「あの、証明写真、お願いできますか」
今どきの若い娘さんには珍しい、品のいいお嬢さんだ。
「今度、生まれて初めてパスポートを作るんです。それで、どうせならいい写真が欲しいと思って」
うっすらとした薄い化粧。飾らない笑顔が可愛らしい。私は最後の仕事に、素晴らしい被写体に恵まれたことを感謝した。
どうぞどうぞ。きっとお気に召す写真に仕上げてご覧に入れますよ。私はこのお嬢さんを奥のスタジオにご案内した。
椅子に座ってもらって、照明を炊く。ぱあっとお嬢さんの姿が浮かび上がる。私はファインダーを覗いた。すると・・・・。
「ねえ、早くぅ、早くったらー」
「あはは、待ってくれよ」
一面の菜の花畑。そよ風まで明るい黄色に染まったような甘い香りの中で、少女は無邪気に駆け回る。私の手には、まだ買ったばかりのリコーフレックスIII。一杯30円のラーメンすら我慢して、節約に節約を重ねてやっと手にした宝物だ。
「ここ、ここがいいわ、ここで撮って」
菜の花畑の中で、少女が立ち止まる。私はファインダースクリーンに結ぶ像を覗き込む。そこにさあっとそよ風が吹いた。頬を撫でる風に、少女は気持ちよさそうに瞳を閉じる。
今だ!! カシャンと小気味良い音がして、彼女の姿が、私のピカピカの宝物の中に収められた。そのあと何枚も撮ってみたが、おそらくこの最初の一枚が、一番出来がいい。
「ふー、モデルって緊張するわー」
「ありがとう。ちょっと休もうか」
私たちは河原の土手に腰を掛けて、早春の風景を楽しんだ。
「ねえ、いいの撮れた?」
「うん。おそらく最高の!!」
「うわー、見たいなー」
「うん、きっと見せるよ、約束する」
「きっとよ、きっと。絶対約束ね」
少女は微笑みながら、涙を流した。私は少女の手を握った。必ず見せるとも。必ずだ。私は何度もそう言った。少女が涙で濡れる瞳を閉じた。しかし・・・・。口づけをする勇気を、私は持てなかった。ただ、万感の思いを込めて、少女の手を握り続けた。
「あの・・・・、どうかなさいました?」
お嬢さんの声に、私はハッと我に返った。
「す、すみません。え・・・・と、ちょっと瞳を閉じてみていただけますか」
「こ、こう・・・・ですか?」
すると驚いたことに、やはりファインダーの中には、たしかにあの日の少女がいた。瞳こそ濡れていなかったものの、まさにあの日の少女そのままの姿が、ファインダーの中に像を結んでいる。私は思わず、少女の名を呼んでしまった。
「な、なぜその名を?!」
お嬢さんも驚いたように声を上げた。
「なぜ、なぜ祖母の名を?!」
お嬢さんの瞳が、あの日の少女そのままに濡れていった。私は、ことのいきさつを、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
時代は1950年に遡る。私は当時、田舎から出てきた、いわゆる苦学生だった。写真の世界に憧れて、学校に通いつつ、当時ちょっとした流行写真家のアシスタントなどをしながら、将来を夢見る若者だった。
カメラマンとして身を立てられる保証など、どこにもない。でも私は燃えていた。充実した毎日だった。アシスタントの仕事は薄給だったが、そういう努力がいつか実を結ぶのだと思えば、空きっ腹で重たい機材を運ぶ仕事も苦にならなかった。
そんな時出会った一人の少女。私たちはすぐに激しい恋に落ちた。しかし当時は学生同士の恋など、満足には認められない世の中だった。ましてや私は、将来も定かではない若造だ。私たちは人目を忍んで会い続けた。そして、このことが相手の両親に知れた。
彼女の親は大変な資産家だった。さらに私が先生と仰ぐ写真家を大切にしてくれていた企業の、経営者一族につながる家柄だったのだ。
私はすぐさま先生に呼ばれた。そして事情を聞かれ、大切な娘さんに傷が付かないうちに別れなさいと、何度も念を押されることとなった。少女の方にも、おそらく大あわてでまとめられたのであろう縁談話が、急ピッチで進められていった。
手紙一つ書けない状況の中で、唯一の希望は、人目を忍んで最後に会った、あの日の約束。
「やっと憧れのカメラが買えるんだよ!!」
「すごいわ、夢に近付くのね」
「うん。だから初めての写真は、君を撮りたい」
「すごいわ。私、あなたの夢の第一歩になれるのね?」
「そうさ。撮影場所は早春の菜の花畑にしよう。来月の今日、この場所で待ち合わせだ」
私は、祈るような気持ちで、街角に立った。彼女は来てくれるだろうか。10分、20分・・・・。約束の時間がどんどん過ぎていく。と、向こうから手を振りながら駆けてくる人影が見えてきた。来た。来てくれた。私も彼女に向かって駆け出した。
そうして、私たちは菜の花畑に急いだ。残された最後の時間を、もう二度と会えなくなってしまう未来に向かって、二人だけで使い切るために・・・・。
「おばあちゃんに、そんな恋があったなんて・・・・」
お嬢さんは、涙を流してくれた。
少女はあれから幸せな家庭に恵まれ、何人もの子供にも恵まれ、そして三年前、静かに召されていったということだ。
「その時の写真は?」
お嬢さんが聞いた。
「そのまま、とってあります。ご覧になりますか?」
「いえ・・・・。それより、祖母のお墓に持っていってあげてください。春になると菜の花が咲き乱れる、とっても素敵なところにあるんです」
そのあとは二人、泣いてしまって、仕事にならなかった。証明写真はあきらめていただいた。そのかわり、カメラを変えて、ポートレートを一枚撮った。あの日のリコーフレックスIIIを使って。
現像してみると、愛した少女そのままの姿が浮かび上がってきた。神様は私の最後の仕事に、夢のスタートと同じ被写体をお与えくださった。この奇跡に、私はどう感謝したらいいだろう。
翌日、私はお嬢さんの家を訪ね、出来上がった写真を手渡した。我ながら素晴らしい仕上がりの写真だった。お嬢さんはいたく感激して、上がってお茶でもと勧めてくれたが、私はそのままお嬢さんの家を後にした。早春の菜の花の咲き乱れる地へと、急がねばならなかったからだ。
