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ヤマガタ・ニューズリール!

弾丸映画


「この数年間、全世界の既存秩序の崩壊化と併行して、映画もまた、その裂け目の中から新しい胎動を見せている。それは、映画を、単なる記録として自己完結させるのではなく、あくまで現実に密着し、そして、偽りの世界に全面的に対決しようとする動きである。仏における映画三部会は、五月革命の中から生まれ、カンヌ映画祭を実力で阻止し、5月の記録映画を絶えまなく撮り続け、一方アメリカでは、“巨大なマスメディアの中で塗り変えられている現実――我々の運動の未来を予知している現実の状況やあるいは闘いをあばき伝えていく集団”ニューズリールが偉大なアメリカの偉大な虚偽をあばき出している。直接闘いの中へ入り込み、権力に対する怒りと、自由を求める叫びを共に自己の怒り叫びにかえて、記録し続けるこれらの動きを我々は、現実に対して強力な武器となる―弾丸映画と呼ぶ。」

――小川プロ作品貸出しリスト(1970.7発行)より

 この文章からは世界的な連帯という強いバックアップを得た興奮と志への確信みたいなものが伝わってくる。小川プロ同様ニューズリールもまた当時フランス、ドイツ、キューバなどの組織とフィルムを交換し、配給をおこない、連帯感を強めていたようだが、当時になぜそれを可能にさせたのか、それを個人的な人脈の繋がりから語ることもできるだろうが、もっと別の視点から読み解くことも可能ではないだろうか。このプログラムのいくつかの作品は(『ブラック・パンサー』など)、既に「ニューズリール誕生 1968」に含まれているが、小川プロによって演出された煽動的な吹き替えからは当時の観客の反応への強い期待が窺えて、元の作品とは趣きが違っている。またこのプログラムには1968年当時に同じような想いで制作されたいくつかの作品を含めた。


花のサンフランシスコ

Haight-Ashbury

7分/モノクロ/1968

左翼運動に沸き上がる1968年のサンフランシスコ。友愛に満ちたコミュニティを築く若者たち、警察官の衝突が、「花のサンフランシスコ」をBGMに描かれる。ニューズリールからの作品だが、今回上映するフィルムが日本において唯一であるという理由で当時よりほとんど上映されていなかったので、小川プロ作品貸出しリストには含まれていなかった。



ストライキ! ストライキ! ストライキ! ― バリケードのコロンビア大学

Columbia Revolt

- 『コロンビア大学叛乱』の日本語吹き替え版/50分/モノクロ/1968

「1968年4月、コロンビア大学の学生がストに突入した。大学の人種差別、国防省と結託した軍事研究に抗議したが、しかし大学当局は要求をのむどころか、行動そのものを非合法として認めなかった。学生は、占拠闘争で闘った。この映画はそうした学生の闘いを、占拠された校舎の内側からとった記録である。」

――小川プロ作品貸出しリスト(1970.7発行)より



ハノイ13日火曜日

Hanoi, Tuesday the 13th

35分/カラー、モノクロ/1968/提供:共同映画

ヴェトナム人民は過去幾度か侵略を受けたが、屈しなかった。米軍の爆撃下、生産と対空戦闘が続けられる。13日火曜日、米機は大挙してハノイを空襲、応戦撃退された捕虜の一団、その側を若者が前線へ向う。監督はキューバのサンチャゴ・アルヴァレス。



- ブラック・パンサー ― 白豚を殺せ

Black Panther--Off the Pig

『ブラック・パンサー』の日本語吹き替え版/15分/モノクロ/1968
-

「“革命がやってきた、白豚でていけ。銃をとる時だ、ポリ公やっつけろ。”黒人が逮捕されると彼らはこう歌いながらデモをする。そして考える。“ブラック・パンサーはキューバ革命の12人と同じだ。俺たちは革命の先鋒を担い、仲間に戦略を考え、解放の武器を与え革命をひきおこす人たちを育て上げるんだ。アメリカに変革をひきおこすのだ。”そして歌いつづける。」

――小川プロ作品貸出しリスト(1970.7発行)より



- 俺はロボットか! ― パリ、国鉄労働者

What Am I, a Robot?

吹き替え版/25分/モノクロ/1968
-

「2秒以上ハンドルから手を離すか、55秒以上にぎりっぱなしにすると、自動的に警報ベルが鳴る装置……これを、フランスの機関士たちは“死人”と呼ぶ。“死人”は、2万人の機関士をクビにした。5月のゼネストのさなか、既成の左翼、執行部の圧力をはねかえしながら、機関士たちは、闘いを開始する。」

