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原子力発電(所)と障害(者)|Nuclear Power and Disabled People

原子力発電/原子力発電所障害を巡る言説名古屋地下鉄広告問題

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last update:20150620

■新着

◆立岩 真也 2015/07/01 「生の現代のために・4――連載 113」『現代思想』43-(2015-7):-

 「さらに、チェルノブイリ等での事故をきっかけに反原発運動がいくらかの盛り上がりをしばらく見せたことがあった――ずっと活動を継続させ東北大震災、それ以降とつながっている人・組織もあるのではあるが、そうして続いていった部分は大きくはなかった。そのとき「原発によって障害者が生まれる」という「母親」たちの主張があり、それに対して一部の障害者たちから反発があった。(このことを巡る議論・文献の一部を立岩[2002]でも紹介した。)」
 *立岩[2002]→立岩 真也 2002/10/31「ないにこしたことはない、か・1」,石川准・倉本智明編『障害学の主張』,明石書店,294p. 2730 ISBN:4-7503-1635-0 [amazon][kinokuniya] pp.47-87(↓)

◆2015/06/28 「兵器・原発・優生思想――“生きる”を否定するものに反対」
 8.6ヒロシマ平和の夕べプレ企画 広告[pdf]

◇とき 6月28日(日)

開場 13:10 開会 13:30
◇ところ 高津市民館第1・2会議室 044-814-7603
JR武蔵溝ノ口駅北口または東急溝の口駅東口から徒歩2分。
駅とペデストリアンデッキで直結しているノクティ2の11階です。溝の口まで渋谷か
ら田園都市線急行で14分。

お話:河野美代子さん(産婦人科医・広島被爆二世)
松本正さん(横浜市原爆被災者の会事務局長・広島被爆者)
白石清春さん(被災地障がい者支援ふくしま代表・NPO法人あいえるの会理事長)
費用:500円
主催:「戦後70年」を問う6.28実行委員会 (連絡先:080-4336-5734喜多村)
8.6ヒロシマ平和の夕べ実行委員会

★ 毎年、8月6日広島市に開催されている「8.6ヒロシマ平和の夕べ」、戦後70年の今年、このプレ企画が沖縄、広島、兵庫で開かれ、そして川崎でもひとつの「つどい」が企
画されています。

◇呼びかけ
 第2次大戦後70年、今国会では集団的攻撃に参加するための戦争法案が審議されています。日本の侵略と植民地支配により犠牲にされてきた人々、広島と長崎で原爆の犠牲となった人々を再び踏みにじり、今なお続く戦争犠牲者の苦しみを無視するかのように。
 また、政府は強引に原発の再稼働を進めています。福島第一原発事故により12万人の福島県民が避難を余儀なくされているにもかかわらず。
 他方、障碍者の生を否定する優生政策が「新型出生前診断」の登場などによりますます強められています。
 このことは、障碍者だけでなく、被爆者や原発被災者への差別も強めることになります。
 原発の押し付けなど農村・漁村が踏みにじられ、社会保障や労働法の改悪により市民一人一人が生きづらい状況に追い込まれ、毎年多くの人々が自殺に追い込まれています。福島県民の震災関連死も増え続けています。
 なぜ、私たちはこのような社会を生み出してしまったのでしょうか。
 「唯一の被爆国」などと語りながら、被爆者に厳しい差別を突き付けてきたこの日本社会。被爆者の立場に寄り添おうと、もし、ほんとうにしてきたならば、原発建設を容認し
たでしょうか。
 優生政策と隔離政策のもとに置かれ続けてきた障碍者に真摯に向き合おうとしてきたならば、これほどまでに人を使い捨てにする社会にはできなかったのではないでしょうか。
福島第一原発事故が突つけた現実に私たちが真剣に向き合うならば、国策による犠牲を2度と生み出さないために闘わなければならないはずです。
 被爆者、被爆2世、福島の障碍者をはじめ、様々な立場の方々にお集まりいただき、歴史的岐路にある今を考え合いたいと思います。

