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「文化をめぐる分配的正義  ――特にデフ・ナショナリズムの正当化とその制約条件について――」第5回障害学会口頭報告原稿

片山 知哉 2008/10/25
◇片山 知哉 第5回障害学会報告レジュメ


x■■ 文化をめぐる分配的正義
 ――特にデフ・ナショナリズムの正当化とその制約条件について――:口頭報告原稿
先端総合学術研究科 片山知哉

■ はじめに

 以下は,2008年障害学会大会で私(=片山)が行った口頭報告の読み上げ原稿の部分再掲である。報告用レジュメは,別途障害学会大会のウェブサイトに掲載されているので,興味をもたれた方はご覧頂けるとありがたい。
 いくつか止むを得ない事情から,報告原稿の完全再掲は取り止めている。削除部分(「導入」の部分)については,その内容について概要だけ記している。また,報告終了後に頂いたいくつかのコメントを踏まえ,伝わりにくかったと思われる点一点についての但し書きを最後に追記として記しておいた。

 導入部分は,私の長い挨拶である。そこでは次の点を述べた。

 ――本報告の主題は「文化を巡る分配的正義」であり,「デフ・ナショナリズム」を具体的事例としてその正当化を主張するものである。
 ――ポジショニングについて。私はデフ・スタディに片思いをしているが,デフの立場に立つものではない。本報告も聴者ナショナリズムに基づくオリエンタリズムかもしれない。精神科医という職業的立場を持つ以上,私の議論は支配者の立場からのものとも言えるだろう。
 ――私が向き合う問いは「伝承・継承」の問いである。この世界にこどもは様々に異なる身体を持って生まれてくるのだけれど,彼らは一体どのような継承を必要としているのか。マジョリティと同一内容の伝承・継承なのか,それともそれとは異なるのかという問い。デフ・スタディに惹かれたのはこの問いを共有しているからだ。
 ――障害学にお尋ねしたいのは,「伝承・継承」の問いである。デフ・スタディの議論を,単に承認の問いとしてしか受け止めていないのではないかと私は懐疑する。障害学とデフ・スタディとの間の対話を私は続けさせたいと思う。そのため出来るだけ強力な議論を提示したい。

■ 存在論から分配論へ

 本報告では前半で,「分配的正義」という観点から,社会モデルと,言語文化モデルとは一元的に整理できると主張します。それゆえ私は障害学において,分配的正義という枠組みが有用であると,いわゆる社会モデルの立場の一解釈である障害の存在論よりも有用であると,初めに主張したいと思います。
 障害の存在論とは,つまり「障害とは何か」という問いです。この問いは魅力的ではあるけれども,拘泥することは有意義なのか,私には大変に疑問でした。まず,他の運動・学問を参照しても,基礎的概念であればあるほど,定義について充分な合意は得られない。しかしより本質的には,社会的規定性が,社会変革を導くわけではないということです。立岩が明確に指摘したように,「今ある一つが,様々あるうちの一つであるとして,その一つが否定されるべきものだとはならない。他の可能性があることは,他の方がよいことを示さない。社会的であることは,それを変更すべきであることを示さない」。
 私の誤解でなければ,障害学は世界の変革を志向する学です。ならば,望ましい世界とは何かについて,直接に解を出そうとすべきです。つまり規範は規範として議論されるべきであり,存在論から「醸し出される」だけでは明らかに不誠実です。従って私は以下,モデルという枠組み即ち存在論で述べられてきた事柄を,規範論的に再解釈することを試みていきます。

