小保方晴子氏の弁明を聞きながら、この本を思い出した。メンデルも間違い、ノーベル賞をもらったミリカンの実験もねつ造。沢山のねつ造が記されている。しかし、捏造を行った人々の声は書かれていない。当たり前だが捏造をした当人の証言はきわめて少ないかあるいは認めていないのである。歴史は繰り返す、捏造も繰り返す。もし、STAPが真実だったらこのレビューは取り消すがそれはあり得ないだろう。その理由はこの本を読めばわかる。再販希望あるいは電子化され、本書が広く読まれることを希望する。
この本にも大きな間違いがある。日本人としては看過できない。150ページ 赤痢菌をはじめて分離したフレクスナーと書いているがこういう書き方だと赤痢菌の正当たる発見者である志賀潔に対してきわめて不誠実である。翻訳者も脚注か何かで訂正をすれば良かった。諏訪邦夫先生の翻訳書にはそういう箇所がきちんと(断ってから、本文にはこうあるがこれは間違っていると訂正している)訂正をしている。見習うべきである。
これで解るのは、思わず知らず間違ってしまうこともあるということである。今からでも遅くない、翻訳者は訂正を著者に申し入れるべきだと思う。なお、いずれ電子化されるだろうと思うが、その際には是非訂正してほしい。訂正しないなら、それは「背信の科学者たち」の著者の「背信」である。
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背信の科学者たち―論文捏造、データ改ざんはなぜ繰り返されるのか (ブルーバックス) 新書 – 2006/11/21
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続発する科学者の論文捏造事件の真相とは?国内外で科学者が不正に手に染める事件が続発している。なぜ、科学者は背信的な行為に走るのか? 米国の実例をもとに問題の本質に鋭く迫る名著を緊急復刊。
- 本の長さ358ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2006/11/21
- ISBN-104062575353
- ISBN-13978-4062575355
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2006/11/21)
- 発売日 : 2006/11/21
- 言語 : 日本語
- 新書 : 358ページ
- ISBN-10 : 4062575353
- ISBN-13 : 978-4062575355
- Amazon 売れ筋ランキング: - 739,898位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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- 2014年4月14日に日本でレビュー済みAmazonで購入
- 2015年6月17日に日本でレビュー済みAmazonで購入私は十五年前に引退するまで、四十年以上を自然科学の世界で過ごした。いわゆる「研究」と教育である。生涯に得た公的な研究資金は、私に割り当てられた分を少なめに数えても億を超す。私の経験はだから、いくらかは本書の記述するところとかかわりがあり、その意味で私の発言にすこしは留意していただけるのではあるまいかと思う。
結論から先に言う。非常に価値の高い著書である。その価値の意味の最大な力点が存在するところは前書きでほぼ尽くされている。いわく、「科学・・この場合には自然科学に限られているらしいけれど・・は伝統的科学観に基づく姿とは似ても似つかないものである。・・・科学知識の中に識別される論理の構造は、それが形成されたプロセスや、それを作り上げた人々の精神構造については何も語っていないと確信する。・・科学者は合理的な考えだけに基づくものでもなく、また、合理的な考えは科学者だけが持っているものではない・・・」。
この叙述に基づいていえば、裏切り行為を行った科学者、その人々の資質や事情を明らかにすることに重点が置かれているのではないことは明らかである。もしそのようなことだけに興味を持つとすれば、煽情的週刊誌となんら変わるところが無い。その意味で原語表題はやや適切さを欠く。読む側が、筆者の意図を誤解する余地があるといえる。