◆たつん!ぷんすか  反戦・反貧困・反差別 2015/06/19
 https://twitter.com/owaranoT/status/611841342319124480
 「@BIWAKOnoMIZU もう一つ。このような問題提起と討論だったのではないでしょうか。【今は「障害者」「福島」のこと、いつかはあなた自身の街のこと マイドームおおさか2015.3.28】古井正代氏 https://www.facebook.com/events/850966221615927/permalink/896223187090230/ …」

◆たつん!ぷんすか  反戦・反貧困・反差別 2015/06/19
 https://twitter.com/owaranoT/status/611839344895078400
 「@BIWAKOnoMIZU そうですね。分科会の「原発と優生思想」。その詳しい内容を手にはしておりませんが@生きて在るを学ぶ=生存学からの提案A古井正代氏の問題提起http://cp-research.jp/?cat=3 に沿った内容だったのではと考えています。@ShinyaTateiwa」

◆京都生協の働く仲間の会 2015/06/19
 https://twitter.com/BIWAKOnoMIZU/status/611829030912851968
https://twitter.com/BIWAKOnoMIZU/status/611829150802771968  https://twitter.com/BIWAKOnoMIZU/status/611829177797382146
 「@ShinyaTateiwa @owaranoT 労災被災者の仲間がいます。手を機械で奪われたり、足を機械で奪われたり、全身を機械に巻き込まれて亡くなる人もいます。そういう労災をなくすために、労働安全衛生法、労働安全衛生規則などが勝ち取られました。会社でのひどい仕事で、上記の様に手を、足を、奪われる事のないように闘うことは、労働者の闘いの重要な取り組みの一つです。そして誰にもその事はわかると思います。これは、「障害は怖い。」「安全な仕事、労働をしたい。」と思うことですが、これは「障害者は怖い」といっているのでは全くありません。そうではなく、障害者を守ろうというものにほかなりません。ぜひご検討ください。そう言いたいです。」

立岩 真也 2015/06/19
 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/611701460011581440
 「『障害連事務局FAXレター No.334』DPI日本会議全国集会in福島。特別分科会として「原発と優生思想」。「「反原発という立場に立つが、運動の中で“障害は怖い”という意識をあおりたてている」といった発言が多く出された。」→http://www.arsvi.com/o/sgr2015.htm#334」

◆2015/06/02 障害連事務局FAXレター No.334
 震災・原発・障害について議論が展開

古井 正代 2013/12/20 「母体の血をのぞき見て――母体血検査と原発」
 http://cp-research.jp/?cat=3



◆Beck, Ulrich 1986 RISIKOGESELLSCHAFT : Auf dem Weg in eine andere Moderne, Suhrkamp Verlag=19981020 東 廉・伊藤 美登里訳『危険社会――新しい近代への道』,法政大学出版局 492p. ISBN-10: 4588006096 ISBN-13:978-4588006098 5250 [amazon]

 「二十世紀は破局的な事件にことかかない。例えば、二つの大戦、アウシュヴィッツ、長崎、ハリスバーク〔スリーマイル島原発事故〕とボパール〔インドの化学肥料工場事故〕があった。それに今やチェルノブイリである。これだけ多くの破局的事件があると列挙するのも容易でない。そして、それぞれの事件がどのような歴史的意義をもっているか考えざるを得ない。人間が人間に与えてきた苦悩、困窮、暴力にあっては、いままで例外なく「他者」というカテゴリーが存在していた。すなわち、ユダヤ人、黒人、女性、難民、異端者、共産主義者などである。この他者が苦悩と困窮を強いられ彼らに暴力が振るわれてきたのは、垣根の中、収容所、住区、占領地帯という空間であった。他方では、表面的にはこの他者に相当しない人々もいる。彼らには、そのかげで安心して暮らせる壁と自分の空間が象徴的な形でも現実にも存在した。これらの壁や空間は今後さらに存在し続けるものである。しかし、それはチェルノブイリ以来実質的にはもはや存在しなくなったも同然である。それは「他者」の終焉であり、人間同士が相互に距離を保てるように高度に発展してきた社会の終焉であった。この事実は原子力汚染の結果はじめてわかったのである。貧困は排除することが可能であるが、原子力の危険は排除するわけにはいかない。排除し得ないという事態の中に、原子力時代の危険が文化や政治に対して持つ新しい形態の影響力がある。この危険の有する影響力は、現代における保護区や人間同士の間の区別を一切解消してしまう。」(Beck[1986=1998:1])