 私が本報告において採る立場は,「必要な財がそれを必要とする人のもとへ分配される世界が望ましい」というものです。
 報告の時間が限られていることもあり,この分配の主張の正当化や精緻化は行わず,この主張をいわば土台として今後の議論を行いますが,ひとまず次のことを直感的に了解して頂ければ充分です。つまり,世界には様々な財があるけれども,そのいくつかは必要不可欠な財であると我々は想定しているということです。それを基本財と呼ぶことにしましょう。また以下の議論に資するため,万人にとって同様に必要な財を普遍的な財,そうではなく特定属性の人にとって必要な財を差異化された財と呼ぶことにします。
 この分配の主張の立場からすると,社会モデルの主張の含意はどう解釈できるのか。立岩は社会モデルについて,医療モデルとの違いを次のように指摘しています。「二つのモデルの有意味な違いは,誰が義務を負うのか,負担するのかという点にある。つまり対立は「私有派」と「分配派」との対立としてある。社会モデルはそれは個人が克服するべきことではないとする」。つまり,どのような身体状況であってもその個人にとって必要な財,基本財は,その個人の負担ではなく社会の負担によって分配されるべきだ。それが社会モデルの含意なのだとすれば,これは上に挙げた分配の主張そのままです。

■ 言語の分配と言語文化モデル

 すると問われるのは,何が必要な財であるのかという問いと,それを実現するための戦略になります。ところで,言語もまた基本財です。何故なら言語は,人間の活動のほぼ全ての領域へのアクセスに必要とされる財であり,事実上「権利への権利」となっているからです。
 従って当然ながら,言語もまた先述の分配の主張の対象になる。つまり,個人の負担ではなく社会の負担によって分配されるべきだと言いうる。ここまでは問題ありません。問題というか困難は,言語が世界に複数存在するために,「どの」言語を分配すればよいかという問いが生まれる点にあります。

 さて,ろう者たちは自分たちを,言語文化的に規定しています。そして他の言語文化的マイノリティと同様,文化の伝承・継承を権利として主張する。つまり,聞こえないという身体状況を持って生まれたこどもを,本来「ろう児」であり,「手話言語」と「ろう文化」を身につけて,将来は「ろう集団」へと所属するものと捉える。これを言語文化モデルと言います。
 この言語文化モデルと社会モデルは,一見したところ何ら関係がないように見えます。しかし分配の主張という立場からは,一元的に捉えることが可能です。端的に述べるなら,言語文化モデルは言語という差異化された財をめぐる分配の主張をしていたのであり,いわゆる社会モデルとして論じられてきた立場の多くは普遍的な財,たとえば基本的諸自由,均等な機会,生存に足る所得や自尊感情などを議論の題材としてきたということなのです。両者は対立する関係にはなく,財の性質が異なるものの,どちらも平等なアクセスを求めた主張でした。

■ 言語の性質と所属の利益

 従って必要な議論とは,財の性質の検討と,どの財がだれにとって必要なのかという問いということになります。そのためここで,言語の性質について検討しておきましょう。
 言語は差異化された基本財であり,その価値はアクセスの手段であるということに求められます。そのアクセス先は人間活動のほぼ全領域に渡ります。行政,警察,裁判所,議会,法律,教育,職場,病院,家族,友人,……挙げていけばきりがないくらいです。しかし,こうした自分の外へのアクセス,「外的アクセス」だけではありません。自分の思考,感情,記憶など,自己・人格構成要素へのアクセス,すなわち自己統治も,言語によって初めて可能になります。これらを「内的アクセス」と呼ぶことにします。
 更に言語は,所属と密接に関係する財です。まず,言語によってアクセスできる場が異なる。しかも言語は習得に時間がかかる財であり,一個人が獲得できる言語は有限です。従ってこどもの頃に継承した言語によって,そのこどもの将来のアクセス先の幅がある程度決まるという特徴があります。この所属との関係をもう少し踏み込んでみましょう。

