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映画のドキュメンタリー性の変遷 第4回

《参照》のリアリティへ

ヴァーチャル・リアリティの時代と映像

粉川哲夫


映画誕生100周年をふまえ、「Documentary Box」は映画と"現実"の関係の歴史を探る4回の連載を掲載しています。毎回異なる映画史研究家によるエッセイでは、ジャンルとしてのドキュメンタリー映画に関してのみならず、映画そのものの現実性はこの1世紀にどのように変わってきたかということについても取り上げてもらいます。小松弘氏、ビル・ニコルズ氏とマイケル・レノフ氏が最初の三回に展開した論議の結論として、評論家の粉川哲夫は、ヴァーチャル・リアリティといった新しい技術が如何に既存の現実性を根本的に覆すかを考察していただきます。

――編集者


  ドキュメンタリーと「やらせ」の腐れ縁は、いまに始まったことではないが、1992年に放映された「NHKスペシャル/奥ヒマラヤ禁断の王国・ムスタン」ほど、マスメディアのスキャンダラスな話題になった例はなかった。残念ながら、そこから帰結したものは、例によって、「報道倫理」の再確立や「社内規制」の強化であったが、この事件には、今日の映像メディアが内包する可能性とリアリティの根本的な問題が潜んでいた。

映像の「やらせ」が問題になる場合、映像の出来の悪さや不完全さからそれが暴露することも少なくないが、「ムスタン」の場合には、ある種の「リーク」から「やらせ」が暴露した。映像を見るかぎり、それが「やらせ」であるかどうかはほとんど判断できないのである。たとえば、有名になった高山病のシーンだが、この100秒ほどのシーンを凝視して、それが「やらせ」だと喝破できる視聴者はほとんどいないだろう。それが「やらせ」だと判明したあとで見なおせば、演出者みずからが画面 に登場し、しきりに(患者を)「降ろしましょう」、「降ろすしかないね」と言っているのが不自然に思えてくる(最初からヘリコプターで現地入りすることが決まっていたが、映像の効果 を上げるために、やむをえずヘリコプターを利用したかのようにドラマづくりをした)が、酸素マスクを当てられながら苦しげにもだえる「患者」の身ぶりは真に迫っていた。

この「やらせ」に対して、もし視聴者側が、ヴィデオリテラシイのような批判的意識を身につけるならば、「やらせ」にひっかかることはないだろうと仮定するのは単純すぎる。このような視聴者批判は、放送局の「倫理」を追求するのと裏腹のものであって、決して根本的な解決にはならないのである。それよりも、この「やらせ」問題が示唆しているのは、今日の映像テクノロジーが、うそ/ほんとうによって構成される二元論的な真理を無効にしてしまったのだということを出発点にしなければならないということなのである。


オウム報道は、1995年4月23日、ついに教団幹部の暗殺現場をテレビで映し出すところまでエスカレイトした。しかし、被害者が料理包丁で何度も刺され、血を流して倒れるそのシーンは、局によって撮り方が異なるさまざまなヴァージョンを見ても、どこかドラマっぽい印象を与えるのである。実際に人が殺され、一人の生命が代償になっているそのシーンが、非常事態とはいえ、決して手抜きとは思えない撮影体勢にもかかわらず、何かウソくさい感じをまぬ がれないのである。これは、F1のレース中に競技場の壁に激突して死んだセナの事故シーンに関しても同様だった。また、時代をもっとさかのぼれば、文字通 りのライブで放映されたロバート・ケネディの暗殺場面も、映画ドラマの一シーンよりもリアリティがなかった。