その前提において、ここに言うところはまことに正しい。しかしこの結論から引き出される事項は多岐にわたり、多くのレビュワーはそのごく一面しか問題としていない。私はこの多岐性、つまりこの結論に由来することの豊饒さこそが本書のもっとも重要な点であると考える。たとえそれが著者たちのあらかじめ意図していたことではなかったとしても。ごく最近のおいて、日本を代表するといわれる研究所で、世界的な科学雑誌に掲載された「論文」の不適切さについての一大論争が巻き起こり、結果は痛ましい副産物までを伴って、今なおその深部には怪しい闇が横たわっている。これは科学者の「責任」とか、「不祥事」の再発を防ぐには、といった浅薄な指摘をするだけで済むことではない。だから、訳者解説が単に研究者の「ミスコンダクト」だけに焦点を当てているのはピントはずれである。あとがきではその調子を少し変えているが、やはり狭い見方をしていることに変わりはない。問題の根幹は、社会の中での科学者のあり方、社会が科学者をどのように見、評価し、扱うかであり、それはすぐに社会自身のあり方と結び付くのである。そう思えば、科学とは自然科学だけでなくて、他の、いわゆる「学問」すべてとしなければなるまい。根は非常に深いのである。
まず科学者による不正行為の例が次から次へと展開される。プトレマイオスに始まって歴史上の名だたる科学者からごく最近の事例まで、数多くのデータ改竄、意図的な選択、剽窃、ごまかしの数々がこれでもかと言わんばかりに提示される。このような提示の仕方はアメリカ流のジャーナリズムにおける記述方式のほぼ典型と思っていい。その展示は圧倒的でさえある。でも、著者たちはどこへ私たちを連れていきたいのか? それがあまり明らかに提示されているとは言えない。おそらくは著者たちにも明瞭には認識されていないのかもしれない。それはたぶん大した傷ではあるまい。一刀両断の答えなど存在するはずはないからである。
この手法は人目を引きつけるには有効である。しかし落とし穴も隠れている。きわめて多種の「ごまかし」がごったまぜに扱われているのがその(小さい)一つである。たとえば黎明期の科学者たちと、現代の彼らを同一の地平に乗せるのは賢明な手法とはいえない。まず当時と今では背景となる社会のありようが全く違う。一般の倫理に対する考え方が違う。何より「科学者」の社会に意味するところがまるきり違うのである。近代自然科学の手法がほぼ確立した今の視点から、昔の科学者を一概に批判するのは当を得ていない。彼らのしたことが、今の基準で見れば妥当とされなくても、彼らの果たした役割は決してそれによって光を失うものではない。古い昔の出来事を現在の道徳観で扱うのは気を付けた方がいい。かつてイギリスでは、まだうら若い王女の首を斧でぶった切るという処刑が行われ、それが絵画にまでなっている。フランス大革命の際に公衆の面前でギロチンにかけられた人の数はいったいいくらであったのだろう。でもそのことから、いま、イギリス人は、あるいはフランス人は残虐無道な人々であると誹謗、断定できるのか。
たしかに、より近代、といってもここ一、二世紀の間、くらいの意味であるが、その間のミスコンダクトには同情の余地が少ないケースが多い。ごまかしのパターンは大雑把にいえばよく似ている。過度の向上心、名声や地位、多額の収入が得られる立場を手に入れたいという欲望、そのために企てられる、単純であるが科学者とそれを取り巻く環境の盲点を突いたたくらみ、といったところである。彼らはどうしようもないというような絶望的な立場から不正行為を行ったのではなくて、一応の生活を営んでいるか、もしくはその可能性を十分に持っていたにもかかわらず、さらに上を望んで危険を冒したのである。彼らの心情には同情の余地は少ない。彼らにはどのような厳しい処置が課せられてもよい。しかし、見方を変えれば、科学者以外の一般の社会には、そうしたことごまんとあることで、あまりにもありふれているからほとんど注目されることもない。「科学者」であるからという理由でなぜ彼らだけが特別に譴責されなければならないのか。簡単に言ってしまえば、「(自然)科学者」は特に「真実」(truth)の追求をする人々である、あるいはそうでなければならない、という認識があるからである。その認識の当否はともかくとして、前書きにある著者の断定的な述懐は、もはやそれが実態に合わないということを淡々と述べたものと受け取るべきである。
