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労使関係年表(出来事と研究) 1951〜1975年

 
-1900年 1901-1925年 1926-1950年 1951-1975年 1976-2000年 2001年-



■1951年

◆総評第二回大会、高野実が事務局長に就任
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/tm.htm
◇労働運動史研究会編 197807 『高野時代の労働運動(労働運動史研究61号)』労働旬報社

◆大河内 一男 1951 「労働組合における日本型について」『経済研究』第2巻4号

◆隅谷 三喜男 1951 「資本と労働――賃労働関係における封建制」日本人文科学会編『封建遺制』有斐閣

◆氏原 正治郎 1951 「所謂『常用工』と『臨時工』について」『社会科学研究』第3巻第2号
◇「以上のように、「常用工」の賃金率決定の方法を分析していくると、次のようにいえる。第一に、「常用工」の賃金は、彼らが実際に行なっている労働の評価にもとづいて決定されていない。第二には、「常用工」の能力が考慮されていないわけではないが、それよりも従業員の生活の必要にたいする配慮と企業にたいする功労報償を制度的に保証している面が強い。換言すれば、「常用工」には、労働にたいして賃金率がきめられていないという意味で、不貞の労働量の提供と、勤続年数が企業にたいする功労の尺度に使われているという意味で、原則として定年退職までの長期の雇用期間の間の企業にたいする忠誠が期待され要請されている。それにたいして、企業は、常用工が提供する労働とは一応無関係に、その生活の保証と功労の報償を与えているようにみえる。
 ところが、いわゆる「臨時工」の場合には、このような賃金の観念は存在していない。元来、短期契約の被用者である「臨時工」の場合には、年齢や勤続年数による賃金率の決定は、技術的にも煩雑であり困難である。勢い賃金率の決定は、彼が遂行している職務の難易、それを遂行する能力を基準とする単純なものたらざるをえない。この意味では、「臨時工」の賃金は、労働の質と量に応ずるところの賃金であるといえる。しかし、ここでも次の問題は残される。「臨時工」の職務と能力の評価が、企業と労働組合との間の団体取引によって行なわれていない、その意味で客観的社会的評価をうけていず、企業の主観的評価にもとづいて行なわれる場合には、その賃金率は、競争と個別取引によって、一般水準より低くされる可能性が大きいことである。」(氏原正治郎19661105『日本労働問題研究』,東京大学出版会,p.463)

◆氏原 正治郎 1951 「臨時工と労働組合」『労働神奈川』第65号

◆高野 実 1951 『対日講和を今后の労働運動』外国文化社
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/tm.htm

◆松島 静雄 19510820 『労働社会学序説』福村書店

◆八幡製鉄所、経営協議会を廃止し生産委員会を設置

■1952年

◆職業安定法施行規則第4条改正(2月)
「そこで,講和条約発効の直前の1952年2月,規則第4条を改正して「専門的な企画,技術」を「企画若しくは専門的な技術若しくは専門的な経験」に改めるとともに,それまでの産業別認定基準は廃止し,新たな基準は作成しないこととした」(濱口桂一郎『労働法政策』p.63)

◆大河 内一男 1952 『黎明期の日本労働運動』岩波書店

◆日産争議
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/27/rn1955-362.html

◆高野 実 1952 『労働組合運営論』河出書房

■1953年

◆日経連『労働協約基準案』(1月)

◆三井鉱山でストライキ、「英雄なき113日の闘い」

◆村上 寛治・井出 武三郎・清水 一 1953 『総評』東洋経済新報社

◆ILOの労働監督条約(1947年・第81号)を批准(10月20日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c081.htm

◆ILOの職業安定組織条約(1948年・第88号)を批准(10月20日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c088.htm

◆ILOの団結権及び団体交渉権条約(1949年・第98号)を批准(10月20日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c098.htm

■1954年

◆氏原 正治郎 1954 「京浜工業地帯における労働市場の模型」『京浜工業地帯調査報告書 産業労働編各論』神奈川県

◆ILOの最終条項改正条約(1946年・第80号)を批准(5月27日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c080.htm

◆近江絹糸争議(人権争議)
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1954/1954_27.html