テレビは、クールなメディアなのだからという説明は、聞きあきている。映画にくらべてテレビの画面 が小さいということは、リアリティの質を量に還元して説明しようとする俗論にすぎない。問題は、今日のリアリティの質に関わっている。明らかに、リアリティの質が変わりつつあるが、それはまだメインストリームにはなっていない。その結果 、テレビは、ある種の逆リアリティのメディアすなわち、ある出来事の深刻さをあいまいにし、うやむやにする文化装置として利用されるようになる。そして、このようなメディアがますます環境化し、管理や教化やコントロールの装置であることがわからないほど「自然」なものになってくるとき、そのようなテレビを「無意識の植民地化」や「身体性の剥奪」とかいったクリシェで批判しても、批判したことにはならない。


カメラが被写体を「模写」するというのは、近代という時代のカメラ・テクノロジーに対応した単なるメタファーであり、便宜的な単純化にすぎなかった。確かに、これまでのカメラは、その映像を被写 体とは無関係に変更することはできなかった。だから、特撮やSFXとは、それらの原語であるspecial effectという言葉が示唆するように、何かに対する「効果」であり、その何かとは、カメラの前に実存するオブジェ、被写 体であった。手を延ばせば身体的に知覚可能な存在者としてのオブジェがあり、それに対して効果 を加えることが特撮なのである。しかし、特撮は、次第に、カメラの《外部》においてではなく、映像そのもののなかで起こされるようになり、いまや、撮影される被写 体が全く実存しない映像が登場しはじめたのである。ここでは、被写体を基準にして、うそ/ほんとうを云々することは不可能である。


ウディ・アレンの『カメレオンマン』の主人公ゼリークは、実体的な身体を持たない。そのため、彼をとりまく雰囲気や状況次第で、どんな人格にもなりかわる。『カイロの紫のバラ』にも、重みのない身体の持ち主が登場する。彼は、タイトルと同名の映画の登場人物なのだが、ある日、この映画を何度も見に通 っている観客(ミア・ファーロー)に興味を持ち、スクリーンを越え出て、こちら側の世界に来てしまう。むろん、現実には(身体世界では)起こり得ないことだが、映像と「現実」との関係を考えるインデクスとしては、ブリリアントなひらめきに富んでいる。おもしろいことに、映画のなかから抜け出してきたこの人物は、セックスと金に全く関心がない。というのも、セックスは、きわめて身体的なものであり、貨幣とは、身体=労働を《参照の極》(referring pole)として成立しているものであり、もともと身体性を欠いているこの人物には無縁のものだからである。


映像や貨幣を《参照》することはできるが、それらとセックスすることはできない。しかし、近代の映像技術と資本主義経済は、あたかも映像や貨幣が身体になり代わるかのようなドクサのもとで動いてきた。そのため、近代のテクノロジーは、逆説を自ら体現することになる。そして、近代の終わりにまたがる半ポストモダン・テクノロジーである電子テクノロジーにおいては、この逆説がピークに達する。というのも、電子テクノロジーは、現前し、いつも〈ここに〉表象=再現前される身体の神話性をあばき、その実体を消去することが本来の特性であるにもかかわらず、そのことを悔やみ、やがて、それ自身の方法によってその喪失を取り返そうとするからである。表象=再現前される身体に代わる新たな〈いまここ〉を隠蔽するために、レトロとポストモダン美学と電子テクノロジーとが馴れ合う。


近代主義的な動向の延長線上で考えられたヴァーチャル・リアリティの技術は、それまでの電子テクノロジーによって〈初期化〉された身体を再構築しようとする。それは、ある種トリックの方法で行われる。従来、身体の人工的再構築は、身体と同等の存在者を構築しようとしてきた。ロボット、サイボーグ、アンドロイド。が、VRは、そうした存在そのものにおいてではなくて、存在についての意識のレベルで同等性を獲得しようとする。身体は、同じ肉の組成を保持しながら、意識を人工知能にすること。なるほど、これならば、稚拙な映像でもリアリティを生み出せよう。感覚が変わってしまえば、ジャンクフードもグルメ料理である。実の所、これは、一面 で、ヴァーチャル・リアリティの脱近代的な可能性を示唆してもいるのだが、VRテクノロジーの開発者たちは、あえてそのような可能性には目をつぶろうとする。もっとも、そうでもなければ、この技術は、近代の慣習的な枠組みのなかではおさまらなくなってしまうだろう。「器官なき身体」の逆説と陰謀。