私はあの日と同じリコーフレックスIIIを手に、列車に飛び乗った。
店主・なんでしょうか
客・写真をとってほしいんですけど
店主・そうですか。ならこちらへどうぞ。
客・でも本当に昔ながらの写真館っていいですね。
店主・そうですか。ありがとうございます。でも珍しいですねいまどき。
客・自分は今次々と出てきているデジタルなんてものは嫌いなんですよ。私の家は田舎とはいえ昔はこういう写真館が自分の家の近くにもいっぱいあった。でも今は一軒もないんです。1時間もかけて
こちらへきたんです。こういう写真館が本当にあってよかった。
店主・本当にありがとうございます(涙)私はこの店をたたもうかと思っていました。相棒のカメラで最後に旅をして終わろうかと思っていたんです。けどあなたの話を聞いて終わりの旅ではなく自分をもう一回見つめなおす旅にしたいと思います。
客・絶対にやめないでください。本当に自分にとってこういう店は思い出の塊ですから。またきます。
そういって客は帰っていった。
デジタルでないものはいいですね。
ありがとうございました。
あのぉ・・・
私の祖父が昔小さいころにここで写真を撮ったことがあると聞いたのですが・・・
祖父は昨日亡くなり、最後までここで撮った大事な人との写真をもう一度見たがっっていたのです。
私は、名前を聞いて、奥に入り、写真を探した。
急いで現像をしてみた。
そこに写った一枚の写真には、綺麗なお嬢さんと、男前の方の写真だった。
その写真を渡すと、その方は、ひとこと
「そっかあ。婆ちゃんだったんだ。」
いいラストですね。
きれいです。
ありがとうございました。
最後の客になるであろう人物はずいぶんと小さかった。
この街には珍しい小学生くらいの女の子が一人玄関先に慎ましやかに立っている。
子供が一人こんな古ぼけた写真館に来てどうするのだろうと疑問に思いながらも私は少女にこう言った。
「何の御用かな。」
少女は私の顔をまっすぐ見つめながら
「写真を撮って欲しいの」
とポツリと答えた。
これでも私はこの町では名が知れた写真家だ。
女の子の小遣いくらいで撮る写真などない。
でももういい。せっかくの最後の客だ。
お代などもらえなくてもかまわない。
「よし。じゃあこっちに来なさい。」
私は相棒を手に取ると少女を撮影室に案内した。
ここからが大変だ。
少女を定位置に立たせたらカメラのレンズ越しに思いっきりにらみつける。
客をにらみつけるのは性に合わないがこればかりは仕方がない。
極限の緊張状態にあって初めて本当のいい写真が取れると私は信じているから。
そんな中少女は無表情に立ち尽くしている。
こんな写真は撮りたくないから
「はい。笑ってぇ」
といつもの決まり文句を放つ。
しかし返ってきたのは
「いいの。このままで。」
というあまりにも素っ気無い返事。
私は不本意ながらも自分と相棒の仕事に没頭させてもらうことにした。
薄暗い部屋の中。私は現像を始めた。
やはり長時間の撮影は体に悪い。
腰も背中も悲鳴をあげているし足はふらついている。
我ながら情けない話である。
現像にはかなりの時間が必要だから女の子には帰るよう言ったのだがまるで聞かない。
きっと今頃は展示してある写真を見て回っているのだろう。
あの写真たちは私の誇りであり築いてきた歴史だ。
そう考えるとこの最後の仕事には非常に感慨深いものがあった。
そしてやっと一連の作業が滞りなく終了し、また一枚写真が増えた。
額縁の中で笑うこともなくまっすぐ前を見つめている少女。
いや、虚空を見つめているのだろう。視線が合わないから。
私は辺りを見回し女の子を探した。
あまり広くない展示室の一角に佇む少女を見つけ歩み寄る。
「お待たせしたね。写真できたよ。」
私は額縁を少女に手渡した。
「どうもありがとう。」
丁寧なお辞儀をする女の子。
私は確かこの姿に見覚えがあった。
忘れるはずもない。
あの時新しい家族を連れてやってきてくれたお嬢さんの小さかった頃の姿だ。
その姿はさっきまで今目の前に居る少女が見つめていた一角に映し出されている。
帰り際にお菓子をあげたらひどく喜んで深々と頭を下げてお礼を言っていたな。
私はいつも持ち歩いている飴玉を思わず差し出していた。
でも少女は首を横に振るだけだった。
私はきっと残念そうな顔をしていたに違いない。
それなのに彼女はそんな私に気を使うことなくある事実を口にした。
「私。死ぬんだって。」
声も出なかった。急に何を言い出すのか。
「私。病気なの。お医者さんももうだめだって言ってた。おそーしきには写真がいるってママとパパが話してたからここにきたの。」
どうやら私の最後の仕事はあまり喜ばしいものではないようだ。
私は無理やり少女に飴玉を渡して家に帰した。
予想はしていたのだがしばらくして見覚えのある女性とその夫が玄関口にやってきた。
「本当にすみません。写真代を支払いに参りました。」
「きれいな写真をどうもありがとうございました。娘も喜びます。」
両親は顔も上げずにただ泣きそうな声で何度も謝罪と感謝の言葉を言い続けている。
私はもう限界だった。
「いい加減にしてくれ。あんな失敗作は知らない。そんなに写真代が払いたいなら今度はあの子が笑うようになってからつれてきてくれ。」
言った後で後悔した。あの子の境遇を今一番悲しんでいるのは目の前の二人のはずだ。それなのに言いたいことを偉そうに言ってしまったのは明らかな失敗だ。
だが初めからあきらめている様子の二人に私は謝る気が起きず3人でただ立ち尽くしていた。
どれくらい経っただろうか。
私は気になることがあったので訊いてみた。
「あの子は今どうしているんだい。」
「ここに来る前に病院に連れて行きました。長時間の外出がたたったのか随分と弱ってしまっていて。」
「それは悪いことをしてしまったな・・・」
「いえ。いいんです。あの子もここが居心地がよかったのでしょう。」
あの時の赤ん坊はとても元気だったのに。
二度目にここを訪れたあの子は笑うことすらやめてしまっていた。
