)。しかし、これまでで最大規模の「薬害」である可能性をもつこのガンですら、それが単なる「病気」ではなくまさに「薬害」である可能性を疑い正面から取り上げようとする動きは、薬害を扱った多くの論稿においてもほとんどみられなかったのであ<0214<る。
薬害の顕在化過程への注目
ここで取り上げたガンばかりでなく、一般に「病気」と「薬害」とは必ずしも明瞭に区別できるものではない。それは、ただ単に医学的な判断が容易ではないということだけではない。実際には「薬害」であるにもかかわらず単なる「病気」とみなされてしまっているものが医学的・社会的にまさに「薬害」として認定されるためには、後述するように、薬害被害者やその家族、普通の市民、医師、製薬企業、マスコミ、あるいは国(厚生省)といったさまざまな主体間で展開される偶然的とさえいえる相互作用過程の介在が必要となるのである。「病気」と「薬害」との区別は、社会的に形成されるのである。
サリドマイドやスモンに代表される薬害事件をすでに経験している現在においては、たしかに「薬害」という概念も社会的にかなり定着してきている。これまでにも医学者・薬学者・法律家等が薬害の原因論・責任論等について論じてきたし、近年では日本ケミファのデータ捏造事件や国立予防衛生研究所の技官を巻き込んだ製薬企業の産業スパイ事件等を契機として、製薬企業、厚生省、中央薬事審議会、さらには大学医学部等についてのルポルタージュがみられるようになってもいる。しかし、これらの多くは、社会的にあるいは少なくとも医学的に薬害であるとすでに認定されているものについて、その因果関係、その法的責任の帰属の問題、あるいは製薬企業と厚生省との癒着の問題等を扱ったものであり、「薬害」が単なる「病気」ではなくまさに「薬害」として認定されていく過程すなわち薬害の顕在化過程およびそれがもつ意義を明らかにしようとしたものとは必ずしもなっていない。
薬害に関する従来の議論がこうした薬害の顕在化過程に注目してこなかった一つの大きな理由は、それらが製薬企業や国(厚生省)の責任を追及するという実践的目標の達成を主に念頭に置いていたことにある。こうした実践的な目標の設定は、典型的には薬害裁判において勝訴をめざして展開された原告・被害<0215<者側の論理や戦術にみられる。また逆に、この裁判闘争の論理が薬害を考える際の一般的枠組を形作ってきたともいえる・そこでは・特定の医薬品と被害との因果関係を医学的疫学的に確定することをとおして、製薬企業、国(厚生省)あるいは医師の責任が追及される一方で、製薬企業を規制する法や制度の改正が主張されるのである。すなわち、薬害の原因主体への社会的.法的責任の帰属.確定およびそれらへの法的・制度的規制の強化が第一義性をもっているのである。そうであってみれば、様々な主体間で展開される複雑な相互作用を介して薬害がまさに薬害として医学的・社会的に認定されるに至る薬害の顕在化過程は、特定の薬害が辿った経緯を説明するのに必要となるものではあっても、それ自身が独自の意義をもった分析対象とはならないのである。
薬害の顕在化過程の分析は、しかしながら、次のような見逃すことのできない重要な意義をもっている。まず第一に、それは、どのような薬害が薬害として認定されずに処理されてしまいやすいのか、またそうした隠された薬害を顕在化させるにはいかなる方策がとられるべきなのかといった問題を考える手掛りを提示しうる可能性をもっている。そして、第二に、それは、われわれが常に隠れた薬害の被害者となっている可能性があるという点から医薬品や医療をめぐる状況を明らかにする可能性をもち、さらには、現代社会の理論的把握のためにその解決が不可欠の問題、すなわち個人と国や企業との関係をどう捉えるべきかという問題に、薬害という現象の分析を介してアプローチする手掛りを与えてくれるものともなっている。そうである以上、薬害の原因主体への社会的・法的責任の帰属・確定等を第一義とし、薬害の顕在化過程の分析を軽視してきた従来のアプローチに満足することはできない。
従来のアプローチ
従来のアプローチがもつ聞題としては、他に薬害の原因論に関する問題を指摘することができる。薬害を発生させた主体に社会的・法的責任を帰属・確定することと、それらの主体がなぜまたどのように薬害<0216<を発生させたのかを解明することとは、当然のことながら異なった事柄である。ところが、従来のアプローチにおいては、薬害の社会的.法的責任を帰属することに必然的に伴う薬害の原因主体への道徳的非難―つまり、営利主義的であるとか社会的責任を自覚していないといった倫理性の欠如への非難が、そのまま薬害の原因論に結びつけられてしまう傾向がある。すなわち、責任の帰属の問題が、倫理性の欠如というかたちで原因論と置き換えられてしまい、製薬企業等の倫理性の欠如こそが薬害の原因であるということになってしまうのである。こうした場合、製薬企業等にたいして倫理性を声高に要請することが戦術的にどれほど有効でありうるのかという問題のほかに、なぜ製薬企業が薬害を発生させたのかを、たとえばその置かれた環境やその組織内外において展開する他の主体(医師や国)との相互作用の分析をとおして明らかにするといったことが限害されかねないという問題が起こる。顕在化すれば多額の賠償金の支払いや信用.企業イメージの低落といった企業の存続にかかわるような大きなリスクとなる薬害をなぜ製薬企業が生み出すのかは、企業の倫理性の欠如のみによって説明できるものではないのである(詳細については、第3章参照)。
1 薬害の構造
(1)視点の複数化――関係と主体
薬害という社会問題を論じようとする場合、加害者が多大な資本や情報あるいは権威をもつ企業であり、被害者がそうしたものを欠いた消費者であることを考えれば、価値判断の基準を薬害に苦しむ被害者の立場に置くことはごく当然のことといえよう。そして、薬害被害者がその視点を薬害の原因主体(製薬企業<0217<や国あるいは医師)への社会的・法的責任の帰属・確定という実践的目標の達成置くこともまた当然のことである。しかし、そうであるということにはならない。薬害が様々な主体間の複雑な相互作用を経て顕在化する過程を捉えようとする場合にも、またさらに薬害という社会現象の総体を捉えようとする場合にも、被害者の視点ばかりではなく、薬害を生み出した諸主体の視点をも取り込むことができるような視点の複雑化・相対化がそこでは必要となる。
関係、視点、対象の意味
ところで、個人にしろ組織にしろ、それらの主体がどのような視点の下に事物、個人、組織あるいは社会事象といった対象を見るかは、それらが置かれている立場によって変化する。言い換えれば、対象をみる視点や視点の下で対象がもつ意味は、主体がその対象とどのような関係を結んでいるかによって変化する。たとえば、薬害の被害者の多くは、その煩っている疾患が薬害によるものであることが判明する以前においては、製薬企業―特にいわゆる「メーカー」と呼ばれる大手の製薬企業―を病気に苦しむ者の立場を第一義として優秀な医薬品を最先端の科学技術によって製造・販売するところの信頼できる存在・対象とみなしてきた。むろん、製薬企業にたいするこうした意味づけは、みずからが薬害の被害者であることを知らされた後においても一挙に変化するわけではない。サリドマイド被害児の親たちは当初製薬企業との直接交渉によって被害の救済を図ろうとしたし、訴訟が提起された段階においても、訴訟推進グループと既存の障害者福祉制度による救済を求めるグループとの間に対立が生じたりもしている(7)。すなわち、彼等は、製薬企業あるいは国が自主的に被害児の救済や損害賠償をおこなうのではないかという期待や信頼感をそれがいかに小さなものであろうとももっていたのである。しかし、製薬企業の冷遇によってこうしたかすかな期待も消え去り、彼等にとって製薬企業とはまさに訴訟をとおしてその社会的・法的<0218<責任を追及していくべき敵対的な存在・対象であるというふうに変化していく。製薬企業との関係が、生産者-消費者の関係から加害者-被害者のそれへと変化するのに伴って製薬企業という対象がもつ意味は大きく変化してしまうのである。
関係と主体
関係の変化に伴う対象の意味のこうした変化は、あえて論じる必要もない当然のことかもしれない。しかし、ここで注意すべきことは、対象の意味の変化と同時に、対象をみる主体自身が変化してしまう可能性があるということである。すなわち、みずからをいかなるものとしてみるのか、あるいはいかなる意味をみずからに付与するのかというアイデンティティ(自己意識)のレベルにおいて変化が起こるのである。薬害の被害者は、ごく普通の日常生活者から病者、そして薬害の被害者、さらには加害企業や国にたいする告発者へと紆余曲折を経ながらもみずからのアイデンティティそしてその生活を変化させていくのである(被害者のアイデンティティの変化については、第2章参照)。