今日の手術は、次第に、患部を医者が直接知覚するのではなく、モニター・スクリーンを通 じて行われるようになりつつある。医者は、患部に挿入されたマイクロ・カメラが映し出す映像を見ながらメスを動かすのであり、さらには、メスと医者の手とのあいだが、無線/有線のリモートコントロール装置によって隔てられていることもある。テレメディシンは、もはや実験段階を終えている。だから、手術の教育用ないしは実験用の装置として、内臓のあらゆる手術をモニター画面 上でシミュレートできるヴァーチャル・メデシンのシステムが開発されている。


ヴァーチャル・メデシンが普及するにつれて、人は、身体の直接的知覚を重視しなくなる。といっても、このことは、第1次的な知覚をその第2次的な知覚で代えるということを意味するのではなくて、第1次的知覚というものそのものが無意味になることを意味する。というのも、世界は、いまや、シミュレートされ、操作されたヴァーチャルな現実によって構成される部分が多くなり、われわれは、まずそのような世界を知覚するようになりつつあるからである。が、問題は、こうした動向を推進しているとされる「進んだ」メディアやコミュニケーション・テクノロジーに対する批判の方向である。マルチメディアやインターネットは、人と人との関係を遠ざけ、フェイス・トゥ・フェイスの関係を希薄にし、映像の見過ぎは、人を離人症にしてしまうというわけだが、これだけではラダイトに向かうしかない。


 『バーチャルウォーズ』のなかにおもしい場面がある。主人公は、コンピュータで構築したサイバー・スペースと人間の脳とを連結できるようなヴァーチャル・リアリティのシステムをつくりあげ、自分でもヴァーチャル・スペースの浮遊に夢中になっている。例によって、ある日、天井から釣り下げたフロジストン・チェアー(このソファーは、その使用者を宇宙遊泳の状態に近づけるという)の上に寝そべり、VPL社のHMDをつけてヴァーチャル・スペースを浮遊している。そこへ、いっしょに住んでいる彼のガールフレンドが、ぷんぷんした様子で近づいてきて、いきなり装置のスイッチを切ってしまう。そして、「落ちて、浮いて、飛ぶの?その次は何?ファックするの?!」と罵る。そういえば、ダグラス・トランブルの『ブレインストーム』には、実験室の装置でVRセックスに耽り、身を滅ぼす初老の学者が登場していた。


しかし、こうした電子テクノロジー批判は、この技術のポテンシャルを少しも洞察していないように思う。電話や衛星通 信が普及し、さらにはマルチメディアのインターネット通信が浸透するにつれて、メディアの上だけの人間関係がフェイス・トゥ・フェイスの関係を上回るようになるのはあたりまえであり、だからといって、人間が身体を喪失するわけでもないし、アンドロイドになってしまうわけでもない。そんなレベルの話であれば、クロネンバーグの『ヴィデオドローム』の方がはるかに洞察力にあふれていた。そこでは、ヴィデオが「新しい肉」(new flesh)と呼ばれていたが、これは、メルロ=ポンティが『見えるものと見えないもの』のなかで論じた「肉」(chair)にまで関連づけられる。電子テクノロジーの浸透のなかでは、むしろ、これまで「身体」や「肉体」と呼ばれ、一つの「聖域」とされてきたものが脱神秘化されはじめているのである。そして、その「身体」の向こう側に、われわれは、久しく慣習のとばりに覆われていた〈いまここ〉をとりもどす可能性がある。いま、こうしたテクノロジーからひそかに呼びかけられているのは、その技術へのこれまでとは異なる対応なのである。


