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いまどきの…、なんて話を信じないこと

立岩 真也 2001
『ちいさいなかま』2001-6(特集:父親),草土文化
http://www.iijnet.or.jp/c-pro/zenhoren/publish/2001/nakama06.html

■1 専業社員+専業主婦の歴史は新しい

  よく聞く話に、昔から男は外で女は内という性別分業があったのが、女性が次第に「社会進出」するようになって変わってきたというのがありますが、それは違います。「専業主婦」は、極端に言えば、戦後的な現象なんです。私たちの祖先の多くは農民や漁民だったわけで、みんな総出で働いていました。お店の多くも同じです。力仕事は男で炊事は女とか、分業はあったにせよ、そしてどちらか言えば女性の方が大変だったのだろうと思いますが、男も男で家の仕事はありました。というか、家事という仕事とそれ以外の仕事という区別がはっきりとはなかったのです。
  そうでない人たちもいるにはいました。それはある種の特権階級、公家だとか武士だとか、そういう人たちでした。もちろん実際には内職などしないとやっていけない人も多かったのでしょうが、それでもたてまえとしてはそうなっていました。それ以外の普通の人たちはみんな働いていた。もちろん働かないとやっていけなかったということでもあります。
  それが産業化が始まって、工場とか会社とかに雇われて働くのが普通になっていきます。最初は工場は女性や未成年者の働き場で、男たちは、あんなところで人に雇われるなんて、みたいなところがあったのですが、ただその仕事が百姓やっているのに比べて実入りのよい仕事になっていくにつれ、なら俺が、と入りこみ、時には他を押しのけて自分たちの職場にするといったことが起こります。それでもまだ多くの人は、一家総出で働きに出て、それで生活していました。
  それが、工場でも熟練工の人たちが出てきて、そこそこの収入を得る。そしていわゆる会社員が出現してくる。今よりはもっと少ない数で、他の人たちに比べれば高給取りということになります。その人たちはワンランク上の階層にいると思いたいし、かつての特権階層と同じかたちの家族をやって、それを示したい。生活に余裕があることを示し、一人で妻子を食わせられる男であることを証すために、妻を家に置く。お役人なんかは給料高くないからほんとはきついんだけども、自分たちはちょっと格が上だと勝手に思っているから、同じことをしようとする。
  それがもっと広がって一般化したのが戦後だったのだろうと思うのです。これには経済成長があり、生産性が高くなったという要因もあるでしょう。子どもも含めてみんな総出で働いていたのが、もちろん家事の仕事は仕事として、それ以外の仕事は一人にやらせておいてもなんとか食えるようになったというのはなかなかすごいことです。

■2 できてすぐに壊れ始めた

  だから専業主婦になるというのは、その当初は自慢だったし、またある種の解放だった部分があったのでしょう。自分の母親が朝から晩まで家の内や外で働いていたのに比べたら、「奥さん」です。アメリカ流のホームドラマみたいなものがその宣伝役をつとめたところもあるでしょう。少なくとも一時期、それが魅力であり希望だったことがあったのは事実だったと思うのです。
  ただそうしてしばらくやってみたのだけれども、結果としては、多くの人にとってはそれはそうおもろしくはないということがわかった。
  子育てやらしている間はおもしろくもあるのですが、それはやがては終わります。で、なにをしようかということになる。なにもしなくてよいと悟れればよいのですが、普通の人間はそこまで根性がすわっていないので、趣味の活動をやってみるのですが今ひとつ、という感じがぬぐえない。それで楽しいという人はそれでかまわないのだけれども、そうは思えない人もいる。
  それから、この分業は、経済的に余裕がある人のまねをして、実際にはかなり無理してやせがまん的に始まった部分もありましたから、家建てて子どもを学校にやるのにお金が足りない、余裕のある暮らしのためにもっとほしい。そこで育児が一段落ついたら働きに出る。しかしそこは足元を見られてますから、待遇がわりにあわない。しまった、ということになるが、もう遅い。
  そして稼ぎ手の側にも無理はかかります。家事・育児以外の仕事を一人がやって四人なら四人の暮らしをまかなうのはかなりなことです。まず時間がとられる。一日八時間じゃ仕事が終わらない。また他に稼ぎ手がいないから自分がこけたらえらいことになるし、また仕事して養えることが「男の甲斐性」ということになってしまっているので、例えば職を失うということがたんに収入を失うということ以上の意味をもってしまい、そういう意味でも荷が重くなってきます。
  そしてこのパターンの親たち、男は高度成長を支えた企業戦士で妻は専業主婦という人たちを、私は田舎の出なので実感できないところもあるのですが、とくに都市部の子どもたちは見てきたわけです。そして、ああいうのはあまりおもしろくないようだ、本人たちもそうおもしろそうではないようだ、自分たちは違うように生きよう、ということになる。