対象の意味は主体とその対象とが結ぶ関係のあり方によって変化するーという先に述べた言明は、ここで次のように修正することができよう。すなわち、対象の意味ばかりでなく、主体自身のアイデンティティが、主体とその対象との関係のあり方によって変化する―と。さらにこの言明を主体と対象とが結ぶ関係というものがもつ重要性(関係の第一次性)に注目して言い換えるならば、関係自体がその関係の当事者となる双方の主体(主体と対象)に意味を付与する、あるいは双方の主体を一定の特性をもった独自の主体へと形成していく―ということになろう。
「主体」とここで呼んできたものは、当然のことながら薬害の被害者のことだけを指すものではない。製薬企業や国あるいは医師もやはり一個の主体と呼びうるものとして存在している。たとえば、製薬企業は、国や医師あるいは医薬品の消費者との関係のなかで、それらの対象がみずからにたいしてもつ意味を<0219<形成する一方で、みずからがいかなる存在であるのかという企業としてのアイデンティティをも形成していく一つの主体なのである。
複数の主体が相互に関係を結び、その関係のあり方に従って各主体がそれぞれの視点の下に相互にそしてまたみずからにたいして意味づけをおこなっていることーこのことを前提としなければいかなる社会現象であれその理解は不可能となる(8)。薬害がいかにして医学的・社会的に認定されていくのかという薬害の顕在化過程を分析する場合にも、薬害にかかわる各主体がどのような関係を結び、相互に意味づけをおこない、それらにもとついてどのように相互作用しているかを知ることが、すなわち複数的視点の下にそうした過程をみることが、不可欠な作業となる。
(2)各主体間の相互認知とその構造
製薬企業や国あるいは医師そして医薬品の消費者である個人は、それぞれ相互をどのような関係の下でどう意味づけているのであろうか、またそこにはなんらかの構造があるのであろうか。まずここでは、これらの主体を組織と個人との二つに区分し、それらが結ぶ原則的な関係(あるべき姿)について考えてみよう。組織には、製薬企業と国(厚生省)のほか、医師会や大学医学部といった組織を背景にもつ医師(および病院)をも含めることとする。このような区分に従えば、各主体が相互に結ぶ関係は、個人と組織との関係、組織間の関係、そして個人間の関係の三つに分けられる。個人間の関係については、薬害の顕在化過程を論じる際に必要なかぎりにおいて言及することとし、ここでは前二者の関係に焦点を絞ることとする。
個人と組織との原則的関係
個人と組織との関係には、医薬品の消費者としての個人と製薬企業、国民としての個人と国、そして患者としての個人と医師との関係があるが、これらの関係は、原則上はいずれも個人の健康という原理的価<0220<値の実現を第一義とする関係として捉えられる。個人と国との関係についていえば、国は国民としての個人の健康を維持・増進するために必要な法や制度を制定し、それにもとづき種々の施策をおこなうものであり、逆に、国民としての個人はその健康の維持・増進のためにさらに有効な法や制度の採択をあるいは施策の充実を権利として要求する一方で、国のそうした努力にたいして国としての正統性を与え支持する―という相互的・相補的な関係として捉えられる。これにたいし、個人と製薬企業あるいは医師との関係は、個人と国との関係と比べてより直接的に個人の健康という価値の実現にかかわる関係を構成する。製薬企業は医薬品の消費者としての個人に有効性の高い優秀な医薬品を開発・供給し、それにたいして個人はいわゆる「メーカー」としての信頼を与える。同様に、医師は、患者としての個人にたいして、その個人の体質的特徴や病歴等を把握した上で、医学的専門知識にもとづき現在の疾患に適切な診断・治療をおこなうものであり、個人は医師のそれらの行為にたいして協力し、その成果にたいしては信頼や権威を与える。このように、医薬品あるいは医療をめぐる個人と組織との原則的関係は、組織が個人の健康という原理的価値の実現のために法的・行政的あるいは薬学・医学的な専門的知識・技能を活かし、一方で、そうした専門的知識や技能をもたない個人は返報として組織にたいし正統性や信頼あるいは権威を与え支持するというかたちをとるのである。以下では、個人と組織との原則的関係のこうした二側面のうち前者を貢献的側面と呼び、後者を授権的側面と呼ぶこととする。
組織間の原則的関係
組織間の関係には、国と製薬企業、国と医師、そして製薬企業と医師の関係が含まれるが、これら組織間の関係は、個人と組織との以上のような原則的な関係によって原理的には規定されるはずのものである。個人の健康という価値の実現の第一義性が、個人と組織との関係を規定することをとおして組織問の関係をも規定するのである。そして、組織間の関係が個人と組織との関係よりも法的・制度的側面を強くもつ<0221<のは、まさにこれらの組織が個人の健康という価値の実現あるいは阻害に強い影響を及ぼしうる存在であるからにほかならないといえよう。たとえば、国と製薬企業との関係は、その枠組を薬事法―製造業としての許可、医薬品の製造・販売の承認、医薬品の基準等を定める―によって与えられている。この薬事法の制定が有効で安全な医薬品の供給を目的とするものである以上、そこでは医薬品の消費者である個人の健康という価値に第一義性を置くことが前提乏なっていると考えられる。すなわち、個人(国民・消費者)と組織(国・製薬企業)との原則的関係が国と製薬企業という組織間の法的関係を規定していると考えられるのである。
ただし、この薬事法に関しては、スモン訴訟において被告・国と原告.被害者との問でその解釈が争われている。被告・国は、国が薬事法により国民のうちの特定の個人にたいしてなんらかの法律上の義務を負うとはいえず、医薬品の副作用により被害を受けたとする特定の個人が国にたいして損害賠償を請求するのは法的根拠を欠く―といういわゆる「反射的利益論」と、国が規制権限を行使するか否かは自由裁量であり、その行使の仕方について国民から訴訟を提起されるいわれはない―という「自由裁量論」とを主張することによって、原告・被害者が主張する国の医薬品にたいする安全確保義務の存在を否定している(9)。すなわち、薬事法という国と製薬企業との関係の枠組となる法律が国民(個人)と国(組織)との関係―特にその貢献的側面-によって規定されていることを否定しているのである。しかし、こうした国の主張においても、それがいかに仮構のものであるにしろ国イコール国民という前提がその背後に立てられているわけであるから(10)、薬事法が国民としての個人の健康を第一義として国と製薬企業という組織間の関係に枠組を与えているとみなすことができることに変わりはない。
以上のこと、すなわち個人と組織との関係が原理上組織間の関係にたいして優位にあり、前者が後者を規定するということは、医師法がその枠組となっている国と医師との関係についても、また健康保険制度<0222<を介して結びついている製薬企業と医師との関係についても同様に妥当するはずである。
優位性の逆転以上、個人と組織ならびに組織間の原則的関係について、そしてまたこれら二つの関係の間の原理上での序列関係について述べてきたが、これらはそれぞれまさに原則上での関係、原理上での序列であり、現実においてもそうしたことが成り立っているとは必ずしもいえない。以下では、個人と組織ならびに組織間の関係が現実にはどのような関係として存在しているのか、また二つの関係の間の序列関係はどうなっているのかを、二つの関係がもつそれぞれの基本的特徴を手掛りとして考えてみよう。
組織間の関係は、前項で述べたことから明らかなように、法的・行政的あるいは薬学・医学的専門性をそれぞれにもった組織どおしの法的関係を基礎とし、それゆえにより直接的な関係であると特徴づけることができる。一方、(消費者、患者あるいは国民としての)個人と組織との関係は、それぞれに専門性をもった組織とそうした専門性を欠く個人との法的には必ずしも明確なかたちで関係づけられていない間接的な関係であるとみなすことができる(11)。一定の主体間の通常の関係が法と強く関連づけられている場合、そこでは法の解釈・運用等をめぐって両主体間に直接的接触・交渉がもたれる可能性が常に存在する。しかも、ここで論じている組織間の関係は、いわゆる科学的進歩によって常なる変動過程にある医薬品をめぐるそれぞれに専門性をもった組織間の関係であり、組織間に直接的な接触・交渉がもたれる可能性はそれだけ高まるといえよう(12)。そうであるならば、組織の行動を現実に強く規定しているのは、それと間接的にしか結びつかない個人との関係ではなく、直接的接触・交渉の機会をさまざまなかたちでもつ他の組織との関係となるであろうことは容易に推測することができる。こうして、組織の個人にたいする関係は、他の組織との関係というフィルターを通した上での関係、言い換えれば、他の組織との関係に従属しその劣位にある関係となるのである。ここに、個人と組織との関係が組織間の関係にたいしてもつ原理上での優位は<0223<事実上成り立たなくなってしまうのである。
