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『差別構造の解体へ――保安処分とファシズム「医」思想』
高杉 晋吾 19720229 三一書房,284p.
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last update: 20180225
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高杉 晋吾
19720229 『差別構造の解体へ――保安処分とファシズム「医」思想』,三一書房,284p. ASIN: B000J9OVWA 1000
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※ m.
T 福祉幻想解体への序章
U 増殖する福祉ゲットー
安楽死と強制収容所 112-125
V 「七〇年代医療」の恐怖図
W 暴力装置化する医療
X 「恐怖と幻想」からの解放
T 福祉幻想解体への序章
U 増殖する福祉ゲットー
府中療育センター 53-
府中療育センター 63-
横浜での事件 78-
コーエン『強制収容所における人間行動』 81
八木下 97
◆19710205 「安楽死と強制収容所」
『朝日ジャーナル』1972-2-5→高杉[19720229:112-125]
『婦人公論』117-
「第二次大戦中の松沢病院で、入院患者の五〇%は餓死させられた。そして何よりも、一九三三年、第三帝国を築き上げたヒトラーの思想、ナチズムそのものが、国家にとっての利用度から人間を差別する思想体系の全面的完成の上にたてられたものであった。
医療費、社会保険に対する全面的批判とその赤字対策を野蛮に実行しつつあるヒトラーが、一九三九年、ポーランド侵攻を計画し実施する直前、奇形で盲目、白痴、片腕と片足の一部のない自分の子の安楽死をヒトラーに請願してきた父親がいた。ヒトラーはカール・ブラント博士に命じて、安楽死の許可を与えさせた。「拝啓」の先輩がここにいたのである。<0123<
この事件が世論にいかなる刺激を与えたかは想像することができる。そしてすでに、不治の遺伝病に苦しむ人々に対して負担せねばならぬ巨大な出費数百億マルクの出費をなんとしても切ろうと考えていたヒトラーは、このうってつけの事件をフルに利用し、計画的な大量「安楽死」計画を実施した。
カール・ブラントと、フィリップ・ブーラーを頂点とする鑑定医群は、各精神病院に送られた質問書(とくに患者の労働能力、労働価値)に対する回答をもとに、書類で患者の生死を決定し、家族には偽の死亡通知書を送って、二七万五千人の精神病者、心身障害者をガス室に送り込んだ。
この経験が、大量隔離への誘導技術、大量収容と支配・管理、大量殺戮の技術として完成し、ナチス国家の支配体制を支える基本的暴力装置として完成し、ドイツ国民や他の被征服民族への恐怖支配の根源となったことは、人も知るところだ。この安楽死計画に敢然と反対して立上がったミュンスター教会の司教フォン・ガレンは、ヒトラーが安楽死を強行した理由をつぎのように指摘している。
「彼らが殺されるのは、彼らが《非生産的》と評定されたからだ」と。」(高杉[1971→19720229:112-125]
→
優生・ナチス・ドイツ
V 「七〇年代医療」の恐怖図
京都精神障害者家族会「あけぼの会」 129
日課表 150
W 暴力装置化する医療
ロボトミー 189-
X 「恐怖と幻想」からの解放
■紹介・引用
以下は、
十全会闘争
(1967-)/
烏山病院闘争
(1969-)にも掲載しています。
V「七〇年代医療の恐怖図――「近代的」精神医療とは何か? 128-168
「1 「七〇年代医療」の恐怖図
この肖像はだれのものか
『ドリアングレーの肖像』(オスカー・ワイルド)という小説は奇怪な比喩に満ちていたが、美貌と青春を永遠に望んだ青年が、老いと醜さを肖像に身代りさせ、次第に老醜を増す己れの肖像に恐怖し、肖像をナイフで突刺した瞬間、現実の己れ自身がありとあらゆる醜怪さを全身に吹出しながら死に絶え、美貌と青春を誇る肖像のみがニコヤカに残った、というお話であったと思う。
京都で随一を誇る医療法人「十全会」の精神病者に対する人権侵害事件を取材していた私に、しばしば去来したのは、十全会という奇怪な肖像は、日本の精神医療、いや日本の医療すべての問題を一身に集めた一つの姿ではないか、という感想であった。
「十全会問題」にショックを受ける医療関係者のすべては、そこに、己れの姿の近い将来の到達点を見出すのではないだろうか。
十全会問題の取材の最中に、阪大や大阪市大などのおもに医学部志望者の入試問題盗難事件が報道された。刑務所を舞台にして、医学部入学試験が荒稼ぎの材料となり、稼ぎの問題では犯人同士の殺人事件まで巻起こし、それが事件発覚の端緒になった、などというのは、あまりにできすぎた話で、私にはいまだに現実感がともなわない。
だが、これは日本の(というよりは資本主義体制下の)教育問題の本質を語る上で、まことによき教<0128<材である。入学に何千万円かかろうとも、投資してしがいのある産業に、日本の活力ある資本家群が注目しないのがおかしいのであって、このような事件は起こらなければ不思議なのである。それと同様の意味で、医療マーケット問題ともいえる「十全会事件」は、日本の医療制度のもとにあっては、こうならない方がおかしいくらいの事件だといえばいえるのだ。
氷山の一角、虐待の実例
「七〇年代医療の先取りやね。たしかに、日本の医療制度、医療保険制度からいったら、みな大なり小なり似たようなもんだ、といえんこともない。とくに精神料の医療は困難だが、しかし、十全会の問題はだからといって批判の手をゆるめるわけにはいかん」と語るのは、京大精神科講師高木隆郎氏。「だってそうでしょう。われわれは戦後、食糧事情のひどい時期、みんな大なり小なりヤミをやった。しかし、それを口実にしてヤミのさまざまな方法を体系化し、専門の事業にしてトラックで荒稼ぎするものと、庶民のヤミとはいっしょにできん。たしかに頭のよい奴はそういう状況を逆用して荒稼ぎする。いわば状況の先取りだ。十全会事件もそのようなものだ」
高木隆郎氏は京都の精神障害者家族会「あけぼの会」の代表。あけぼの会は昨年四月に発足した。この会に結集を始めた京都の精神障害者家族から期せずして集中したのが、京都の精神障害者の五分の一以上を収容する十全会系(理事長赤木孝氏)三病院、東山高原サナトリウム、双岡(ならびがおか)病院、ピネル病院の精神障害者に対する数々の虐待の訴えであった。
一二月二八日、あけぼの会を主体にして京都府患者同盟、身体障害者団体連合会、社会福祉問題研<0129<究会などで結成した「十全会を告発する会」は、さまざまな患者家族の訴えの中から動かぬ証拠を捉えることができた三つの事件を京都地検に告発した。
告発の事実を要約すると、
@ 医師池田輝彦は、双岡病院に入院中であったAが、食事の差入れについて看護人に文句をいったため、懲戒を加えようと企て医療の必要性もないのに、両手両足をベッドにしばりつけるなどの暴行を加えて三日間放置し、右腕関節ざ創、右手指運動障害を負わせたので監禁致傷で告発する。
A 医師酒井泰一(告発事実については被害者の手記を後に紹介する)を監禁傷害で告発する。
B 医師国吉政一は、東山高原サトナウムに入院中であったCが、飲酒行為についてしかられた後で「国吉をやってやる」と叫んでいたことを聞いて立腹し、他の患者への見せしめとして懲戒を加えようと企て、同人の両手両足をベッドにしばりつけ、一日あたりイソミタール一・五グラム、トリパルドール一五ミリグラム、セレネース一五ミリグラム(いずれも通常の三〜四・五倍)を連日注射し、さらに電気ショックを加えるなどの暴行を加えたことにより、意識混濁、全身衰弱などの傷害を負わせ、四日目にいたり、吐物による窒息死にいたらしめた。傷害致死で告発する。
告発内容にふれた@、Bはいずれも報復的・懲罰的意図が見られ、医師の病院における権力のあり方に恐怖さえ覚える。この三つの告発に共通しているのは、いずれも、患者をベッドヘくくりつけ、あるいは医学常識に反した大量薬液投与をおこなっていることだ。
しかも、Bの事実は患者がアル中であると同時に、重症の結核患者であった。それに通常の三倍の薬を投与し、一日一回、週三回が限度の電気ショックを一日に三回も施した事実は、業務上の事故で<0130<あり得ないというのが告発側の判断であった。