 集団への所属は,個人にとって必須の益――と共に時には害をもたらします。所属のためには,場が実在し,そこにアクセスができ,そこでコミュニケーションができなければなりませんが,これを見ればわかるように言語・文化は集団所属の条件なのです。従って,言語・文化によって所属できる所属先は異なる。また,所属先によって,そこで得られる益は異なってきます。それは,差異化された益である,関係による快や伝承の継承だけではなく,普遍的な益も含めてです。
 後者について,言語を例に取って考えてみます。ある言語Aを使用する個人が居住する地域が,言語Aのみで外的アクセスのフルアクセスが可能であれば,困難は生じない。しかしそこが差別的二言語併用状況,ダイグロシア状況で,言語Bが優位言語で言語Aだけでは一部のアクセスしかできない場合に,問題が生じてくるのです。これは,言語に基づく差別を構成します。

■ 言語権

 さて,言語権について皆さんはご存知でしょうか。言語権とは文字通り,言語への権利を意味し,その内容は多岐に渡っています。それは現に存在する言語に基づく差別を是正するための試みであるとも捉えられます。
 言語に基づく差別とは何か。現状では,言語にはマジョリティ言語とマイノリティ言語とがあります。そしてその間には,アクセス可能な幅に不均衡が存在します。これを言語の道具的側面と呼び,その格差が第一の差別と考えらえます。
 この不均衡を背景に,マイノリティ言語話者自身が当該言語への低い心理的価値づけを行うようになる。すると,道具的・心理的に高い地位にある,すなわち普遍的な財へのアクセスが大きいマジョリティ言語へと,マイノリティ言語話者は言語乗り換えを自発的に望むようになる。この構造を,言語ヘゲモニーと言います。
 しかし,言語乗り換えは,マイノリティ言語話者にとって第二の差別を構成します。第一に,乗り換えた先の言語集団に適応できるとは限りません。第二に,第一言語の発達が乏しい段階での言語乗り換えは第二言語・学力の伸びを損なうことがすでに分かっています。第三に,言語乗り換えそれ自体が負担が大きいのです。

 スクトナブ=カンガスはこうした構造を背景に,言語的人権論を唱えました。それは現行の国際法の消極性を批判し,マイノリティ言語の保護,とりわけ母語による教育を保証することを国家に求めるものです。
 具体的には,個人のレベルでは母語,そしてマイノリティ言語話者の場合は居住国の公用語の双方による教育とそれを公的場面で使用する権利を保障すること,集団のレベルではマイノリティ言語共同体の存続と自治を保障することを提起しています。個人の言語権を実質的に保障するためには言語ヘゲモニーに対抗できなければならず,そのためには集団的権利も必要としていることからの,提起なのです。

■ 財の性質と境界線の設定

 ここで,分配の主張に戻り,我々が見てきた議論を整理することにしましょう。
 財には基本的諸自由,均等な機会,生存に足る所得や自尊感情など万人にとって同様に必要な普遍的な財と,言語や文化や関係性などの差異化された財,つまり必要なのだが対象が複数存在することからその選択が求められる財とがある。そして,どちらに含まれようとも,必要な財がそれを必要とする人のもとへ分配される世界を望ましいと我々は考えたのでした。
 このように考えていくと,財が普遍的な財である限り,その分配に境界線を引くことは不正です。何故ならその財は,万人に必要だからです。しかし差異化された財である場合,特に言語のように習得に有限性があるという意味で相互排他的な財である場合には,必然的に境界線が発生します。また従って,言語に基づく益,たとえば集団所属や文化継承なども境界線が発生します。それは正当なのです。さらに先のスクトナブ=カンガスの議論にみたように,ヘゲモニーにおいて劣勢にあるマイノリティ集団にとっては,独自の伝承・継承を保障するために,尚のことそれは妥当するのです。