個人と組織との現実的関係
二つの関係の間のこうした優位性の逆転は、それぞれの関係の単なる重み付けの変化を意味するだけではなく、それぞれの関係のあり方自身にも変化をもたらす。まず、前者の個人と組織との関係がどのように変化するかをみてみよう。個人と組織との関係は、先に述べたように、個人の健康という価値の実現に第一義性が置かれることによって、原理上組織間の関係に優位するものとなっていた。しかし、以上のように両者間に逆転が起こってしまえば、事実上そうした価値の実現に第一義性が置かれなくなってしまう。それゆえ、その第一義性によって裏付けられている個人と組織との授権‐貢献という原則的関係は、まさに原則上のものとなり、理想とはされても必ずしも現実的でないイマジナリーな関係となってしまう可能性が高まるのである。
しかし、個人と組織との原則的関係がイマジナリーな関係となることが、すなわちそうした原則的関係の完全な変質を意味するわけではない。たしかに、個人と組織との原則的関係の一方の側面、すなわち組織がその専門的知識・技能によって個人の健康を維持・増進していくという貢献的側面は、それぞれの組織にとって希薄なものとなるが、もう一方の側面、すなわち個人が正統性や信頼あるいは権威を組織に与えてくれる存在であるという授権的側面は、組織にとってあいかわらず重要なものとして残るの<0224<である。それは、個人がそれぞれの組織に正統性や信頼あるいは権威を与えることが組織の存在・存続にとって不可欠な要件(自社製品の購入者の確保、固定的クライエントの確保等)となっているからである。こうして、個人と組織との現実的関係は、個人と組織との原則的関係の下において想定されるような相互的・相補的なものではなく、組織の都合が優先される一方的なものとなるのである(13)(図7‐1参照)。
(図7‐1 原則的関係と現実的関係 省略)
組織間の現実的関係
個人と組織との関係と組織間の関係との間の優位性の逆転は、前者の原則的関係をイマジナリーなものとしそれに変質をもたらすだけではなく、後者の組織間の関係にも変.質をもたらす。個人と組織との関係の貢献的側面が希薄化することによって、組織間の原則的関係、すなわち、それぞれの組織がもつ専門的知識・技能を活用することをとおして個人の健康という価値の実現のために相互協力するという関係が、やはりイマジナリーな関係となってしまう可能性が高まるのである。しかし、これだけではない。先に述べたように、組織間の関係は、それぞれに法的・行政的あるいは薬学・医学的専門性をもった主体問の法的関係を基礎とするより直接的な関係として特徴づけられる。そして、直接的接触・交渉を介在させるこの関係を構成する組織に、利潤や利益の確保・追求をその存在の不可欠の条件とする経営体(製薬企業・医師)が含まれるならば、そうした組織間でなされる接触や交渉が逸脱への志向性を帯びる可能性が高まることは否定できない。すなわち、組織間の原則的関係が理想とはされても必ずしも現実的ではないイマジナリーな関係となるだけではなく、組織間の現実的関係が逸脱への志向性をも帯びるような関係となるという帰結が生じるのである。
組織間の現実的関係が逸脱的傾向を帯びるといっても、それが組織問の原則的関係あるいはその枠組となる法をまったく無視したものとなるということを必ずしも意味しない。むしろ逆に、それらは、逸脱へのチャンネルづけとさえなり、巧みに利用されるのである。たとえば、新薬の承認等をおこなう中央薬事<0225<審議会の委員が製薬企業の新薬開発に携わる当事者でもあるという問題などは(14)、こうした法や制度の利用の典型である。新薬開発の当事者がその新薬の審査に直接関与することがないにしても、審査委員会の一員であるということーこのことがどのような意味をもつかは容易に想像できよう。彼はみずからが開発に関与した新薬の承認を容易にするチャンスをもつばかりではなく、他の製薬企業が申請した新薬の承認を阻害するチャンスをももっているのである。こうした逸脱は、薬事法がその設置を定めている薬事審議会の存在なくしては不可能なものである。同様の事例は、製薬企業と医師との健康保険制度の利用に見出せる。薬価を高価格に維持しておいて、なおかつ、否むしろそれゆえにその医薬品を購入した医師が利益を得ることができるといった不可解なことは、この健康保険制度の存在なくしてはやはり不可能である(15)。
現実的関係と共謀的関係
以上、個人と組織および組織問の現実的関係がそれらの原則的関係から分離・遊離し、原則的関係が非現実的でイマジナリーなものとなっていくのをみてきたわけであるが、これらの原則的関係と現実的関係との相互の関連について今一度考えてみよう。
それぞれの組織にとって、個人と組織との原則的関係は、すでに述べたように決して無視できるものではない。個人から正統性や信頼あるいは権威を調達するという個人と組織との関係の授権的側面が組織の存続にとって不可欠のもの(自社製品の購入者の確保等)となる以上、もう一方の貢献的側面、すなわち各組織がそれぞれの専門的知識・技能を生かして個人の健康のために尽力するという側面は、それがいかにイマジナリーなものとなろうとも、個人によって現実のものとみなされつづける必要性があるからである。原則的関係が現実のものであると個人によってみなされることなくしては、組織間の現実的関係(組織にとって有利な関係)は維持されえないのである。そして、そうである以上、組織間の現実的関係が原則的関係から分離・遊離すればするほど、それだけ一層、個人によって原則的関係がイマジナリーなものではな<0226<く、現実のものであるとみなされる必要性が高まることになる。二つの関係の間に分離がひとたび生じれは、組織は原則的関係を現実のものであるかのごとくにみせるために一層原則的関係から分離する―という悪循環が起こるのである。
ここに、組織間の現実的関係は、個人をいわば標的とする一つの共謀関係的なものとなるのである。組織が個人から与えられる正当性や信頼あるいは権威は、組織の個人にたいする貢献と引き換えに与えられるものではなく、意図的に作り出されるものとなるのである。
こうした組織間の共謀的関係に関する事例をわれわれは日本ケミファのデータ捏造事件(一九八二年)にたいする厚生省の対応に見出せる。厚生省は、当初日本ケミファの悪質なデータ捏造にたいする制裁として六〇日間の業務停止処分をおこなう予定にしていた。ところが、同社社長の「処分の前に増産するから実害はない」という主旨の発言が厚生省を刺激し、結局、大手製薬メーカーとしては過去最高(四〇日間)の二倍に当る八〇日間の業務停止処分となったーというものである。しかし、厚生省がデータ捏造発覚以前にその件について内部告発を受けながら製造承認を与えていたという経緯があること、また厚生省から同社に天下りがおこなわれていること等を考えるならば、処分の強化が、たんに同社が厚生省を軽視したことにたいする制裁ではなく、いわば共謀的関係にある一方の組織(日本ヶミファ)がその共謀的関係―処分前の増産による実害の回避―を暴露してしまったことにたいする制裁であったのではないかと疑うことができる。製薬企業にたいする業務停止処分は、厚生省が製薬企業にたいして厳正な態度で臨んでいるという印象を個人(国民)に与えるという効果をもつ。ところが、同社社長の発言は、その業務停止処分が現実には「実害のない処分」であるということを暴露し、個人(国民・消費者)をオーディエンス(聴衆)とする共謀関係的演技を台無しにしたということになるのである。
こうした共謀的関係の他の事例としては、「医薬品副作用モニター制度」における厚生省と製薬企業と<0227<の関係を挙げることができる。この制度はWHO(世界保健機構)の勧告(一九六四年)に従って採用された(「九六七年)ものであるが、大学病院等から集められたモニターの結果はもっともその情報を必要とするはずの一般の医師にたいして通知されていないといわれている(18)。視力の低下、視野の狭窄、さらには失明をももたらすクロロキン網膜症(賢疾患の治療薬として使用されたクロロキン製剤による薬害)は、こうした害作用情報の通知不徹底が薬害の拡大をもたらした典型的な事例の一つである(19)。ここでも、厚生省が、モニター結果の通知によって製薬企業の販売業績に悪影響が及ぶのを懸念して、そうした通知をおこなわなかったのではないか―とやはり考えることができる。
(3)医薬品の意味、疾患の意味
個人と組織および組織間の関係が原則上のものと現実のものとに分離すること、およびその分離がもたらす結果等について、以上論じてきたわけであるが、こうした分離は、医薬品や疾患といった個人と組織との関係に介在してくる物や個人の身体的状態にたいする意味づけにも及んでいる。
医薬品の意味
