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生殖技術に対する疑問・批判の言説

出生・出産と技術/生殖技術


  特にフェミニズムからの批判を収録
  外国での論議については別FAIL
  だんだんと整理しようと思いますが、なにぶんわずかの分量の文章に多くの論点が詰め込まれている文章が多いので…

青木やよひ[1989:227-228]

  @血縁による子孫への待望感を強め、結果的に家意識や男女の性役割意識を補強
  A女性の生殖や身体の、専門家や国家による管理、さらには女性の家畜化につながる
  B国内的にも国際的にも南北格差を増大するだけでなく、人口問題的な矛盾を拡大
  …中ピ連・リブ新宿センターでの議論、Firestone[1968=1970]の紹介と批判
  青木やよひ[1989:226-227]

  同じ著者の別の文章では
  「…不思議なのは、なぜそうまでして自分の(・・・傍点)の子どもを持たねばならないのかという点である。高度な生殖技術は現在のところわが国では、不妊夫婦にかぎりその適用を受けられるが、彼らはひたすら血を分けた(・・・・・傍点)わが子をえたいという思いにかり立てられている(これは生殖のハイテク化による「家族制度」と「血縁信仰」の癒着である)。昔ならば諦めて養子をとるとか、あるいはそれなりの充実を求めて別の人生を歩んだかもしれない人たちが、幻のわが子に執着してそれに人生を賭けしまうのはほとんど悲惨というべき状況である。
  またそこには普遍的に、子を産めない女は女ではない、配偶者に子どもを、親に孫を与えられない人間は欠陥人間であるという思いこみがある。このように生殖革命は、一部の近代主義的フェミニズムたちの思惑とは反対に、それをのぞむ人の人生の目標を生殖に限定してしまうという結果をもたらしている。つまり、女性解放を促進するはずのハイ・テクノロジーが、母性主義の亡霊を再生産しているのである。これこそ近代主義的フェミニズムの大いなる矛盾といわねばならない。(p.29)」(青木「母性主義の現在──アグネス論争から生殖革命まで」、金井・加納編[1990:22-29] 欧米のフェミニストの中に歓迎する部分があることを述べた後の記述)

  「…一人一人の人間にとっての母なる存在が、遺伝子を提供した女性と、その受精卵を九ケ月子宮に宿した女性と、出生後の養育者となった女性の三人に分かれることすらある。本来この三段階は一人の女性の中で統合され、一貫したエコ・システムの過程として、各人の個性に色づけられながら母性意識を形成した。しかしそれが、古代やいわゆる「未開」社会では「天なる父と母なる大地」の「母」という象徴的観念によって、意味づけられてもいたのである。いまそれが、人間の生物的機能の部分化として、いわば機械の部品のような形で女性の身体からとり出されて利用されてゆく。そのうちに女性の身体さえ無用となり、類人猿の子宮か人工子宮にとって(p.v)代えようとする日がするかもしれない。そしてもっと恐ろしいのは、そのようにして女性が「産む性」から解放されることを、近代科学の勝利あるいは人類の輝かしい進歩として、歓迎し推進する女性が出現するかもしれないことである。(p.vi)」(青木「はじめに」、青木編『母性とは何か』1986年、p.i-vi)

  →全てその通りだとしても…?
  ……

◆高良留美子

  体外受精のために「月に二週間以上の通院、入院、検査、採取というプロセスや、一回七〇(p.60)万円という費用の高さ、成功率の低さを考えると、とても男女平等どころではない。女性の職業生活と両立するとは思えないのだ。
  しかもこの生殖技術のもとでは、母親という存在が、…三つの存在に分裂する可能性、いや現実性が発生しているのである。…ただでさえ不安定になっている人間のアイデンティティがますます不安定になり、母性の概念がますますあいまいになっていくのではないかという恐れを感じる。
  そればかりではなく、すでにアメリカで起っていることだが、性の商品化顔負けの生殖の商品化、産む女性と産ませる女性の階級差別の激化、子宮の一層の物化と道具視が、新たな差別を生み出すことは目に見えている。これらの問題についてのきびしい社会の規制が必要だろう。(p.61)」(「母性の闇を視る──先端生殖技術から岡本かの子まで」、金井・加納編[1990:57-69])

