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青い芝の会について

青い芝の会


■青い芝の会への批判

 *収録:杉田俊介

:  「横塚の戦略は、いわば、既にある規範に対し、より強力なもうひとつの規範を対置し、そちらへの乗り換えを促すものだ。この新しい規範は、確かに障害者の現実に依拠し、その存在を肯定しようとするものかもしれない。しかし、規範と個人との間には、たとえそれがどれほど親和性をもつものであったとしても微妙なズレが生じうる。もし、誰一人としてそこにまったくズレを感じないような状況があるとしたら、それはファシズム以外のなにものでもない。特に危惧されるのは、〈健全者文明〉との対抗関係のなかで創造される〈障害者文化〉の規範が、支配的な規範に抗するために、より拘束的で、逸脱に対して不寛容なものとなる恐れがある点だ。そのような強力な規範のもとでは、障害者が再度の自己否定へと追い込まれる危険性はいっそう高くなる。
 しかも、さらに憂慮されるのは、そうした先鋭な対抗関係があるところでは、往々にして、対抗それ自体が自己目的化する傾向がみられることだ。〈障害者文化〉の創造は、既存の文化のもとで逸脱ラベルを貼られてきた障害者の生と、なるだけ親和性をもった新ルールの構築をめざしてなされるものだ。しかし、その作業は、どうしても〈健全者文明〉との摩擦をともなうものとならざるをえない。そうなると、敵対する勢力の攻撃に対抗するため、それを打ち消すだけのインパクトをもった反撃が必要とされることになる。だが、〈健全者文明〉への反撃として有効性をもつものが、障害者の生と親和的なものであるとは限らない。〈障害者文化〉創造の本来の目的を外れて、対抗そのものを目的とした方策が前面に現れる可能性がそこにはある。」(倉本智明[1997])

 「横塚晃一は、自己の内側にある〈健全者幻想〉からの解放を求めて、彼ら脳性マヒ者の身体をどこまでも肯定してくれるもうひとつの文化の創造を提唱した。それは、主流社会への参入のために、福祉や医療や教育の拡大を求めてきたそれまでの障害者運動とは、一線を画する新しい課題と戦略の提示であった。しかし、それまで自明視されてきたものに異議申し立てを行うというその思想は、対抗自体の自己目的化という転倒を帰結してしまった。このことの背後には、長らく過酷な抑圧状況にあった彼ら/彼女らが、文化のコアとなる充分な共同性を育む機会をもちえなかったという事情が関与している。しかも、当時盛り上がりをみせていた対抗運動の熱気は、彼ら/彼女らが対抗的で急進的なパトスに身をゆだねることを大いに促進したことだろう。もしかしたら、そうしたものに身をまかせることによって、彼ら/彼女らは、そこに一瞬の快楽を見い出したのかもしれない。私は、このこと自体が無意味であるとは考えない。彼ら/彼女らにとって、それは新しい世界の発見だったかもしれない。けれども、そうした快楽は決して持続的なものとはなりえない。新しい世界は、いつ・u桙オか見慣れた世界になってしまう。現に、社会を覆っていたラディカルな運動の波がひくとともに、青い芝の運動もまた、その求心力を失っていったのである。」(倉本智明[1997])

「新たに構築されるべき文化のよりどころをどこにおくか、具体的な根拠を欠くままに進められたその運動は、長年の過酷な抑圧状況の下で醸成された対抗的なパトスや、新左翼運動・カウンターカルチャー運動が盛り上りをみせていた、当時の社会情況ともあいまって、本来の目的である創造よりも対抗それ自体を優先させてしまうという陥穽におちいってしまったのである。」(倉本智明[1999]、228p)