◇上野 輝将 200902 『近江絹糸人権争議の研究――戦後民主主義と社会運動―』部落問題研究所
◇榎 一江 200907 「書評と紹介」『大原社会問題研究所雑誌』No.609,pp.57-59
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/609/609-07.pdf

◇しが彦根新聞「近江絹糸「人権争議」 元彦根支部長の朝倉さんに聞く」(2009年6月23日)
 http://shigahikone.blogspot.com/2009/06/blog-post_23.html

◇内山 光雄 1954 『幹部闘争から大衆闘争へ』(労働法律旬報社)

■1955年

◆『社会政策学会年報』第2集,有斐閣(6月)
 「賃労働における封建性」
 http://wwwsoc.nii.ac.jp/sssp/nenpo50s.html#nenpo2

◆隅谷 三喜男 19550725→19740515 『日本賃労働史論――明治前期における労働者階級の形成〔第二版〕』,東京大学出版会,329p. ISBN-10: 4130500422 ISBN-13: 978-4130500425 \2520 [amazon][kinokuniya]

◆大河内 一男・氏原 正治郎 編 19550925 『労働市場の研究――中学校卒業生の就職問題』,東京大学出版会,411p. ASIN: B000JB2Z8K \5250 [amazon][kinokuniya] y01

◆失業対策審議会 1955 『日本における雇用と失業』東洋経済新報社

◆日経連 1955 『職務給の研究』日本経営者団体連盟弘報部
◇「日本企業はこの年功制の再編に,当初,職務等級制=職務給の導入で対処しようとした。職務給の追求は1950年代から60年代半ばまで続いた7)。それは,当然のことながら,賃率のより高い上位職務への移動(職務昇進)が「先任権」というマギレのない年功基準(勤続年数順)に基づいて運用されるという,アメリカ的労使関係に発達した制度の日本への導入を意味するものではなかった。それでは職務給導入の管理的意味はなかった。職務昇進を人事考課によって管理的に律することを通じて年功制の如上の管理的弱点を克服するものとしてこそ,職務給が追求されたのである8)。
 それゆえ,職務給の追求とその後の「能力主義管理」は,管理企図は全く同質であった。職務給の導入史は「能力主義管理」に至る日本企業の能率刺激的管理制度追求の前史であったといえる。違いは,職務給は労働者の強い反対を受けたが,「能力主義管理」(職能給)はそうではなかったということ,職務給制度の難渋を経て「能力主義管理」が導入され展開してくるということであった。」
7)石田光男『賃金の社会科学――日本とイギリス』中央経済社,1990年,29-44頁。
8)日本経営者団体連盟『職務給の研究』日経連弘報部,1955年,12,14,426-432頁。
1962年に導入された職務給に対し,八幡製鉄労組は「昇進は原則として同一作業系列内における序列の先任権順によって行い,人事考課は認めない」という立場で制度運用の是正を要求したが,会社側は「人事権の問題」だとしてこれに一歩も譲歩しなかった(総評・中立労連春闘共闘委賃金専門委員会編『職務給――その理論と闘争』労働旬報社,1966年,292-293頁。)
(鈴木良始19940325『日本的生産システムと企業社会』,北海道大学図書館刊行会,pp.182-183)

「(…)年功賃金を広く支持した同じ労働者の意識のなかにも,仕事の苦労や努力や能力が違う以上は,年齢・勤続が同じなら処遇が全く同じというのでは逆に悪平等だという感情が同時にあった。職務給の推進にあたって企業側がその説得の論理として示した「同一労働,同一賃金」という呼びかけは,労働者のこの意識に働きかけようとしたものであり、その限りでは労働者は職務給のなかに一定の肯定すべきものを見たはずであった。しかし,職務給は,勤続(年功)ばかりでなく個々の努力をも評価してほしいという労働者の欲求に応えるはずでありながら,実はそれさえも裏切るものであったのである。職務給に対する労働者の如上の第二の不満の重要な示唆は,まさにこの点にある。」(p.186)