三度目はあるのだろうか。
いや、あってほしい。あれば親子三代の歴史を私が紡ぐきっかけにもなるであろうに・・・
しかし。やはり三度目はなかった。
あの子は私があげた飴玉を握り締めたままその短い一生を終えたらしい。
人間とは儚い生き物だ。
写真の中で何年も生きることはできても現実世界からはすぐに消え去ってしまう。
写真家をやっていたことでそれをより強く実感した。
でも逆に言えば写真にさえ写ってしまえばその中で何年も生きられる。
そう思った。
だから私は自分の写真を撮った。
相棒とこの距離で向かい合うことなどほとんどなかったからなかなか新鮮だった。
そして一枚の老人の写真が出来上がる。
随分とシワが目立ってきたな。
そんなのもっと前からかもしれないな。
そう思いながら私はその額縁を無表情な少女の写真の右に飾る。
さて。
そろそろ旅に出ようか。
私はおぼつかない足取りで家を出た。
そしてタクシーを走らせ海に来た。
相棒を片手に大きな夕日の見える断崖絶壁に立つ。
フィルムは抜いてある。
きっとあの輝く夕日は私と相棒の旅への出発を祝福している。
ゆっくりと歩みを進め先端へとやってきた。
私は勢いをつけて相棒を投げた。
大きな弧を描いたカメラは数秒後水しぶきをあげて沈んだ。
そして私も旅に出る。
今日もどこかの町の広場では何人かの子供たちが遊んでいる。
そんなところにひょっこり現れては紙芝居をはじめる老人がいる。
その老人は子供の笑顔が好きだ。
写真とは違う今確かに存在する笑顔を見るために今日もその老人は旅を続ける。
ある小さな町の写真館にはその老人にそっくりな顔写真と無表情な少女の顔写真が飾られている。
今ではもうすっかりホコリをかぶってしまった二枚の写真は展示室ではなく現像室の「未完成」の棚に飾られていた。
*半分寝ぼけてて意味不明なとこあると思いますがご了承ください
いえいえとても素敵でした。
ほんとうにありがとうございました。
店先にわたしが出てみると、20台半ばのお嬢さん……いや、若奥さんか? が立っていた。
なんとなく、懐かしい気がした。
「こちらに、この写真の、ネガがあるんじゃないかと……思ってきてみたんですけど……あのう、無理ですよ、ね?」
見ると、小学校の参観授業の風景のような写真であった。
店を開いたころの写真か? わたしは思いをめぐらせたが、どうにも思い出せない。見覚えのある写真ではあったの……だが。
「この、後ろに写っているのが祖父なんですが……ここを大きくしてほしいんです。でも、この写真では、あんまり大きくはできないと、他の店で言われて……母に聞いてもネガはうちにはないって言うし、そうしたら多分こちらの写真屋さんが撮った写真だって言われて……」
言われて、写真に写った教室の後ろの辺りを見る。
思い出した、写真館を始めて3年目くらいのことか。
当時、昭和30年代には、参観日に父親が来るなんて、まず滅多に無かった。 だから、印象に残って居たんだ。
「穂高……泉さん?」
ふと、そんな名前が浮かんだ。
「あ……母です。それ、母の旧姓です」
なるほど、どうやらわたしはその『祖父』殿と話しているようだ。
「お爺様は、絵描きさんでは無かったですかな?」
「そうです!! じゃぁ、あるんですか?」
ある……筈だ。
わたしは、店の奥に引き返した。
昭和……34年……小学校……参観日……っと、これだ。
その翌日が、その「祖父」の通夜となった。
わたしの探し出したネガから引き伸ばされた『遺影』は、にこやかな笑顔だった。
きれいな作品ですね。
ありがとうございました。
「あのう、すみません」
「おや?お客さんかな、いらっしゃいませ」
店先に立っていたのは、カバンを手にした五十年配の男。白いYシャツに地味なネクタイを締めている。実直な公務員というところか。
「山口さんですか」
「はい、山口です」
「山口写真館の山口さんですね」
「ええ、そうです山口写真館です。五十年前から、ここは山口写真館です」
「ははぁ」
「どうしました?」
「まだお元気そうなのに、すみませんね」
「元気かどうか、この年ですからね。この写真館も間もなく卒業ですよ。でも古女房を連れて、カメラを片手に旅に出るぐらいの体力は残っているかな」
「残りの人生をお楽しみになさっているのに、本当にすみません」
「いったいどうしたんですか、初めて会ったあなたがすみませんなんて」
「いや、私、、、」
「どうぞわけを話してください」
「ニライカナイから来ました」
「ニライカナイ?」
「ええ、簡単に言うと、あの世」
「あの世って、、、」
「あなたをあの世にご案内するためにね。仕事とはいえ、少々辛いですね」
「悪い冗談を。年寄りをからかうのはいい趣味とは言えない」
「皆さんそうおっしゃいます、本当にすみません」
男は頭を下げた。その目を見たとき、私は心の底からぞっとした。決して恐ろしい目をしていたわけではない。その逆だ。嘘をついていない人の目。五十年間、ファインダーを通して人の表情と対峙して来た私には、目の奥にひそむ嘘の有無ぐらいは分かる。
「ど、どうぞ今日はお帰りください」
「そういうわけにもいかないんですよ、これが仕事なんで。あなたを連れて行かなかったら、他の誰かを連れて行かないといけない」
「私も他の誰かも、あの世には行きたく無いですよ」
「困ったなあ、銀杏通り3丁目では、あなたしかリストアップされていないし」
「銀杏通り3丁目?」
「ええ、他の誰かを連れて行く場合は、なるべく近くに住んでいる人が良いと、ニライカナイのルールみたいなものがあって」
私は言葉を失ってしまった。私のこの写真館は桜通り3丁目であり、彼の目指している銀杏通りは隣町なのである。そして、そこには、同名の「山口写真館」がある。私の、実の弟が半世紀近く営んできた「山口写真館」が。
不思議な展開でした。
ありがとうございました。
店先には、埃をかぶった昭和初期のカメラが所狭しと並べられている。ウィンドウ・ディスプレイには、あの結婚した娘さんの笑顔が展示されていた。もうほとんど使うことのなくなったカウンターと、木製の、古めかしい来客用の椅子が壁に立てかけられている。