◆松山 O&G 19880310 「「障害者」が反原発を問う意義――反原発の新しい波 その底に潜みささえる「優生思想」を討つ」,『全障連』074:16-18

 伊方原発(四国電力)出力調整実験を中止させる運動 実験は強行されるが運動はその後も続く

 「全国的に市民運動の沈滞・低迷が叫ばれる中で、この間の一連の運動総てが、日本の市民運動史上に残る驚くべき偉業で在り、市民運動の新たな幕開き、新時代到来といっても過言ではありません。  しかし、その運動の盛り上がりは現存するあらゆる”差別”を肯定・増幅・補強したところで成りたった部分が多いことも事実です。
 今回の盛り上がりの要因の問題性を実はここにあるのです。
 ……
 多くの小・中・高校生が、運動などとは無縁の生活をしていた”ただの「主婦」”が、「新人類」と呼ばれる学生・OLが、どこにでもいるおじさん、おばさんが、自らの意志で参加し、そのほとんどが(p.17)ハンド・マイクなど持つのは初めてであろうその手にマイクを持ち、『放射能の影響が心配で子どもを産めない、妊娠しても産まない』『将来結婚したいのに……』『子どもの将来を思うと……』等など涙ながらに語られ、その度に”共感”の拍手が沸き起こるのです。
 『世界中から原発が無くなる日』それは、『世界中から「障害(児)者が抹殺されいなくなる日』、と言えるくらいに事態はこれ迄になく重大で深刻な形で進行しています。
 ……
 実験が強行された今、運動の焦点は伊方原発=四国電力から東京・通産局と国内全ての原発及び関連施設の立地、地へと移り(ママ)運動そのものも『伊方原発出力調整実験中止』から『全ての原発をなくす運動』へと発展しています。わずか3ケ月余りのこの間に反原発を掲げる市民運動が数多く結成されその数400とも500とも言われています。
 この事実はとりもなおさず、現在日々毎日、日本の何処では、放射能の恐怖と共に優生思想を煽る学習会や講演会が持たれているということです。
 それは、ただ漠然としたものであったりもするし、2月7日に松山でもたれた講演会のように、一頻り放射能の恐怖とヨーロッパにおけるパニック的な状況を述べた後『不幸な子は産むな!』と直接的な発言(綿貫礼子――東京・環境問題研究家)であったりもします。
 その場に私たちが居たからすぐに抗議もできたし、事後、運動内部での啓発もできたのです。
 反優生思想を闘う「障害者」の居ないところでどのような学習会や話がされているのか考えただけで空恐ろしく背筋が凍る思いです。」

◆大本光子 198806

 「……四電との直接交渉の席や一階ロビーでの四電社員へ語りかける場面において、「放射能の影響が心配でこのままでは子どもを産めない。将来、妊娠しても産まない」「私は、将来結婚して子どもを産みたいのにどうしてくれるの」……などと、老若男女が涙ながらに切々と語り、その席に同席した人々がともに涙し、共感の拍手を送る。ついには、ある女性″障害者″が自らの苦悩に満ちた人生を語りながら、「私のような不幸な子どもが生まれる可能性のある危険な実験をやめて」と言い、人々に涙と共感の拍手が沸き起こる。そんな始末であったのです。
 そして、もっと最悪なことには、それらはその場にいた多くの子どもたちの心に、あの四国電力の非人間的な対応と共に″鮮明な記憶″として刻み込まれてしまったに違いありません。……」(『月刊地域闘争』1988年6月号)

 堤1989「「ありのままの生命」を否定する原発に反対」p.93に引用
 (「たとえば今年(八八年)一月二五日の高松行動に関わった松山の脳性マヒ者、大本光子さんは、次のように書いている。」の後、上掲の引用)