医薬品についてまず考えてみよう。個人と組織との原則的関係においては、医薬品は、第一義的に治療効果という価値をもったものとして存在している。そして、たとえそれが製薬企業に利益をもたらす商品としての性格をもつにしても、そうした性格が治療効果をもつという意義よりも重要であるなどとは考えられない。個人の健康という価値の実現のために努力しているはずの製薬企業が個人の疾患をいわば利用して利益をあげているなどといったことは考えられない。そして、医薬品には「副作用」があるとしても、それはまさに「主作用」に付随するにすぎず、無視しうるあるいは受忍できる影響しか及ぼさないと考えられる。まして、医薬品には治療効果がもともとないものがあるなどといったことは想像することすらで<0228<きない。
ところが、組織間(特に製薬企業と医師)の現実的関係においては、医薬品は、治療効果という価値をもったものとしてよりも、むしろ商品として、すなわち利益を生み出すという効果をもったものとしてあらわれる。「薬九層倍」といわれるように、健康保険制度によって製薬企業と医師は、多大な利益をあげているのである。厚生省が薬価を実勢価格(実際に売買されている価格)に合わせるために薬価基準の切り下げをたびたびおこなわざるをえなくなっているのも、実勢価格とのこうした格差が不当な利益を製薬企業と医師にもたらしているからにほかならない。そしてまた、医薬品の作用についても、「主作用」‐「副作用(side effect)」といった曖昧な基準ではなく、「有効作用」‐「害作用(adverse reaction)」という基準(20)こそが医薬品の作用の現実的基準となっていることが、組織間の現実的関係においては理解されている。特に、新薬の開発段階において多くのものがその害作用の強さゆえに捨てられていくのを熟知している製薬企業は、主作用-副作用という基準あるいは表現が現実に即したものでないことを十分に理解している。そして、害作用もないけれど顕著な有効作用もない医薬品が市場に存在していることも熟知しているのである。一九六二(昭和三七)年にアメリカで有効作用のない医薬品を排除することを定める薬事法の修正(キーフォーバー・ハリス修正薬事法)がなされていること、また日本では一九七一(昭和四六)年に医薬品の再評価についての通知が厚生省からなされていることが、こうした実態の存在を物語っている。
このように、医薬品が個人と組織との原則的関係においてもつ意味と組織間の現実的関係においてもつ意味は、明らかに相互に異なった、さらにいえば相互に矛盾したものとなっているのである。ただし、後述する薬害の顕在化過程の分析にとっても重要であるということからここで注意しておくべきことは、組織間の現実的関係を構成する各組織ごとに医薬品というもののもつ意味が少しずつ異なっているということである。たとえば、医師は医薬品の作用を有効作用-害作用というよりもむしろ主作用-副作用という<0229<基準に近いかたちで捉える傾向があり、製薬企業の認識との間にズレが存在している。言い換えれば、原則的関係と現実的関係との境界の設定の仕方が製薬企業と医師とでは異なっているのである。すなわち一挙医師は医薬品の作用については原則的関係に近いかたちの認識をもっているということになる(21)。こうした境界設定のズレは、当然、国と医師、国と製薬企業との間にもみられる。ただここで確実にいえることは、医薬品の開発・製造者である製薬企業の境界設定がもっとも実態に即した現実的なものとなっているということである。そして、こうした実態に即した境界設定―医薬品の作用の現実的認識―を製薬企業が医師に従来通知してこなかったことは、「医薬品副作用モニター制度」に関して述べたとおりである。
疾患の意味
医薬品の作用の認識に関して、個人と組織との問にさらには組織間にも相違があるのをみてきたが、こうした相違は、医薬品の必要性を生み出す疾患の捉え方にも同様にみられる。現在、医学における病因論は細菌学(ウイルス学)的病因論のほかに心因説や体質(生体成分)に病因を求める方向が主になっているといわれ、現代のように化学物質が氾濫する時代になっても、化学物質に病因を求める化学的病因論は未発達なままであるという(22)。こうした医学の理論水準の下においては、医師が通常の疾患すなわち「病気」と医薬品によって引き起こされる疾患すなわち「薬害」との区別を自覚しつつ診断にあたっているとは考えにくい。そして、先に述べたように医薬品の害作用についての情報が医師に十分に伝達されていないとするならば、こうした傾向が一層助長されるであろうことは容易に想像できる。言い換えれば、現在の医学、そしてそれにもとついて診断する医師は、現実(現代の疾病構造)に必ずしも即さない、いわばイマジナリーな病因論しかもちあわせていないことになる。先に述べたように、患者‐医師という個人と組織との関係は、医薬品の投与という治療の側面においては、医師‐製薬企業という組織間の現実的、共謀的関係によってイマジナリーなものとなってはいるが堅持されるべき原則(適正な医薬品の投与)を失なってい<0230<る。ところが、病因論という診断の側面においては、現代の疾病構造に対応できずイマジナリーなものとなっているがゆえに破棄されるべき原則(細菌学的病因論中心の病因論体系)に皮肉なことにも固執しているということになる(23)。
化学的病因論の欠如というこうした傾向は、現在の医学の理論水準と不可分な関係の下に医薬品を開発・製造している製薬企業においてもみられる。ただし、ここでも製薬企業と医師との問には相違が存在する。それは、前者が化学的病因論について理論的に体系化をおこなっているわけではないにしろ、特定の医薬品とその害作用との関連についての多くの情報を保持している点にある。すなわち、経験的なかたちで化学的病因論を知っており、通常の疾患すなわち「病気」と「薬害」とをもっとも現実に近いかたちで区別しているのである。
(4)薬害発生の構造的必然性
個人と組織および組織間の関係は、それぞれ原則的関係と現実的関係とに分離し、個人が原則上もつはずの第一義性は失なわれてしまう。一方、医薬品や疾患というものがもつ意味も、原則的関係と現実的関係においてそれぞれ異なったものとなる。原則的関係と現実的関係との分離がもたらすこれらの結果こそ、まさに薬害発生を構造的に必然化させるものとなる。
個人と組織との原則的関係は組織間の現実的・共謀的関係によりその原則性を奪われ、個人は組織にとっていわば「不在のもの」となる。一方、原則的関係と現実的関係との分離ゆえに、個人は、イマジナリーなものとなってしまっている個人と組織との原則的関係をむしろ額面どおりに現実のものとして受け取る。すなわち製薬企業や医師を権威をもったものとして信頼する。組織にたいする個人の不在と個人の原則性への信頬という条件の下で、製薬企業と医師は、それぞれの戦略をより自由に展開することができ、そ<0231<の利益の確保・増大を図ることができる。製薬企業は、医薬品の適応症の拡大をおこないつつ、健康保険制度の下において、医薬品の大量療法・長期連用・日常化を医師と共に押し進め、個人は、そのようにして与えられた医薬品を指示どおりに服用するのである。個人を「不在のもの」とみなす製薬企業や医師とそれらを信頼する個人との接点にまさに薬害の多発が生み出されるのである。いわゆる国民皆保険の実施(一九六一年)以降急増したスモンは、こうして生み出された薬害の一つの典型的な事例である。
2 薬害の顕在化過程
原則的関係と現実的関係とが分離し、それが薬害を生み出していく過程を前節で述べたが、本節では、この同じ分離が皮肉にも薬害の医学的・社会的認定を可能にする一つの大きな条件となっているのをみていくこととする。個人と組織との原則的関係にしたがって考えれば、薬害は本来発生するはずのないものであり、たとえ発生したとしても、それは合理的かつ即座に解決されていくはずの、ものである。ところが、現実には、薬害が医学的・社会的に認定されていく過程は、原則的関係と現実的関係との分離等がもたらす偶然によってむしろ支えられているとさえいえるものとなっており、薬害の多くが薬害として認定されることなく処理されてしまっているのである。
(1)病気と薬害
薬害の自明度