「石田氏は,「能力主義管理」が日本の組織労働者の強い反対を受けなかったという事実を,日本の労働者が競争主義を志向しており,それが「能力主義管理」と重なり合ったことを示すものと解釈した。しかし職務給が労働者の激しい抵抗を受けた最も大きな要因は,まさにその露骨な競争的相対主義であった。職務給は,役職昇進の相対主義を既存の年功的賃金上昇全般へはばかりなく拡張することを本質とするものであった。日本の労働者は,職務給を通して,この露骨な競争主義,はなはだしき「相対区分」を拒絶したのである。
 まとめよう。年功的賃金制度と調和し,かつ各人の努力がむなしくならないような「絶対区分」評価,これが日本の労働者の求めたものであった。職務給は,この二つの欲求と激しく衝突したがゆえに定着することができなかった。翻って,「能力主義管理」が職務給とは対照的にともかくも制度として定着したという事実は,このような日本の労働者の二つの志向に少なくともある程度はそれが適合するものであったこと,適合するような発展してきたことを示唆する。(…)」(p.189)

◆ILOの失業補償(海難)条約(1920年・第8号)を批准(8月22日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c008.htm

◆ILOの海員の雇入契約条約(1926年・第22号)を批准(8月22日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c022.htm

◆ILOの健康検査(船員)条約(1946年・第73号)を批准(8月22日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c073.htm

◆ILOの最低年齢(海上)改正条約(1936年・第58号)を批准(8月22日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c058.htm

◆大河内 一男 195509 「『総評』論――この日本的なるもの」『世界』,pp.63-73
◇「日本の労働運動は、まことに奇妙な宿命を背負つているようにみえる。そのはじめ、まことに無色な、おだやかで無害な啓蒙的民衆運動として発足しながら、やがて忽ちのあいだに、政治的な急進主義に変貌し、飛びぬけて高いイデオロギーと権力闘争的な戦術とを生み出しながら、右派と左派とに分裂し、そして分裂のたび毎に、右派はいよいよ右派的に、左派はいよいよ左派的になつてゆく。それぞれが、反射的に、反対の道へひたむきに押し流されていく。いつも左派が優勢で、知識層やジャーナリズムの応援を獲た派手な存在になりながら、合法から非合法の領域に突入するか、少なくとも、合法・非合法すれすれの境界線を、意識としても戦術としても、歩むようになることには、気付いてみれば、もうあとへ退けなくなつていまつている。やがて、英雄主義に似たものが運動の雰囲気の中から生まれてくると、味方の戦闘力の過大評価と敵の反撃力や防備に対する誤算が必ずおこり、客観的情勢が困難になると焦慮と動揺が起り、最後には、いつも、残忍で野蛮な弾圧がはじまり、指導者の血が流され、大衆の萎縮と運動の沈滞が起る。明治以来そうだつたし、戦後の今日でもそうである。」(p.63)

◇篠田 徹 200511 「"企業別組合を中心とした民衆組合"とは (上)」『大原社会問題研究所雑誌』564号
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/564/564-01.pdf
◇篠田 徹 200512 「"企業別組合を中心とした民衆組合"とは (下)」『大原社会問題研究所雑誌』565号
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/564/564-01.pdf

■1956年

◆トヨタ自工、臨時工制度を設ける
◇「非典型雇用への依存は,今に始まったことではない。戦後日本の自動車産業は,1950年−60年代において,臨時工を不可欠の労働力としていた。当時,臨時工の動向が日本の労働市場に与える影響はきわめて大きかった。トヨタ自動車工業(以下「トヨタ自工」と略)を例にとると,1950年の労働争議・人員整理後,本工の採用抑制方針のもとで,生産拡大を実現するための方策として,技術革新と同時に「多工程持ち」などのトヨタ生産方式の萌芽的な試みが開始され,従来の万能工型の熟練は次第に解体されていった。そして,それを前提として,本工の採用を増やさず臨時工に依存して乗用車量産体制の確立がなされたのである。」(伊達浩憲200503「戦後日本の自動車産業と臨時工―― 1950−60年代のトヨタ自工を中心に」『大原社会問題研究所雑誌』 556,p.12)
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/556/556-02.pdf