そこへ、男の子はぽつんといた。今時珍しい、前髪を揃えたその男の子は、一枚のフィルムを手に握りしめていた。
「しつれいします、このしゃしんをげんぞうしてください」
男の子はたどたどしい口調で、私に言う。敬語はおそらく覚えたてなのだろう。私は少年の方へゆくと、頭をなでた。
「おお、偉いね、お使いかい?」
私は顔が自然とほころんでゆくのが分かった。
「ううん。ちがいます。ぼくのだいじなしゃしんをげんぞうしてもらいたくてきました」
少年は私の眼をまじまじと見ながらそう言った。
少年は私の手にそのフィルムを差し出した。真っ黒なフィルムがそこにあった。私はそのフィルムをそっと受け取ると、少年に時間がかかることを告げた。少年が、どのくらい? と私に聞くので、一日はかかることを告げると、少年は残念そうな顔をして、狭い入り口を、小さな身体でスイスイと通り抜けると、ガラス製の扉を元気よく押し開け、店を後にした。
私は少年のいなくなった古ぼけた店内で、来客用の椅子を引っ張り出し、埃をかぶったカウンターに両手を組んで腰掛けた。むかし、ここにはよく、いろんなお客さんが来たもんだ。そして、ふと、左手にある黒い幕の降りた部屋を見た。そこはかつて、毎日何人ものお客さんが、私の振りまくジョークに破顔し、私はその笑顔をシャッターに納めた場所だった。
店を始めて、もう60年も経ってしまったのか。私はただ独りごちた。外へ一歩出ればデジタルカメラ、携帯カメラなどの新しい技術がひしめく現代社会。私は結局それらの印刷手段を業務にすることはなかった。写真は魂だ。機械からボタン一つで出てくるものを、写真であるとは絶対に認めない。カメラ屋としての意地だった。
私は現像室へ向かうと、明かりを消し、その代わり、ほのかに赤い暗室ランプを灯した。
それから諸々の道具を揃え、現像液を精製すると、フィルムを取りだした。
この作業もずいぶん長い間やっていない。薬品を使うので、その間老体にはちょうど良い休息期間だったのかも知れないが、やはり仕事ができないのは寂しかった。
だが、もう私の仕事もこの少年の分で終わりにしようと思う。先月、医者からある話を聞いた。私はもう長くない。転移も確認され、脳に転移するのも時間の問題であるという。医者は重たい口を開いた。病名は癌だった。
私は旅に出ようと思う。お気に入りのカメラと。そして、私は旅先で、人知れず死ぬのだ。
そんなことを考えているうちに、現像は最終段階に入ろうとしていた。露光を終えた印画紙に水洗いを施し、乾燥させる。やがてそうしていくつもの写真ができあがった。
私はあの時のように、カウンターに座っていた。今日はちゃんと埃を掃除している。きっと、あの少年が来てくれるに違いない。今日写真を渡す約束をしていた私は、その少年を心待ちに待った。今くらいの歳になると、人が来ると言うだけでも嬉しいものだ。しかし、少年を待つのは、何もそういった理由だけではなかった。私は少年が来たのを最後にして、この写真屋をたたみ、そして――。
そんなことを想いながら私は過ごした。しかし、待てど暮らせど少年の来る気配がない。ついには閉店時間になり、私はチクタクと時を刻む時計の音を聞きながら、何とはなしに少年からの依頼があった写真を取り出した。
暗室ではよく分からなかった写真が見える。しかし、それでもなんだかぼやけるので、私は隣の部屋から老眼鏡を持ってきて、カウンターへと座った。
奇妙な事に、その少年の持ってきた写真はどれも白黒で、カメラも昔のもので撮ったような画質だった。私は一枚一枚写真をめくっては、テーブルに置いてゆく。どうやら、それは成長記録のようだった。写っているのは少年。そして、おかしなのは、その少年らしき人物が、中学生の制服を着ている写真まであったのだ。古くさい学ランを着ている姿が映っていた。
あの少年であるはずはなかった。よくよく考えれば、これは彼の兄なのかも知れない。あるいは、写真の古さからして、父? いや、おじいちゃんだろうか。しかし、私は昨日の少年が言っていたある言葉を思い出した。
「ぼくのだいじなしゃしんをげんぞうしてもらいたくてきました」
僕の、というからには、少年はきっとそのおじいちゃんをよほど大切に思っていたに違いない。
私はさらに写真をめくってゆく。やがてその写真の少年は端正な顔つきの青年になった。私はその写真に見覚えがあった。
「この写真、まるで……」
その青年は私の若い頃にそっくりな表情と顔立ちで、こちらを見据えている。私の写真をめくる速度が上がった。やがて結婚写真にたどり着くと、そこには死んだばあさんがうら若い乙女の姿で写っていた。気味が悪くなると同時に、私の写真を見る速度はどんどん上がってゆく。やがて、50を過ぎ、60代を過ぎる頃になると、写真の人物は髭をたくわえ、今の私とそっくりな顔に変わっていった。
それでも、私は写真をめくるのをやめなかった。70、80代の年代を過ぎても、写真をめくり続けた。やがて、写真には何も写らなくなり、写真はそこで終わってた。
私はしばらくその場に呆然と座ったまま、手を組んで時計の音を聞いた。すでに時計は夜の10時を回っていた。
ある個展で、その写真は人々の注目を集めていた。“人生の記録”がその写真群の主題であるらしかった。少年が大人になり、やがて老いてゆく様が、生々しく描かれている。
最後に、ひときわ大きな写真が飾ってあった。
まるでどこまでも果てしなく続くような紺碧の空と、そして構図の下側にぽつんとある、古びた写真館。グレーの写真館はどこまでも時間が止まっているように見え、果てしなく続く空は、どこまでも新しい息吹を見る者に訴えかけるようだった。
そして、額の横には“金賞”と書かれた誇らしげな表示があった。
展覧会のパンフレットには、それらの写真群に関してこう書かれている。
“私は死を覚悟し、旅に出る決心をしました。