どのような薬害が薬害として認定されやすいのか、また通常の疾患すなわち病気として処理されてしまいやすいのかをまず検討してみよう。ある一定の症状が薬害であるのかどうかを判断する基準となるもの<0232<として、次の三つのものが考えられる。第一は、薬害が可逆的なものかどうかということである。薬害には、人間の自然回復力によって痕跡を残すことなく消え去ってしまうものもあれば、死というかたちの究極的に不可逆的なものもある。そして、この中間には、軽度・重度の障害として固定化するような不可逆的なものもある(サリドマイドなど)。第二は、薬害が通常の病気の症状にたいして特異性をもつかどうかということである。めまいや頭痛という症状を示す薬害がある一方で、下半身から始まるシビレが全身に及び、さらには失明するといった特異な症状(スモンを呈する薬害もある。第三は、薬害のもたらす症状の発現速度やその進行がゆるやかなものか急速なものかということである。ある種の薬害は数年以上も後にガンというかたちをとってあらわれるし、また別のものは投薬後短期間に症状があらわれる(抗生物質によるアレルギー反応、消炎鎮痛剤による消化器官の損傷など)。これら三つの基準に従って考えるならば、基本的には、可逆的、非特異的、そして発現速度や進行のゆるやかなものほど医師にとっても薬害として判断しにくく、通常の病気として処理される可能性が高いといえるし、逆に不可逆的、特異的、そして急速なものほど、薬害として判断されやすいといえよう。
このように、薬害の自明性の度合はこれら三つの基準によって基本的には測ることができるわけであるが、ここで注意すべきことは、この自明性が医師という専門家にとっての自明性であり、薬害の被害者等と共有された自明性ではないということである。医師にとってある症状が薬害によるものであることがいかに自明であろうとも、その医師による判断が被害者や他の医師等と共有されないかぎり、それは医学的に薬害として認定されたことにはならない。
薬害の隠蔽
そうである以上、これら三つの基準は、医師による判断における薬害の自明性の度合を測るものであって、薬害が薬害として医学的に認定される可能性の度合を測るものとはならないことになる。この両者の<0233<ズレが意味しているのは、薬害の隠蔽の可能性である。たとえば、急速で(第三基準)、究極的な不可逆性=死(第一基準)という条件を充たす薬害(抗生物質によるショック死など)は、薬害として判断される可能性がもっとも高く、それゆえに逆に医療過誤として責任を問われることへの不安から隠蔽されてしまう可能性が高まる。また、たとえこうした形態をとる薬害が医師から製薬企業に通知されたとしても、製薬企業がその情報を死蔵してしまえば結果は同じである。すなわち、薬害であることが容易に判断できまた死という重大な結果を伴うような薬害は、かえって組織間の現実的関係の内部で処理(隠蔽)されてしまいやすいのである。
こうした薬害の一つの典型的事例として、チバガイギー社の消炎鎮痛剤(ブタゾリジンとタンデリール)による薬害を挙げることができる。毎日新聞社が入手したチバガイギー社の内部資料によれば(25)、一九五二(昭和二七)年から八二(昭和五七)年までの間に両剤の害作用によって世界中で一、○八二人の死亡者(アメリカの「公衆市民保健研究グループ」は約一万人を推定している)が出ているという。三〇年間にわたってこうした重大な薬害が明らかにされてこなかったのは、両剤の引き起こす薬害の形態(急速な死ゆえの兄の隠蔽の可能性)がまさに強く影響していると思われる。しかもここで注目すべきことは、世界最大の薬害=スモンを出すほどに医薬品の使用量の多い日本において二人の死亡者(イギリスでは五一ニ人、アメリカでは三一一人)が厚生省の調査で確認されているにすぎないということである。この事実は、いかに日本においてこうした形態をとる薬害が隠蔽されてしまいやすいのかを物語っているといえよう(26)。
以上に述べたような薬害の隠蔽は、治療(投薬)の必要性を生み出した病気自身が重い場合、あるいは患者自身が老齢などで死が不思議なことでない場合などにその可能性がより大きくなる。別の言い方をすれば、薬害自身が正当化される。交通事故の負傷者への鎮痛剤の過剰投与によって引き起こされる薬害(死)、ガン患者に投与される制ガン剤の害作用による死などがそうした事例を構成している。<0234<
薬害が引き起こす症状のうちで、可逆的、非特異的で発現速度や進行がゆるやかなものは医師によっても薬害と判断されず、また逆に、究極的に不可逆的でその発現速度や進行の速いものは薬害と判定されても隠蔽されてしまう可能性が高い。このように多くの薬害は薬害として医学的にも社会的にも認定されることなく通常の病気あるいはそれによる死として処理されてしまうのである。薬害が病気として処理される以上、患者としての個人あるいは医薬品の消費者としての個人は、イマジナリーなものとなってしまっている個人と組織との原則的関係を現実に存在するものとして捉えつづけ、原則的関係と現実的関係との分離という組織にとって有利な状況は揺るがない。こうして、組織は、実際には薬害であるところの「病気」(たとえば「はじめに」で述べたガン)を拡大再生産し、みずからの商品の消費者、そして治療の対象となる患者を生み出していくのである。
(2)薬害の医学的認定
医学的認定の条件
多くの薬害は、薬害として医学的に認定されることなく病気として処理されてしまう。では一体どのような薬害が薬害として認定されるチャンスをもっているのであろうか。それは、先ほどの三つの基準に従っていえば、比較的ゆるやかな速度で不可逆的な変化(死を含む)を起こし、なおかつ症状に特異性があるものということになる。薬害がこうした形態をとる場合、医師は、その比較的ゆるやかな変化ゆえに因果関係を確定することが困難となり、即座にその症状を薬害によるものと判断することはできない。しかし、その不可逆的で特異な症状ゆえに医学的な関心をその症状に寄せることとなる。そして、たとえば医学会等において症例報告がなされ議論されるといったかたちで、この医学的関心が薬害の解明そしてその医学的さらには社会的認定へとつながっていくのである。こうした薬害の事例としては、全身のシビレ<0235<と視力障害・失明を起こすスモンや、やはり特異なかたちの視力障害を起こすクロロキン薬害、そして周知のサリドマイドを挙げることができよう。
しかし、こうした形態をとる薬害も、必ずその医学的認定へと辿りつくということにはならない。もしこうした薬害がその発生した医療現場において比較的短期間のうちに解明されるならば、先に述べたような隠蔽メカニズムがやはり働いてしまう可能性があるからである。こうした事例として、サリドマイド被害の辿った経過を挙げることができる。一九六一(昭和三六)年一二月に東京の筑地産院からサツドマイド被害児の出生が大日本製薬にたいして報告されているが(一九五九年から六二年にかけての三例からサリドマイド剤との関連を推定)、その報告は同社において死蔵され、マスコミによって被害が報道された後にはじめて同剤の回収が決定(六二年九月)されることになる(27)(筑地産院からの報告と相前後する時期にすでに西ドイツでは同剤の回収が決定されており、回収が遅れた一〇ヵ月の間に日本ではサリドマイド被害が発生しつづけたことを考えるならば、いかに製薬企業による薬害の隠蔽が徹底したものであるかが理解されよう)。
薬害が薬害として医学的に認定されるためには、薬害が特定の形態をとることだけではなく、その薬害が医学会やマスコミという社会的な場において問題として提起されるといった条件が必要となるのである。そうなってはじめて薬害の隠蔽すなわち組織間の現実的関係内蔀での薬害の処理は不可能となり、薬害としての認定がなされるのである。
スモン・ウイルス説の逆説
以上、薬害が医学的に薬害として認定されるための条件を考えてきたわけであるが、医学的認定に至る実際の過程はさまざまな経緯が複雑に絡み合ったものとなっている。そして、この過程をさらに検討することによって薬害の顕在化過程を分析すること自身の意義を明らかにすることができる。
不可逆的な変化を起こしなおかつ症状に特異性がある薬害として、先にスモン、クロロキン薬害、そし<0236<てサリドマイドの三つの例を挙げておいたが、ここでは、外国においてすでに社会問題化しその因果関係も明らかにされていたクロロキン薬害やサリドマイドではなく、外国では社会問題化するほどの規模で発生しておらず、日本において独立した経過を辿ったという点において、より純粋なかたちで薬害の顕在化過程を示していると考えられるスモンを取り上げて考えてみよう。
スモンが特異的で不可逆的な「新しい病気」として注目され始めたのは、一九五八(昭和三三)年の近畿精神神経学会において症例報告がなされてからであるという(28)。以後、各地の内科学会等で症例報告が相次ぎ、一九六四(昭和三九)年にはついに日本内科学会のシンポジウムのテーマとして取り上げられることとなり、これ以後「スモン」という名称が使われ始めることになる。そして、この前後からスモンのウイルス感染説が主張されるようになり、マスコミによる報道も増加していく。これと並行してスモン患者にたいしてさまざまなかたちの差別がおこなわれるようになり、一九六七(昭和四二)年以降、差別とスモン自身による苦しみとを分かち合い病源の発見・治療法の確立を訴えるために各地にスモン患者の会が結成されてゆき、一九六九(昭和四四)年には「全国スモンの会」が結成されることになる。この間、厚生省は一九六四(昭和三九)年にウイルス学の権威者を班長とする研究班を編成しスモンの原因究明にあたらせたが、この研究班は原因究明に至らぬままに一九六六(昭和四一)年に解散している。しかし、一九六九(昭和四四)に世論に押されて再び厚生省は「スモン調査協議会」を結成することになる。そして、一九七〇(昭和四五)年には、井上ウイルス説のマスコミによる大々的報道によって差別が深刻なものとなり多くの自殺者を出すという悲劇的な経過を辿りながらも、同年八月に同協議会内のグループによってキノホルム説が発表され、スモンの原因論に関する論争は医学上は終息する。