◆高野 実 1956 『労働者のモラル』理論社

◆ILOの坑内作業(女子)条約(1935年・第45号)を批准(6月11日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c045.htm

◆ILOの有料職業紹介所改正条約(1949年・第96号)を批准(6月11日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c096.htm

■1957年

◆労働省労政局労働組合課 19571000 『合同労組の現状』

◆有沢 広巳 195703 「経済拡大は雇用問題を解決しうるか」『世界』No.135,pp.34-44

◆日本経営者団体連合会 1957 『臨時工問題の研究――主として労務管理の観点から』
「一般に構造(structure)とは、問題とする経済変数の相互関係の数量的表現のことをいう。元来、二重構造は有沢広巳(1957,p.43)によって提唱された概念で、製造工業の内部に大・中・小の規模の異なる企業が並存していて、大企業ほど労働者1人あたりの(付加価値)生産性が高く、しかも平均賃金額も相対的に高水準にある状態を指す。これを二重の構造と呼んだのは、1つの経済の中に一見2つの異質な要素があることを視覚的に浮き上がらせ、かつ批判の対象としたかったからにほかならない。(…)」(尾高煌之助19840928『労働市場分析』岩波書店,p.1)

◆東洋経済新報社編 1957 『臨時工をめぐる法律問題』東洋経済新報
◇久本 憲夫 199610 「相互信頼的労使関係形成への歩み――昭和30年代の臨時工問題を素材に」『経済論叢別冊 調査と研究』11,pp.69-87
 http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/44430/1/11_69.pdf

■1958年

◆Abegglen, James 1958 The Japanese Factory. Aspects of its Social Organization, The Free Press=1958 占部 都美監訳,『日本の経営』ダイヤモンド社
◇佐武 弘章 200005 「トヨタ生産方式と日本的生産システム――その共通性と異質性をめぐって」『大原社会問題研究所雑誌』No.498,pp.1-18

◇柴田 高 20061025 「日本的経営研究におけるアベグレン的解釈の影響と限界」『東京経大学会誌』(252),pp.3-16
 http://www.tku.ac.jp/%7Ekoho/kiyou/contents/administration/252.html

■1959年

◆三井三池闘争、「総資本対総労働の対決」

◆炭鉱離職者臨時措置法

■1960年

◆労働者同志会「労働運動の前進のために」発表(1月)
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1960/1960_06.html
◇「このような要員合理化の急速な進展は、おそらく、六〇年代に入って一〇年近くの間に、八幡製鉄労組の運動思想が盟友会のかかげる「労働組合主義」で固められていったことと無縁ではあるまい。六〇年八月盟友会の中村卓彦を書記長のポストにすえた八幡製鉄労組は、設備合理化に対処していくために、「合理化による犠牲」を排除しつつ、「合理化の成果」を収穫する闘いを進めることを運動方針の機軸にすえた。それは、「犠牲のしわよせを最小限にくい止めるべく、事前協議の実を尽くして経営の諸施策を丹念にチェック」しながら、賃上げ・時間短縮などを通じて成果の適正な配分を求めていこうとするものであった〔『八幡製鉄労働運動史』(続)上、一九七〇年〕。」(兵藤サ19970520『労働の戦後史(上)』東京大学出版会,p.248)

◇山垣 真浩 200005 「日本型《労働組合主義》運動とその帰結――企業成長と労働者の利害は同一視できるか」『大原社会問題研究所雑誌』No.498,pp.19-42
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/498/498-2.pdf

◆昭和同人会編 1960 『わが国賃金構造の史的考察』至誠堂

◆江原 又七郎 19601020 『日本の合同労組――組織・運営・活動の実証的研究』法政大学出版局

◆氏原 正治郎・藤田 若雄・舟橋 尚道 1960 『日本型労働組合と年功制度』,東洋経済新報社

■1961年

◆小池 和男 1961 「日本の採用管理(1)(2)(3)」,『旬刊賃金と社会保障』昭和36年7月上旬,中旬,下旬号(No.213,4,5)