◆田中寿美子

  エヴリーヌ・スユルロ(「未来の女性」の著者)は「受胎する女性、胎内に子供をあずかって育てる女性、出産後育てる女性、とと出産、育児という母性の仕事を三つのちがった仕事をもつ役割をもつ女性に割りふることを考えている。この考え方はマーガレット・ミードの考えにもあるが、女性をそんな風に役割で分けてしまってよいものだろうか。
  もし仮に生命なき人工子宮のようなもので科学的操作で生命を育ててゆけると仮定したら、その生命は人間性をはなれた科学的産物になってまうだろう。私は技術革新で自然の循環作用をハカイしてしまった現代の産業が、自然ハカイによって人類社会をハメツに追いこみつつある現状にいま反省が起こっていることをここで想起してほしいと思う。
  人類の生命を人工的に培養するためのおびただしいムダな努力の末に、奇形的な非人間を生み出す結果となりか(p.168)ねない──いやそれすらも不可能に近いと思うが──そんなことにのぞみをかけるのはばからしいこだと思う。
  なぜ、生物の自然をのびのびと生かすことを考えないのだろう? 母性を社会的に重荷にし、ハンディキャップとし、女性をくるしめてきた結果、女性の返(ママ)逆が「試験官ベビー」にのぞみをかけさせることになったのであるから、男性という生物、女性という生物の自然を社会が受け入れ、それを重荷や苦しみにしないための社会的な方法を考え出すことや、誤った母性の観念と母性蔑視や母性崇拝をやめるよう努力する方が、正しく、可能性がある、と思うのである。
  母性機能が苦痛にならないように、男女両性への指導と母性保護を徹底させることである。生命存続は人類の本能的な願いである。その生命を維持する機能をもたされている女性の母性を苦痛にしないために、妊娠、出産、育児に十分の保護制度を設けるだけでなく、母性を社会的責任として社会が責任を持つべきである。…」(p.168)
(田中寿美子1971.12「「試験官ベビー」思想の皮相さについて──母性がたのしめる社会的条件こそ」『婦人懇話会問題会報』15→鈴木尚子編[1985:159-169]、引用は「「試験官ベビー」は生物の自然のルールをハカイする」という見出しがついている箇所から)
  …一つの典型と言えるだろう。ちなみにこの文章では「不妊」の問題についての言及はない。なお、この文章が書かれたのは体外授精が実現される前である。