これが、スモンが薬害として医学的に認定されていく過程の概略であるが、ここでは、ウイルス説がスモンという薬害の顕在化過程においてもった意味について考えてみよう。ウイルス説は、それが裁判過程<0237<において製薬企業に悪用されたこともあって、薬害としてのスモンを歪曲するものとして批判されてきた。たしかに、スモンの原因論ウイルとしてのウイルス説は、キノホルム説への到達を遅らせ、また差別そしてそれ幼ゆえのスモン患者の自殺を生み出したものとして否定されねばならない。しかし、このウイルス説がスモンという薬害の顕在化過程において果たした逆説的な役割(潜在機能)も見逃すことができない。スモン被害は、その症状が通常の病気と異なった特異的なものであり、また特定地域で多発したことなどから、未発見のウイルスによるものではないかと考えられた。そして、このことが、多くの医師の医学的研究関心を引き起こし、マスコミにたいしてはスモンのいわゆるニュース・バリューを高める一方で、差別を生み、患者の組織化を促し、さらに厚生省によるスモン研究班の設置を引き出すというかたちで、個人間、組織間、そして個人-組織間といったさまざまなかたちのスモンをめぐる相互作用のいわば展開軸となったのである。つまり、スモンの多発とともに、スモン・ウイルス説が、薬害としてのスモンを社会問題化し、その隠蔽(現実的関係内部での処理)を不可能にするという役割を結果として果たしたことになるのである。むろん、ウイルス説が結果的に果たしたこうした役割を論じることと病因論としてのウイルス説を肯定することとは、当然のことながらまったく異なったことである。
薬害顕在化の偶然性
1節において、われわれは、原則的関係と現実的関係との分離が薬害を生むこと、および医師と製薬企業との間に病因論に関して認識のズレがあり、医師が病因論に関してはイマジナリーなものとなっているがゆえに破棄されるべき原則(化学的病因論を欠いた細菌学的病因論中心の病因論体系)に執着しているのをみてきた。病因論におけるこうした原則への医師の執着が生み出したものこそ、ここで今論じているスモン・ウイルス説にほかならない。しかも、このスモン・ウイルス説がスモンを社会問題化し、逆説的ではあるがその解明に向かわせたのである。言い換えれば、治療(投薬)の側面においては製薬企業と現実的・<0238<共謀的関係を結んでいるところの医師が診断(病因論)の側面において現実に適合しない原則に執着したこと、このことが薬害の解明につながったのである。すなわち、スモンが治療(投薬)の側面において医師みずからが製薬企業と結んでいる現実的・共謀的関係の産物"薬害であることを明らかにしたのである。医師にとってもこうした逆説的な結果は驚きであったにちがいない。スモンのキノホルム説の確立に寄与したとされる医師が井上ウイルス説発表以前の時期に「スモンの原因については、おおよそ見当はつきました。しかし、あまりに影響が大きいので今は言えません」と患者にもらしたといわれているが、まさに彼のこの言葉はこうした驚きを端的に表現したものといえよう。しかし、キノホルム説の確立は患者にとっては福音のはずであり、いったいだれに「重大な影響」が及ぶのをこの医師は恐れていたのであろうか。それは現実的関係を構成する諸組織(医師、製薬企業、国)であると考えるのが妥当であろう。そうであるならば、こうした発言のなかにウイルス説の果たした役割の逆説性が如実にあらわれているということができるのではなかろうか。
原則的関係と現実的関係との分離は、一方では薬害発生を構造的に必然的なものとし、また一方では、以上に述べたように薬害の解明に結果的に貢献するという役割を果たしたのである。ここでわれわれが結論づけることができる一つのことは、薬害が医学的にまさに薬害として認定される過程、すなわち薬害の顕在化過程がいかに偶然によって支配されているかということである。薬害が、比較的ゆるやかな速度で不可逆的変化を起こしなおかつ症状が特異的であるといった形態の薬害であること、そして、現実的関係の一構成員である医師が病因論に関してだけは原則に執着していたこと、こういったいくつかの偶然が重なり合わなければ、たとえばスモンという薬害は解明されなかったのではないかということである。逆にいえば、いったいどれほど多くの薬害が薬害として医学的に認定されることなく処理されてしまっているかということである。<0239<
(3)薬害の社会的認定
薬害が薬害として医学的に認定されること、このことは、それだけで薬害被害者の救済やその被害の賠償に結びつくわけではない。救済や賠償は、薬害を生み出した現実的関係を構成する諸組織(製薬企業、医師、国)が薬害の責任をみずからに帰属するものであると認めないかぎり不可能である。こうした諸組織がその責任を認めてはじめて薬害は医学的にだけではなく社会的に認定されたことになる。
現実的関係を構成する諸組織は、しかしながら、薬害の責任を容易に認めることはないし、さらには当該の薬害が本当に薬害であったのかどうかという疑義をはさみ、医学的認定自身をも問題とするという立場を取る。そうである以上、被害者の運動は、必然的に訴訟というかたちをとらざるをえないことになる。しかし、訴訟が提起されるまでの過程においても、またその後の過程においてもさまざまな問題が存在し、薬害の社会的認定を阻害するものとなる。
被害者の組織化の問題
まず第一に、薬害被害者自身の組織化という問題がある。職場災害や公害の場合には存在するような組織化のための集団的基盤(職域集団としての労働組合や地域集団としての自治会等)が薬害の場合には欠けており、マスコミなどをとおして全国各地に散在している被害者を掘り起こしていくという作業がまずおこなわれねばならない。マスコミなどに社会問題として報道されないような薬害の場合には、この段階においてすでに運動として展開していく可能性を奪われてしまうことになる。さらに、訴訟の可能性が高まった場合においても、国や製薬企業との直接交渉によって救済をはかろうとするグループと訴訟を推進しようとするグループとに被害者組織が二分されるといった可能性も生じてくる。こうした被害者の組織化の問題は、訴訟に至った段階においても、統一訴訟か各地域での分離訴訟かなどといったさまざまなかたちの<0240<問題としてもあらわれることとなる。
訴訟上の問題
薬害被害者の組織化の問題とともに重要なのは、訴訟上の問題である(31)。無過失責任論の可能性を追求するのか、あるいは過失責任論で対処するのかという問題。また過失責任論に依拠した場合の予見可能性および結果回避義務違反の立証という原告被害者にとってもっとも困難な問題への対応、言い換えれば、被害者の眼には隠されている組織間の現実的関係そのものを解明するという問題への対応。さらに、薬害訴訟の遂行に多くの示唆を与えたといわれる四大公害裁判においてはみられなかった、国の責任を問うというかたちの訴訟をいかに維持するかという問題。たとえばこの問題は、第一節で述べたように国が薬事法をいわゆる警察法として解釈することによって展開する反射的利益論や自由裁量権論にどう対処すべきかという問題としてあらわれる。そして、これらの問題の前提として当該の医薬品と薬害との因果関係の立証の問題があるし、最後には、個別の被害者における同様の因果関係の立証という問題(投薬証明等)がある。
薬害被害者の組織化そして訴訟上の問題というこれら二つの大きな問題をクリアしてはじめて原告被害者は訴訟を勝利に導くことができ、薬害の医学的認定を社会的認定へと高めることができるのである。
以上のように、薬害がまさに薬害として医学的にまた社会的に認定されていくためには、さまざまなかたちの偶然性や薬害被害者の身体的不自由を押しての努力等が必要となるのである。ひとたび原則的関係と現実的関係との分離が生じそこから薬害が生み出されてしまうと、現実的関係を解明することによって薬害の原因を探り、薬害を発生させた主体に法的・社会的責任・を帰属・確定することは、あまりにも困難な作業となるのである。薬害が通常の疾患つまり病気とみなされてしまうのには、医師の個人的判断だけで足りる。身体の不可逆的な変化という大きな代償を払っても薬害が薬害として容易には認定されないと<0241<いうこととこのこととを比べるならば、そこにはあまりにも大きな対照性があるといわねばならないであろう。