 このことは,分配の主張が境界線を必ずしも排除しないことを意味します。
 問いは,境界線の有無ではなく,いかなる境界線ならば正当なのかを,財の性質に照らし合わせて,その財ごとに検討するものでしかありえない。境界線を,財を単位として問うのであって,個人を単位として問うのではないことに注意してください。個人は必ず,普遍的な財と差異化された財の双方を必要としています。それは自明なことです。ここで言おうとしていることは,たとえば言語A集団と言語B集団との間に言語伝承については境界線が引かれたにせよ,所得など普遍的な財については境界線が引かれてはならないということなのです。
 そして繰り返しになりますが,伝承・継承の対象となる言語・文化とは,ひとの自律的思考を可能にするコンテクストであり,必須の財です。ひとはそのコンテクストの上で初めて,たとえば新たな生の技法などのプロダクトを生み出すことができる。ろう者の主張する言語・文化モデルとは,聴者の言語・文化とは異なる,独自のろうの言語・文化という伝承・継承の場が必要だという主張でした。
 それを共時的な,相互作用モデルによる承認・誤認の議論と混同してはなりません。ましてプロダクトレベルの主張だとすり替えてはなりません。承認の要求と伝承の要求とを混同して「障害文化」の名の下に一括りにすることは,破滅的です。我々はそこで為される必要な財の主張がいかなるものであるかを,丁寧に読み解くべきなのです。

■ ナショナリズムとは

 では,こうした言語・文化といった差異化された財の伝承を行う単位とは何か。本報告では,それをネイションと呼ぶことにします。
 ネイションとは,民族とか国民と訳される語ですが,近現代政治における基本的概念であるだけでなく,その観念は最も大きな動員力を持ったものでした。しかしながら多義的でほとんど定義不可能で,充分な説明力を持ちえた定義は現存しません。本報告でも,ネイションについての存在論的議論は展開しません。そうではなく,何かをネイションとみなすことが正当性を持つかに注目し,その根拠を,構成員に有用な差異化された財を提供できるか否かに置くことにします。
 その正当性の基準を検討するために,カナダの政治学者であるキムリッカのナショナリズム論を見ておくことにしましょう。

 近代以降一貫して,国家を担う支配的ネイションは,国民形成,ネイションビルディングと呼ばれる過程に従事してきました。これを単にナショナリズムと呼ぶこともあります。これは,国家領土内の市民を,単一の社会構成的文化,ソシエタルカルチャーに統合していく政策を指します。
 社会構成的文化とは,キムリッカの導入した独自な概念です。これは公的及び私的生活における広範な社会制度で使用されている共有の言語を中核とする,領土的に集中した文化を指しています。言語や社会制度の共有を中核的要素とするこの概念は,一般的に流通している文化概念と大きく異なり,宗教,政治思想,家庭習慣,生活様式,性的指向,などの内的多様性と両立するリベラルで「薄い」ものでありうる。しかしながら,だからといって取るに足らないものと考えることはできません。

 国家のネイションビルディングは具体的には,義務教育,国民的メディア,公用語法令,帰化政策,国民の祝日,象徴,徴兵制など様々な道具を用いて,領土内の市民に単一の国民性,国民的アイデンティティを形成し,単一の国民による共同体,ネイションステイトを形成しようとしてきました。
 それは歴史的に見て,リベラルで重要な目的にも役立ってきた。例えば階級の分断を超えて,主権の担い手として「人民」の価値を引き上げた。また福祉国家の基盤である連帯意識を強め,教育や職業への機会均等を推進することで社会正義に寄与した。さらに市民相互の信頼感を強め,共通言語を普及させることで,討議的民主主義を可能にした。かつその社会構成的文化は,個人の自律の基盤ともなった。
 しかし国家はそれがどれだけリベラルであろうとも,文化に対して中立的ではありえない。例えば政教分離は理論上可能だが,いかなる言語も採用しない政治など理論上も考えられない以上,国家は必ず何らかのネイションに利する。それどころか歴史的に国家は,国家と社会との区分や,更には公/私の区分を横断して,単一の社会構成的文化に市民を統合しようとしてきたのです。
 従って,単一ネイション国家でない限り国家のナショナリズムは,領土内のマイノリティネイションにとっては破壊的な影響をもたらす。そのため,独自の文化を持つ社会として自らを存続させることを望むマイノリティネイションの側も,国家のナショナリズムと同様のナショナリズムで抵抗してきたのです。これを,対抗的ネイションビルディングと呼びます。