野辺明子(先天性四肢障害児父母の会) 19880925 「農産物輸入自由化反対のビデオ『それでもあなたは食べますか』について考える」,『父母の会通信』129 

 「今年のはじめあたりから、私にとって気になる“雰囲気”というものがありました。反原発、脱原発の市民運動が野火のように全国に広がり、たくさんの集会やデモが開かれていますが、それに参加して感じたものです。
 チェルノブイリの事故のあと、原発の危険性はさまざまな角度から指摘されています。事故が起きなくとも、核廃棄物の処理の問題など、全地球的な規模での汚染が深刻です。
 私が気になった傾向というのは、危険性の例として、“「奇形児」「障害児」の出生増加”が引き合いに出されることが多くなったという点です。……結果として出てくる危険性の指摘そのものについては間違ってはいないと思うものの、集会のチラシに、「奇形児が!」という記事が大きく踊ると、“ちょっと待って”といいたくなります。」(p.6)

◆千田好夫 1989 「障害者と反原発」,『共生の理論』12:13-15

 「障害者も事故や病気はできるだけ避けたいものだ。その限りで障害者も安全な食品を求め原発に反対することに賛成し、ともに闘うことができる。しかしその中に少しでも奇形や障害者になりたくないというのがあれば、断固糾弾しなければならない。差別だ、と突き放してもいいが、必ず次のように諭さなければならない。
 まず、けが・病気と障害とは次元の違うものである。現象的には連続しており進行性のものは錯綜しているが、少なくとも平時における社会生活では別物である。けが、病気はどうなるかわからない一時的な状態と言えるが、障害とは一定の状況の固定化であり生命が生を営むかけがえのない基盤なのである。つまり、巨大タンポポも無指症の子猿も被爆者も障害者も、「健常な」ものがそうであるように生を営むものとして等しい存在である。前者がもし「不幸な」ものとして見えるとすれば、それは力もあり多数者でもある後者に責任のある事態、社会的バックアップの欠如に他ならない。(すべてのタンポポが巨大タンポポなら、どうして巨大タンポポが「不幸」であるだろうか。)傷害致死という言葉があるなら、傷害致障害という言葉を作ってもいい。原因は何であれ死者は手厚く葬らなければならないし、原因は何であれ障害者は存在として尊厳を持つものである。そのことと傷害(ママ)の原因と闘うこととは全く別の話なのだ。」(p.14)
「あの指も腕も足さえも満足にない子猿※は、嬉しいことも悲しいこともあったろうに、そしてその必死の生きざまが猿山全体と他ならぬ私たち人間を救ったことに対し感謝の言葉もあればこそ、それらのことはきれいに忘れ去られて「異形」の姿が「悲惨」の象徴としてのみ記憶されるのは、子猿への侮辱である。
 原発は、このような健常者の思い上がりによっては絶対に廃棄し得ない。何となれば、奇形や障害に嫌悪や恐怖心をもつその心情は、「安全な」とこに住み(実際には無意味な)核シェルターに優先権をもち自分だけは助かるつもりでいる原発推進側の「やんごとなき」人々の心情と連綿として続いているからである。共に生きることを徹底的に追求することからしか、原発への根本的批判はありえない。」(p.15)
※「猿山の猿の集団に無指症などの奇形が多発し、それがどうもエサにしていた輸入穀物のせいらしいということで、その衝撃は大きなものがあった。」(p.13)

安積 遊歩  1994 「さまざま思うことを…。」,『女性学年報』15:40-45.
(pp43-44)
「脱原発」考
 障害をもつ私が、脱原発を語ると自分の首を自分でしめるような気が、10数年前の反原発論争の時にはした。その時のほとんどのスローガンが「死」と「病気」への恐怖から出発したものだったから、すでに障害をもつ私としては、紙一重のところにたっている気分だったのだ。自分の存在を全く否定しないで、堂々と主張できる立脚点は何か?「自由を奪うな」である。障害をもつ人の施設の規則に満ちた管理された[p44>生活には、ゾォッとするのと同じように、どのような人生を送ろうかと、迷ったり悩んだりしながら生きている。この私達の日常を、原発事故は一瞬にして、奪い去るだろうからゾォッとする。想像力豊かな私としては、各地に乱立する原発や青森県六ヶ所村の無気味な再処理工場が自由を奪う孤独な悪魔のように見える。
 どうしてこんな非合理的なエネルギー計画が、堂々と国の政策になるのかまるでわからない、とずっと思っていたが、男達の恐怖のすさまじさが、原発を作り、戦争を止められず、売買春に走る陰にあると、つくづく、つくづく見えてきた。殺すか殺されるかを選べる男達は、ただただ殺される側になるだけの私よりも、たぶんもっと、もっと恐いのだ。
 脱原発は、子供連に次の時代を残していくためにも、もっともっと注目に値する運動と思う。一体、私達の子供への愛はどうなってしまったのだろう。子供への愛など感じられないという人は、自分への愛からだけでもよい。脱原発に何かできるか考えてそれぞれが行動を起こせば、必ずいつか止まるはずだ。原発への恐怖で身動きできなくなった日はどうやら過ぎて、冷静な注目とポジティヴな確信がわいてくる。原発は止まるぞ!!