Aの事件について、被害者(若い女性)はつぎのように京都府議会厚生労働委員会(灘井五郎委員長)で証言している。「診察を受けるなり、暴れもしないのに、両手をきつく引っぱられ、冷たく閉ざされた鉄のドアのなかにほうり込まれ重いカギの音がガチャン。『何をするのです』という私の声も聞かれぬままに、両手をベッドにくくりつけられ、はずかしいことにパンティーもぬがされましたが、両手をくくられているため、抵抗もできません。驚きと興奮で呼び叫ぶと『やかましい』と注射をうたれ、三日間ほど何も知らずに眠りつづけましたが、ふらふらした頭の中で目がさめ、あたりをまわすと、八人の患者さんが、私と同じように両手をしばられ、きんきんにはれあがった両足にリンゲルをされていました。
恐怖感に目をそむけようとしたとき、看護婦さんが五〇〇ミリリットルのリンゲルを持ち、私のヘ近よって来られます。私は食欲もありましたのでまさか私にするとは思いませんでしたが、くくられた私の両足にリンゲルを注入されました」
彼女はこうして三週間、食事を与える代りにリンゲルを、便所に行く代りにおむつをされたままベッドにしばりつけられていた。彼女は、いま、市内の榎本診療所(社会福祉問題研究所事務所)で働いている。
「少しよくなると作業療法といって働かされました。看護婦さんはパートでいる時間が限られています。だから患者さんの世話は私たちがやるんです。夜、看護婦さんがいないとき、首吊り自殺した患者さんの縄をほどいて、人工呼吸めいたことまでやりました。よくなったら準職員にして、月一万円<0131<の給料をあげるって教えられていました。別に疑問も持たなかった……」
無邪気に語るBさんの横で、告発する会のE医師が、強い憤りを語る。
「精神病患者が一時的に興奮しても、ベッドにしばりつけたりする必然性はないっていうじゃないですか。まして二十数日間もしばりつけたままにするなんてのは、言語道断ですよ。それが一人や二人じゃない。何人もしばりつけられ、リンゲルをうたれている。食欲があるのにリンゲルをうつなんて話は聞いたことがない。よくこんなことが医療費として請求して通るもんだと思いますね。医学常識上あり得ないことですよ」
このようにして「ハシが転ぶ」
七〇年九月二五日号の『週刊朝日』ではこのへんの事情をつぎのように報告している。 「ふつう一ヵ月国保で入院で二、三万円で済む入院費が、十全会系病院では四、五万円、なかには十万円単位のものまであるといわれる。これについても、『うちはアル中ならアル中だけでみるんやない。肝臓も腎臓も徹底的に検査し痔まで治してそのうえ目が悪ければ眼鏡、歯が悪ければ入歯、総合医療やっとるわけで少々高いかもしれん。これこそ人間のための医療やないですか』という赤木理事長の弁明がある。しかし、これも双岡病院の東昂院長が京都府精神科医でただ一人、社会保険支払基金の審査委員ということになれば『うつ手はうってある?』というカングリも否定できないのではないか」
私は残念ながら、京都滞在中、赤木理事長に数度電話したが「不在」で会えず、双岡院長東氏ほか<0132<告発された医師からも、「すでに新聞などで申上げた以外、問題が京都地検の手に移ったいま、申上げることはない」と取材を断られたので、病院側の言い分は、過去に新聞などで発表されたものを用いる以外はない。
赤木理事長のいう「総合医療」の実態は、どんなものであろうか。病院、施設の実態を見るとき、何はさておいても最重点に考えねばならないのは、収容された患者の処遇――運命である。赤木理事長のこの点での見解は、つぎのようなものであるらしい。
「ウチは府下随一の設備、スタッフも常勤医は大学の講師か公立病院の部長クラス以上と、府下最優秀のレベルにあるんや。全国で首吊りのない精神病院なんてないくらいや。なぜこんなハシが転がったようなことが取上げられないかんのですか」(『週刊朝日』前出)
責任をもって治療に当っているはずの患者が、首吊り自殺しているのを「ハシが転がったようなこと」とする理事長。ではどのくらい「ハシが転がっ」ているのだろうか。
患者自身が、首吊り自殺をはかった患者の縄をほどいて世話をする模様はすでにのベた。 「あるおばあちゃん、美しい死出の装束で首つり自殺をしました。理由は長い入院生活の間、夫の墓まいりを許されなかったからです。自殺はこれだけに限りません。あまり度重なるので夜勤恐怖症になり、退職した看護婦もいます」(精神障害者家族会「あけぼの会」機関紙『あけぼの』昭和四五年一〇月五日号)。同号にはほかにも四例の死亡例があげられている。
さらにピネル病院のあり方に抗議して退職した人々が出したパンフレット「私たちはなぜピネル病院を辞めたのか」@、A部にも、具体例としてあげられているだけでも自殺、薬づけによる死亡など<0132<八例が紹介されている。
「45歳の患者、日に三回クロールプロマジン50mg、ヒベルナ25mgをうちつづけられ、五日目に発熱、翌日死亡。診断書には肺炎とある」「44歳、そう状態でベッドにしばりつけヒルナミン50mg、ヒベルナ25mgを日に三回注射、三日目から嗜眠状態、五日目死亡。診断書、肺炎」
こうして「ハシが転ぶ」のだ。
患者の非人間化による繁栄
京大精神科助手、
中山宏太郎
氏は、つぎのように語る。
「東山、双岡、ピネルで一、六〇〇ベッドはありますが、そこから年間粗収入として一五億円はあげとるでしょう。最初昭和二六年に東山サナトリウムが結核病棟として生まれ、昭和三〇年ごろの精神医療ブームの中で双岡に精神病棟ができ、昭和三八年ごろ、ピネルができ、そのころには三病棟とも老人病棟ができた。資本というものは、石炭がもうかりゃ石炭、ダメなら資本引上げて石油、といくもんだが、結核−精神病−老人と新しいマーケットを見つけ出していく十全会のゆき方もみごとなもんです。とくにもうけの大きいのは薬でしょう。それもナンバーリング処方と、関西薬品という十全会のトンネル会社(薬卸問屋)の二つがもうけの秘密でしょうか」
ナンバーリング処方とは何だろうか。K京都府患者同盟副会長(現在東山サナトリウム結核病棟で療養中)が「東山高原サナトリウムの実態」というパンフレットを出したが、その中で次のように記している。<0134<
「院内処方(ナンバーリング処方)とは、これまで(昭和四四年一二月まで)医師がそれぞれの診断にもとづいて患者に必要な薬を投与していたものが、一定の薬を組合わせて番号をうち(ナンバーリング)、病名によって投薬する約束処方のシステムに変えられてしまった。一二月以降、院内処方による投薬が始められてから、急激に薬や注射がふえた。別に病状に変化はないと思うのに、である」
こうして、医師が患者を診断せず投薬する無診投薬が体制化される。薬を病人にあわすのでなく、病人を薬にあわせる。「注射を拒否して退院させられかけた患者があった。薬をのまないといって転院を命ぜられた患者もあった」という。
関西薬品株式会社について中山氏は、「たしか、赤木一族の関西薬品(薬品の卸問屋・十全会のトンネル会社)には三共、田辺、フジサワ、シオノギ、タケダ、吉富、日本新薬、明治なんかが入っていたと思う。徹底して薬を買いたたいて、さすがの製薬会社も半分ぐらい手を引いたほどだ。買いたたいて病院ヘ高く売って、患者にはふくれ上がるほど薬をのませるわけだ」
利潤を上げる方法は、このほかに、患者の作業療法と称する使役によって労働力を極端に節約し、患者を準職員として数千円から一万円で使用する。パートの看護婦は一〇年つとめて退職金五千円という報告も府議会厚生労働委員会ではなされている。いっぽう、医師は、年俸初任給で五〇〇万から七〇〇万の手取り(税こみでは千数百万円)を約束するといった徹底した差別体系を内部的に作り出している。
「要するに」と京大高木講師は語る。「少数職員で大量投薬、注射、拘束等々の方法を駆使して患者を手のかからない状態にし、さらに軽症化した患者は労働力の補完として用い、公費や慢性化した患<0135<者を不動産の基本財産としていつまでも病院にとめておく」やり方が十全会の方針だ、という。つまり、いまの精神病院が多かれ少なかれどこでもやっている経営手段を全面的に体系化したものが、十全会の経営方針だ、というのだ。もし「経営」という問題で精神病院問題を見るなら、患者を人間として見て治療しようと思ったら、絶対に経営は成立たない。人間として患者に接する行為に、保険点数はゼロに等しい。半面精神衛生法二九条による強制入院患者が精神病院の金の卵だといわれるのは、最も非人間的に、経営上都合のよいように扱える患者だということだろう。飯を食わさず薬を食わす。被害者は訴えようにも外出禁止。こんなありがたい財産はない。経営を成立たせようと思えば、人間を非人間にしたてるしかない。それが精神病院の経営基盤だ。