ハイデッガーは、『存在と時間』のなかで、アリストテレス以来、存在論が、〈いまここ〉(Jetzt-hier)つまり 「いま」という時間と「ここ」――目の前に現前するかぎりでの空間が基準になっていることから出発し、「西欧形而上学の転倒」の作業に進んだ。そして、彼は、マルクスが、『ドイツイデオロギー』の断片のなかで、「現状を止揚する現実の運動を、コミュニズムと名づける」と言っていたことを十分に予知していたが、しかし、のちにガタリとネグリが『自由の新たな空間』で行なったようなやり方でこの〈いまここ〉を「近代形而上学」のなかから救い出すことはできなかったし、する気もなかった。ベンヤミンがハイデッガーを仮想の敵としたのも、この問題と関連がある。『歴史哲学テーゼ』で論じられている〈いまここ〉からガタリ/ネグリをへて、ハキム・ベイのT.A.Z.(Temporary Autonomous Zone)に至る道筋には、評議会運動からパリ5月、シチュアシオニストの運動から70年代のイタリアのアウトノミア、そしていまインターネットのなかで起こりつつある〈ウィーヴィング〉の諸活動が、まさに、「ミシンとコウモリ傘との手術台の上での突然の出会いのように」リンクされ、ウィーヴされなければならない。


ラテン語のimagoに由来するimage(映像)は、語源的にimitateとも類縁関係を持っている。そして、その分だけ、近代の慣習的な思考は、映像を「現実」の「虚構」や「模倣」と解してきた。しかし、imagoの積極的な意味は、今日のimagoという英語に残っている意味、つまり「成虫」のなかにわずかに残されている。これも、近代のフィルターがかかった思考によれば、「成虫」とはその虫のイデアの実現されたものだということになる。しかし、ドゥルーズの『差異と反復』以後のわれわれにとっては、イデアとは、〈いまここ〉の内在的な一貫性である。従って、imago(映像/成虫)とは、来たるべき未来のために設定された理念や形式の実現ではなくて、内在的な一貫性のなかで突然変異的に起こる〈リコンビナント〉な出来事なのだ。映像が《参照》する「現実」は内在的なのであるが、近代の(しばしばデカルトに帰される)発明は、この《参照の極》を、手をのばせば触れることのできる身体的な無言の「現実」に求めたことだった。近代とは、こうした《参照》関係の、ある安定した長持続(long duration)の名称にすぎない。いまや、その「幸福」な関係が完全に崩れようとしている。映像は、必ずしもそのような「現実」を《参照》しないで済む方法を見出したからである。


ワルター・ベンヤミンは、映像を「機械的複製」のテクノロジーとの関連で考察したが、それは、彼がフィルムのテクノロジーが優勢な時代の思考者だったからである。が、映像がフィルムからコンピュータの手に引き渡されるとき、映像は、もはや複製をその思考のパラダイムにはできなくなる。なるほど、コンピュータは、無限数の映像を複製可能である。そこでは、オリジナルは無効になる。しかし、オリジナルのない複製とは、複製のパロディであり、複製ということの意味を露呈させるとしても、複製という機能を無意味にする。そのような複製は、もはや複製ではない。


ジャン・ボードリアールは、「シミュレイションとはオリジナルのない複製である」と言ったが、シミュレイションは、なるほど、複製よりも今日的な概念である。複製は、依然として起源に執着しており、その起源は、究極的に「世界のゼロ点」としての身体なのである。これに対して、シミュレイションは、身体からかぎりなく遠ざかろうとする。シミュレイションにとっては、つねに暫定的な起点しかない。もし、シミュレイションによって構築された映像が、現実に(身体世界に)実存するオブジェと類似したとしても、それは、むしろ偶然にすぎない。しかしながら、コンピュータは、それが複製装置でないと同程度にシミュレイションの装置でもない。そしてVRも、決して「シミュレイター」ではない。シミュレイションという概念は、依然として起源コンプレックスをいだいている。