科学者に社会の中でどのような地位を与えるか。それは専ら社会の側で決定権をもつことである。本書の中では最終章の科学の構造と題する節がこれを扱っている。欺瞞という言葉が付け加えられているのには、元科学者としては、少し強すぎる表現ではないか、と異議を申し立てたくなる。意図的な欺瞞もあれば、無理からぬ「錯誤」、さらにそれをあおりたてている「世間」の存在もあるだろう。十把一絡げにするのはむごすぎる。真実の誠実なる追求者という幻影を勝手に作り上げておいて・・科学者の側でもこの「聖別」を利用し、さらにそれが実相であり、実像でなければならないと自己暗示をかけてきた事情はあるのだが・・そのイメージと異なっているからと言ってことさらに不当に扱うことはなかろう、とも感じる。私の科学者としての生涯の経験を通じて、職業的科学者だからと言って特に廉潔であるとか、正直であるとか、現世的な利害にとらわれることが少ないとか、要するに「人格高潔」である、といった印象は一度も持ったことがない。みな全く、市井の普通の人々と変わらないメンタリティの持ち主であった。知的には高度である人が多かっただけに、我欲に富んでいることではむしろ一般人より強かったかもしれない。宗教者であるからと言って必ずしも道義を重んじるとはいえないのと同じことである。贅言を付け加えれば、世情に、何か事が起こるといわゆる「学識経験者」、「有識者」などを集めて、その言葉の上の権威だけを利用して、実は隠された路線のもっともらしい理由付けを行うといった方式が流行、慣行とされているが、その根底となるそれらの人々の資質に対する無意識の信頼が、いかに空しいものであるかということをあらためて認識してほしい。
実験のデータから自分のあらかじめ想定した結果に添うものだけを引き抜いて使おうとすることは非常によくある。意図的にそうしなくても、無意識のうちにしていることもある。全くそのつもりがないとしても、結果がそうなっているのである。これを、欺瞞というのは少し厳しすぎる。おそらくこの傾向はどんなにしてもなくならないだろう。無条件に擁護するのではない。とんでもない錯誤に導く可能性はもちろんある。だから結論を間違えないためには、何度も、できれば様々な角度から、いわゆるクロス・チェックを行うのが有効な対処法である。かつてソビエト時代のかの地の科学者たちは、このクロス・チェックという言葉さえ知らなかった、とその時代に現地へいって共同研究をしてきた方に聞いたことがある。一般にではなくて、ある一面だけなのであろうが、ルイセンコ学説の興亡が思い出される。
無意識であろうが、作為的であろうが、どの程度に咎められるべきかはともかくとして、このような「欺瞞」行為の背景には科学者の社会のなかでの角逐があることは普通の社会と何も変わりはない。科学的な成果がお金になる、言ってみれば科学の商業化がそれに拍車をかけたのである。今の政権、経済界の動向はまさに、すぐに金になること、儲かること、人に、あるいは他国、他企業に抜きんでること、それこそが我々の目的の唯一、絶対の目標であるとおおっぴらに標榜しているではないか。いわゆる「自然科学者」をスケープ・ゴートにして済むことではあるまい。本当に幸いにも、私はそのような時流に乗りたいという欲求には無縁であった。だから、注目も浴びなかったし、世間的にも出世しなかった。ただ、私が立派であったわけではない。たまたまそうなっただけである。背信の科学者をいくら責めてもいい。それは必要なことである。しかし、お読みになる方は自分自身をも同時に省みてほしいとお願いする。
- 2014年9月11日に日本でレビュー済みAmazonで購入理研のセンター長の自殺事件まで巻き起こしたSTAP細胞データ捏造事件もあって、内外の高名な科学者たちの発見や仮説の背後にあるデータの盗用や歪曲や捏造のケースを網羅した米国の著名な科学ジャーナリスト、Wブロード、Nウエード共著のこの作品は実に面白い。1983年の出版で発刊以来30年近くも経っているが、「一つの大規模な欺瞞行為に対しておそらく1000の小さな欺瞞が行われている。暴露された一つの大規模な欺瞞行為はおよそ10万件の欺瞞を代表している」という筆者の言葉は真理を求める科学者と、名誉と報酬を求める科学者の心理とステータスの相克をよく言い表している。ガリレオ・ガリレイ、アイザック・ニュートン、ジョン・ドルトン、グレゴ-ル・メンデル、ロバート・ミリカン、野口英世、など科学の世界に君臨する錚々たる人物が彼らの理論を裏付けるデータの収集、整理、理論展開の過程でかなり、あるいは重大なミスを犯してことが紹介され、改めて科学者の良心の問題に目から鱗が落ちる思いがする。
- 2009年11月17日に日本でレビュー済みAmazonで購入著書において、伝統的科学観として
1)科学における認知構造
2)科学的主張の検証可能性