腐敗を進行させる風土
「それにしても」とE氏は憤慨する。E氏は、自由労務者などの支えで市内円町電停前で診療所を開いた。前京都総評議長、社会党顧問のE氏は「開業したらとたんに、こんなに医療器具のダイレクトメールが来ましたぜ」と医療器具の売込みのダイレクトメールを見せる。「いかに医者がもうかっているか、ということですな」
「患者の立場より医者の利益の擁護。府医師会は革新御三家というが、貧乏人の多い患者の立場に立たんで医師のエゴイズムを府政に反映さすためにばっかり努力しとる。十全会問題でも、告発する会としては府医師会が協力してくれると思ったがさっぱりですわ」「なんで患者に飯食わさんで薬食わすような、しばりつけリンゲルうちが社会保険支払基金の審査を通るんですか。そんなことが通用す<0136<るのは京都だけでっせ」
支払基金の審査委員に双岡病院長東氏が入っていたことは、しばりつけリンゲルうちが審査を通る秘密のひとつだろう。だがそれだけでもなさそうだ。十全会事件についての京都府政の姿勢には、何やら定かならぬあいまいさがつねにつきまとうのだ。
昨年七月七日、社会党三上隆府議が十全会の実態をついた。蜷川虎三知事は「医は仁術で医師まかせである。調査には限界がある」と答弁。これを不満としたあけぼの会などの代表は府衛生局、民労当局と再三話合いをしたが、ラチがあかず、知事に直訴。「ある時は夜の九時までねばって知事との会見を要求したが、秘書課は企管部長との会見すらことわりつづけた。ところがこれをしりめに、医師会の代表は、すらすら知事に会い、十全会問題について申入れをした」(『あけぼの』昭和四五年八月一五日号)
九月四日、「精神病患者・老人患者の人権を守る会」が開かれた。席上「府衛生部長が演壇に立ったがにえきらぬいいわけに、参加者の怒りが爆発し演檀に立往生」「会後、代表が深夜まで衛生部長を追及」「衛生部長は、十全会三病院の死亡、傷害、拘束、無診投薬を告発する意志があること」などを約束したが「一一日の交渉で前言をひるがえすにいたった」(『あけぼの』昭和四五年一〇月五日号)
九月六日、知事、助役以下をかこんで住民議会。知事は、二一日間しばりつけられリンゲルをうたれた事件について「本件については、保険審査で認められているから正しい」という意味の発言をした。
このような知事の態度、患者家族やその周辺の人々は「人権じゅうりんにだれよりもきびしいはず<0137<の知事が?」といぶかしがる。E氏も「現在の精神医療で拘束が必要なときはまずありえないというのが、常識でしょう。あっても瞬間で、医師や看護婦の立会いでなされるべきではないですか。リンゲル注射も大出血とか食事のとれない場合ですよ。こんなことがわかってもらえないのだろうか」と腕を組む。
「人民内部の矛盾で片付けられぬ」
知事が、被害者の立場に対して何となくにえ切らない態度をしめすいっぽう、医師会に対する姿勢はかなりはっきりしている。
府医師会は蜷川知事を「守護神だ」と称賛し、知事は医師会を「お医者さんは中小企業だ。知事はこれを守る」(『京都保険新聞』昭和三七年四月五日号)という関係にあり、府医師会が府市政選挙に医師の利益を守る立場から全力をあげること自体には、問題はないだろう。しかし、ことが医師と患者の関係になると、より本質的な問題がからんでくる。「医は仁術だとうまいことをいわれ、実際にはいろいろの点で報酬制限をされる。すなわち医師は社会的に重要な役割を果していながら、本当に医師として仕事をしていただく社会的経済的条件がつくられていない。ここには共通点がある。医は仁術であることと、医業は経営であることをすりかえて何もかも仁術として医師が犠牲になってよいというのでは、日本の医療制度を本当に確立できない。保険医協会に一人残らず入会して団結して、医は仁術であると同時に医業は経営であることも実現する必要があると思う」(『京都保険新聞』昭和四一年八月一五日号)。これは四一年度京都府保険医協会総会での蜷川知事のあいさつである。<0138<
だが一般的に経営である、といっても、経営の中には、資本家=管理者と労働者がいる。一般的に医業は経営といっても、そこには厳然と貧困な大衆、患者がいるはずだ。この蜷川知事の思考が実っていくつもの医師会と府の間のとり決めなどがおこなわれ、医師の利益を守る措置がとられた。昭和三九年に医師会と知事の間に結ばれた覚書(『覚書・京都府における社会保険医療担当者指導実施要領』)もそのひとつだろう。これは、病院の指導・監査などにあたって、府は医師会との協議のうえでなければ指導・監査できない、という医師会側からの病院調査への強い歯止だ。
「審査委員会の運営が全国一民主的であり、監査の前に行なわれる患者調査に保険医協会、医師会が立会って保険課などに勝手なまねはさせない」(『保険医協会二〇年史』八四ページ)。府保険課長人事には府医師会の同意が必要である、といった医師会の府政における強大な権限は、蜷川知事と府医師会の二人三脚で作り上げたものだ。そのこと自体は、つねに対中央権力への抵抗という形で説明されてきたし、そうした側面をふくめて全面的に否定さるべきものでもないだろう。しかし問題が、医業という経営と、患者という被抑圧状況にある者との関係に発展したときに、これにどう対処するかで府政の本質が問われてくる。
「提訴してからすでに半年以上、新聞も事態の一角を報道しているのに、府当局はいまだに効果的な処置を講じていない。なるほど府当局は調査をしたが、証人や被害者ぬきで、病院側の一方的な言い分だけを聞く調査は、逆に病院のもみ消しに役立つだけである」(あけぼの会などの『府知事への申入れ』書より)という憤りが吹出してくるのも、当然といえるだろう。
そういえば,末川博氏らを発起人にして出発した「十全会を告発する会」には、府医師会も、府総<0139<評も参加していない。選挙では血道をあげる京都府の「革新勢力」は、薬づけ、強制労働、監禁、傷害、死亡等々、限りない疑惑につつまれた、革新御三家の筆頭=府医師会会員の問題には、血道を上げないのだろうか。それともこれは「人民内部の矛盾」ででもあるのだろうか。そういえば統一戦線にはつぎのような見方もあるらしい。
「人民戦線内のわれわれの同盟者を評価する場合、かれらの矛盾の動揺だけを見ることは、かたよった、せまい、けちな態度をとることになるであろう」(『スペイン人民戦線史』)
ああ「京都の夜明け」は、最も抑圧された人びとにとっては遠い。医療の腐敗は、革新統一戦線にとってもドリアングレーの肖像なのだ。
(『朝日ジャーナル』七一年四月二日号)<0140<
2 精神病棟EF2の反乱
精神医療の現状
「墓場」とよばれ「終身刑務所」とよばれた病棟を担当した一精神病医が、「鳥は空に、魚は水に、人は社会に!」という患者の解放の信念に燃え、あらゆる重苦しい管理の網の目を突き破って治療に突進した結果、一年間に、約五〇人の中小企業への通勤者と八名の退院者を出し、病棟は「墓場」から一転して人間の息吹きが通いはじめた。しかし、その精神病の医師は「ルール違反」という理由でその病院から追放されようとし、反対闘争が展開された。その医師の名はA・M氏。
七〇年六月初旬以降、国立武蔵療養所、都立松沢病院と並んで都内精神病院御三家といわれ、「進歩的」という点でも評判の高い、厚生省が推すモデル病院・烏山病院の生活指導病棟でA・M医師は「ルールに従わぬ」などの理由で西尾院長、竹村副院長らによって配置転換を命ぜられた。だがA・M医師はこれを拒否、若手医師や治療スタッフ、患者家族などが「配転反対闘争」に起ち上がった。そのころ、「A・Mはキチガイだ」という噂が烏山病院内に流された。一九世紀末に書かれたアントン・チェーホフの『六号病室』という小説は、患者の心に人間として触れたとき、精神病者扱いされ、死んでいった精神病医師アンドレイ・エフィームイチ・ラーギンの物語りだが、精神医療の歴史は、患者を人間として扱った医師の受難の歴史でもある。アンドレイ・エフィームイチが自己の病院を「こ<0141<の施設が不道徳なものであり、なしうるもっとも賢明なことといえば、それは病人たちを解放して病院を閉鎖すること」と結論しながら、一人の人間の心にも喰いこみえないまま、医師としての個人的良心のめざめにとどまって、敗れ亡び去った一八九〇年代のロシアと、一九七〇年代の日本の精神医療の状況の、いかに酷似していることか。