コンピュータによって無数に複製される映像で重要なのは、その複製性ではなくて、リコンビエントな《参照》性である。コンピュータの機能は、複製のシステム化ではなくて、《参照》のシステム化なのだ。その複製的機能は、その《参照》的機能を単一化したものにすぎない。記号論は、映像のなかに《参照》のシステムを見出したが、その「外部」を単に括弧 に入れて放置しただけだったので、決定的な解決つまりは近代を越える地平に達することができなかった。コンピュータは、当初、そのような理論を実践的なものにしたにすぎないように見えたが、実践の常として、それはすでに理論を越えていた。アラン・チューリングは、記号の方からコンピュータを考えるのではなく、可能的なコンピュータ(チューリング・マシーン)から記号を考えることによって、記号論の限界を越えた。コンピュータは、すべてを同じ次元に引き寄せるが、それは、世界を一次元的に同一化するためではなくて、世界を《参照》関係として組み替えるためである。その関係は、映像内のシンタックス的なコード関係から映像「外部」の社会的・歴史的・文化的等々のさまざまな係数を持った諸関係にまで及ぶが、それらを統括する決定的な係数や中心点は決して存在しえないから、《参照》関係から生まれるリアリティは、つねにヴァーチャルなものとなる。


生命体を「オートポイエシス」つまり「決定論的で相対主義的な自己言及する自律的システム」として再定義したウンベルト・R・マトゥラーナとフランシスコ・J・ヴァレーラは、「認知の生物学」のなかで、「言語は、情報を送信するのではなく、その機能的役割は、参照の共通 枠の発展を通して話す者同士のあいだに協同的な領域を創造することである」(河本英夫訳)と言っているが、このアーギュメントは、映像にもあてはまる。映像によるコミュニケーションを規定するのは、「模写 」される「現実」に忠実であるかどうかではなくて、映像が生み出す「参照の共通枠」である。マスメディアは、この「参照の共通 枠」を慣習化することに加担するが、映像の実験は、慣習化した「参照の共通枠」を解体し、たえずこの「参照の共通 枠」を組み直す。重要なことは、「知覚は、外的現実の把握としてではなく、むしろ、外的現実の明確化・特殊化と見なされるべきである」ということだ。


テレビのニュースキャスターが、路上でいきなり視聴者からあいさつされたときとまどうのは、彼や彼女は、その相手を身体的なレベルでは知らないからであるが、視聴者にとっては、逆に、身体的レベルでの知覚がメディアによる知覚に優先され、身体的知覚も、メディア的知覚の延長線上に位 置づけられる。ここで、視聴者の「単純さ」を笑うのはまちがっている。視聴者は、マスメディアに「マインド・コントロール」(オウム事件とともに普及した時代遅れの言葉)されてボディスナッチャーかゾンビにでもなってしまったというのだろうか?

どんなにテレビに淫した視聴者でも、身体を喪失することはない。問題は、むしろ、身体の異なる位 相のあいだで起こっているのである。映像を通じて知っているということと、「直接的」な知覚を通 じて知っているということは、同じことではない。テレビに出演しているニュースキャスターは、視聴者の顔を知らない。しかし、彼や彼女らは、あたかも万人を知っているかのようにしゃべっている。言い換えれば、彼や彼女らは、万人を〈知っている〉。ただし、この〈知っている〉は、わたしやあなたが隣人を知っているというのとは異なるレベルに属する公共性である。とはいえ、そうだとしたら、視聴者が、そのニュースキャスターを見て、親しげな態度をとるのは当然である。要するに、この〈知っている〉は、《参照》のレベルの出来事なのである。