◆田口 富久治 1961 『日本の革新勢力』弘文堂

■1962年

◆関西経営者協会 19620525 『合同労組をめぐる諸問題』関西経営者協会

◆NHK「日本の素顔 失対事業13年」(9月)
 http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10001200996209230130009/

◆林 信雄 19621201 『合同労組と労働法』ミネルヴァ書房

■1963年

◆山本潔 196301 「臨時工労働市場の構造――自動車工業における事例研究」『日本労働協会雑誌』No.58

◆三井三池三川炭鉱炭塵爆発(11月)

◆石井 照久 1963 『労働組合の組織と機能』文久書林
◇「一 最後に労働法は、労働者の生存を確保せしめるということすなわち労働人格の完成を理念とする。かかる労働法の理念を私は以前から強調してきたのであるが、諸外国においても、この点は最近非常にはつきりと論じられてきているのである。資本主義社会のもとにおいて、ともかく労働者という人格を認めた以上労働者は完全なる人格者なのであるから、労働者として生かされるという理想を実現することに向かつて、国は絶対の努力をしなければならない。(…)」(p.53)

「合同労組とは、労働者が地域別または業種別に、企業とは関係なく結成する労働組合であつて、中小企業において利用されている労働組合の特殊な型である。(…)」(p.219)

「したがつて、それは企業に関係のない横断的組合という形式の点では、産業別に、または職種別に結合する欧米の労働組合の型に類似しているが、近代的な労働組合運動の理念の点では、過渡的、かつ、変態的な労働組合の型といわねばならない。それは欧米の労働組合のように企業別意識を乗りこえた横断的組織というよりは、むしろ企業別意識に捉われつつ、やむをえずとられた横断的組織である。このことは、この合同労組に所属する労働組合員のうちに、自己が労働組合に所属することを自己の使用者に知られることを恐れて匿名で組合に加入している者が少なくないということに現われている。また、このような気がねを乗りこえて各企業ごとにある程度の団結を確保しえている合同労組の場合にも、各企業ごとに支部をもち、この支部が企業別労働組合的性格を備えている場合があり、このような点でも欧米の横断的労働組合とは趣を異にしている。近代的な労働組合意識の発達のうちに、このような合同労組が、その過渡的、かつ、変態的な性格を乗りこえて企業別労働組合脱皮の先駆をなすかあるいは所詮は過渡的な形態としてとどまるかは将来における興味ある課題である。」(pp.219-220)

◆八幡製鉄所 1963 『職場生産委員会および苦情処理委員会解説書』

■1964年

◆京都府労働経済研究所 19640331 『低所得労働者の生活実態調査――臨時工の生態』

■1965年

◆大河内 一男 1965 『産業別賃金決定の機構』,日本労働協会

◆大河内 一男・氏原 正治郎・高橋 洸・高梨 昌 1965 『日本のユニオン・リーダー』,東洋経済新報社

◆ILOの結社の自由及び団結権保護条約(1948年・第87号)を批准(6月14日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c087.htm

◆「ベトナム戦争反対・日韓批准阻止のための反戦青年委員会」(反戦青年委員会)結成

■1966年

◆佐々木 力 19660510 『意欲を起こさせる人間管理――若い人をつかむために…』,実業之日本社,257p. 350

◆臨時家内労働調査会 19660701 『家内労働の現状』日本労働協会
「すなわち、ごく大ざっぱにいって、家内労働は、原則として次の三つの特徴を備えているものを指し、この報告でも、この三つの特徴を備えているものを家内労働としてとらえて作業をすすめた。  @ 作業所が、自宅または知人の家など自分が任意に選んだ場所、時として委託者の指定する場所であること。  A 自分ひとりで、あるいは少数の補助者とともに作業に従事していること。この場合、補助者は通常家族であって、常態として他人を雇うということはないこと。  B 問屋・製造業者から物の製造、加工などを委託され、通常原材料の支給をうけて、その下請として作業を行っていること。作業は通常簡易な手作業で、機械設備を用いる場合もきわめて簡単なものである。」(p.23)