だがそこには一つの重要な相違点がある。A・M医師のたたかいが一八九〇年代と異なるのは、人間の解放をめざしてたたかう炎が、精神医療の分野にさまざまな努力で開始されていることであり、それらが、社会におけるさまざまの重圧に対して決起した人びとのたたかいと深いところで結びつき、広がろうとしていることだろう。
だが精神病者をつくり出す社会から排除され、精神病院にようやくたどりついた患者の運命は、けっして明るくない。それは企業の搾取、不安と焦燥の管理社会がつくり出した労働者の精神や肉体の廃疾に対して、医療や、福祉の分野の労働者が、兄弟の運命を自己のものとして捉えることを知らず、収容された者、管理さるべきものとして、いつしか廃疾をつくり出した支配者の意識に染まり、そしてそれゆえに廃疾者の怨念を恐れ、反乱を恐れる意識と同一の視点で兄弟をみるのに馴れすぎているからだ。
改善された沈澱病棟
どこの病院にも、いわゆる「沈澱病棟」というのは存在する。さまざまの療法の機能にしたがって、作業病棟とか生活病棟、社会復帰病棟といった病棟が存在し、医者がサジを投げた救いようのない患<0142<者はみはなされ、ついにこの沈澱病棟に落ちていく。
烏山精神病院、五百数十名の患者は、治療病棟、作業病棟、社会復帰病棟、生活指導病棟に分けられている。烏山病院の墓場、沈澱病棟に相当するのは、この生活指導病棟である。
昨年八月にA・M医師が主治医になるまでは、薬漬けにされ、ヨダレをたらし、完全な無表情の状態の患者が、前かがみの姿で鉄の扉に重く閉ざされ、さらにほとんどの患者は独特の姿勢で自室に横たわっていた。それは十数年来、退院することもなく、変化することもない墓場の冷え切った姿であった。
なんの変化もない患者の姿は、医療の姿勢のそのままの反映でもあった。ある患者の母親は、次のように語っている。
「東邦医大である医師から息子さんは破瓜型分裂症で再起不能です。私がある病院を紹介します。そこで呆けて廃人として一生終わるでしょうと宣告され、全身の力がなえるようなショックを受けました。でも、必死の思いでよい病院という名の高い烏山病院に入れたときは、ホッとしたんです。ところが病院恐怖症に陥っていた息子は、先生とは口をきかないほうが安全だ、という確信を持ってしまったんですね。烏山病院でも、先生とは絶対に口をきかず、骨と皮のようにやせ細り、ここでもふたたび再起不能ですと宣告されたのです。私は、もうダメだ、と思いました。息子は治療病棟から墓場といわれた生活指導病棟に移されました。私はすがるような気持ちで先生に、息子の病状を訊ねるのですが、先生は息子さんは口をきかない。わかりませんというだけで、とりつくシマもなく立ち去ってしまうのです」<0143<
どの家族に聞いても、医師(石)の地蔵さんで返事をしてくれないという医師への批判がはね返ってきた。
この母親の息子さんの病院恐怖症には、はっきりした理由がある。東邦医大における脅迫に近い電気ショック。桜ヶ丘保養院における、患者の些細な言動を捉えて保護室へたたき込むという脅迫や、実際にたたき込まれる患者。さらに、ロボトミー(前頭葉切載術)手術を受けた精神障害者の存在等が「先生とは口をきかないほうが安全だ」というひえびえする恐怖感を彼の心の底にカキガラのようにこびりつかせたのだ。
だが、昨年八月、A・M医師が、生活指導病棟に赴任してから、状況は、患者にとっても家族にとっても信じられないほど、急激に変化した。この変化の全貌を限られた紙面で語ることはたいへんむずかしい。それほど数多くの改革をこの一年間にわたってつぎつぎとA・M医師は手がけたからだ。このことは逆にいえば、それほど多くの改革をせねばならない課題が患者を重圧していた、ということだ。
そしてその改革の主要な点は、なによりも鉄格子や、保護室や薬漬けや電気ショック、手術に代わって、烏山病院の特徴であった「ルール漬け」、より具体的にいえば「三大服務規定」という医師、看護士やパラメディカル・スタッフをガンジガラメにするルール、そして医療労働者や患者の日常生活の二四時間を一五分〜三〇分刻みでしばりつける日課表、週課表の呪術から、労働者、患者を解き放つ作業であった。
この体制については後ほど詳述するとして、まず、患者家族にとってのおどろきは、従来は家族が患者に面会するのに、まるで留置場や刑務所の面会所のように、病棟からは鉄扉でさえぎられたカギ<0144<のかかった部屋でしか会えなかったのに「病室の面会所化」あるいは「聖域の消滅」として語られているように、少なくともEF2病棟(生活指導病棟でA・M先生が主治医をしている二階の病棟、E=男子病棟、F=女子病棟)内部では患者も家族も、医師も看護者も、すべての人が立ち入れない聖域は存在しなくなり、家族は初めて自分の肉親がどのような姿で病棟で生活しているのか、じかに眼に触れることができるようになったのだ。
「A・M先生が、患者さんのところにいってロッカーでも整理してあげて下さい、といわれたときにはびっくりしました。病人がどんな生活を病棟のなかでしているのかみたことは、いままで経験した病院でも、ここでもただの一度もなかったし、それが精神病院というものなのだ、と思っていたんです」と患者の家族のすべてが語る。
しかしいまでは、患者は自由に医務室に出入りするし、男女病棟間の往復も自由である。「先生、たばこ、ちょうだい」と精簿の患者がA・M氏の吸いかけのたばこを持っていったりする姿のなかには、威嚇と束縛のもとにしか精神医療が成立しないと考えているらしい現在の精神医療の威圧的な姿はかけらもない。
患者−家族関係の改革
このことはもうひとつの重要な意味として、家族の治療への参加という問題がある。先述の母親の話にもあった「医師(石)の地蔵さん」の沈黙ぶりのなかには、家族の質問や口出しは医師の権威へのなにがしかの侵害であり、医療とはエリートがほどこすもの、という特権層の意識がありありとう<0145<かがえる。
「息子の発病にも、再発にも、父親の態度が関係していました。社会的地位へのさしさわり、近隣への気がね、優秀な者に育てたい願望を裏切られた怒りと失望などが、はしばしに現われ、息子はそれを敏感に感じとり、そして矛盾が爆発するとき、息子は再発していました。私はそれに気づいていましたが、家庭内でなかなかそれがいえずにオロオロして、なんとか主人と息子の関係を融和しようとだけしていたんです。
A・M先生に息子と主人との関係を指摘されたときはビックリしました。お母さん、調停してはいけません。息子さんとお父さんの間で相克し、克服する以外はありませんと先生にいわれ、つらいけれどもやってみました。いさかいがある。息子は悪化する。少しよくなる。ふたたびいさかい。そして悪化。これをくり返して主人はやっと自分に原因があるのだ、と気がついたのです。主人が態度を改めたとき、私はこれで廃人を宣告された息子もなおるのだ、と一〇年来の闇に一筋の光がさすのを覚えました」
家族関係の克服はある意味では患者と家族の思想改造である。そして患者の闘病は、家族のみずからとのたたかいでもある。この関係は必ず、家庭から社会への外延を求めずには解決しないだろう。そしてこの父親は、いまもっとも確固とした精神医療の人間解放への信念を抱き、A・M医師を追放する病院当局の動きに反対して家族たちのたたかいの先頭にたっている。この家族にとって、父親のこの自己改革は、家族史の革命でもあっただろう。その自信の背景には、廃人を宣言された息子がA・M医師の指導と、家族あげての闘病への参加の結果、すでに退院し、家庭において正常な日常生活<0146<を送っているという治療の実績が、厳然としてある。
EF2病棟で、A・M医師の配転に反対して坐り込みに参加する家族の一人ひとりの家族史のなかに、EF2病棟の一年間の経験はこのような激動を与えている。テクノクラート、医療エリートによる専断からの医療の解放が、A・M医療のなかで、患者−家族関係の改革として生まれつつある点を見落すことはできない。
管理秩序に抗して
病棟において閉ざされてきた患者の息吹きをみてみよう。患者約五〇名はいま、中小企業に通勤している。これらの人たちは、従来「治療不能だ」といわれ、いわゆる「無為自閉」でゴロゴロ寝転んでいるほかはない、とみはなされていた人びとである。そして、「作業療法」と称して強制的に駆り出され、看護者の督励で内職をやらされてきた。報酬はゼロ。