3)科学者による審査(ピア・レビュー)課程
の3つが挙げられている。
本著書においては、ガリレオガリレイ、ニュートン、メンデル、そして我が国の野口英世といった、誰もが知る科学者の研究不成行為の可能性についてまで言及している。
例えば、ニュートン、メンデルについては、自分の仮説に合うような綺麗なデータを捏造をしたのではないのか?という疑惑を解説しており、「科学における認知構造」について切り込んでいる。
野口英世については、彼の指導者であるロックフェラー研究所のエリートであるサイモン・フレクスナーの弟子として、また、最も権威ある研究所の花形であるとして、欠陥を見つけ出す審査(ピア・レビュー)課程から逃れたのであると結論づけている。(実際、野口英世の研究のほとんどは現在その価値を失っており捏造が疑われているのであるが、近年、彼の肖像が千円札に用いられたり、野口英世アフリカ賞なるものが創設されるなど、日本国の科学リテラシーの無さを象徴するようなことが起こっており、ぜひ官僚や政治家の方には本書を読んで頂きたい。)
本著書の出版は1983年であり、大変昔のことであるが、現在も我が日本において、アニリール・セルカン事件という、「業績として上げている論文がそもそも存在しない」、「著者名が書き換えられている」など、科学的主張の検証可能性や、科学者による審査(ピア・レビュー)課程を巧みに逃れる不正行為が起こっている。建築学分野では新規性・オリジナリティのない研究でも学位が取れるという特殊性や、査読付論文無でも学位が取れるという東京大学のシステムにも問題が投げかけれられている。
- 2011年11月24日に日本でレビュー済みAmazonで購入最近再版されたみたいですが、わしが持ってるのは化学同人から出た古い方。
これ書いたんは科学ジャーナリストさんなので、科学者に対してかなり厳しいことが書いてある。
電気素量を測定したミリカンの実験に関して、この本では「ミリカン悪いやっちゃ!」ということになっているが、
実際は賛否両論があり、『世界でもっとも美しい10の科学実験』ロバート・P・クリース著(日経BP社 (2006/9/14))に入れられていたりするのだ。
- 2019年9月21日に日本でレビュー済みSTAP細胞事件で緊急復刊されたらしいが、この本は科学の不正に関してその本質を突いているので、これからも何度も読まれるべきだろう。過去の偉人といわれる人たちの疑惑から、この本が出版された当時のアメリカでのタイムリーな不正事件、政治が科学よりも優先された有名なルイセンコの話など多岐にわたっていて飽きさせない。
STAP細胞事件は小保方さんはまだ一人前の科学者とはいえず、単なる広告塔にすぎず、本質は理研の予算獲得争いと思われ、実験、および論文の実質的責任者だった笹井氏が自殺したことにより全ては闇の中に埋もれてしまった。
- 2006年12月3日に日本でレビュー済みAmazonで購入Betrayers of the Truth, 1982 の翻訳が化学同人から1988年に出版されて、20年近く。最近の事件も解説してある。
ここに書かれている科学者たちのデータや論文のねつ造と改ざんは減る気配はない。そのためもあって再度出版されたようだが、多くは前の内容と変わらない。私はねつ造と改ざんの手口を知りたくて今回の本も含めすべて読んだが、手口は今でも通用する。と言うことは手口は進歩していないのである。なぜ行われるかは書かれていることに賛成であるが、今はさらに競争が厳しくなり、多くなりはすれ、減ることはなさそうだ。科学者が自分たちでチェックする機構そのものもすでに限界であろう。
科学者も人の子、誘惑はある。しかし誘惑に負ければ、キャリアは一生閉ざされることを常に肝に銘じておく必要があろう。
- 2014年6月7日に日本でレビュー済み科学は基本的には性善説と言われて久しいが、どうも怪しい? 本当のところここに登場するニュートン先生を筆頭にビックネームの古今東西の大科学者先生方々までも背信行為?をしていたとは驚きです。(今となっては、背信行為を本当にしていたのかは?この本を信用するしかないのでしょうか?)この本は翻訳が下手で要点が解りずらくて、読みにくくてせっかくの妙味ある科学捏造?背信行為?内容が半減です。また、(A)スタップ細胞―小保方氏捏造背信行為(こちらは残念ながら背信行為確定のようですが・・・)。*歴史は繰り返すといわれていますが、10数年前の「シェーン事件」現在起きた(A)をみるまでもなく人間のもつ愚かさはある意味情けなく悲しい真実でしょうか?