池田祥子

  「現在、科学技術は人間の生殖の世界にまでもめざましく進出し、数々の「福音」を女たちにもたらしているかのような情報に満ち満ちている。
  しかしよくよく考えてみる時、現在の生殖に関わる科学技術は、これまでの<女=産む性>という図式を何一つ疑うことなく踏襲し、しかも女の身体を<子産み>の器官として
操作し管理しようとするものがほとんどである。
  例えば、避妊ということ一つとり上げても、<子どもを産まない>という人間にとっての課題を、男にも女にも同じような重い課題として引き受けようとするのでなく、どこまでも<産む性><孕む性>としての女の身体への操作を中心として考えられている。
  しかも避妊薬の開発は、いつだって女の身体が実験材料になっている。……(p.28)二重三重の<モノ化>と差別がここにもある。
  日本にも漸くにして解禁されようとしている避妊薬ピルにしても、女の生理を常に妊娠状態に錯誤させるという、女の生理とリズムの破壊を内容とするものである。数々の副作用や癌への恐れ等々は、より完全な避妊の代償に、またもや女の身体にのみ引き受けさせられるのである。
  一方、産みたくとも産めない、あるいは産みたくとも生まれない<不妊の女>たちに致しては、真実、科学は「福音」をもたらしているのであろうか。排卵誘発剤から始まる冷凍卵、冷凍精子、冷凍受精卵の成功、精子銀行や代理母(いわゆる貸し腹)産業までもが特にアメリカを中心にして実現するに至っている。しかし、これらの「科学」(果たして「科学」とは、「医療」とは、何か、がここでも問われるだろうが…)の成果とて、多くは気の遠くなるような高い代価との引き替えでしか手に入らない。ごくごく普通の女たちには手の届きようのな雲の上での出来事でしかない。しかもこれらの科学者たちの大騒ぎは、「女は子どもを産んで一人前」という社会の観念を前提にしつつ、なおそれを強固に再生産するものになっている。<不妊の女>たちをますます居心地悪く威嚇し続けることであろう。また同様に、これらの動きは、女が人間として生きるということをより豊かに構想していくことを促すのではなく、まったく反対に、血縁信仰に支えられた結婚という制度の枠内でしか生き難くさせ、さらに<女=産む性>という図式を、女が何が何でも忠実に生きねばならないと、相も変わらず女の生き様を追いつめていくことになる。
  こうして、未だに(ママ)女たちは<産む> ことに拘束され、ともかく子どもを一人でも産まねば一人(p.29)前の女として公認されないと貶められ続けている。こうして<産む性>としての女たちに<子産み>が強制される一方で、いままた、<産み出される子ども>の良し悪しで母体は管理され操作され、「悪しき子どもは産むな」と恫喝される。
  女の身体をどこまでも生殖のための道具とみなす観点からは、必然的に「優良な子ども」を産み出す<モノ>として点検の対象ともなるのである。生理開始以降の「母性(・・)手帳」(案)の配付、羊水診断、胎児診断のきめ細かいチェック。「優良でない障害をもつ子ども」の出産が科学の名によって阻止されようとする。
  男にとって、女にとって、また生まれてくる子どもにとって、果たして何が最も大切なことなのであろうか。
  一人ひとりが豊かに自由に生き合う中で、一つの生命を選び取ることの偶然、あるいはまた新たな生命を迎え入れたいという願望、それらか当事者たちにとってまず歓びとして引き受けられねばならないし、選び取られた生命が、まずは生命そのままに祝われて迎え入れられる人と人との関係、社会的条件、等々こそが培われ整えられるべきなのではないだろうか。そのために、生命の脆さ、障害をめぐる社会的差別をわたし達がどのように超えていけるのかという難しい問題はなお残るとしても。そしてまた、科学技術がもし人々に真に寄与しうるとしたら、そのような生命成育と条件の整備をひらすら手助けすることなのではないだろうか。(p.30…完)」(「「子どもを産む」ということ」、東京文化短期大学学誌『文化生活』26、198703→『[女][母]それぞれの神話──子産み・子育て・家族の場から』、明石書店、199004、pp.21-31(引用はこちちらから))

  「しかし、アメリカ、フランス、スウェーデンなどを中心として進められているこのような生命操作技術の高度化は、いかなる意味においても現在では決して「生殖革命(・・)」と呼びうるものではない。なぜなら、それは現代の人間にとっての「生殖」のあり様と「生殖」にまつわるイデオロギーを、そのまま拡大再生産しているだけで、そのいずれをも「革命」するものではないからである。
  まず第一に、不妊という事実を受け入れ難い現代の女と男の状況をそのまま前提とし、なおかつ、不妊への医療行為によってますます不妊を耐え難いものとしていく。不妊は高い金さえ出せば治るもの、あるいは代行可能なものとなれば、多くの一般大衆には、不妊の惨めさばかりが刻(p.42)印されるだろう。
  第二に、生命操作技術そのものが、ごく一部の人間のみによって所有されているものだということ、多くの人々にとってははるかに遠いせかいのことだということ、しかも、その操作技術がどこまでも、優秀な(・・・)精子、優秀な(・・・)卵、優秀な(・・・)受精卵、さらには優秀な(・・・)遺伝子を選り分ける方向でのみ使用されるということである。
  第三に、どこまでも「子どもをつくる(・・・)」という操作として生命に立ち向かう時、より優秀な(・・・)子どものためにさまざまな手が打たれ、逆に、優秀でない、「障害」をもつ子どもは、限りなく早期にチェックされ淘汰されるだろう。優生思想の基盤の上に、さらなる優生思想が接ぎ木される。
  第四に、精子提供者とその利用者、卵母細胞(ママ)提供者とその利用者、子宮提供者(代理母)とその利用者、それぞれの関係が相も変わらぬ貧しい者と富める者との対応を示し続けることであろう。
  これらのいくつかの点からだけでも、わたし達はとりあえず、日本でも進められている生命操作の「医療」行為に、十二分に監視の目を注ぐ必要があるだろう。何のための、誰のための生命操作か、と。
  その上で、わたし達は改めて問わねばならない問題に直面する。つまり、「生殖」や「血」にこだわらざるをえない「家族」という制度の中での不妊症対策が、結果として、「血」を超えざ(p.43)るをえない所まで来てしまったという事実である。「親」とは何か、「家族」とは何か、が問われよう。
  一人の子どもが生物的な父と社会的な父、あるいは生物的母と社会的な母、さらには育ての親が離婚・再婚した場合には、社会的な父や母が二人以上になるかもしれない。このよう事態が起こること自体は、決して悲劇でも、「家族解体」などというパニックなどでもない。それらの事態を「悲劇」や「パニック」にしてしまう社会的要因にこそ注目しなければならないとわたしは思う。むしろ、「生殖」にこだわり「血」や「遺伝子」にこだわる中で、自己同一化してしまう母子関係(父子関係も同様)とは異質な(・・・)親子関係が、そこに仄見えているととは言えないだろうか。
  ここでは「子どもを産む・産まない」のベクトルとは逆に、「子どもと一緒に暮らしてみたい」「親になってみたい」とういう、子どもを引き受ける(・・・・・)立場がクローズアップされてくるだろう。そして、引き受けた子どもとの特定の関係世界が他ならぬ「人間のかけがえのなさ」を際立たせ、子どもを「優秀」「健常」での「異常」「障害」だのと分類すること事態を少しずつ無意味化していくのではないだろうか。(p.44…完)」(「子どもを産むこと・堕すこと」、『クライシス』33→『[女][母]それぞれの神話──子産み・子育て・家族の場から』、明石書店、199004、pp.32-44(引用はこちちらから))