 全てのネイションが分離独立することは現実的でなく,全てのマイノリティネイションを破壊し統合することも規範的に正当化できない。そして国家は,他国との関係上ネイションビルディングを継続する必要がある。
 この状況の中で許容可能な政策とは,全住人にリベラルな諸権利を保障しながらも,マイノリティネイションに国家のネイションビルディングに対抗しうる権利を与えることでしかない。具体的には,土地権,移住を制限する権利,当該ネイションの言語で教育やその他公的サービスを運用する権利,自治権,特別代表権や拒否権などです。それが国家のナショナリズムへの制約条件を為す。そして同様に,マイノリティネイション内部においても,その少数派への同様の権利保障が求められ,それがマイノリティナショナリズムの制約条件を為す。

■ 親子関係におけるナショナリズム再生産

 ここで,親子関係が国家のナショナリズムの基盤を形成していることは,繰り返し指摘されてよい。それは身体の再生産が起こる場というだけでなく,イデオロギー注入の最初期段階でもあるのです。
 親はこどもに,その情緒的関係性を基盤としながら,様々なものを教える。そして,そこで伝えられる言語や文化こそが,ナショナリズムを可能にしている。かつ,それら言語や文化,関係性や記憶は,こどもがそこから逃れがたくさせる機能を果たす。そのことをイスラエルの政治学者タミールは明確に指摘しました。そして公平性のため確認するなら,それは国家のナショナリズムだけでなく,マイノリティナショナリズムにも妥当することです。
 困難なのは,我々は必ず,判断において依存的・受動的であった「こども」という時期を経過するが故に,この伝承を,つまりはナショナリズムを完全に拒否することはできないということにあります。しかも,与えられる差異化された財が当のこどもにとって有益だという保障は実はない。そうでなかった場合に考えられる選択とは,そのこどもの所属するネイションの選択であり,また,ナショナリズムの内容の吟味です。
 当のこどもにそれを委ねることはできないのですから,それを周囲の人間が行わなければならない。大変困難な判断です。そして,このことが次に述べるデフ・ナショナリズムの問題枠組みを形成するのです。以降で確認していきましょう

■ デフ・ナショナリズムの正当化と制約条件

 さて,ろう者たちは,自分たちを言語文化的に規定し,他の言語文化的マイノリティと同様,文化の伝承・継承を権利として主張する。すなわち,自らをネイションとして主張するのでした。そして,聞こえないという身体状況をもって生まれたこどもを,本来「ろう児」であり,「手話言語」と「ろう文化」を身につけて,将来は「ろう集団」へと所属するものと捉える。
 ろう集団がネイションである,という提起が正当性を持つのであれば,上述のマイノリティネイションの議論がそのまま妥当します。つまり,支配的ネイションである聴者ナショナリズムが存在する以上,それへの対抗手段としてデフ・ナショナリズムは権利として保障されるべきである。その際の制約条件は,構成員へのリベラルな諸権利の保障と,更なるマイノリティへの権利保障の確保となる。

 では,ろう集団がネイションであるという提起は正当性を持つのか。
 繰り返しになりますが,本報告ではネイションについて存在論的議論は展開しない。そうではなく,何かをネイションとみなすことが正当性を持つかに注目するのでした。その根拠は,構成員に有用な差異化された財を提供できるか否かです。構成員個人にとって,ろう集団がネイションであり,そこから差異化された財,言語・文化が提供されることは有用と言いうるのか。
 聞こえないという身体状況を持つこどもにとって,このことは言いうると考えられます。以下に根拠を三つ挙げます。