――小川プロ作品貸出しリスト(1970.7発行)より



- 叛乱 ― 5月、パリ、1968

Paris in the Month of May

吹き替え版/35分/モノクロ/1968

「自由を求める叫び声が聞こえる。燃え上がるバリケード。革命=ouiの叫びとサイレンのゴウ音。催涙弾が機関銃のように連射され、照明弾が夜空に無数に炸裂する。“同志諸君! 同志諸君! サンミッシェル通りは既に閉鎖されている。全部アスファルトに変えられた。もう石はない。同志諸君! カルチェラタンの奥深く進もう。石を持とう。石のある通りを通っていこう!”2万5千の学生、労働者、高校生はカルチェラタンを7日間占拠した。街角毎にバリケードを50余つくった力は、1968年5月10日、火柱となって燃え上がった。」

――小川プロ作品貸出しリスト(1970.7発行)より

当時、小川プロがフランスの三部会というインディペンデント監督協会のような組織と連帯し、入手した『叛乱』と『俺はロボットか!』の2作品は、その詳細な背景は不明である。『俺はロボットか!』の最後のシーンでは警察官が大学のキャンパス内をパトロールするシーンで終わるのだが、ビルのらくがきでラングロアの名前が判別できる。ラングロアは当時、フランスのシネマテークの館長で、突然辞任に追い込まれたことをきっかけに、フランスの映画人たちが立ち上がり、それが急速に膨大化し、パリ五月革命に発展していったと言われている。その年のカンヌ映画祭は開催中止となった。



YIDFFオープニング上映
三里塚・第三次強制測量阻止闘争(ニュープリント)

Three Day War in Narita

- 50分/モノクロ/1970/提供:山形ドキュメンタリーフィルムライブラリー

成田空港阻止闘争にもかかわらず、公団は2期工事のため再び測量を強行する。ヘリは空を舞い、黒煙の中突入する機動隊、農民たちは糞尿弾、座り込みなどぎりぎりの攻防を繰り返す。そして1週間の測量予定は3日間で終った。本作品は小川プロダクションによる「三里塚」シリーズの第3弾であり、ニューズリールに影響され、短期間で緊急に製作された。監督は小川紳介、撮影は田村正毅



現認報告書

A Report from Haneda

58分/モノクロ/1967/提供:山形ドキュメンタリーフィルムライブラリー

アメリカのヴェトナム侵略戦争反対への気運高まる1967年。大衆運動のピークに設定されたのが「10.8佐藤ヴェトナム訪問阻止闘争」と「11.12佐藤訪米阻止闘争」だった。10月8日の闘いで京大生の山崎博昭君が殺害され、その死因を検証し、権力の暴挙を暴く。当時『圧殺の森』と同様に各地の大学などで上映され、新左翼系の学生を中心に広く学生層の支持を得たが、当時の映画評論家たちからは多くの批判が浴びせられた。本作品は当時日本全国に支部があった「自主上映組織の会」(学生が中心に構成されていた)と「岩波映画労働組合」、「グループびじょん」などが中心になって委員会が発足され、製作された。演出は小川紳介



青の森

Forest of Youth

無音/40分/モノクロ/1968-69/提供:プラネット映画資料図書館

1960年代末、大阪には制作団体「大阪自主映画センター」と、上映団体「近畿自主上映組織の会(近畿自映組)」があった。前者は映画『大阪の夏・反戦の貌』『むちうたれる者』を制作、後者は『青年の海』『圧殺の森』『現認報告書』など小川作品の関西の拠点で、『死者よ来たりて我が退路を断て』や、おおえまさのりのニューズリールなどを上映。彼らは日本版ニューズリールとでも言うべき「反戦ベタ撮り」映画を提唱していて、各大学の映研に自らの闘争をフィルムに記録せよとの指令を発していた。この作品はそのひとつで、関学(関西学院大学)闘争の記録である。映画の完成度は問わず、実際の状況をベタッと撮ることを重視した作品。後に関学映研に入部した者は必ず見せられた映画らしい。



- おきなわ ― 日本1968

'68 Okinawa--Japan

8分/モノクロ/1968/提供:井坂能行

沖縄現地での祖国復帰の運動の様相と、日本国内での、羽田、王子野戦病院反対、佐世保原潜寄港阻止、三里塚空港反対などの各種の闘争とを重ね合わせながら、そこで共有されているものをみつめ、又、両方に壁となって立ちふさがっているものを浮き出しにしようというものである。

 意図してナレーションを用いず、現場収録での、現地・当事者の話、現場音のみでまとめた。写真が実地でとらえた迫真の様相を活かし、映画のカメラワークによって強いインパクトを持たせつつ改めて突き出そうというものである。シネトラクト(映画のビラ)の趣旨に徹し、タイトルも独特な考えで作り、字幕もスタッフタイトルも無いし、事態は何も終っていないということでエンドタイトルも無く、音楽もつけていない。あくまで、これらの映像からの印象を大事にする、受け手の人々の感性で感じ取っていってほしい、という狙いのもとに作り進められた。岩波映画労働組合員のカメラマン(女性も含む)やフリーのカメラマンたちで自主的に1967年から68年にかけて、パスポートをとって沖縄に渡り、制作された。



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