■3 バランスを変える

  こうしていったんは輝いて見えたものが、どうもそうでもないということになった。この分業のかたちはそう安定したものではなく、できるとすぐ崩れ始める運命にあったと言ってもよいようなものです。そしてこれは男女各一のセットで機能するようなシステムですから、一人になったときにたいへんです。あるいはいっしょがいやになって一人になりたくてもなかなかなれないということが起こってしまう。そういう意味でもよろしくない。
  また、このかたちは、育児や介護という仕事、その時に限って一人で担ったらその時にはとても時間のかかる仕事、しかし人生の一時期の仕事を、その一人にゆだねてしまうことによって、別に働きたいし働けるのにそうできなくしてしまった。これはその人にとってもったいないことですが、そのまわりの社会にとってももったいことです。労働力が足りないなんてことを言う人がいるのですが、私たちの社会は働けるし働きたい人にきちんと働いてもらっていないのです。
  それを変えていく。これは一人ひとりにとっては、時間をとるかお金をとるかということでもあります。もちろん両方ほしいのですから、バランスの問題で、両方をちょうどよい割合にできたら望ましい。考えるだけならいろいろありえます。たとえば仕事を四分の三くらいにする。給料も四分の三になりますが、二人分なら一人がめいっぱい働く場合の一・五倍にはなります。
  だが実際の社会はそんなに融通がきくように少しもなっていないではないかと言われればその通りです。これは、一つには労働政策や労働運動がどうあったらよいのかといった大きな話になって、ここには書けません。ただ、少なくともそういう堅い話が、じつはけっこう生活の身近なところに関係してくる、その意味で大きなことであるのはたしかだと思います。たとえば私は、給料は、基本的には、配偶者を扶養する分を計算しない、そう割り切るべきだと考えます。もちろん当然異論もあるはですが、そんないろんなことを考えなおしてよいのではないかと思います。