 第一に,普遍的な財の保障という観点からしても,教育媒介言語として手話言語を採用することが不可欠である。
 その論拠は次の二つです。1.聞こえないという身体状況からは,自然に,つまり特別な訓練なしに習得できるのは視覚言語である手話言語である,2.第一言語の習得が不十分であると,第二言語たとえばマジョリティ言語の書記形態や,思考・学力・人格的発達といった普遍的な財の獲得が阻害される。
 更に,聞こえないこどもの多くは聞こえる両親のもとに生まれてくるため,手話言語による教育保障は,選択の対象ではなく制度的に為される必要があり,その必要性は両親と言語を共有可能なマイノリティ音声言語話者のこどもの場合以上に決定的と言いうる。このことはスクトナブ=カンガスも強調しています。

 第二に,将来の所属先という観点から,ろう集団に所属することが益になると言い得るが故に,こどもの頃に手話言語・ろう文化の習得が必要である。
 ろう集団に所属することが益になるというのは,次の三つの理由によります。
 1.対等なコミュニケーションが可能な場がろう集団であるということ。手話言語を獲得した上でろう集団に所属する以外に,そのような場はありうるかというと難しい。2.自分の身体状況についての肯定的な思考の枠組みを継承し,それを保障し,承認を獲得することができる。3.多くのろう者が書き残しているように,それは快の源泉となる。
 手話言語・ろう文化の習得ができなかった場合に,ろう集団への適応が困難になるだけでなく,ろう集団への否定的価値付けをも獲得してしまい心理的アクセスが阻害されるかもしれない,ということも付け加えておきましょう。

 第三に,第一・第二で指摘した,発達期において手話言語・ろう文化を継承できる教育を実効性ある形で保障するためには,ろう者による積極的な関与が必要となる。また,第二で指摘した,将来の所属先となるろう集団を,確実に存続させるためにもそれは求められる。
 以上から,聞こえないこどもにとって,ろう集団がネイションとして存続することは有用と言い得る。従ってデフ・ナショナリズムは正当であり,国家的に保障される必要があると言い得るのです。
 そしてそのためには,第一に財政的基盤の保障が要請されるであろうし,第二に政治設計的には差異化された財の伝承・継承のために,国家からの分離独立,地理的分離による国家内自治区の設定,あるいは最低でも文化自治の保障が求められるでしょう。

■ 残る問題

 以上で,デフ・ナショナリズムが一定の制約条件のもとで正当化されるという,本報告の核となる主張についての議論は終わりました。しかしこれで問題がなくなるわけではありません。むしろ,残された問題のほうが遥かに困難かもしれません。最後にその在り処をいくつか,指摘しておきたいと思います。

 第一に,人材育成が必要です。ろうネイションの内部で高等教育まで可能にすることが求められます。これは構成員の負担軽減という目的だけではありません。文化自治のためには,ろうネイションに高い能力を持った人材を多数確保する必要があるため,これは絶対に必要なプロセスです。
 第二に,家族関係,そしてその関係性に基づく財をどう考えるべきかという問題が残ります。親子間で身体状況が異なり,必要となる社会構成的文化が異なる場合に,所属をどう考えるべきか。所属を分ける場合に,この財の補填はどう考えればよいか。同種の問題に直面するゲイ・レズビアンの場合も参照しつつ,慎重に検討しなければなりますまい。  第三に,ろうネイションの内部マイノリティの問題です。貧困や疾病など普遍的な財の問題以外にも,原理的に次の二つは不可避です。一つはマージナル問題とでも言うべきもので,たとえば難聴者,第三の世界を巡る諸論点があります。もう一つはダブルマイノリティ問題とでも言うべきもので,例えばデフゲイなどです。ろうネイション内部の多様性をどう考えるかという問題につながります。