3 薬害防止の可能性
薬害の「不在」
薬害スモンは、その発生後一〇年を経て医学的認定(キノホルム説―一九七〇年)に至り、さらにそれ以後一〇年の歳月を経てようやく社会的に認定された(確認書和解―一九七九年)。そして、この和解と同時に改正薬事法と医薬品副作用被害救済基金法が成立し、スモン訴訟を含む薬害告発運動は一つの大きな区切りを迎えることとなる。これは、スモン被害者の恒久的救済と薬害の根絶とをめざして運動を展開してきた人びとが手にしたまさに大きな成果である。
しかし、こうした法の改正や制度の設立によって、それ以後薬害発生の可能性が著しく減少したとは必ずしもいえない。現に、先述したチバガイギー社の消炎鎮痛剤による薬害(一九八四年に発覚)をめぐる同社や国の対応ぶり―同社の副作用報告義務(薬事法)違反ならびに国の消極的な対応―や日本ケミファのデータ捏造事件(一九八二年)の存在等は、薬害の構造的必然性の残存・存続の明らかな証左とみなすことができる。スモン訴訟という象徴的な薬害裁判の和解そして薬事法の改正後においても、薬害や薬害被害者は現実的関係を構成する諸組織にとって「不牲」あるいは「不在者」のままであるとすらいえるのである。薬害裁判を契機として組織化されていた薬害被害者は、裁判終結とともにその組織としてのパワーを減退させ、国や製薬企業にとって無視することのできない存在でありつづけることをやめ、極論すれば、国にとってはいわば予算上の額として、また製薬企業にとっては損益計算上の数字として薬害は存在<0242<しているのである。また、おもに投薬証明の必要性からスモン訴訟においてその法的責任を免責されてしまった医師の場合も、薬害を防止し解明するために必要な化学的病因論を欠如させたまま診断や治療を彼等がおこなっている以上、薬害は医学上「不在のもの」でありつづけているのである。
法改正の落とし穴
では、いったいどうすれば薬害を防ぐことができるのであろうか。薬害防止策として従来もっとも重視されてきたところの法改正や制度設立が孕む問題を考えることをとおして、この課題について最後に考えてみよう。
「はじめに」において述べたように、薬害に関する従来のアプローチは、薬害を発生させた主体への社会的・法的責任の帰属・確定を第一義としたことから、薬害の原因をそれらの主体の倫理性(社会的責任感)の欠如に求めるというかたちをとってきた。そして、こうした論理から典型的に導き出されてくる薬害防止策は、法改正や制度設立によって製薬企業等にたいする統制・規制を強化していこうというものであった。ところで、7節で述べたように、製薬企業、国あるいは医師といった組織間の関係は、それぞれに専門性をもった主体間の法的関係を基礎として存在しているがゆえに、個人と組織との関係よりも相互により直接的な接触や交渉をもつ関係となっていた。そして、組織間の関係がこのように直接的なものとなっていることが原則的関係と現実的関係との分離を引き起こし、それが薬害発生を構造的に必然的なものとしていた。すなわち、組織間で法の解釈や運用をめぐって直接的接触・交渉がもたれる可能性が高いことが、原則的関係と現実的関係の分離を生むというかたちで、薬害発生の一つの引き金になっていたわけである。そうであるならば、法改正や制度設立が薬害防止策となるという考え方には、思わぬ落とし穴があるということになる(32)。法改正や制度設立の目的は、当然のことながら製薬企業等への統制・規制の強化によって薬害防止の実効性を高めようとするものである。しかし、国による統制の強化は国と他の組織との間に法<0243<の解釈や運用をめぐって直接的接触・交渉がもたれる可能性を従来よりも高め(一九八三年の産業スパイ事件は国が設定する新薬の承認基準についての詳細な情報の獲得を一つの目的としたものであるといわれる)、このことが法改正に託した期待とは逆に原則的関係と現実的関係との分離をいっそう促進する可能性を高めるのである。言い換えれば、法改正による統制の強化が国と他の組織とのいわゆる癒着を深めるというパラドックスに陥るのである。ただ法改正前と異なるのは、たとえば製薬企業の場合ならば、国による統制強化に対抗しうるような大手の製薬企業により有利なかたちで嶽着が進行する可能性が高いという点である(33)。
法改正や制度設立がもつ落とし穴としては、他に、医薬品副作用被害者救済制度といった制度がもつ問題を指摘することができる。その問題とは、この制度が、原則的関係から分離・遊離しているところの現実的関係を基本的に容認した上で、そこから構造的必然性をもって生み出されてくる薬害被害者をいわば事後的に処理することだけを目的とし、事前の薬害防止に必ずしも結びつかない、という問題である。すなわち、薬害発生をいわば製薬企業にとっての災害であるかのごとくにみなし、被害者救済制度を災害保険として位置づけてしまうという問題である。
このように、薬害防止策を法改正や制度設立に求めることは、新たに成立した法や制度が現実的関係を構成する組織に利用されることによって、当初の期待とは逆の結果を生むという危険性をもっているのである。言い換えれば、こうした方策は、現実的関係のなかに原則的関係を浸透させるというよりも、たとえば被害者救済制度がそうであるように、むしろ逆に、後者の原則的関係のなかに現実的関係を介入させ、その現実的関係の存在を結果的には法的・制度的に許容するということになりかねないのである(34)。
薬害防止の可能性
では、どうすればいいのか。2節において、われわれは、薬害が医学的・社会的にまさに薬害として認定されていく過程すなわち薬害の顕在化過程において偶然性がいかに大きな役割を果たしているのかをみ<0244<た。そして、われわれは、この偶然性が果たした役割から薬害防止策を考える際の教訓を得ることができる。
薬害の顕在化を促したいくつかの偶然性のうちの一つの主要なものは、2節で述べたように、現実的関係の一構成員である医師が病因論に関してだけは原則(細菌学的病因論中心の病因論体系)に執着していたこと―このことであった。医師は、診断(病因論)の側面においては原則的関係に近い視点から、治療(投薬)の側面においては現実的関係にもとつく視点からそれぞれ患者としての個人をみており、このズレが結果として薬害の解明につながったのである。すなわち、ある一つの対象を複数の視点から捉え、多重の意味をその対象に与える主体の存在が薬害の顕在化につながったのである。問題はこの複数の視点をもつ主体の存在が偶然のものであったという点にある。そうであるならば、医薬品やその消費者である個人を複数の視点から捉え、それに多重の意味を付与する主体を偶然性によってではなく確保すること、このことが薬害防止の一つの大きな決め手になるということになる。こうした主体の存在が薬害の顕在化につながった事例として、「はじめに」で述べた大鵬薬品のダニロン事件における内部告発を挙げることができる。同社の研究部のスタッフが企業人としての視点ばかりではなく研究者としてのあるいは劣悪な労働条件に苦しむ労働者としての視点をもつといったかたちで複数の視点を確保していたこと、このことが彼等を抗炎剤ダニロンの発ガン性を内部告発するという行為に至らしめたのである。
こうした主体を確保する具体的な方策としては、いくつかのものを挙げることができる。一つには、今ここでも取り上げたように、新薬の開発に直接携わる製薬企業の研究スタッフがみずからの視点の複数性(企業人として、研究者として、そして労働者としての)を維持できるようにすることである。たとえば、企業の枠を越えた研究スタッフの連絡会議を設けること、あるいは研究スタヅフを主体とするものではなくとも彼等からの内部告発の受け皿となり、それをチャンネルづけるような情報センターとしての役割を果た<0245<す市民団体を形成することである。これと類似の対策としては、製薬企業の労働者のやはり企業の枠を越えた組織(既存のものであれ新規のものであれ)の充実をめざすことである。また、医師にたいする薬学教育といったものも、こうした視点の複数化という方策の一つとして挙げることができよう。
