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スパゲッティ症候群/スパゲティ症候群



◆鎌田 實 19971210 「さらばスパゲッティ症候群――いのちは誰のもの」,鎌田・高橋[1997:194-202]*
*鎌田 實・高橋卓志 19971210 『インフォームド・チョイス――成熟した死の選択』,医歯薬出版,242p. ISBN-10: 4263230442 ISBN-13: 978-4263230442 1800 [amazon][kinokuniya] ※ d01.

 「死は、医師にとって敗北を意味していました。スパゲッティ症候群という悲しい言葉が生まれました。死に逝く患者が、たくさんの管につながれ、ダイイングメッセージ(お別れの言葉や<0195<最後の言葉を述べるチャンスも与えられないまま、無念の死を遂げていきました。医師たちは治療に夢中になりすぎて、患者のいのちを自分の持ち物のように錯覚してしまいました。悲しい歴史です。」(鎌田[1997:195-196])

◆川上 武 編 20020325 『戦後日本病人史』,農村漁村文化協会,804+13p. ASIN: 4540001698 12000 [amazon] ※ h01.

◆向井 承子 20030825 『患者追放――行き場を失う老人たち』,筑摩書房,250p. ISBN:4-480-86349-4 1500 [boople][amazon][bk1] ※

 「やがて、過剰医療ということばが生まれる。患者がまるで検査やクスリを消費するだけの存在、病院を支える道具のように扱われることになる。
 それは患者が選んだことではなく、医療関係者たちが患者を医療経営のコマとして扱う羽目に自ら負い込まれる、いわば自縄自縛の落し穴にはまってしまった結果なのだが、そのころから今度は、家族もかかわりようのない高度医療の場で死んでいく人たちのことが問題視されるようになった。患者の治療にも、まして孝不孝にもかかわりなしに湯水のように患者にお金がかけられるようになり、スパゲッティ症候群ということばが生まれてきた。そして、当然のように病院で医療に頼って生き続けるおとしよりの存在が財政面から問題視されることとなって、いまでは、医療が必要な人もそうでない人も一気呵成に医療から追放されようとしている。」(向井[2003:8])

◆奥野 修司 20070220 『満足死――寝たきりゼロの思想』,講談社,現代新書1880,221+3p. ISBN978-4-06-149880-8 720  [amazon][kinokuniya][boople] ※ d01.

 疋田善平医師の言葉
 「「人間の尊厳は理屈ではいろいろ言われますが、その人が本当に尊厳を保っているかどうか、誰が判定するんですか。尊厳という言葉のなかには、どこか他人の目を意識しているニュアンスがありませんか。チューブを何本もつけられ、スパゲティ状態で死にたくないと思うからと違いますか。つまり、尊厳死というのは二人称三人称の死なんです。」…「…満足死は死を判定するのはあくまでも自分です。本人が希望し、その希望通りにするんです。だから一人称の死なんです。満足死の思想は自分が主体ですから、自分を主張せんといかん。もっとも、満足死が一般論として通用するためには告知とインフォームドコンセントが常識の域に達していないといかん。…」」(奥野[2007:16])

◆立岩 真也 20041115 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院,449p. ISBN:4-260-33377-1 2940 [amazon][kinokuniya][boople] ※ als,

 「また「自然」や「機械」について、例えば機械との関係について。医療が「人間的」であるべきことを語る人たちは、人間的でないあり方を「スパゲッティ症候群」といった言葉で言ってきたのだが、ALSの人たちは、スパゲッティのようにたくさんの、ではないし、検査のためにでもないが、それでも人口呼吸器の管に「つながれ」、機械に「つながれて」生きている。しかし、ならば眼鏡をかける人、自動車で移動する人はどうなのだとも思う。もう少し具体的に知り、考えてみたいと思う。   私は、この病気は悲惨であると言うのも、悲惨でないと言うのも違うような気がした。そしてその中間だと言っても仕方がないように思った。ALSについて何を言えば何か言ったことになるのか、よくわからないまま書き始め、ひとまず書けることを書いた。」
 「機械と身体との関係を「ただ機械につながれた状態」とか「スパゲッティ症候群」というようにたんに抽象的に否定的に語る必要はなく、語るべきでない。不要な管が不要であることはまったく当然のことだが、必要なものは必要だというだけのことである。私たちは、そのままに与えられたものとしての身体が保存されるべきことを主張する必要はない。さらに、自らの生存を断念するという不自然な自然に回帰することもない。技術を、痛いから拒否することはあるが、否定しない。触手を伸ばして栄養を摂取する動物がいるように、その自然の過程の延長に機械はあるだろう。それもまた自然の営みなのだと、自然が好きな人に対しては言ってよい。なんならそれを進化と、進化が何よりも好きな人に対しては、言ってもよい。」

◆小泉 義之 20060410 『病いの哲学』,ちくま新書,236p. ISBN: 4480063005 756 [amazon][kinokuniya] ※ b02.

 「ICUの末期状態の病人については、スパゲティ症候群などというふざけた呼び名で管の数の多さを嘆くのはまったく間違えている。そうではなくて、複雑な生理的システムを繊細に調整して病人を生き延びさせるためには、管の数が少なすぎると憤るべきなのだ。そして、いつか膨大な数の管が開発され、一つに纏められ、肉体に内蔵される日が来ることを願い信ずるべきなのだ。その日のためにこそ、現在の病人は苦しんでいるのではないか。」(pp.223-224)


UP:20080329 REV:20080411, 20100220
サイボーグ  ◇安楽死・尊厳死
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