「たとえば、岐阜の提灯の家内労働では、戦前は年期明けの労働者が独立したものなど専業的家内労働者が主力であったが、戦後は内職的家内労働者で同じ作業を行なうものがふえ、農山村の副業としても拡がり、専業的家内労働者の工賃はこれら内職的家内労働者や副業的家内労働者に圧迫されて低下し、専業としての家内労働を困難にしているという。
 もっとも、同一作業に従事していても両者の間にはやはりいくらかの差異はある。というのは、技能の点で、一般に専業的家内労働者がすぐれているうえに、内職的家内労働者は家事との関係で仕事が不規則になりがちで、あまりあてにならないことが多いという事情があるので、工賃が専業的家内労働者でも内職的家内労働者でも変わらないということになれば、委託者は専業的家内労働者を内職的家内労働者にくらべ優遇するようになる。同じ作業でも割のよい仕事を専業的家内労働者に回し、また閑散期や、不況の場合など、委託する量が少なくなるような場合には、まず内職的家内労働者への委託を減らしているような事例もみうけられる。
 いずれにしろ家内労働にはきわめて性格の異なった類型があること、しかも業種によっては家内労働者の間において相互の微妙な関係があることに注意しなければならない。」(p.37)

「大企業が家内労働者に直接委託することは皆無ではないがごく少ない。ただし、被服製造業、ラジオ、テレビなどの部品製造業など家内労働に委託している中小零細問屋・製造業者には、大企業の下請にあるものも相当あるので、終局的には、大企業に結びつく家内労働がかなりある。」(p.42)

「委託する問屋・製造業者の立場からすれば、多数の家内労働者に委託しようとする場合に、どうしても仲介人に依存せざるを得ない。すなわち、仲介人は、家内労働者の必要数を適時つかみ、仕事量を円滑にこなすために役立っているといえよう。
 しかし、このような一般的な役割とともに、仲介人を工賃水準の低い地域に配置することにより、家内労働者に支払う工賃額を節約するという見地からの利用もある。さきにあげた横浜地区のスカーフの製造業者は、最近、横浜地区にくらべ工賃水準の低い群馬県の前橋や桐生周辺の農村地帯に目をつけ、同地域に仲介人を配置して周辺の農家などに委託するようになった。現在は横浜地区で生産されるスカーフの半分近くが群馬県地区に流れているといわれ、工賃水準の高い地域の問屋・製造業者が低い工賃を求めて仲介人を利用して他の県に委託している事例はほうぼうにみられる。」(p.48)

「専業的家内労働をはじめるものの多くが、中小企業労働者からの転入者であるという事実は、中小企業の労働条件と切り離して考えることができない。
 若年労働者の賃金とくに初任給は、大企業も中小企業もあまり変りがなく、最近は求人難の深刻化によるむしろ中小企業の方が僅かながら高い傾向もみられるが、大企業では、いわゆる年功序列により年齢勤続とともに賃金が高まるのに対し、中小企業では賃金の伸びが緩慢であるため、その差は年齢勤続が高まるにつれて大きくなる。四〇歳〜五〇歳ごろになると、労働の内容や質の違いもあるが中小企業の賃金は大企業の六割ないし半分になってしまう。したがって中小企業の労働者としてとどまるかぎり、賃金は低く、ふえる見込みも少ない。
 ところが、家内労働者になれば、労働基準法による労働時間の制約がなく、また、家族総掛りで働けるから収入はいくらかふえるであろう。しかも運が向けば、労働者を何人か雇入れ、企業経営者としていくらかでも楽に暮らせるようになるかもしれない。とすれば、中小企業の労働者の中から家内労働を始めようとするものがでてきてもあながち不思議ではない。
(…)
 身体障害者、長期療養者、未亡人、失業者などになると問題はさらに切実である。最近「求人難」ということがさかんにいわれているが、それは若年労働者のことであって、四〇才以上の中高年令層の就職難は依然として緩和されていない。運よく就職できても、労働条件が悪いことが多い。扶養家族をかかえているものはとくに就業の緊急度が高く、切実である。こういう状態にある人人が、不安の念を持ちながらも、生活のために家内労働を始めるのである。」(p.62-63)