これらは、複数の視点を一つの主体の内部に確保することによって薬害の防止をはかろうとするものであるが、こうした方策の裏返しとして、一つの対象をさまざまな主体がそれぞれに固有な視点から捉えることができるようにし、薬害の防止を図るという方策を考えることができる。これは、典型的には組織間の現実的関係の内部に、患者、消費者そして国民としての個人を代表するような第三者を介在させ、その第三者の視点から現実的関係をチェックするというかたちをとる(35)。たとえば、ヨーロッパの一部の国々ですでに取り入れられているオンブズマン制度(行政監察専門員制度)のようなものを導入することである。この方策の一つの有力なバリエーションとして、第三者の介在の代替機能を果たす情報公開がある。たとえば、一九七九(昭和五四)年の薬事法改正時に付帯決議された「製造承認、再審査及び再評価の資料は公表学術文献によるとの原則をさらに徹底させる」といった方策を押し進めることである。ここで取り上げたオンブズマン制度にしろ情報公開にしろいずれも先に批判したところの法改正や制度設立によって薬害防止をはかろうとする方策の一種であることに変わりはない。しかし、これら二つのものは、先に批判したものが国による統制強化を主眼とするものであるのにたいし、国以外の特定(オンブズマン制度)あるいは不特定(情報公開)の第三者の視点の介在によって薬害防止の実効性をあげようとする点において質的に異なったものとなっているのである。「国に依存するかたちでの防止策から、市民を一つの核としつつ、国を原則的関係に引き戻し、別の一つの核とするようなかたちでの薬害防止策が今切望されているのである。
(1)厚生省『人口動態統計』一九八三年版。<0246<
(2)合化労連ニチバン労働組合『大鵬薬品労働者の実態―大塚グループの虚像と実像―』一九八二年、三ページ。
(3)高杉晋吾『黒いカプセル―死を招く薬の犯罪―』合同出版、一九八四年、一五六ページ。
(4)水巻中正『崩壊する薬天国』風涛社、一九八三年、一八〇‐一九四ページ。安藤政秀他『薬品業界・悪の構図』エール出版社、一九八二年、八九‐一二五ページ。
(5)高杉、前掲書、一五七‐一五九ページ。
(6)淡路剛久『スモン事件と法』有斐閣、一九八一年、一一四ページ。
(7)宮本真左彦『サリドマイド禍の人びと―重い歳月のなかから―』筑摩書房、一九八一年、四九‐七八ページ。
(8)社会現象にたいするこうしたアプローチの仕方は、シンボリック相互作用論と呼ばれる社会学の一つのパースペクティブに典型的にみられる(cf. Blumer, H., Symbolic Interactionism, Prentice Hall, 1969. 宝月誠「シンボリック相互作用論」新睦人・中野秀一郎編『社会学のあゆみパートU』有斐閣、一九八四年)。また、このシンボリック相互作用論にもとつく調査論については、Denzin, N. K., The Research Act, Aldine, 1970. を参照。
(9)スモンの会全国連絡協議会編『薬害スモン全史』第二巻、労働旬報社、一九八一年、二八九、三一四ページ。
(10)下山瑛二「薬害と国の責任」『ジュリスト』五四七号、有斐閣、一九七三年、六六‐六七ページ。
(11)患者としての個人と医師(組織)との関係については、その関係を間接的と呼んでしまうことにはむろん無理がある。しかし、現代のように人びとの地域的・社会的移動が激しく医療の専門分化の進んだ社会においては、以前のような患者と医師とのパーソナルな関係は成り立たず、患者は医師にとってむしろ単なる顧客としてまた特定の疾患の現象形態として存在しているというべきであり、こういった意味において両者の関係を間接的なものとみなすことができる。
(12)特に、国と製薬企業との関係は、製薬企業から申請される新薬の製造承認等をめぐって密接なものとなる。医薬品業界は他の業界と比べて「行政的要因が大きい」業界であるといわれている(吉永俊朗『医薬品業界』教育社、一九八二年)。
(13)現実的関係が原則的関係から分離・遊離すればするほど、原則的関係は、非現実的でイマジナリーなものとなる。原則的関係と現実的関係との区別ならびに用語については、Pearce, F., Crime, Corporations and the <0247
(14)高杉、前掲書、一三七‐一四四ページ。
(15)高野哲夫『日本の薬害』大月書店、一九七九年、二〇〇‐二〇ニページ。
(16)共謀関係の社会学的分析については、E・ゴッフマン、石黒毅訳『行為と演技―日常生活における自己呈示―』誠信書房、一九七四年、二〇七‐ニニ三ページ、を参照。
(17)水巻、前掲書、一四‐四二ページ。
(18)高橋胱正「薬害と医師の責任」『ジュリスト』五四七号、有斐閣、一九七三年、六一ページ。
(19)クロロキン全国統 訴訟原告団・弁護団編『クロロキン薬害事件資料集』第一巻、ラ・モデンナ、一九八一年、六六‐八四ページ。
(20)高野哲夫『だれのための薬か―社会薬学序説―』海鳴社、一九八五年、九九‐一〇〇ぺージ。
(21)原則的関係は、製薬企業や国といった組織の運営等と個人の健康の維持.増進とのいったどちらが優先性をもっているのかを明らかにしている。しかし、原則的関係には、こうした各主体間の関係のあるべき姿を示すという側面だけではなく、たとえばここで今論じているような医薬品の作用とはいったいどういうものなのかという事実認識にかかわる側面が含まれている。そうである以上、原則的関係が内包する原則のなかには、事実に適合しないがゆえに破棄されるべき原則が含まれている可能性があることになる。こういった意味において、医薬品の作用を主作用-副作用という基準に従って捉える原則などはまさにこの破棄されるべき原則ということになる。
(22)高野、前掲書(一九七九年)、一〇七‐一〇八ぺージ。
(23)注(21)参照。
(24)高野、前掲書(一九七九年)、一七四‐一七七ページ。<0248<
(25)『毎日新聞』(一九八四年二月九日付)。高杉、前掲書、二六ニ‐二六七ページ。
(26)ただし、このことが欧米の製薬企業の健全さを意味するわけではない。アメリカの製薬企業は他の業界の企業の三倍以上( 企業当たり)もの法律違反をおこなっていると報告されている(Clinard, M. B., et al., Illegal Corporate Behaviour, Law Enforcement Assistance Administration, 1979. )。欧米の製薬業の実態については、Braithweite, J., Corporate Crime in the Pharmaceutical industry, Routledge & Kegan Paul, 1984.を参照。
(27)宮本、前掲書、五三‐五六ページ。
(28)亀山忠典他編『薬害スモン』大月書店、一九七七年、一四‐一五ページ。スモンの経過についての以下の記述も同書(一二‐三七ぺージ)による。
(29)高橋胱正・水間典昭『裁かれる現代医療―スモン・隠れた加害者たち―』筑摩書房、一九八一年、七〇ページ。
(30)サリドマイド事件においてドイツのグリュネンタール社からサリドマイド剤の回収決定の通知が大日本製薬にもたらされた際、同社は原生省と協議しながらも「回収は社会不安を起こす」として放置し、被害の続発を許したといわれているが(宮本、前掲書、五三ページ)、ここでいう「社会不安」の社会」とは諸組織が構成する現実的関係のことを指していると考えるのがやはり妥当であろう。
(31)淡路、前掲書、ならびに前掲『薬害スモン全史』第二巻参照。
(32)法改正や制度設立が企業に抜け道を与えることになるといったパラドックスについては、Sutton, A, and R.Wild, Corporate Crime and Social Structure, in Wilson, P. R., and J. Braithwaite (eds.), Two Face参照。
(33)「医薬品の製造承認等に関する基本方針について」という一九六七年に出された通知は、表面上、製造承認
された医薬品の副作用についての報告義務(二年間)を定めたものであるが、実質上、「最先の発明品でもない医薬品の先発権を保護する」ものであり、大手製薬企業に有利なかたちで「取引の自由にたいする不当な介入をもくろむ裁量権の濫用である」との指摘がなされている(山内一夫「薬務局長通達『医薬品の製造承認等期に関する基本方針について』に対する批判」『ジュリスト』四七三号、有斐閣、一九七一年)。<0249<
(34)W・H・リースマンは、「神話システム」が依然として健在であることを人びとに再確認させることを中心的目的とし実際上適用されることのない法、あるいは抜け道が設けられていて実効性のない法をそれぞれ擬似的なる法(lex simulate)」、「不完全なる法(lex imperfecta)」と呼んでいる(前掲書、四五‐五〇ページ)。
医薬品副作用被害者救済制度の適用申請が周知不徹底から設立後三年間で「わずか一三三件(その内支給は六六件)にすぎない」(高野、前掲書、一九八四年、一五一昌一五ニページ)ことをみるならば、まさにこの制度はリースマンが「不完全なる法」と呼んだものの一つの典型であるといえよう。
(35)ブレイスウェイト(J. Braithwaite)も、薬害防止策としてこうした第三者のチェック機能を強調している(op. cit., pp. 376‐383.)。ただし、彼は、国にたいして強い規制権限を与えることに否定的ではなく、国による規制と第三者によるそのチェックとの併存を薬害防止のためのもっとも望ましい方策であると考えている。
*作成:北村健太郎