 以上はまだ見えやすい課題でした。しかし更に,オーディズム体制の下で生じた後遺症をどう考え,どう対処すべきかという巨大な問いが残っています。上農が言うように,オーディズムは聞こえない人間同士を分断し相互反目させる言語植民地政策でした。それは本報告の用語を使えば,国家のナショナリズムによるネイション破壊でした。スクトナブ=カンガスならば,ろうネイションに対するジェノサイドであると言うでしょう。
 第三の世界という集団間分断問題,内面化されたオーディズムという植民地支配,低開発問題としての低言語力問題や少なくともリテラシー問題,など,コロニアル/ポストコロニアルの諸問題がそこにははっきりと見て取ることができる。しかし,その困難だけではない。脱植民地化運動の担い手の直面する困難にこそ,その捩れをはっきりと見て取ることができると思うのです。
 脱植民地化運動が成功するためには,多くのろうネイション外の文化資本が必要でしょう。言語資本としても,情報を収集し外部と交渉する上では,マジョリティ言語の書記形態が最低限求められますし,おそらく複数の言語のリテラシーを備える必要があるでしょう。それだけでなく,領域横断的な知的資源へのアクセスが必要ですから,非常に高いレベルでの高等教育を受ける必要が出てきます。それは残念ながら,現状ではろうネイション内部では保障できない。ろうネイションを植民地主義による破壊から守ろうとする脱植民地化運動自体が,外部資源を元にしてしか可能とはならない捩れ。

 私は脱植民地化運動を批判したいのではないのです。しかしこの捩れは,運動の担い手の位置を不確かなものにするかもしれません。あるいは現状の自分の位置を,本来あってはならない位置として表象するかもしれません。極めて高い能力を持つエリートでしか担い得ないその位置もまた,「消え去る媒介者」でしかない位置とされるのでしょうか。それもまた,ろうサバルタンとは別の,サバルタンの位置なのではないでしょうか。
 本報告の最後に,パディ・ラッドの一節を読み上げたいと思います。この一節に,現実と希望との間の振動だけではなく,自身と本来性との間にある,捩れと苦渋と苦闘を感じてしまうのは,私の側の過剰な投影なのでしょうか。「ろう者は深いところで,およそ計り知れないような経路を通じて,世界的ろうコミュニティの一員として互いに結ばれている。いまやそのろうコミュニティは,世界的なろうネイションとして形をなそうとしているのだ」。

■ 追記

 以上が報告原稿である。終了後にいくつかコメントを頂いた。「アクセシブルテクノロジーの進展があっても視覚障害者の文化は必要と考えられるのか」「自閉文化にもこの議論は適用可能なのか」といった質問の他に,「そもそもこの種の議論はデフの立場に立っているのか,デフの役に立つのか」という指摘も受けた。最後の指摘についてのみ,追記の形でここに記す。
 短く応えるなら,「デフの立場に立った議論とは思わないし,そのつもりもない。しかし役に立つことはあるかもしれない」となる。そもそも(日本手話の能力の問題以前に)聴者の私がデフの立場に立つことなどありえない(代理も含め。それがありうるとするなら本当に傲慢だと思う)。更に言えば,私の職業的立場からすれば社会的支配者階級の発言だと見られるだろうことも承知している(医療は身体管理のテクノロジーだった)。  しかし本報告は,デフの立場か聴者の立場かというポジショニングに依存しない議論を(少なくとも意図としては)行っている。詳細は読み返して頂きたいが,敢えて強い言い方をすれば,「より不正の少ない統治」を巡って私は本報告で議論した。この立場が,本報告でも挙げたキムリッカの多文化主義論と同型であり,それゆえ同種の限界を有することは否定し得ない。とはいえそれは上述の属性的ポジショニングの問いとは異なっている(そもそも統治で語るべきことなのか,というような別種のポジショニングの問いはありえても)。
 上記の指摘を下さった方とは,この立脚点について共有ができなかったのだろうと思う。それは適切な説明が出来なかった私の側の問題だと反省する。本報告の議論は非常に荒削りなものであるから,この点以外にも,修正されるべき議論は多数あるだろう。是非ご批判賜りたく思う。
(2009年4月1日記)



*ファイル作成:片山 知哉
UP:20090401
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