立岩 真也 2002/10/31 「ないにこしたことはない、か・1」,石川准・倉本智明編『障害学の主張』,明石書店,294p. 2730 ISBN:4-7503-1635-0 [amazon][kinokuniya] pp.47-87

 「障害の肯定・障害者の否定が問題になった具体的な文脈がいくつかある。一つは優生保護法の「改悪」だった。障害者の存在を否定することではないかという批判があった。また「早期発見・早期治療」に対する疑問が示された。そして、一九七〇年代以降、社会運動のもっとも大きく重要なものは反公害運動だったのだが、そのある部分は障害者運動とかけもっていた。あるいはつながっていた。それは公害に反対し、加害責任を追及する運動であり、「健康破壊」として公害を糾弾してきたのだが、その主張に障害者運動の立場と矛盾するところはないか。一九八〇年代の後半、実際チェルノブイリで事故があったりもして、原子力発電所の建設・運転に対する反対運動が、そう長い期間ではなかったが、盛り上がった。そしてその中で、放射能によって障害児が生まれるおそろしさが語られ、そしてそのように語られることのおそろしさが感じられた。☆04

□2 死なず痛くなければよい、とはいえ、できるにこしたことはない、か?
 「原発と障害者」という問いに対して堤愛子が出した答は、障害者が生まれるから原発に反対というのはおかしい、生命が奪われること、苦痛を与えること(だけ)が問題なのだという答だった。死ぬのはいやだ、痛いのはいやだ、しかし障害者であることはそれ自体として肯定されてよいという主張である。これで正解のように思う☆05。
 だがそういうわりきり方でよいのかという気もする。[…]」

「☆01 当初、実際にあった議論、具体的な言葉を紹介しながら書いていこうと考えていた。またいくつかの論考(土屋[1994b]、森[1999]等)をふまえる必要もあると考えた。しかし文章の後半を別にし、それでもなおスペースがなくなってしまった。ほとんど引用や紹介を行うことができない。ホームページhttp://www.arsvi.comの「五〇音順索引」→「障害」に400字×80枚分ほどの引用がある。なお立岩[1997:436-439](第9章注15〜22)にいくつかの文献をあげた。本文に引いたシンガーの文章もそこで引用している。
 この章は、二〇〇一年一月、障害学研究会関東部会での報告で配布した文章をほぼそのまま掲載したものである。この報告に対しては研究会、そしてその後も障害学のメイリングリストでいくつかの論点について議論があったのだが、それを含めて論じなおすことがここではできない。右記したホームページの「立岩」→「ないにこしたことはない、か?」にこの章の注と文献表などを置く。そこからその時に私がメイリングリストに送信したメイル、三村洋明の論考等を読むことができる
[…]
☆04 千田好夫らの文章の一部を注01に記したホームページに引用した。また例えば「先天性四肢障害児父母の会」。 この会は、生まれた時に手や足の指がない、少ないといった障害をもつ子どもの親の会として、1975年に設立された。その障害の原因は不明だったのだが、 環境汚染が様々に問題にされていた時期でもあり、環境要因が疑われ、会は当初「原因究明」を訴える活動をする。ここでは、当然、その障害をなくすことが目 指された。だが現に障害があって暮らしている子どもがいる時に、障害を否定的に捉えてよいのか。そうしたことを考えていくことになる。例えばその軌跡をた どってみたらよいと思う。(cf.野辺[2000]、「先天性四肢障害児父母の会」のホームページはhttp://park.coconet.or.jp /hubonokai/)。
 それ以外にもいくつもそういうことに関わる話を聞いてきた。例えばワクチンができたためにポリオがなくなった。それはよかったのだろうかという問いを聞 いたことがある。また、フェニルケトン尿症は新生児スクリーニングによって発見されると食餌療法によって障害を回避できる。これははたしてよいことなのだ ろうかといった問いかけも聞いたことがある。cf.立岩[1997:23]
★05 土屋[1994b]の主張はこれに近い。また「出生前診断・選択的中絶」について考えた立岩[1997]第9章で述べたのもほぼ同じことである(この主題について私自身の考察は少しも進んでいないが、そこに述べたことを短くしたものとして立岩[2002c])。
 堤の主張はその前の時期の関係者たち、親たち(古川清治、最首悟、…)の発言よりまっすぐですっきりしたものになっている。多分このことには、それが本 人から言われたことであることが関わっている。自分のこととして言えるからかえってすっきりと言えることもある。安積[1993][1999]にもそんな ところがある。」