それは「生活療法に関する服務規定」に「作業療法は精神科における最も重要な治療の一つであり、通常、作業という概念から報酬を考えやすいが、治療行為である以上報酬は認めない」として、労働に対する対価という憲法の人権の精神は、ここでは治療という名目で奪われていた。問題はそれが、本当に治療であったか、ということだろう。
A・M氏はこの「ルール」を無視して、患者が作業に参加するのは自由とし、参加したものにはきちんと報酬を支払った。いままでみはなされていた「無為自閉」の患者が、二トントラック一杯分の一升ビンにレッテルを張る作業を、二日間でやり切ってしまった。患者は「この仕事では割が悪いよ」<0147<と主張し、A・M氏らは手分けして仕事捜しに中小企業にあたった。こうして開拓した職場に通勤するようになった患者は、自分から参加したことで作業への持続性をもち、全員脱落することなく現在にいたっており、他病棟で「ルールにもとづく作業療法」として通勤したものが、半月ともたずに脱落する例が多いのにくらべて、明確な差を示した。もちろん、「精神障害者でも身(⇒体)障害者でもどしどし低賃金労働者として使う」という資本の論理にのせられる危険性はA・M氏らも認識している。だが、問題は、「患者の労働が、人間の労働として回復していく過程(治療の過程)に、治療と称して強制的に働かせ、報酬を収奪するのか、患者の意欲を解放し、労働をあくまで治療としつつ、患者の日常性のなかにとり入れていくか」という医療者のかかわり方で、結論は根本的に異なってくる。そこにはじめて作業療法が、ていのいい患者からの搾取から、治療の本質を取りもどす過程があるだろう。そして珍妙なことには、強制的に無料労働に患者を駆りたてていた人びとから、A・M氏の行為は「利益で患者を釣る物質刺激であり、ルール違反だ」という噴飯ものの批判が出されていることだ。「患者だとか、病人だとかいう眼でみなければ、通常人と変わりません。ただ、テンポが遅いとか器用でないとかいう点はあっても、なんでこの人たちが見放されなければならいのか、私には理解できません。最初、一点を見つめたきりだった人も、どんどん明るさをとりもどしています。感情鈍麻とか無為自閉なんてのは理解できませんね。収容所では通常の人間だってそうなるでしょう」
午前と午後で七人の患者が通っている世田谷の肉屋さんはこう話っている。見放すべきでない人間を見放してきたのが精神病院であることを支配・管理意識に毒されぬ眼は素直に見抜いてしまうのだろう。<0148<
患者の労働によってえた賃金が患者に支払われたことが「ルール違反」となったように、A・M氏らの「治療」はことごとくルール違反となった。人間として患者と触れ合うこと、そのためにとられる具体的た行動がことごとくルール違反となるという結果は、なにもA・M氏が意識してやったことではなく、患者を人間としてみつめ、治療に専念しているうちに、周囲の声に気がついたら「ルール違反」となっていた、というようなものだ。
しかも、このルールは、烏山病院という一個の病院だけの問題ではなく、このようなルールを、文書化するかしないかは別として、少なくとも病院「管理」の秩序として成り立たせている日本の精神医療の収容所性から生まれてきている。簡単にいってしまえば「精神病者に対してはなにをしてもよい」「身体障害者にはなにをしてもよい」「自分で自分の始末もできない人間に主張する権利はない」「彼らを支配する資格者の権限は絶対である」等々の思想から成り立っている。このような「非人間」「ゴミ」「汚物」管理の思想の具体化として病院が存在している。
A・M氏はこの結果、六月一〇日、西尾院長、竹村副院長から「ルール違反」としてEF2病棟追放処分を通告された。理由はこのほかに「事故が多い」「診療会議に参加しない」の三点であった。ここでまず、この「ルール」とよばれるものの実態を明らかにしてみよう。
医師団権力の病棟支配
烏山病院の医療者から患者にいたるすべてのものの一日の行動を、三〇分、一五分刻みで律しているものが、三大服務規定と週課表、日課表である。これは、企業でいえばベルトコンベアーによる合<0149<理化の役割を果たすものだ。日課表(別表)を参照していただこう。これで看護者と患者が一〇分刻みの行動に日常的に縛られている実情が明瞭になるだろう。これは、患者ばかりか、医療従事者そのものが、ものを考えない、ロボットとして、時間と時間のつなぎめをただ流れていく存在に化していることを物話っている。
男子生活指導病棟看護課日課表
0.30 引継ぎ,点検〜備品点検
1.00 巡視,諸記入
2.00 巡視
3.00 失禁誘導介助
4.00 巡視,消毒
5.00 巡視,病棟勤務室掃除〜洗面準備
6.00 電源〜布団部屋開放〜起床太鼓〜洗面介助〜たばこ渡し,検温〜配膳室点火
6.40 投薬
7.00 朝食準備,配膳配食指導
7.20 重症者食事介助,ホール掃除指導
8.00 たばこ渡し
8.30 引継ぎ〜巡視,点検,重症者全身清拭,ベッドメーキング,掃除
9.00 ラジオ体操誘導・指導,排尿誘導介助,私物整理(木),床磨き(土)
9.20 作業準備,指導,処置,グループ会準備
9.30 グループ会
10.00 病棟会議(木)
10.30 ホール掃除指導,たばこ,私物,牛乳渡し
11.00 排尿誘導介助,昼食準備,配膳配食指導
11.20 重症者食事介助〜投薬,ホール掃除指導
12.00 たばこ渡し
12.30 入浴(火・金)
1.00 排尿誘導介助,入浴介助(火・金)レク準備・指導
1.30 おやつ用意
2.30 点呼(水・土は3.00)おやつ,たばこ渡し
3.00 排尿誘導介助,検温,投薬準備(1人準夜の日)
4.00 夕食準備,配膳配食指導
4.20 重症者食事介助
4.30 引継ぎ〜点検〜投薬,ホール掃除指導
5.00 たばこ渡し〜病棟勤務室掃除〜洗濯〜シャワー浴誘導
5.45 たばこ渡し
6.00 布団部屋開放〜就床準備指導,施錠点検,電源
6.30 布団部屋閉鎖,グループ髪剃(グループ前日)
7.00 失禁誘導介助,回診準備
8.00 脱衣指導・投薬
9.00 消灯〜失禁誘導介助〜備品準備
10.00 巡視
11.00 失禁誘導介助〜干物取込み整理
12.00 巡視
<0150<
このように医療者のロボット化を成立させる権威と秩序の体系(ヒエラルキー)の完成は、院長を頂点とする医師団権力による各病棟支配であり、その下に中間職制として存在する看護者・パラメディカル・スタッフによる患者支配である。
まず「医師服務規程」は冒頭から「命令系統の重視」と「院長による任免権」がうたわれ、ついで病棟管理における医師の責任と権限の絶対性をうたい、チームワークにおけるリーダーであると格付けし、同時に「直属上級医師への連絡報告義務」を課し、医師間の上下関係をも規定している。さらに「政治活動に類する対外活動の制限」まで記して、医師が院内においての絶大な権力者である地位(管理支配者)を与える反面、医療制度への改革者ではあり得ないようにしめつけているのである。さらに中間職制としての「看護服務要領」は、なによりも「命令系統」「看護業務の上下の各々特有の責任と権限」を強く打ち出し、その位階秩序の確立の思想をすべての行動の下敷きとして規定化している。そしてこの位階を1婦長、U主任看護婦、V主任補佐、W正看護婦、X准看護婦、Y看護助手、Z看護補助員として格付けし、それぞれの位階の業務権限の範囲、してよいこと、してはならないことを業務記録、流通伝票に至るまで明記している。
一例としていえば「服装、みなり(髪型を含む)、は婦長の指示に従う」とまで書かれており、そし<0151<て「看護婦は医師の指示を賢明に忠実に実行する義務を有する」として、医師の唯々諾々たる奴れいの位置と、その奴れいの間での位階の確立とで髪の毛一本にいたるまでしばりつけているのだ。
「生活療法服務規定」は、烏山四病棟のそれぞれの療法の特色に応じていかに上級者の命令が、最下級者=患者にいたるまで貫徹するかを決めた規定である。例えば会議の項目を見ると「生活療法管理委員会」「医局会議」「看護主任会議」「職場主任会議」「給食会議」「医局事務連絡会」「合同看護研究会」「社会復帰連絡会」等々があり、その性格は、前述の固定させられたヒエラルキーを日常的にいかに貫徹させ、さらに固めるかに主眼がおかれている。
「生活療法管理委員会」は院長が委員長で、記録も院長が保管する。
「医局会議」は決定した事項を生活療法管理委員会に報告する。
「職場主任会議」も院長が開催し、記録は院長が保管。
「合同看護研究会」は婦長が主催する。