しかし、ある少年が私に大事なことを気づかせてくれたのです。
私は旅に出ることをやめました。
振り返れば、そこにはすでに旅を重ねた私がおり、終着点もすぐ傍にあったのです。
風化した写真館と、けして風化しない思い出が。”
完
ひとつひとつの言葉の丁寧な描き方がすばらしいです。
ほんとうにありがとうございました。
そこには四角い撮影用の機材の入った箱をたすきにぶら下げ、
三脚をいくつか手に持った、ごついよごれたコートを着た男が立っていた。
男は三脚を持った手と背中で扉を開け、体を店に入り込ませた。
「まだ あいてますか?」
冗談っぽく笑うその笑顔に、思わず息ができなくなった。
「孝司!! いつ日本に帰ったんだ!!!」
「今日ついたよ。あっちの情勢が危なくなって、最後の飛行機で帰ってきた。」
「・・・・・・・・。」
いいたいことが たくさんあふれてきて、詰まってしまって
むねがいっぱいで言葉が出なかった。
「・・・・・・・・・・・。」
「なぁ、親父、俺をずいぶん自由にしてくれてありがとう。
世界を飛び回ってきて、俺、やっと落ち着きたいって言う気持ちになった。
自分の生まれ育ったこの地で、自分の周りにいる人たちの幸せのために暮らしていこうと思ってるんだ。」
「もし良かったら、俺を雇ってくれませんか。」
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
言葉にできなかったが、うんうんとうなづく私の目からは涙がこぼれてきた。
☆ ☆
私は二ヶ月に一度撮影旅行にでる。
海と山。 空と緑。 動物と木々たち。
帰りにはお土産を買って帰ろう。
孝司と、新しい家族のために。
なるほど。ハッピーエンドですね。
ありがとうございました。
「あの、証明写真、お願いできますか」
今どきの若い娘さんには珍しい、品のいいお嬢さんだ。
「今度、生まれて初めてパスポートを作るんです。それで、どうせならいい写真が欲しいと思って」
うっすらとした薄い化粧。飾らない笑顔が可愛らしい。私は最後の仕事に、素晴らしい被写体に恵まれたことを感謝した。
どうぞどうぞ。きっとお気に召す写真に仕上げてご覧に入れますよ。私はこのお嬢さんを奥のスタジオにご案内した。
椅子に座ってもらって、照明を炊く。ぱあっとお嬢さんの姿が浮かび上がる。私はファインダーを覗いた。すると・・・・。
「ねえ、早くぅ、早くったらー」
「あはは、待ってくれよ」
一面の菜の花畑。そよ風まで明るい黄色に染まったような甘い香りの中で、少女は無邪気に駆け回る。私の手には、まだ買ったばかりのリコーフレックスIII。一杯30円のラーメンすら我慢して、節約に節約を重ねてやっと手にした宝物だ。
「ここ、ここがいいわ、ここで撮って」
菜の花畑の中で、少女が立ち止まる。私はファインダースクリーンに結ぶ像を覗き込む。そこにさあっとそよ風が吹いた。頬を撫でる風に、少女は気持ちよさそうに瞳を閉じる。
今だ!! カシャンと小気味良い音がして、彼女の姿が、私のピカピカの宝物の中に収められた。そのあと何枚も撮ってみたが、おそらくこの最初の一枚が、一番出来がいい。
「ふー、モデルって緊張するわー」
「ありがとう。ちょっと休もうか」
私たちは河原の土手に腰を掛けて、早春の風景を楽しんだ。
「ねえ、いいの撮れた?」
「うん。おそらく最高の!!」
「うわー、見たいなー」
「うん、きっと見せるよ、約束する」
「きっとよ、きっと。絶対約束ね」
少女は微笑みながら、涙を流した。私は少女の手を握った。必ず見せるとも。必ずだ。私は何度もそう言った。少女が涙で濡れる瞳を閉じた。しかし・・・・。口づけをする勇気を、私は持てなかった。ただ、万感の思いを込めて、少女の手を握り続けた。
「あの・・・・、どうかなさいました?」
お嬢さんの声に、私はハッと我に返った。
「す、すみません。え・・・・と、ちょっと瞳を閉じてみていただけますか」
「こ、こう・・・・ですか?」
すると驚いたことに、やはりファインダーの中には、たしかにあの日の少女がいた。瞳こそ濡れていなかったものの、まさにあの日の少女そのままの姿が、ファインダーの中に像を結んでいる。私は思わず、少女の名を呼んでしまった。
「な、なぜその名を?!」
お嬢さんも驚いたように声を上げた。
「なぜ、なぜ祖母の名を?!」
お嬢さんの瞳が、あの日の少女そのままに濡れていった。私は、ことのいきさつを、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
時代は1950年に遡る。私は当時、田舎から出てきた、いわゆる苦学生だった。写真の世界に憧れて、学校に通いつつ、当時ちょっとした流行写真家のアシスタントなどをしながら、将来を夢見る若者だった。
カメラマンとして身を立てられる保証など、どこにもない。でも私は燃えていた。充実した毎日だった。アシスタントの仕事は薄給だったが、そういう努力がいつか実を結ぶのだと思えば、空きっ腹で重たい機材を運ぶ仕事も苦にならなかった。
そんな時出会った一人の少女。私たちはすぐに激しい恋に落ちた。しかし当時は学生同士の恋など、満足には認められない世の中だった。ましてや私は、将来も定かではない若造だ。私たちは人目を忍んで会い続けた。そして、このことが相手の両親に知れた。
彼女の親は大変な資産家だった。さらに私が先生と仰ぐ写真家を大切にしてくれていた企業の、経営者一族につながる家柄だったのだ。
私はすぐさま先生に呼ばれた。そして事情を聞かれ、大切な娘さんに傷が付かないうちに別れなさいと、何度も念を押されることとなった。少女の方にも、おそらく大あわてでまとめられたのであろう縁談話が、急ピッチで進められていった。
手紙一つ書けない状況の中で、唯一の希望は、人目を忍んで最後に会った、あの日の約束。
「やっと憧れのカメラが買えるんだよ!!」
「すごいわ、夢に近付くのね」
「うん。だから初めての写真は、君を撮りたい」
「すごいわ。私、あなたの夢の第一歩になれるのね?」