■4 もっと単純に考えてみる

  大きな話はともかく、では一人ひとりとしてはどうやっていくのか。さまざまな「社会問題」があるのは、今の人たち、親たちがいろんなことをまじめにやっていないからだという話があります。全面的に否定はしないけれど、まちがいの方が大きいと思います。
  以前は家事・育児をまじめできちんとやっていたが、今どきはそうではないというのですが、機械化などで本来ならずっと減ってよいはずの家事時間があまり減っていないというデータもあります。むかしだったら赤ん坊をたんぼのあぜに置いて仕事したりしていました。それでもまあまあ人は育った。むしろ、主婦というものが誕生してくる過程で、女の「天職」として家事・育児が位置づけられ祭り上げられたのです。「婦人」向けの雑誌が出たり、女子大に家政科(最近は流行らないみたいで、名称が変わったりしていますが)ができたりして、家事・育児は、なんだか気合の入った手間ひまかける技になり、そのこと自体に意味が見出されるようになったのです。冷たく言ってしまえば、やらなくてもよい仕事を家事として作り出してしまったということです。それをまじめに引き受けると、とくに職業をもつ人にとってはえらいことになってしまう。
  そしてこうした妙な気合いの入り方というか、気負い方というかは、お金を稼いでくる方の仕事にも言えることです。というかこちらが先だったのです。仕事する、仕事ができるようになる、それで一家族分を稼ぐことができることに大きな意味が与えられてしまった。それに対応して、家事・育児にもまた、仕事として、なんだか大きな意味が与えられてしまったのだと思います。そこでは、子どももまたある種の作品、生産物として見られることになり、子育ては生産、製作の過程で、親はその生産者として自らを評価してしまう、うまくいかないと暗くなってしまう。
  本誌の読者は、どちらか言えば(他のことは知りませんが、子どもや仕事のことには)まじめな人で、だから暗くなってしまうことがあるかもと思うんですが、他方に、放棄型というか、なんか投げちゃってるんじゃないかという感じの人もいるにはいます。でもその人たちはまったく別のジャンルの人かというとそうでもなくて、その人にもどこかでへんな「かたぎ」についてのイメージがあって、そこに自分たちは入れてないみたいな、どうせはんぱもんだみたいな意識があるように思えるのです。そういう意味ではやはり「普通」にこだわってしまっている。
  しかし、家族にしても、労働にしても、学校にしても、そこで普通だとされているものを考えていくとすこしも普通ではない。よけいなものがたくさんくっついていて、それで苦しくなったり、投げやりになっているのだと思うのです。だからもっと単純に、普通に考えた方がよい。稼げなくても生きればいいし、家族の中でなんでも帳尻を合わせなければならないのでもないということを前提に置いた上で、しかしどんな商売にせよ、それなりに稼げればそれはそれでけっこうなことだということ。家事も含めて仕事はまずは飯の種であり、生きていくのに必要なことであり、そして楽しいこともある。しかし仕事以外にも遊びたいし、仕事はほどほどがいい。そのためには、せいぜいここ五〇年くらいの間にできて少し流行った分業のシステムはよくできていない。それぞれが適当に稼いで、家事もやってという方が得だし、退屈もしない。手を抜けるところは抜き、肩の力を抜けるところは抜いて、もっと落ち着けばよい。そんなところなんだと思います。(こんなことを理屈立てて書いたのが『私的所有論』(勁草書房)という本です。最近の文章では「停滞する資本主義のために」。栗原彬・佐藤学他編『文化の市場:交通する』(越境する知・5、東京大学出版会)に入っています。よろしかったら図書館ででもご覧ください。)
  さて最後に。それにしても、自分のつれあいはやることやってくれない。と言われてもどうしたもんだか、私にはわかりません。ただ、まず、今だったらまだ男がやるとまわりからもほめられる状況だということ。そのうち誰もほめてくれなくなるわけで、今のうちにやっといたら得だよというのが一つ。そしておまけの部分でもなんでも、おもしろければよいということ。私のところには一人いま小学六年生をやっているのがいますが、彼は無認可一・認可三(私立一、市立二)、東京都三・長野県一、+学童保育の体験者で、親子とも保育園についてはけっこうプロで、すべてによい思い出があるのですが、とくに二番目にお世話になった保育園はおもしろかった。夏になると、子どもたちが周りを走り回る喧騒の中で、親と職員の人たちとみんなでビールを飲んだりしました。私は親父たちが保育園で酒飲んで管を巻くのにぜったい賛成です。そしてここまで書いたことから言えるのは、今なされている家事・育児には「女の仕事」として「発明」された部分があるわけで、そのスタイルにしばられる必要はないということです。それは、言い方が難しいのですが、「女っぽい仕事」と決まったものではないということです。力仕事と細かい仕事という区分にしても、いまや外での仕事と家事とどっちがどっちということはない。明るくて、やさしい、いまふう?のお父さんを照れながら演じないとできないことではないのだから、各自のやりようでやればさまにもなるし、よいのではないか、そう思います。
  *ホームページhttp://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/1.htm※(の五〇音順索引から「家族」等)で関連した文章をいくつかお読みいただくことができますのでどうぞ。「立岩真也」や「生命・人間・社会」で検索しても出てくると思います。

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家族  ◇立岩 真也
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