福本英子

  「…生殖の(p.38)主体は技術の側あるいは技術をもつ側に移り、人はただの部分化された生殖機能でしかなくなる。つまり男はただの精子製造機で、女はただの卵製造機や孵卵器でしかなくなるのである。ここでは男と女の関係は精子と卵の関係に単純化されて、人間臭い関わりは切り捨てられる。その結果子供にとって親の生活史が見えないという事態も出てくるだろう。それから親の子の関係は、遺伝子の親が誰で、妊娠して産んだのが誰で、扶養するのが誰かというような複雑な関係の中で混乱し、現行の民法では子供の身分や利益が守りきれなくなる。また、人はその生殖機能でネウチがはかられるようになり、さらに、生殖機能それ自体が商品として流通することもおこってくるのである。
  もちろん子供のほうも「生まれる」ものから「つくられる」ものに変わって、その「でき具合」が問題にされるようになるだろう。」(福本『生物医学時代の生と死』、技術と人間、1989、pp.38-39)


■負担・危険性 情報

  「不妊治療の進歩によって、なまじ期待をもたされたばかりに、検査や治療のための腹腔鏡などでからだを傷つけられたり、不妊症の治療に通院・入院と無駄な歳月を費やさなければならなくなった女が、多数つくりだされている。それでも結果として治療に成功すれば「体外受精によって苦労の末子どもが持てた」という成功談にもなるが、治療が成功するのは多数の不妊症のうち幸運なごくわずかな例にすぎない。/いつも腹立たしく思うのは、少数の成功の陰にはどんなにか多くの不成功例があるか、そしてやってもやっても成功しない多くの女たちが、いかに心身共に傷つき悩んでいるかということがほとんど語られていないことだ。」(丸本[1989:86-87])

  「新しい技術が登場するとき必ず言われるのは、患者への負担が軽くなるということです。ところが、それまでの技術が紹介されたときにその技術の大変さが言われたことは一度もありません。つまり、各々の技術が患者である女に負担をかていることが証明されているとともに、実は患者の負担減を口実に、あらゆる試みを行っているだけだとも言えます。」(長沖暁子[1991:44])

  「体外受精は八%の希望(・・・・・)と引き替えに、女性の健康に対するリスクや金銭的・時間的負担を要求する。」(柘植[1991b:178])


■専門家 VS 自己決定

  「生殖技術の問題点は他にもさまざまあります。まず専門家の手でしか行えない、女自身が扱えない、自分の身を他人にまかせざるをえない技術だということです。私たちがもとめてきた女のからだへの自己決定権とこれらの技術は相反するものでしかないのです。」(長沖暁子[1991:45]…負担・優生思想の指摘の後)


■搾取・不平等

  「ある調査では代理母になる40%が……失業者あるいは社会福祉を受けている人だった……」(Spallone[1989:81])

  「出産しても不利にならずに働き続ける条件がもっと整っていたら、女性たちは凍結受精卵による出産などに、そんなに心をひかれはしない。」(駒野[1989:123])