※☆01に記した頁は、現在は 障害を巡る言説としてあります。

つるた まさひで 200610 「生きていることの肯定――障害学・環境・サブシステンス」,『軍縮地球市民』6
 http://tu-ta.at.webry.info/200811/article_16.html


■文献・発行(発表)年順 (これから掲載)

◆Beck, Ulrich 1986 RISIKOGESELLSCHAFT : Auf dem Weg in eine andere Moderne, Suhrkamp Verlag=19981020 東 廉・伊藤 美登里訳『危険社会――新しい近代への道』,法政大学出版局 492p. ISBN-10: 4588006096 ISBN-13: 978-4588006098 5250  [amazon]
堤 愛子 198807 「ミュータントの危惧」(甘蔗珠恵子『まだ、まにあうのなら』書評),『クリティーク』
 http://www.geocities.jp/aichan822/myuutanntonokigu.htm
◆三輪 妙子 編 19890315 『わいわいがやがや女たちの反原発』,労働教育センター,230p. ISBN-10: 4845000393 ISBN-13: 978-4845000395 1365 [amazon][kinokuniya] ※ d00d
堤 愛子 198903 「ありのままの生命を否定する原発に反対」,三輪編[1989]
 http://www.geocities.jp/aichan822/hanngennpatu2.htm
堤 愛子 198912 「「あたり前」はあたり前か?――「障害者」が生まれるなら「原発に反対」は悪質なスリカエ論法だ ! !」,『月刊地域闘争』1989-12:32-35
 http://www.geocities.jp/aichan822/atarimaehaatarimaeka.htm
◆198912 「特集:反原発と母性と障害者」『月刊ちいきとうそう』,ロシナンテ社,90p.
安積 遊歩 19931120 『癒しのセクシー・トリップ――わたしは車イスの私が好き!』,太郎次郎社,230p. ISBN:4-8118-0623-9 1800 [amazon][kinokuniya] ※ d
森岡 正博 編 1994 『「ささえあい」の人間学』,法藏舘,359p.
土屋 貴志 1994b 「障害が個性であるような社会」,森岡編[1994:244-261]
◆立岩 真也 19970905 『私的所有論』,勁草書房,445+66p. ISBN:4000233874 6300 [amazon][kinokuniya] ※ ds.
◆安積 遊歩 19990920 『車椅子からの宣戦布告――私がしあわせであるために私は政治的になる』,太郎次郎社,198p. ISBN:4-8118-0654-9 2100 [amazon][kinokuniya] ※ d
◆立岩 真也 20020910 「確かに言えること と 確かには言えないこと」,齋藤有紀子編『母体保護法とわたしたち――中絶・多胎減数・不妊手術をめぐる制度と社会』,明石書店,pp.241-251
つるた まさひで 200610 「生きていることの肯定――障害学・環境・サブシステンス」,『軍縮地球市民』6
 http://tu-ta.at.webry.info/200811/article_16.html


*作成:堀 智久立岩 真也 
UP:20110324 REV:20110325, 28, 29, 30,0406,08, 0927, 20150619, 20, 25
原子力発電/原子力発電所  ◇障害を巡る言説  ◇生存・生活 
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