◆氏原 正治郎 19661105 『日本労働問題研究』,東京大学出版会,483p. ASIN: B000JA9QE2 \6090 [amazon][kinokuniya]

■1967年

◆山本 潔 196703 『日本労働市場の構造――「技術革新」と労働市場の構造的変化』東京大学出版会
 http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-056002-3.html

◆ILOの同一報酬条約(1951年・第100号)を批准(8月24日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c100.htm

■1968年

◆ ◆労働市場研究委員会 1968 『労働市場と不完全就業に関する研究』(労働省昭和42年度委託調査報告書),統計研究会,93p. ASIN: B000J9N90A [amazon]

◆高見 圭司編 1968 『反戦青年委員会』三一新書

■1969年

◆日本経営者団体連盟 19690225 『能力主義管理――その理論と実践日経連能力主義管理研究会報告』,日本経営者団体連盟弘報部,615p. ASIN: B000J9S8WY [amazon]

◆「日本国有鉄道財政再建特別措置法」成立、「財政再建10カ年計画」開始

◆総選挙で社会党敗北(12月)

■1970年

◆「全国民間主要労組委員長懇話会」(全民懇)結成

◆津田 真澂 19700701 『日本の労務管理』,東京大学出版会,232p. ASIN: B000J9UZZ2 [amazon]

◆第40回総評大会、岩井晃事務局長退任

■1971年

◆ILOの最低賃金決定制度条約(1928年・第26号)を批准(4月29日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c026.htm

◆ILOの最終条項改正条約(1961年・第116号)を批准(4月29日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c116.htm

◆ILOの最低賃金決定条約(1970年・第131号)を批准(4月29日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c131.htm

◆勤労者財産形成促進法(6月)
 http://www.houko.com/00/01/S46/092.HTM
 http://www2.mhlw.go.jp/topics/seido/rousei/kinrousya/980831_1.htm

◇「日本の大企業は、戦前来、企業内福祉の拡充によって〈経営家族主義〉の具現に努めてきたが、戦後改革のもとで、家族制度イデオロギーが排斥され、企業内福祉の労働条件化が進展するにつれて、〈経営家族主義〉も風化していった。六〇年代における企業内福祉の再編策は、このような戦後的条件に制約されながらも、私生活主義に特徴的な個人主義的生活意識の新党に即応したかたちで、従業員の生活欲求を企業内福祉のうちに吸い上げ、企業を「生活共同体」として再構築しようとするものであった。それは、競争主義的な企業社会の形成を促す能力主義管理を労務管理刷新の盾の一面とすれば、その半面をはすものであったといってよい。そして、この企業内福祉の再編策は、勤労者財産形成法の制定(七一年)によって、国家的に支えられつつ進展していったのである。」(兵藤サ19970520『労働の戦後史(上)』東京大学出版会,p.183)

◆公共企業体等労働委員会(公労委)がマル生運動にともなう労組脱退工作を不当労働行為と認定(10月)
 磯崎叡国鉄総裁が陳謝、マル生運動は中止

■1972年

■1973年

◆テンプスタッフ株式会社設立(5月)
 http://www.tempstaff.co.jp/

◆ILOの放射線保護条約(1960年・第115号)を批准(7月31日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c115.htm

◆ILOの機械防護条約(1963年・第119号)を批准(7月31日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c119.htm

■1974年

◆ILOの業務災害給付条約(1964年・第121号)を批准(6月7日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c121.htm

◆「雇用保険法」成立(12月28日)
 http://www.jil.go.jp/kikaku-qa/hourei/main/7/h3490100001160.html
◇「焦点のひとつは雇用保険法の成立をめぐってである。74年2月に提出された同法案は当初は総評等から激しい反対にあった。本稿との関連では、限られた財政の枠組みのなかで失業給付事業と雇用改善、能力開発、雇用福祉の三事業を一元化するのは給付水準の切り下げにつながるという批判に注目すべきであろう(21)。ところでこの三事業に関しては日経連も別の角度から反対していた。三事業が事業主のみを受益者とし全額事業主負担(社会的責任論に基づいて)となっている点は納得しがたく、これについても労使折半の原則をつらぬくべきであると主張したのである(22)。
 こうした反対にもかかわらず雇用保険法は74年12月に若干の修正の後に成立した。成立のポイントが雇用調整球菌制度にあったことは秋以降の労使の動きをみれば間違いないであろう。74年の雇用状況の悪化はこの制度の必要性を労使双方に意識させるのに十分であった。様々な問題点は留保しつつ、いわば緊急避難的に成立させたのである。」(佐口和郎19920825「「雇用問題」の転換」,栗田健編著『現代日本の労使関係』,pp.87-88)