  「人工授精を求める人々の社会経済的背景をみると、大半が大学卒か知的専門職についている者である。……ファインゴールド博士は、その理由を「人工授精は1カ月に2〜3回の精子注入が必要だし、妊娠が成功するまでに6カ月もかかることがあるので、とても費用がかさむ」からだろうとみている。」(Howard & Rifkin[1977=1979:118])

  「技術を利用するには高い費用がかかるため、それを利用できるのは一部の人々に限られ、公平な技術の使用は不可能である。さらに、代理母の契約にみられるように、高額所得者が低所得者を代理母として利用するという新たな搾取関係を生み出す可能性もある。」(五條[1991:51)

  「貧困層マイノリティの成員はIVFに必要な、30000ドルから50000ドルをもっていない」(Henifin[1988:5])

  「自分の卵巣で成熟した卵を、危険の伴う排卵誘発剤の大量投与や採卵手術をうけて、数十ドルで体外受精クリニックに売ったり(オーストラリア)、代理の妊娠・出産で一万ドルの謝礼を受け取る(アメリカ)といった状況は、結果的に母性を「搾取」の対象にしているだけではないか。」(柘植[1991b:178])

■分割

  上のいくつかの引用中に

■性愛・関係→子?

  「妻の不倫にはうるさい男たちが、なぜ注射器で他の男の精子を妻に授精することに同意するのかかが、私には理解できない。どこかに虚偽がある。相手との結婚を継続したいのなら、子どもができなくても、子どものいない人生を二人で引き受ければいいではないか。第三者の生殖機能を利用してまで子どもが欲しいと言う人は、すべてに自分の妻をパートナーとみなしていない。それならなぜ、新たなパートナーを探さないのだろう。子どもができるかもしれない別の女性とやりなおすべきではないか。愛しあって子どもをつくることかできるかもしれないのに、なぜいままでの相手との結婚をつづけ、人工授精などという七面倒臭いことをするのか」(ヤンソン由美子[1989:108])

  ……??……

  「精子にしろ、卵子にしろ、顔のないノッペラボーの代物では決してないのであって、精子には父である男の数十年の歴史が、卵子には、母である女の数十年の歴史が、すでに刻みこまれているのである(石川憲彦『治療という幻想』1986年、現代書館)。そのことに想像力を働かせるなら、性愛のない、人格を認めあった等身大の相手との血の通い合ったコミニュケーションを捨象した、”受精”、人格が投入されない子づくりなど、売買春といかほどの差があろうかと思ってしまうのである。」(宮淑子[1989:63])

  「実際の性的関係がなくても、自分のパートナーではない男の精子をもらって受胎することは、セックスという直接的行為はなくてもやはり、”科学的不倫”(この言葉の命名者はヤンソン由美子さん)といっていい行為なのではなかろうか。この場合、男のペニスがインサートされるか、注(p.66)射器がインサートされるかの違いだけなのであるから……。」(宮淑子[1989:66-67])

■シングル・レズビアン・事実婚

・レズビアン

  「レズビアンの女性たちは、母性(マザーフッド)を必ずしも否定しない。性と生殖とが切り離し可能なものなら、異性愛を迂廻しても母親になる道は、体外授精(ママ)や人工授精のようなバイオテクノロジーの発展によって開かれている。彼ら(ママ)は今、異性愛のポリティックスから独立した母性と育児の概念に、チャレンジしつつある」(上野千鶴子「女性にとって”性の解放”とは何か」、ジュリスト増刊総合特集『女性の現在と未来』、1960年(誤記?)、有斐閣)、宮淑子[1989:62]に引用…下の部分に「はたしてそうであろうか。」と続く。)

  「性に権力や暴力を持ち込んで、性を支配と服従関係にしてしまった男社会のポリティックス、「女が一人で生きることを自由に選択できない、女が男なしで生きられない、生きてはならない強制異性愛社会」(映画「声なき叫び」パンフ)のポリティックスから自由になろうとしたレズビアンたちが、新しい母性と育児の概念にチャレンジしようとして、結局は生身の男は排除したものの、男の分身ともいうべき精子をもらい受けて子どもをつくろうとする姿勢には、強制的異性愛社会への迎合を感じてしまうのは私だけだろうか。母性を必ずしも否定しないのなら、養子縁組などをして”育てる”という行為、つまり、””親と子の関係性”をつくりあげることを育んでいくべきではないか。」(宮淑子[1989:63]…上の「精子にしろ、…」に続く)