「そうさ。撮影場所は早春の菜の花畑にしよう。来月の今日、この場所で待ち合わせだ」
私は、祈るような気持ちで、街角に立った。彼女は来てくれるだろうか。10分、20分・・・・。約束の時間がどんどん過ぎていく。と、向こうから手を振りながら駆けてくる人影が見えてきた。来た。来てくれた。私も彼女に向かって駆け出した。
そうして、私たちは菜の花畑に急いだ。残された最後の時間を、もう二度と会えなくなってしまう未来に向かって、二人だけで使い切るために・・・・。
「おばあちゃんに、そんな恋があったなんて・・・・」
お嬢さんは、涙を流してくれた。
少女はあれから幸せな家庭に恵まれ、何人もの子供にも恵まれ、そして三年前、静かに召されていったということだ。
「その時の写真は?」
お嬢さんが聞いた。
「そのまま、とってあります。ご覧になりますか?」
「いえ・・・・。それより、祖母のお墓に持っていってあげてください。春になると菜の花が咲き乱れる、とっても素敵なところにあるんです」
そのあとは二人、泣いてしまって、仕事にならなかった。証明写真はあきらめていただいた。そのかわり、カメラを変えて、ポートレートを一枚撮った。あの日のリコーフレックスIIIを使って。
現像してみると、愛した少女そのままの姿が浮かび上がってきた。神様は私の最後の仕事に、夢のスタートと同じ被写体をお与えくださった。この奇跡に、私はどう感謝したらいいだろう。
翌日、私はお嬢さんの家を訪ね、出来上がった写真を手渡した。我ながら素晴らしい仕上がりの写真だった。お嬢さんはいたく感激して、上がってお茶でもと勧めてくれたが、私はそのままお嬢さんの家を後にした。早春の菜の花の咲き乱れる地へと、急がねばならなかったからだ。
私はあの日と同じリコーフレックスIIIを手に、列車に飛び乗った。
さわやかできれいな世界ですね。
よいひとときを楽しむことができました。
ありがとうございました。
店先から店内をのぞきこむように一人の少年が立っていた。なにやらそわそわしている。
ところどころ穴のあいたむぎわら帽子を掴み、首からはいかにも親のお下がりといった古いスチールカメラをぶら下げている。ランニングシャツに短パンといった典型的な虫取り少年のスタイルだ。ただ一つ違うのは虫取り網を持っていないことくらいか。かつてこんなスタイルが流行っていたのは何十年前だろう。
少年はおどおどしながらも私の目をじっとみつめ、突然ポケットから小箱を取り出すと私の手をひっつかんで、その小箱を私に握らせた。そして私の目を見ながら
「もう、無くしちゃダメだよ」
と言うと、すっと手を離していちもくさんに店の外へ走りさってしまった。唖然としている私の手には折紙で作られた小箱が残っていた。
(な、なんだったんだ、あの子は。でも、とても真剣な目をしていたな。あの目、、どこかで見たことがあるような気がする。なんだろう、この胸騒ぎは。)
その少年に妙な感覚を覚えながらも、私は店の奥へと戻った。椅子に腰かけると、とりあえずさっきの小箱をそっと振ってみた。チャラチャラと何か鎖のようなものが入っているようだ。ふたをあけるとそこにあったのはネックレスだった。中央にダイヤモンドのような白い宝石が三つ連なっている。私はその美しさに吸い込まれるように視線を向けていた。そして何か懐かしくも重大な事を忘れているような感覚にとらわれた。
(なんだろう、このネックレスをどこかで見たような気がする。それはとても大切な事だったはず、、だ。うーん、思い出せない。もう喉まで出かかってるんだ、、あと少し、何かヒントがあれば。)
「あら、懐かしいわねえ、もう二度と戻ってこないと半分あきらめかけてたのに。わざわざ探してきてくださったの?あなた。」
「へ!?」
突然、年配の女性に声をかけられ、声にもならない声がでてしまった。すかさず声のする方へ視線を向けると部屋の奥から一人の女性がこちらへ歩いて来ていた。肩に赤いカーディガンをはおりながら、白髪混じりの頭をいじくっている。そしてさらに
「どうしたの?まさか、まだボケてるんじゃあないでしょうねえ。」
と声をかけてきた。
(この人は私を知っている?この人は私と親しい?この人は、、。)
頭が動く限り女性に関する思い出を引っかき回す。しかし何にも思い付くふしがない。いや、しかし私はこの人を知っている気がする。ただの知合いではなかったような、、。
「す、すいません。私は年のせいか、今、何か重大な事を思い出せないのです。もうしわけありませんが、私とあなたはどのような御関係だったのか教えてもらえませんか、、。」
苦し紛れにこう告げると、その女性は少し残念そうな顔をして答えた。
「そう、、、まだ、夢は返してもらえていないのね。私ももうそんなに時間がないんだけど、あなたがそのネックレスを私にくれる日をずっとここで待ちつづけているわ。」
そういうとさびしそうに店の奥へ行ってしまった。
(、、、そういえばどうして店の奥へ?ここは私が一人で住んで、、)
「ちがうよ、君はずっとあの人と一緒に住んでいたよ。」
突然、さっき走って行ってしまったはずの少年がそこに立っていた。しかし、私はその言葉を遮るように
「何が違うんだ!?僕はずっと独身だし、この店もずっと僕独りでやってきたんだ!」
と強い口調で言い返していたが、本当にそうだったのだろうか。今までの記憶に対する疑念がもやもやと心の中を覆っていたのは否めない事実。そして、この少年は私に重大な何かを伝えようとしている。もう一度よくその少年を見ると、いつのまにかそこに少年はいなくなっていて、その代わりに20代くらいの若い女性がそこに立っていた。驚いている私をしり目に額縁に飾ってある写真を眺めている。
「あ、いらっしゃい。いろいろあるから自由に見ていっていいよ。」
と挨拶をすると、今度はその女性の連れらしき男性が店に入って来てその女性に話しかけた。
「欲しいの?」
「うん、見てただけだよ、ケンちゃん。」
彼女は僕が安月給なのを知っている、、、、。
!!!?