こうして、西尾院長、竹村副院長を頂点とするピラミッドが、烏山病院にそびえたって、烏山病院全体はノロノロした刻みでロボットのように動き出す。それは治療とは縁遠い奇怪な光景だ。
位階秩序の破壊
まずA・M医師が着任早々の昭和四四年八月にEF2病棟でやったことはこの生活療法服務規定の廃止であった。そして週課表・日課表をも廃止してしまった。そして毎朝いっせいの定時病棟内巡視も、患者に対する威圧効果のみで、なんの治療効果もないことから廃止した。通信や電話の許可制や<0152<検閲制を廃止した。たばこの本数制限、消灯時間の厳守(→看護者の判断に任せる)、面会室使用と医師、パラメディカル、婦長、主任にのみ家族と面会できる権限があった面会制度(→面会場所無制限、随時来院、だれとでも話せる)、薬剤の大量投与、歯みがきや夜、寝小便しないため、むりやり定時に起こしたり、整理整頓掃除など押しつけの生活指導等を廃止した。
そして大幅に看護婦の主体的判断を重視し、看護業務の拡大と質的充実をはかった。一般看護者の家族との面接や職場訪問も行なわれるようになった。こうした努力のうえに患者の家庭からの通院・通勤が行なわれるようになった。
このことはことごとく、烏山精神病院のルールに反することであり、烏山精神病院の位階秩序の崩壊でもあった。
ある看護婦は、次のように自分の行動の経験を記している。
「先日入院したS君は入院当初、壁に便を塗りたくり、これを黄金にかえるといったり、保護室のドアをどんどん蹴飛ばしたりするので保護衣を着せられました。夜勤に行くと衣類を三枚も破いたりするので注意するよう日勤者からの申し送りを受けました。交代して間もなくS君がドアを蹴りますので話をしてみますと、彼が衣類を破るのは保護衣が窮屈で自由がまったく許されないからだ、ということがわかりました。そこで医師に話し、保護衣を取り除きました。それ以来彼は衣類を破りません。そうして今度は保護室という狭い、まったく自由のない独房への収容に対する彼の抗議が、ドアを蹴ること、ガラスを鳴らすこと、叫び声をあげることによって示威されました」。彼らは、そこで保護室の中に入り、彼が絵を描くことが好きだと知り、いっしょに絵を描く。しかし彼の示威行為は止ま<0153<ない。「それで私は、私の判断から彼を看護室の中を自由に散歩させてみることを試みました」「腹の中ではなぜ彼を一般病室に移さないのか不満をもっていました。ある人はこんな状態(保護室内にあって騒いだりドアを蹴ること)ではとても開放できないでしょうといいました。なぜこんな状態を呈するのかは追究しようとしないのです。そうしたある日、やはり彼を看護室内を散歩させているところへ一人の心理判定員がやってきて、職分が違うのだからまずいじゃないですかと憤懣を表明していました。そして数日後スタッフミーティングの場でそれは越権行為であると指摘されました」
ヒエラルキーを越え「分をわきまえない」行為は、ミーティングの場が取り締まる。そして判断は、人間が治療のために、行なうのではなく、階級が秩序を守り、患者支配のためになされる。彼女の実践は、ここでの治療の行為が、ルールに違反せぬ限り実現しないことを、明白にしているのではないだろうか。
治療の行為を「地位による権限」としかみない「労働者」。その多くが、A・M医師らの行為が、自分の生活の場を崩壊させるものとしてしか映じなかったのも無理はないかも知れない。この、自己保存本能に訴えて、烏山病院労働組合は「多数決」によってA・M医師を「院内民主主義の破壊者」と決議した。
敵対する組合執行部
そして一方では、このような「混乱の原因は非民主的な運営を行なった病院当局にある」としながら、これに対してA・M医師からは秩序破壊によって院内に混乱を招いているから、これは「両極<0154<(病院当局とA・M氏ら)からする民主主義の破壊であり、両者とたたかう」という「二つの敵」論を展開した。だがその後の経過をみると、組合執行部の攻撃の方向は、明らかに当局と結託し、A・M医師らの追放にのみ全精力を注いだ。
そして病院当局によるA・M医師の「追放」を了承し、その教宜部発行の機関紙「ひだね」はあらゆる努力を、A・M医師らの開放療法が、事故を多発し、危険なものであるというキャンペーンを張り、A・M医師を支持してたたかっている烏山病院闘争委員会はトロツキストであり、烏山病院乗っ取りを策していると攻撃している。そしてとくにA・M医師を支持している若手医師に対して次のような批判を浴びせる。
「精医連医師四名は院内改革をキャッチフレーズにして」「破壊的同伴者の組織を拡大せんとしている人たちである」「他の職種、他の現業労働者が同じような行動はできない。たちまち飯の喰いあげである」「烏山病院で散々暴れても医師だから喰っていける。生活の基盤が違うのだ」「このもっともよい例は碧闘委である。彼らは自分の病院が告発されたときたち上ったのはよいが、自発的当直拒否などをやってヤマネコストをやり解雇された。彼らの主張も破壊的傾向を帯び、もはややとってくれる所もない」(烏山労組教宣部『ひだね』七月二七日号)
碧闘委というのは、朝日新聞で暴露された碧水荘病院の内情に抗議して決起した碧水荘闘争委員会のことであるが、ある有名な電パチ先生や、牢獄以上の非人間性、背徳性に対して決起した労働者を「破壊的だからやとってくれる所もない」といって小気味よさそうにしている神経は、もはやだれがみても、烏山病院労働組合の執行部がどこまで堕落し切っているのかを明確に証拠づけている。<0155<
西尾院長、竹村副院長が労働者をここまで手玉にとっている力量はたいしたものである。こうして労働組合は、たんなる言葉のキャンペーンにとどまらず「自警団」の本領を発揮しはじめる。八月後半、連日にわたる西尾院長、竹村副院長を先頭にするEF2病棟への押しかけ攻撃に、職制、組合員ら五、六〇名が加わってEF2病棟の診療妨害を行なった。
だが、この労働組合をまき込んだ院長、副院長の手腕をもってしても、患者家族のA・M医師支持の結束の固さは崩せない。それが病院当局にとっては頭痛の種なのだ。しかし、こうまでして西尾・竹村ラインが強硬にA・M医師配転を行なおうとする背景は意外に根深いものがある。
収容機能の悪用
この点について烏山病院闘争委員会は「西尾・竹村ラインによって院内外に積極的売名的になされてきた権威・名声からの失落への予防線であり、竹村副院長の精神衛生構想、中間施設構想の欺瞞性の露見防止のため」だと分析している。
竹村氏は今年四月、烏山病院の経験をもとにして「慢性経過、長期在院の精神分裂症のための社会復帰施設に関する研究」という論文を厚生省に提出している。これが烏山病院闘争委員会のいう「中間施設案」であるが、その内容には昭和四一年一〇月以来、烏山病院が厚生省がうちだしている中間施設的運営を研究的治療として行なう方針が打ち出され、患者と病棟を厳選してその突験が続けられていることを報告している。
この中間施設は、政府が、精神障害者対策治安対策として進めようとする方針として打ち出してい<0156<る@精神障害者の医療費公費負担制一本化の追求、A精神衛生法を支柱とする「地域精神衛生網」の強化、B刑法改正による保安処分の新設、のAに相当する部分の実施のための施設だが、烏山病院はおそらく院内のほとんどの部分が知ら間に、政府の治安対策のモデル病院とされ、竹村氏は病院全体を政府の実験の場と化していたのだ。このことが、労働者支配の方法としてきわめて巧妙な三大服務規定の重圧と労働者の抵抗力の圧殺なしには実現し得なかったのは当然であろう。
竹村氏はすでにふるくから強硬な刑法改悪論者であった。周知のように刑法改悪はスパイ罪、騒擾予備罪、内乱教唆罪、保安処分など、いっさいの平和憲法下における労働者の権利よう護を削除し、執行権力の刑執行裁量権を拡大し、権力支配秩序の網の目に国民をスッポリ包みこもうとする企図にほかならない。したがって権力が批判者を弾圧するときに、つねに強力に利用されてきた精神病院という収容所機能をフルに活用するものとして、保安処分がもっとも重要な柱として持ち出されたのは当然であった。保安処分とは、アルコール中毒、麻薬中毒、精神病質(異常性格)、犯罪者を法務省管轄下の施設に収容し治療処分に付そうというものだが、問題は精神病質者という概念の反動性にある。
この精神病質者というのはK・シュナイダーが一九二三年に提起した概念であり、ナチスドイツの常習犯罪取締法(一九三三)に導入され、精神病質者の中にふくまれる闘争性狂信者、確信犯などの概念を利用して、ナチスの敵対者を「精神病者」として強制収容する根拠となったものである。