・シングル

  「性的関係を持たずに子どもを産むこの行為は、彼女の人生の欠損感(人生を分かち合うほど愛している男性もいない)を埋め合わせるためである。そのために、子産みを性的人間関係から切り離し、子どもが両親の愛情に恵まれて育つ権利を侵害していいというのだろうか。」(宮淑子[1989:64])

  「全人格的な子産みの倫理とは”生殖”を”性的人間関係”から分離させてはならないということ(”性交”と”生殖”の分離の意ではないことに注意)と、子どもの人権の保障、とりわけ産まれてくる子どもが、親の愛情に恵まれて人間らしく育てられるべき権利を侵害してはならないということ、この二つがその核心である。
  したがって、非婚の女性がAIDにより子を産むことは医療としては認められてはならないと考える。」(金住典子[1989:199])

・事実婚

  「配偶者の中に事実上の夫婦を認めるかは(ママ)どうかは、その国の国民意識の発展の中で考慮すべきであるが、子どもの人権への配慮、人間の尊厳としての子産みの倫理からすると、生殖技術をむやみに拡大していくことは戒めるべきことと考えられることと、医師に性的人間関係の有無の判(p.200)断を委ねることへの危惧等から、慎重な態度でのぞむべきことと考える。」(金住典子[1989:200-201])

  「いったい母性の分割がもつ意味は何なのか?「母は誰か」という法的な問題だけだろうか。いったい「母とは何か」、「母性とは何か」、「家族とは何か」。そういう視点で今までに述べた生殖技術についてのガイドラインや法律を見直すと、既成の家族制度や血縁のつながりを重視しすぎているのではないかという疑問が浮かび上がる。たとえばドイツにしても日本にしても、医学界のガイドラインは体外受精の許容範囲として「婚姻内の夫婦であること」を原則としている。「子どもをもつこと」は法的な夫婦でなければできない行為ではないはずだし、技術の使用を法的夫婦に限ることは、現状の家族制度を容認し強めることになる。
  逆に見れば、生殖技術を法的な夫婦の不妊治療に限定するのは、結婚している女は誰もが子どもを産むべきだという社会の風潮を反映していると言えるだろう。(p.177)
  さらに「遺伝的な母」「産みの母」「育ての母」のうち誰を重視するのかという法的議論のなかで、現状では遺伝的つながり、すなわち血のつながりを重視する意見が強いことも気になる。たとえば、1990年にアメリカで行われた代理出産で生まれた子の親権をめぐる裁判では、「産みの母」ではなく「遺伝的な父母」である依頼者側に親権を与えている。
  家族というのは、その時代の人間の生き方によって変化するはずである。法的婚姻関係のある男女(ヘテロ)の夫婦が血のつながった子を産み育てるという家族のイメージが、「医の倫理」という名目で押しつけられてくる。生殖革命がつきつけた母性の分割の制限は、ほかでもなく、それが内包している「近代家族の解体」の力を封じているのだ。」(柘植[1991b:177-178]…この後、生殖技術は女性にとってプラスになりうるだろうか、と問い、搾取、負担、父権的近代家族制度や男性優位社会という基盤の上に生殖技術を研究開発する際の視点が置かれていることを指摘し、「この現実を変えない限り、生殖技術は母性の未来にとってマイナス要因でありつつけるのだろう。」(p.179)と結ばれる)

  「独身女性やレズビアンの女性が男性と性的交渉を持たずに子どもがほしいと思い、AIDを受けたいと望むのはいけないことなのだろうか。物理的にできないことを望むのがいけないのなら、夫婦間のAIDもいけないことである。独身者やゲイ・カップルやレズビアン・カップルはなぜ子どもを望んではいけないのだろうか。そのような親だと子どもがかわいそうだというのは理由にならない。単身でも幸福な子どもはたくさんいるし、父母が揃った家庭でも不幸な子どもがたくさんいるのである。結局、社会が独身者やゲイ、レズビアン・カップルに(p.120)「子どものいる家族」を作る権利を認めていないということが、最初の問いの答であるようにみえる。このことは独身者やゲイ、レズビアン・カップルを差別していることではないだろうか。」(難波[1992:120-121])