突然、その男性の心の声が聞こえた、、いや!、その男性がそのとき何を思ったのか私は知っている。その後、その男性がお金を借りて彼女が欲しがっていたものを買った事も。
私は、、、あの時、会社の突然の倒産によって会社を首になり、あの「ドリーム・クレジット」で借りたお金を返せなかった。しかし督促状が何回か来ただけで、音沙汰が無くなっていた。後でお金ができたら返そうと思い、このことは一旦放っておいた。そして再就職先を探しているうちにいつのまにかお金を返すのを忘れてしまったらしい。
ひらひらと頭上から小さなかみ切れが落ちてくる。白くこぎれいな紙に「貴方の将来の夢、確かに領収いたしました。本日をもって上様の債務は消滅いたしました。」と書かれていた。
いつのまにか先ほどのカップルもいなくなっていた。机の上にはネックレスが何事もなかったかのようにたたずんでいる。
そっとネックレスを手に取ると、少年がもってきた小箱にいれた。よくよく見れば可愛い紫色の紙の箱であった。そしてその箱をもって部屋の奥へいった先ほどの女性の元へと向かった。
「おそくなったけど、これを受け取ってくれませんか?」
「うん。」
女性がネックレスを受け取った瞬間、世界が色を失い、さああっと崩れさって行く。屋根も壁も空も。そして私は黒い砂の中へ埋もれていった。
「うわああああっ!!!」
私の叫びが虚しく響く。もう何も見えない、、何も聞こえない。
どれくらい時間がたっただろうか。再び目をあけるとそこは「ドリーム・クレジット」の待合室だった。そばで彼女が心配そうに僕を見ている。
「どうしたのケンちゃん?つかれた?でももう借金はなくなったんだから、無理しなくていいのよ。」
僕は彼女の首にネックレスがかかっていることを確認すると、ふーっと息をついてこういった。
「うん、そうだね。今やっと払い終わったんだね。」
建物をでると空は真っ赤に染まり、カラスの声が聞こえてくる。赤いカーディガンをはおった彼女はにこにこと僕とおしゃべりをする。
「ねえ、担保にしたケンちゃんの将来の夢ってなんだったの?」
「うーんそうだなあ、町の写真屋さんかな。それから老後にはカメラをもって世界中を旅するんだ。」
すごいですね。ふたつの話が微妙に折り重なっています。うれしいです。
ありがとうございました。
「こんにちは。」
おや、誰か来たようだ。
急いで、私と同じぐらい年季の入ったの樫の木のドアを開く。
「あら、いらっしゃいませ、エドモンド伯爵。」
今日はめずらしいお客様がいらっしゃったとわたしは思った。
彼は、昔からの友人で、階級こそ違うがよく一緒に遊びにいった
友達で、わたしと写真について、よく対立したけんか友達でも
あった。
彼は写真が好きじゃない。
そういった事から、彼から請け負った写真は今まで働いて数十枚
しかない。
この国の写真は、光学還元システムといった技術で作られる。
簡単に言うと、光を物質化して固めてしまう技術だ。昔は赤単と呼
ばれる、赤い色の濃淡で写るだけだったが、20年前、複色と呼ばれ
る技術を「フジ」というメーカーが開発した。
これによって、見たままの色が再現されるようになり、また、
光の物質化が安定しなかった問題を見事解決した。
赤単のネガは強い力が加わると光に戻ってしまう。
昔よく、私はいらなくなったネガを手で砕いて光の粉にして遊んで
いた。星のような青白い光を散らし光に戻っていく様は大変神秘的
で美しいものだった。
ただ、この神秘的な現象故に、魂を取られるとか、自然破壊につな
がるといった根拠のない論争が絶えず起こった。
写真は心で写し撮る物で、物質として残してはいけないという考え
と、写真は将来のために物質化して取っおくべきだ。という意見が
今も対立している。
そして彼は、写真否定派の人間だった。
「お久しぶりです。キャロライン婦人。」
愛想の良い、元ハンサムな面影を残しつつ、中肉中背の老紳士は丁
寧に挨拶した。昔と変わらない、スーツと帽子、ロングブーツは黒
で統一されている。タイがオレンジ色であることが微妙に違和感を
感じるが、本人は大変気に入っているらしい。
昔の思い出に花を咲かせながら、話を聞いてみる。
伯爵の孫娘が再来月に結婚するという。
私はくりっとしたサファイアブルーの目を
思い出した。快活な感じの娘で、写真について
あれこれ聞かれたことを覚えている。
もう、何年も前の話だが。
「そうですか、彼女も、もうそんな年になりましたか。
前にあったときはまだ小さかったのにねえ」
お互い深くなった目尻をゆっくりとさらに深くさせる。
伯爵は少し言いにくそうに、
「実は孫娘は写真が好きでして。
それで昔、私が撮影した複色の
写真を現像していただきたいのです。」
ああ、なるほど確かレデントール地方の名もない湖のほとりで
撮影したものがあった。
エメラルドグリーンの針葉樹林と、琥珀色に輝く
湖の対比が美しい、この国の幻の穴場である。
知っている人が数少ないのは、交通事情が余りよくなく、
たどり着くのに何日もかかるからだ。
かつて私は、彼らと湖が在る、ないで喧嘩して、
結局、グループで実際行ってみることにしたのである。
その時の写真のことだろう。もう20年くらい前の話か。
伯爵が自ら写真を撮った数少ない物だ。
「わかりました。色種別はエメラルド・アンバーでしたね?