竹村副院長は、昭和三六年三月一七日の朝日新聞に「異常性格者の保安処分」と題して論文を書き、「病院施設より機能分化した保安施設を新設すべきだ。刑法改正が大事業で時間がかかるなら、この保安処分だけでも早急に実現せよ」と主張している。<0157<
強制収容所化する精神医療行政
精神病院と国家権力が結合したとき、歴史上どのような恐怖の弾圧機関となっていったかは、端的にナチスドイツの歴史が物語っているとはいえ、アメリカにおいて広島原爆飛行士クロード・イーザリーが後に熱心な原爆反対活動家となったところ、たちまち、アメリカの国家権力は、彼を二度と出られないといわれた重症精神病者のみが入る精神病院に収容した。また、スイスの作家ヨアヒム・イシュテンが、『ケネディ暗殺の真相』というウォーレン報告に反論する著作にとりかかったところ、アメリカのスイスにおける出先機関に警告を受け、精神病院に監禁された。
ソ連の場合は、社会秩序維持省管轄の特殊型精神病院があり、例えば作家ワレリ・タルシスは八ヵ月間強制入院させられ、在ソ中国人留学生がアメリカ大使館にベトナム侵略反対のデモを行なったところ、その一人が神経治療室というところで拘禁された。日本の労働者が労働争議のなかで当局側から精神病者として引っ張られるという扱いを受けることもしばしば起こっている。
これらの事実を背景にして烏山病院に起こっている事実をみるとき、全体的政治状況と無関係に、個別企業秩序のゆるす範囲で自己の存命をはかる労働者が、本当の意味での労働者の連帯を話る資格がないばかりではなく、逆に、ナチス強制収容所において、他民族を、そして政敵を、さらに精神病者を、心身障害者を虐殺していった親衛隊(SS)の役割にさえ堕しかねないことを、けっして速い将来のことではなく、現実の問題としてわれわれは危倶するのである。
(『月刊労働問題』七〇年一一月号)
<0158<
3 精神医療・幻想の解体ヘ
薬漬けや保護室拘束、そして規則ずくめで精神障害者をしばりつけることから患者を解放し、多数の治癒者、軽快者を出したA・M医師を首切った昭和大学附属烏山病院が、一九七一年後半の精神医療界全体をゆるがす震源地として再登場しようとしている。
生活療法という終身刑
近代的・良心的精神病院を売物としていた烏山病院の生活療法体系が、じつは「民主的に粧われた終身刑」体系にすぎず、一方に生活指導病棟という終身刑(治癒不能といわれた者が入れられた)の恐怖と、一方において社会復帰病棟という幻想の体系を置くことによって、患者は病院当局の秩序に強制的に従わせられる体系がさまざまな委員会、会議の設置で巧みに粧われたものでしかないことが、また「治癒不能」といわれた患者が、じつは通勤も出来るし、治癒もするのだという実績が明るみに出された。
この第一幕では、患者を秩序に従わせることにしか「医療」の道がない日本の精神医療に深刻な衝撃を与えた。
だが肝心の問題提起を行なった医師がエリートとしての地位のワク内でしかこの問題提起を行ない<0159<得なかった限界性が、その闘争を崩壊させていったことはいなめない。
第一幕での主要なメンバーは、昨年末のA・M医師の解雇を契機に全部烏山闘争から去り、闘争の意志を表明して烏山病院に踏みとどまったのは野村満医師ひとりであった。
第二次闘争の幕あけは、量的に圧倒的な劣勢のなかで展開されてゆく。だが皮肉なことに、第二次闘争は、第一次闘争より、はるかに強固な戦闘力を構築し得ていた。
その第一の強さは、野村医師の強固な患者との密着性であった。そして第二は、支援する「精神病院を考える市民運動」の、内部職員(労働者)への呼びかけの強さであった。そして何よりも自己の闘争の戦略的課題への把握の強さであった。
医師が与えられた特権のワク内でいかに理念を掲げても、それ自体としては強固な改革への闘争力にはなり得ない。権限のワク内での患者解放への主張は、家族・患者からの支持が強烈に得られた。しかし、碧水荘事件で明らかにされた労働者の仕事=患者への加害者としての側面の解明は、労働者が患者と共通の被抑圧者として何をせねばならないか、という統一的な把握にまでは第一次烏山闘争のなかでは深められなかった。
この結果、職員から必要以上の反発を招き、孤立していった。このことが、西尾院長、竹村副院長の体制維持の作業をやりよくし、職員をまき込んだうえで、A・M医師を有無をいわさず追放することに成功させていたのだ。
賞罰委員会の誤算
<0160<
A・M医師を解雇した大義名分は「賞罰委員会」の答申であった。西尾院長、竹村副院長はこの賞罰委員会という「手続き」をもって、院内外に首切りは正当であり、民主的に行なわれたという印象づけを行なった。烏山闘争委員会が世論から孤立した第一次闘争では、このことが成功した。
しかし、第一次闘争以上にたった一人の野村医師に対しておこなう首切りはいっそう容易だろうと軽く見て、五月末に野村医師を賞罰委員会に召喚した西尾、竹村氏らは、そこで思いも及ばぬ誤算に気づかざるを得なかった。
前後数度に及ぶ賞罰委員会に野村医師は出席したが、それは賞罰委員会が「院長の任命するメンバーのみで構成されている」「非公開」のものであるという密室性を暴露し、糾弾する場となった。
野村医師は「非公開」をぶち破るやむを得ない手段として、賞罰委が勝手に決めた「録音器の持込み禁止」に反して、テープレコーダーを強引に会場に持込んだ。
このようにして賞罰委員会の「民主性」は、じつは病院当局の暗黒独裁の本質を持ち、烏山の○○委員会、××会議という民主性・良心性の「売物」が、患者を抑圧するための形式でしかなかったことまで逆に暴露されていった。
六月半ばの日本精神神経学会は、従来、烏山闘争の本質を知らなかった部分にも、党派的利害から中傷誹謗していた部分にも、賞罰委員会での録音をふくめた具体的証拠の提起によって、烏山病院の本質確認の場となった。
総会に出席し、野村医師と公開討論することを要求された西尾、竹村氏は、これを拒み、総会後「精神神経学会は暴徒化した」と院内にビラをまき、学会総会が賞罰委の中止を決定したのに、賞罰<0161<委の答申を得たとして七月二二日、野村医師の解雇を強行した。
医療闘争の軸へ
野村医師と「精神病院を考える市民運動」は、内部職員に、「賞罰委員会は職員抑圧の最大の道具である」ことをねばり強く訴え、この粉砕のための共闘をよびかけている。野村医師の解雇撤回の本訴訟は、日本の精神医療を根源から問い直す裁判であり、小長井法律事務所を中心とする大型弁護団の形成や、日弁連人権擁護委員会の活動開始などによって、にわかに七一年後半闘争の輸となろうとしている。
(『朝日ジャーナル』七一年九月三日号)<0162<」(高杉[1972:]
4 烏山病院闘争が告発したもの
烏山病院闘争が告発した精神医療の実態とは何であったのか?それは一口に言って「管理あって治療なし」と言われる精神医療の中にあって、モデル病院、良心的病院の代表格の如く話られた昭和大学附属烏山病院の医療幻想の仮面が「管理を忘れた」
不届き
な医者によって、白昼夢のように一瞬はぎとられ、その正体をさらけ出した、ということにほかならない。
樋田精一氏も『季刊病院精神医学』第二九集のなかで要約しておられるように、日本の精神医療の歴史は、
1 私的監置主義から、公的病床を利用した公的監置主義への転換(一九〇〇〜一九五〇年)
2 健保体制保険のしくみを利用した精神障害者対策の資本主義経済体制への組みこみ――精神障害者は単に監置の対象であるだけでなく新たに製薬資本・病院資本の利潤追求の素材としての機能を与えられた(一九五〇年〜一九六三年)
3 公安的見地に立った地域行政組織(福祉事務所、保健所、精神病院、精神衛生鑑定医、警察、医師会、地方自治体衛生部、教育委員会、商工会議所、保護司、地域婦人会、企業、ライオンズクラブ、ロータリークラブ、隣組的密告組織……)確立の方向がうち出され、精神病者監護法の行政を、直接的な警察行政によらない新しい形でより中央集権的効率的復活の方向がうち出された(一九六四年以降)<0163<という風に要約できるだろう。
この歴史のなかで明白なのは、形式こそ様々であるが、実質は精神医療の歴史が唯の一度も患者を治療することに主眼をおくのではなく、患者を管理抑圧することにのみ全力を上げて来たという事実であり、この歴史を欠落させた精神医療観が生み出す精神医療への主観的な努力や、精神医療の「民主化」「近代化」が、実はその主体である患者にとって抑圧形式の「近代化」「民主化」にほかならなかった、という事実を、「民主的」「近代的」烏山病院における一部の医師・医療労働者の闘いは鋭利に突きつけたからである。
