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YIDFF 2013 YIDFFネットワーク企画上映
中国・日本 わたしの国
ちと瀬千比呂 監督インタビュー

パワフルで前向きな残留邦人2世女性の生き方


Q: 映画制作の道に進むきっかけは何だったのですか?

CC: 原一男監督が主宰する若者を集めた勉強会、CINEMA塾で1年くらいお世話になったことがあります。ただ、原監督の作品が映画としていいと思っただけで、最初から僕は劇映画志望。学生時代の作品が水戸短編映像祭で受賞したとき、審査員の篠原哲雄監督に「助監督をやらないか」といわれて、この世界に入りました。

Q: 監督デビュー作がドキュメンタリーになった経緯は?

CC: 別の劇映画の企画が止まってしまって、その映画を担当していたプロデューサーから打診されたのが最初です。たまたま乗ったタクシーの運転手が山田静さんで「聞かされた話が印象深かった」と。劇映画にかかりきりだったものですから、なかなか気持ちの切り替えに時間がかかりましたね。2009年から1年くらいは静さんのお宅で話を聞きましたが、本当に劇場公開を前提とした商業映画になるのか、わからないままでした。

Q: 第2次世界大戦後の在留日本人の受けた迫害、文化大革命、経済成長など、近代の中国や日中関係がまざまざと浮かび上がる半生ですね。

CC: 波乱万丈の人生だからって、映画にできるとは思ってなかったんです。なぜ撮り続けられたかというと、彼女の人柄に惹かれたからです。僕自身は臆病な人間ですが、逆に彼女は、前向きで明るくてあけっぴろげでパワフルな“肝っ玉母さん”。わざわざ困難に立ち向かう性格に勇気づけられました。自分よりもまず人のことを思いやる彼女に、自分にない部分を感じたのです。

Q: 撮影がスタートしたのは、時系列でいうと手術直後ですか?

CC: 2010年2月くらいから本格始動しましたが、転機は病後にいわれた「お墓参りに行っていないからお母さんが怒っているんじゃないか」という彼女の言葉。「じゃあ一緒に行きましょう」と、大連から上海まで2週間、カメラマンと僕が同行しました。密着していた濃厚な時間で、どう形になるかわからないけど、できる限りカメラを廻し続けました。帰国後、ラッシュではじめて“やれるかも”という気になってきたんです。この旅が映画の核。ひとつの場所にとどまらない彼女の人生を集約するのに、このロードムービーはふさわしいんじゃないかと。

Q: 登場していないご家族もいらっしゃいますね。

CC: 最初の夫、次男の誠さんなどには断られました。4人の子どもたちを均等に取材できたらと当初は思ったのですが、1本にまとめるのにはこのくらいでよかったと思います。

Q: 上海では、カメラが同行するという事前許可は得ていたのですか?

CC: まず2番目の、夫の妹さん2人には先に連絡して行きました。そこで彼女たちが「話せば兄は逃げるかもしれない」というので、あとは義父母の家も病院もいきなりです。真偽は別として、元夫もいいたいことがあったから取材に応じてくれたのでしょう。

Q: 最後の「日本と中国の友好のために橋をつくろうと思っていた」という言葉は、はじめて聞いたのですか?

CC: いいえ。口癖の“日中友好の懸け橋”は、実は本心か疑問でしたが、旅のあとに聞いてすっと心に入ってきたんです。それは僕の中で変化があったからかも。僕は中国もはじめてで、在留日本人や国家間に問題意識があったわけではありませんでした。映画制作がなければ、関心を持つこともなかったでしょう。これまで劇映画ばかり経験してきた僕に、新しい経験と仕事の幅を与えてくれました。彼女からは、今でもしょっちゅう電話がかかってきます。彼女の映画の感想は「本当はもっと明るい人間だけどなあ」でした。余談ですが、また入籍されたようです。

(採録・構成:室谷とよこ)

インタビュアー:室谷とよこ、藤川聖久、加藤法子
写真撮影:宇野由希子/ビデオ撮影:加藤孝信/2013-09-29 東京にて