まあ、紅茶でも飲んで待っていてくださいね。」
この地方名産のルビーリーフの物を出す。真紅色に限りなく近い
この茶はもてなす際の定番となっている。出しつつ、
「写真否定派のあなたも孫娘には勝てないんですね」
と、付け加えたくなったが、また喧嘩になりそうなので黙っている
ことにした。
複色ネガも安定性が増したからといって、光に戻ってしまわないわ
けではない。
だから通常、しかるべき免許を持った者が、特殊な環境を保った
「保管室」と呼ばれる場所に預けておくのが一般的だ。
維持費がかかる為、写真は大衆には贅沢品でもあった。
さて、保管室に行き早速エメラルド・アンバーのラベルを探す。
色種別と呼ばれるものはこの土地独特の分け方で、階級、家族別に
宝石の名前をつけて分けている。
例えば、私一族の色種別はトパーズ・ガーネットといった感じだ。
写真は平等に存在する、という信念の元に昔のお偉いさんが
作ったそうだが、詳しい理由はわからない。もっとも、空き巣が入
ったとき、情報がもれにくいという点ではいいのかもしれないが。
純白の整理棚から目的のラベルを探し出すと、両手でゆっくりと引
き出す。
私はこの瞬間が最も好きだ。特殊干渉装置のついた真っ白な箱の中に、
茜色や、透き通った青、黄金色やそれらが混じったものが等間隔に
整然と輝いている。
それぞれの時間の光を固定したものはどんな宝石よりも美しいと私
は思っている。
できるだけショックを与えないように慎重に取り出し、伯爵のいる
場所まで持っていく。
「お待たせしました。エド」
「ありがとう。キャロル」
よっぽど孫娘に写真を見せたいのか、
伯爵は天使のような笑顔で待っていた。
私は箱をエドの前におく。
「では、ゆっくり探してくださいね。あったら呼んでください。」
紅茶を入れなおし、整理するために保管室に戻った。
--整理に夢中になってふと気づくと20分近くたっていた。
私は少々胸騒ぎを覚える。エドは5分くらいで声がかかるのが通常
だが、今回はまったく音沙汰がない。なんとなく不審に思い、一旦
整理していたネガを手早く片つけてエドのいる部屋のドアをそっと
開けてみる。
するとそこには、椅子に座って突っ伏したまま、
動いていない黒いスーツを着た紳士の姿があった。
口が勝手に「エド」と呟く。私は何がおきているのか理解できな
いまま、今まで笑顔で紅茶を飲んでいたエドモンド伯爵が勝手に
脳裏を横切る。
静かに、静かに歩き、やがて磁石に吸い付かれるかのように彼の
そばまで歩み寄る。そして、何がおきているのか理解する為に少し
大声で
呼ぶ。
「・・エドモンド伯爵!!?」
「!!!。なんだい?」
びっくりしたようにがばっとエドが起き上がる。
それをみて、私は心臓が止まりそうになるくらいびっくりした。
「びっくりするじゃない!!」
思わずそう叫んでしまった。
「びっくりしたのは私のほうだよ。物音を立てずにくるなんて。」
エドは、いたずらっ子をたしなめるような表情でそう言った。
私も、確かにそうだなと思い返し、
「どうされたのですか?ネガを見ずにお休みになられて。」
そう聞くと、エドは困ったような顔で
「目的のネガを探していたんだけど見つからないんだ。
君も私が撮ってたのを覚えているだろ?」
もちろん忘れるわけがない。あれだけ印象に残っているものは
数えるほどしかない。写真嫌いのエドが、泣きながらカメラを
貸してくれと懇願したのだ。でも、たしかあれは・・
「エド伯爵、赤単はご覧になられたのですか?」
エドは少し驚いた顔で、いや、まだだよと答える。
私は、ルビー色の赤単ネガから手早くエド撮った
唯一の写真を割り出す。
「これですわ。そもそもその時、複色はまだ出てませんもの。」
エドは大変驚き、なんてこったといった表情だ。
「ああ、そういえばそうだった気もする。私はてっきり複色で
撮ったような気がしていたのだが。」
納得はしているものの、ひどい落ち込みようだった。
よっぽどエドの中で印象に残っていたのだろう。
現物はあったが、そこにはエドの求める本物はなかった。
私は、この葬式のような雰囲気の中、少々思案する。
私もあの孫娘は好きだった。
「エド・・。」
うつろな表情でこちらを見ている伯爵の目の前で私は赤単のネガ
を目の前にもっていくと、おもむろにパキッと割った。
見る見る間に青白い光を散らしながら光に戻っていく。
いつ見ても綺麗だなと思った。
「あ、ごめんなさいエド。
私の手違いであなたの大事なネガを壊しちゃいました。」
伯爵は何を言っているのか解らないといった表情でこちらを見る。
私は、伯爵の意図には答えず、言葉を続ける。
「町の写真法律で私は厳罰を受けるでしょう。
私にとってそれは嫌ですので、写真法に則ってお客様が納得
できるネガをご用意いたします。二週間ほど待っていただけま
すか?」
エドは、驚いて、しかし、渋い表情を作った。子供が不貞腐れて
いるようにも見えた。
「・・・君の少々強引な所は昔から変わっていないね。」
私は勝ち誇った顔で、伯爵は変な借りを作ってしまったといった
顔で互いを見つめ合った。
肩をすくめて「お願いするよ。」というと、白紙の小切手を
出した。
大人しく負けを認めたようだ。
さて、1週間もあれば湖までいけるだろう。
エドには内緒だが、あの後私は何度か幻の湖に行っている。
笑顔のエドモンド伯爵を見送りながら、私は2週間かけてのんびり
旅をする為のプランを考え始めた。
幻想的ですね。新しい感じがしました。
ありがとうございました。
さわやかできれいな世界ですね。
よいひとときを楽しむことができました。
ありがとうございました。