■子ども

  「誰にとっても、自分の性アイデンティティを確立していくのは大変な作業なのね。その遍路に加えて、材料化された無個性の精子を「親」にもって生まれたと知ったら、よけい悩むんじゃないかしら。」(宮淑子、座談会での発言、グループ女の人権と性編[1989:48])

  「AIDの場合、生まれた子どもは、自分の父親が誰だかわからないものね。それはすごく大きいことだと思う。」(堂本暁子、座談会での発言、グループ女の人権と性編[1989:48])

■優生思想→別FAIL


■非作為?(と自己決定)

  「自分のからだの一部である生殖細胞(卵子)を対象化し、モノ化して、技術の手に譲り渡すことは、たとえ自分が子どもを持つためであっても、私のからだを私から疎外することになりはしない(p.90)だろうか。」(丸本百合子[1989:90]…「わたしのからだは私のもの」という言葉を再考するという文脈で)

  「からだの現象、とくに生殖においては人間の考える通り、計画した通りことが運ぶとは限らない。近代は、普遍性・計画性・能力性を要求するが、女の生殖機能はこれになじまない……。
  女である「私のからだ」はそういった生殖機能を持っている。そして私のからだというのは私しか持っていない、私の個性的なからだということである。その私は、もしかしたらあんまり自分にとって歓迎されないところを持っているかもしれない、何か障害を持っているかもしれない、治すとこのできない病気を持っているかもしれない、子どもがほしかったのに妊娠できないからだかも(p.92)しれない。本当は男になりたかったのに女のからだなのかもしれない、もっと美人であってほしいのにそうでないかもしれない,しかしその私のからだをそのまま愛する,あるがままの形で大切にいとおしむからこそ「私のからだは私のもの」と主張できるのではないか。」(丸本百合子[1989:92-93])

■文献表

青木 やよひ 1986 「はじめに」,青木編『母性とは何か』1986年,p.i-vi
―――――  1989
―――――  1990 「母性主義の現在――アグネス論争から生殖革命まで」,金井・加納編[1990:22-29]
―――――  1991
福本 英子
グループ・女の人権と性 編 1989 『アブナイ生殖革命』,有斐閣選書
グループ「母性」解読講座 編 1991 『「母性」を解読する』,有斐閣選書799,278p. 1700
原 ひろ子・舘 かおる 編 1991 『母性から次世代育成力へ』,新曜社,2884円
池田 祥子
―――――  
―――――  
金住 典子  1989 「子産みの自己決定権」,グループ・女の人権と性編[1989:184-205]
丸本 百合子 1989 「生殖技術と医療」,グループ・女の人権と性編[1989:72-93]
宮 淑子   19891030 「性と性殖のあいだ」,グループ・女の権利と性[1989:51-69]
長沖 暁子  1991 「科学は女を母性から解放するか?」,グループ「母性」解読講座編[1991:38-50]
難波 貴美代 1992 「不妊の最後の選択――AIDと代理母制度」,お茶の水女子大学生命倫理研究会[1992:117-160]
お茶の水女子大学生命倫理研究会 1991 『女性と新しい生命倫理の創造――体外受精と家族関係をめぐって』 お茶の水女子大学生命倫理研究会,259p.
(112東京都文京区大塚2-1-1お茶の水大学哲学研究室内 03-3943-3151内線317)
お茶の水女子大学生命倫理研究会 1992 『不妊とゆれる女たち――生殖技術と女性の生殖権』,学陽書房
高良 留美子
田中 寿美子
柘植 あづみ 1991a 「体外受精・凍結保存技術のMTA」,『Sociology Today』2:17-30
――――   1991b 「生殖技術と母性の未来」,原・舘編[1991:169-179]
ヤンソン由実子 1989 「”代理母”が問うもの」,グループ・女の人権と性[1989:96-111]


*作成:立岩 真也
作成履歴 …… 920616 FAILを分離・加筆 0707 データベースに一部データを登録 0725 DATA入力(深谷[1988]) 0728 加筆・整理 0805 加筆 1007 加筆・修正 1119 1128 [43行×12頁・50行×10頁] 1208 高良・青木・田中の引用 1214 GIFT法他 1215青木『母性とは…』 1217福本英子 930218FAILを分離(事実→別FAIL) 池田祥子[1990]入力 0221グループ…[1989],原・舘編[1991]から入力 0321 入力....1996:HPに掲載... 20031227, 20140831
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