《参照》のレベルの出来事は、今後ますます慣習化していく。いま、それが「うそっぽい」と感じられるとしても、それは、いずれ「リアル」すぎるものとなるだろう。恋人フェリーツェに対して極力手紙だけの関係を持とうとしたカフカは、彼の時代(1910年代)には、特殊であり、またそのためにユニークであった。しかし、インターネットの時代には、むしろ、こうしたエートスが普通 になる。だから、逆に、インターネットのような、人との直接的出会いを省略させるメディアを、逆に、出会いを省略するメディアとしてではなく、積極的な出会いのメディアにすることが、少なくともこの過渡期には意味をもってくる。《参照》の〈ウェブ〉をより多形的で複雑なものにすること。イヴァン・イリイチは、すでに1970年に、「ネットワーク」の代わりに「機会のウェブ」という用語を用いる提案をしていた。


VRテクノロジーは、依然として、「現実には存在しない」「仮想空間」を構築する技術とみなされることが多い。しかし、それは、この技術を近代主義的な思考の枠でしか見ていない発想である。VRは、本来《参照》の装置であるコンピュータが、ようやくデータ「処理」装置という近代主義的な拘禁服を解かれてはじめてその本性を具体化したものなのである。コンピュータをデータ・プロセッシングの装置とみなしているかぎり、コンピュータは、複製装置としてのレベルを越えることができない。データ・プロセッシングとは、データを高速に複製し、データ同士を比較処理することにほかならないからである。


VRテクノロジーは、コンピュータの別の側面を使う。考えてもみて欲しい。年々向上するVR技術は、やがて、「本物そっくりの現実」を作り上げるところまでいくだろう。かって、ジョン・ケージは、「私達がテレビの画像と現実の光景の違いを忘れてしまうほど技術が進歩してしまえば、テレビについてもはや考えられなくなるでしょう」(『ジョンケージ  小鳥たちのために』)と言ったが、VRの場合も同様である。しかし、むしろそのときこそ、テレビもVRも、現在押しつけられている複製機能を離れて、《参照》の機能に専念できるようになるだろう。そして、それらは、異なる「現実」をすべて「似たもの」としてではなく、逆に、一見「似た」ように見えるもののあいだに微妙な差異をかぎりなく見出すインターフェイスとして用いられるようになるだろう。


映像は、これまで、遠近法と《窓》にしがみついてきた。VRは、こうしたしがらみに決着をつけうる。VRがあつかう画像は3D画像だが、現在のVRにおいては、まだ3D画像は《窓》という枠のなかに捕らわれている。遠近法によらない映像の知覚。ウインドウ・スクリーンを使わないインターフェイス。3D画像とわれわれの〈身ぶり〉とがヴァーチャルにシンクロナイズする〈感応〉のインターフェイス。これらは、夢の技術ではなくて、生身の、〈いまここの〉身体にかぎりなく近づく技術であり、現状の技術に対する明確な批判と技術政治にもとづいてのみ可能である。従って、こうしたメディア・テクノロジーは、現存する映画やヴィデオとは異なる形態の表現や形式を生み出すことになるが、だからといって、映画やヴィデオが消滅するわけではない。むしろ、それらは、このメディアによって再構成されるのであり、遠近法に代わる《参照》、窓に代わる全方位 的なインターフェイスをそれなりのやり方で受け入れ、その内部から自己変容するのである。

 


粉川哲夫


1966年に上智大学文学部哲学科を卒業した後、1969年に早稲田大学西洋哲学科修士課程を終了し、1972年に早稲田大学西洋哲学科博士課程満期退学。現在は東京経済大学コミュニケーション学部コミュニケーション学科教授。西洋哲学から、メディア論や映画評論まで、幅広い範囲で、20冊以上の研究書を出筆した。
主な著書:「ニューヨーク街路劇場」(北斗出版、1981年)
     「情報資本主義批判」(筑摩書房、1985年)
     「電子国家と天皇制」(河出書房新社、1986年)
     「批評の機械I 政治の挑発」(未来社、1992年)
     「シネマ・ポリティカ」(作品社、1993年)など。