◇「元来労働政策は広く社会政策ともよばれ、個々の労働者や個別企業の労働条件よりも労資それぞれが定める賃金・労働条件を労働者全般の「保護」に 向け、集団的契約によって調整・誘導する手段を講じることであったことは繰り返し述べた。また労働政策のための行政組織の設置目的にのこの視点は明記され ている。しかし、1970年代初頭に生じた石油危機とその後に行なわれた「雇用調整」が生じる事態に直面して、労働政策は大きな転換を始めた。政策転換の 基本的構想はマクロ的にいえば、以下の点に集約できる。すなわち@「雇用調整」を産業・地域・年齢など全体で行うこと、要するに、過剰雇用を抱える産業・ 地域から労働力不足の産業・地域に流すインセンティブ(刺激)政策の導入、A多元的な「雇用調整」実行のため、個別企業レベルでのインセンティブ政策の確 実な効果を得るため、調整金、助成金の行政組織をからめた制度的体制をととのえること、Bこれらの「雇用調整」に要する費用を従来の労資折半の負担ではな く、企業負担による新財源を設けて、従来の労資折半の「失業保険」から労資および資本間の保険料負担を求める「雇用保険」とする。これらが、戦後制度化さ れた「失業保険」制度が廃止され、1975年に導入された「雇用保険」制度などによって労働行政が企業の労務管理機能に直接的連関を確立するに至った新体 制であった。
 すなわち、雇用保険制度はたんに「雇用調整」のための企業間保険制度を創設しただけではない。そのひとつは不況や産業構造変化による影響を受けた企業が 行う一時帰休などに際し、労働者に支給する賃金(ただし、賃金カットを含む)支払い等に要する雇用調整費用の助成、不況業種などから解雇された労働者を雇 用する企業に対する助成、中・高年齢労働者など労働市場のなかで過剰化され、就労機会の少ない労働者を雇用する企業への助成、さらにはこれら中・高年齢労 働者の雇用を継続することを意味する定年延長・再雇用などに対する助成、構造的不況地域における雇用拡大などに取り組む企業への新規雇用への助成、職業転 換が必要な労働者の職業転換に要する費用への助成等々である。
 これらはいずれも直接的に企業の賃金コストの軽減に重点をおき、賃金コスト負担軽減の「保険」ないし「企業間共済」型保険の設立が失業保険制度の雇用保 険への転換の焦点であった。
 この転換が、労働政策の行政組織に与えた作用は大きかった。特に雇用保険業務を取り扱う職業安定所においては従来の業務である失業保険に関する業務と新 規に加わった雇用保険業務とが重なり、職業安定所組織の業務負担に大きな変化をもたらした。すなわち、元来企業の業務コスト削減をインセンティブにした雇 用保険は、たんなる「保険」ではなく企業のコスト削減を職業安定所における事務処理経費増加で企業コストの肩替りにも連なる事務負担が付け加わっている。 この結果、職業安定所においては求職者のための職業相談業務への人員削減、雇用保険業務への増員が必要になった。職業安定行政におけるサービス方法の変更 によって労働政策は企業の労務管理業務への直接的組込みが開始された。」(田代洋一・萩原伸次郎・金澤史男編『現代の経済政策』p.227-228)

■1975年

◆ILOの船舶料理士資格証明条約(1946年・第69号)を批准(7月29日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c069.htm

◆三木首相、生涯設計<ライフサイクル>計画構想を発表(8月19日)

◆スト権奪還ストライキ(11月26日〜12月4日)


*作成:橋口 昌治
UP:20081201 REV:20090902 0905, 20100514 1215 2011706
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