烏山病院の歴史は如実にそのことを物語っており、こうした歴史の中での位置づけぬきに烏山闘争を語ることはできない。なぜならば、昭和三四年、西尾・竹村・松島氏ら慶応三羽烏による烏山病院改革のエネルギッシュな展開こそは実に生活療法を旗印とした烏山病院が日本の精神医療近代化のトップランナーとして位置づけられるゆえんであり、しかも三四年の生活療法開始宣言より一〇年後の昭和四四年、この改革のマスタープランを形成した当の松島医師自身による生活療法体系への実践的批判と克服の内容そのものが、実は、日本の精神医療の先端を行くと見なされ、開放を内容とすると目されていた烏山病院の生活療法体系にすら、「管理あって治療なし」というショッキングな実体が白日のもとに露呈したからである。
昭和三四年、西尾・竹村・松島氏らによって展開された烏山病院の改革の主内容は、次のようなものであった。
(1)開放の促進、(2)「集団療法」及び「生活療法」(作業、レク、グループ会、生活指導等)、(3)パラメデ<0164<ィカルスタッフの採用養成(OT・CP・PSW)、(4)病棟管理体系(各種会議、生活療法、服務要領等)、(5)社会復帰活動、(6)家族へのアプローチ 等。
だが、この「近代化」の促進は、後に烏山闘争の進展の過程で「三大服務規程体制」と概括された医師服務規程、看護服務要領、生活療法服務規定および週課表、日課表による病院管理社会の形成を促進し、労働者にとって、何よりも患者にとって身動きもならぬ重圧体制を形成するに至る。
問題となるのは、この三大服務規程体制による重圧を、医療労働者が「民主的・良心的・進歩的秩序」として受け留め、進んで「民主的諸会議」(例えば病院管理会議、生活療法管理委員会等々約二〇にも及ぶ全体会議、部門別会議)に参加し、多数決秩序による福祉幻想的満足の中で患者抑圧ヘ積極的に参加し、自らを抑圧体系の一環として形成しおおせている事実である。
精神医療の歴史的把握ぬきの参加がいかなる犯罪性を自らの労働にもたらすか、好個の実例を見る思いがするのである。
第一次烏山闘争が支持したM・A医療の基軸は、実にこの三大服務規程体制、週課表・日課表体制の実質的解体作業であった。しかも、決定的な事実は、それがほかならぬ烏山病院の中で患者が最も恐れ、収容されるのを拒否する沈澱病棟、生活指導(EF2)病棟での解体作業であったということである。
俗にアメとムチと表現される一部の人間による多数の人間管理の方法は精神医療においては、医師の診断と判定によって「治癒した」と宣言されるまではいつまで(終身でも)病院に監禁しておいても人権の名による世間の批判はないという合法性のなかで、終身の恐怖を一方に設定し、他方におい<0165<て「秩序」に服従する者を「治癒――退院(釈放)」とさせるという幻想を設定することで、人間を強制的屈従の体制下におく方法として普遍化している。この恐怖と幻想の体系の全面的完成こそが「保安処分」と名づけられる独占資本の人民管理の方式(ファシズム)の原型である。
烏山病院が昭和三四年来開始した開放医療(生活療法)を支えるものとして「墓場」「終身刑」といわれ、「治癒不能」と医師がレッテルを張った患者の溜り場の設定、患者にとって「あそこにだけは入れられたくない」という恐怖の「生活指導病棟」の存在が構造的な存在であり、この存在をぬきにしては「開放」さえあり得なかった、いや、むしろ、このボケ病棟の恐怖を強めれば強めるほど、「開放」の幻想性もふくらみを増したというカラクリの中にあって、松島医師らが生活指導病棟で行なった三大服務規程体制解体、週課表・日課表廃止、その他あらゆるチームごっこ(突体は多数決原理による患者抑圧)、抑圧体制の廃止の意味するところは余りにも明白ではないだろうか。
一言でこれを概括するならば恐怖と幻想の体系の解体である。
一九七〇年来、松島医師が解雇され、一九七一年四月に至るまでに烏山闘争委員会が自己解体を遂げるに至るまで、第一次烏山闘争が提起した告発内容を基本的な問題点にしぼって語るならば以上のように要約できるだろう。
しかし、第一次烏山闘争は、自らが告発した問題の本質を充分に捉えたとは言い難い。むしろ、敏感に自己の国家権力から与えられた「医療幻想」的役割の中で、EF2病棟の恐怖性の解体が何を意味しているのかを鋭く感じとった西尾・竹村氏らの対応は、的確に松島医師らが、それとは知らずに、良心的医師、管理より治療をめざす医師として行なった当然の「抑圧性をとり除く」作業を人事配転<0166<――解雇という形で強烈に反応し、抑圧して行った。
第一次烏山闘争は、それとは知らず、国家権力が人民に対する治安管理の装置として、医療・福祉の幻想性を利用しつつ拡大しつつあった第二の暴力装置(=精神病院として姿を現わし、保安処分施設として完成する)の引き金の部分(最も抑圧の強い終身刑=生活指導病棟)をいじくりまわし、解体せんとしていたのである。恐怖と幻想の体系は、一部の人間を終身刑の抑圧状況におくことで、他の患者、労働者、一般市民を無限に、国家権力への屈従体系の中に叩き込む強制収容所の論理の体系にほかならない。
この体系の実現が、昭和四〇年に「性格異常者の保安処分」と題して「刑法改正そのものが大事業であるから、異論の少ない保安処分新設の項だけでも早急に実現されることを期待する」と発表し(竹村氏)、中精審委員として保安処分推進のイデオローグとしての役割を果すという西尾・竹村氏ら管理者たちによって病院を実践の場として推進されたのは必然のことであろう。
この暴力装置性は、保安処分制度の設置によって、タテマエとして医療に「限定」されていた不定期刑、終身刑を、一般大衆ヘ無限に拡大して行くことを可能にした。生活療法などという粉飾が実は秩序に従わぬ患者は終身刑、反抗する労働者は民主的に粧われた「賞罰委員会」(実は院長が任命し、非公開で追放を決定する)によって有無を言わさず追放する暴力装置によって支えられており、様々な会議、様々なミーティングが実は様々な姿をした賞罰委員会にほかならぬことを、体系的に明らかにして行ったのは、一九七一年五月以降の野村医師と精神病院を考える市民運動を軸にした「賞罰委員会解体」の闘争の展開以後のことである。<0167<
この闘争は、西尾院長の国立久里浜病院への逃走(九月一日国立久里浜病院長として辞令発令)という事態の展開をもたらした。国立久里浜病院におけるアル中病棟は、西尾氏の烏山における経験を「開放療法」という幻想性と実質的暴力装置として、実体的保安処分の施設の全国的展開(厚生省は全国一四ヵ所に烏山的存在の国立病院を建設する予定であり、久里浜は手始めである)をめざしている。
われわれは、この国家権力の精神医療への位置づけの歴史的把握と、戦略的視点を欠落させて精神医療を語るならば、第一次烏山闘争における「良心的医師」の試みに患者を利用したという犯罪的役割に自己を陥れ、同時に一部医師の政治主義的参加の場となってしまい、この闘争が病院構造の保安処分的体系化に対する個別闘争であるという視点を欠落させる結果となるであろうことを自戒とすべきであろう。
(『烏山病院闘争』七一年九月一六日)」(高杉[1972:128-168]
W 暴力装置化する医療
ロボトミー 189-
「ところが、精神医療が、真に人間の解放をめざすのではなく、治療よりは、社会治安の収容所として位置づけられている体制のもとにあっては、社会防衛(資本家の少数支配の防衛)論に立つ精神科医にとって、このロボトミー手術は死刑、無期刑と並んでこの上ない「治安的治療」の手段なのだ。」(p190)
*作成:
松枝亜希子
UP:20070401 REV 20071222, 20110730, 0822
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高杉 晋吾
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精神障害/精神医療
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精神医学医療批判・改革
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烏山病院闘争
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