 「青い芝の会は女性差別だなんて言われますけど、女の人たちの運動っていうのも結構ありましてね。女性だってちゃんと運動やってました。(略)「青い芝」の運動は障害者解放運動。女性の運動でも男性の運動でもない障害者の解放運動でした。ここにどうしても女性がついていけない部分があったのではないかと思います。優生保護の問題なども障害者である前に、私たちは女なんです。簡単じゃないんです。女と男と障害者と健全者の権利の衝突ですから。障害者であり、女であるということは、一つの答えが出にくいときもあった。障害者として獲得しなければならないものと、女性として欲しいものが違う場合もある。難しいですね。そういう障害者運動の狭間で、女たちはずいぶん悩んだり苦しんだりしたものです。でも、ときには男たちと衝突しながらも、自分たちの運動をやってきたと思うんです。家庭を守りながら、子育てしながら。」(内田みどり[2001]286-287p)

 「「青い芝」で女性差別を感じたのは、『さようならCP』という映画を見たときでした。私が(この映画を)見たのはかなり後だったんですよ。一〇年ぐらい経ってからかな。権力の縮図っていうか、自らを強調するあまりに、一人の女性の人権をあんなに無視しちゃって。私、震えちゃった。隠された存在の障害者に、たまたま細い光が差した。男たちは必死だったんだと思う。『さようならCP』というドキュメンタリー映画は、結果として「青い芝」の運動を全国組織に広げ、社会にもその存在を位置づけたんだと思います。でも、あの映画は女性差別以外の何ものでもないと思っています。」(内田みどり[2001]287p)

 「「青い芝」の全国レベルの活動には、ほとんど参加はさせてもらえなかった。「青い芝」はCPの集まりだったから。でも、「青い芝」の総会のときなんかは、私らは筆記係をやらされた。横田弘さんが、「役員総辞職!!!!」と言って全国青い芝を解散させたときも、「青い芝役員辞職。え?! 辞職?!」なんて書いた記憶がある。横田さんも横塚晃一さんも言葉が聞きづらくてね。でも、今なんて言ったの? なんて聞き返すのは怖くて。CPじゃない私たちにとっては「青い芝」は居心地の悪いところだったよね。CPじゃなくて産まれたことがすごく損なことのように感じていた。」(鈴木絹江[2001]「「障害者は生きているのが仕事だ」ってね」、→全国自立生活センター協議会編[2001]、176p)

  「七〇年代の障害者運動は、横浜で起きた障害児殺害事件に際し、「母よ!殺すな」という言葉を掲げ、障害を持つ者の生存権を主張してきた。このスローガンには、母親にのみ「子育て」を担わせている「父」への、またそのような制度をつくり出している社会への批判はあらわれていない。」(瀬山紀子[2002]、152p)

 「青い芝の会が、脳性マヒ者の中でもいわゆる「エリート」だったことは、認めなければならないだろう。自己主張のできない障害者の意見は、どれほど考慮されていたのかは疑問である。ただそれでも、そうした障害者も救われなければならないという雰囲気はあったのではあるが。また、やはり「身体は不自由でも、能力さえあれば」という雰囲気もあったのではないかと思われる。例えば統合教育を主張する際、知的障害者の就学のことはどれほど念頭にあったのか。さらに、登校にこだわることで、「学校に行くことができない」不登校者や自閉症者のことをどう考えていたのか。歴史的な検証を要するとともに、これはきわめて思想的な問いであるようにも思われる。」(野崎泰伸[2006]、135p)

倉本 智明倉本智明[1997]「未完の〈障害者文化〉――横塚晃一の思想と身体」、『社会問題研究』第47巻第1号、http://www.arsvi.com/1990/971200kt.htm
倉本 智明[1999]「異形のパラドックス――青い芝・ドッグレッグス・劇団態変」、→石川准・長瀬修編[1999]
野崎泰伸[2006]「青い芝の会と分配的正義――誰のための、何のための正義か」、『医療・生命と倫理・社会』第5号、大阪大学大学院医学系研究科・医の倫理学教室、→http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/OJ5/nozaki.pdf
瀬山紀子[2002]「声を生み出すこと――女性障害者運動の軌跡」、→石川・倉本編[2002]『障害学の主張』、明石書店
◆鈴木絹江[2001]「「障害者は生きているのが仕事だ」ってね」、→全国自立生活センター協議会編[2001]
◆内田みどり[2001]「障害者であり、女であることの狭間で」、→全国自立生活センター協議会編[2001]


UP:20071113
青い芝の会
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