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傅亮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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傅 亮(ふ りょう、寧康2年(374年) - 元嘉3年1月16日426年2月8日))は、東晋から南朝宋にかけての政治家季友本貫北地郡霊州県傅咸傅玄の子)の玄孫にあたる。

経歴

傅瑗の子として生まれた。経書史書を広く読み、文章や詩作を得意とした。建威参軍を初任とした。桓謙の下で中軍行参軍をつとめた。元興2年(403年)、桓玄が帝を称すると、傅亮はその博学と文才を買われて、秘書郎に抜擢されることとなった。しかし着任しないうちに、翌年に劉裕らが起兵し、桓玄が敗北したため、傅亮は丹陽尹孟昶の下で建威参軍となった。

義熙元年(405年)、員外散騎侍郎の位を受け、西省に宿直し、詔命の起草をつかさどった。後に母が死去したため、辞職して喪に服した。喪が明けると劉毅の下で撫軍記室参軍となり、さらに領軍司馬に任じられた。義熙7年(411年)、散騎侍郎となり、再び西省に宿直するようになった。西省宿直の任のまま中書黄門侍郎に転じた。劉裕は傅亮を東陽郡太守に任じようとしたが、傅亮は外任を望まず固辞した。義熙11年(415年)、太尉従事中郎となり、掌記室をつとめた。

義熙12年(416年)、劉裕の北伐に従軍した。義熙14年(418年)、彭城に帰還した。宋国が建てられると、侍中に任じられ、世子中庶子を兼ねた。中書令となり、劉裕に従って寿陽に入った。元熙2年(420年)、劉裕が禅譲の準備をはじめると、傅亮は反対論を抑えるべく宣伝の文章を書き、建国の理論面で貢献した。同年(永初元年)、劉裕が帝位につくと、傅亮は中書令のまま太子詹事となった。建国を助けた功績により、建城県公に封じられた。中書省に宿直して、詔命の起草をつかさどった。

永初3年(422年)1月、中書令・太子詹事のまま尚書僕射となった。5月、劉裕が死の床につくと、傅亮は徐羨之謝晦らとともに劉義符(少帝)を補佐するよう遺命を受けた。6月、中書監・尚書令となった。景平2年(424年)、護軍将軍を兼ねた。7月、傅亮は徐羨之・謝晦らとともに少帝劉義符を廃位して、江陵から劉義隆(文帝)を迎えて即位させた。同年(元嘉元年)8月、散騎常侍・左光禄大夫・開府儀同三司の位を加えられた。

元嘉3年(426年)1月、文帝は傅亮を少帝殺害の罪で処断しようと図った。省内でひそかに傅亮に知らせた者があり、傅亮は病と称して宮城を出た。徐羨之に書状で異変を知らせ、車に乗って郭門を出て、騎馬で兄の傅迪の墓まで逃れた。しかし屯騎校尉の郭泓に捕らえられて廷尉に送られ、処刑された。享年は53。著作に『演慎論』があり、また詩賦に「感物賦」があって知られた。

子女

  • 傅演
  • 傅悝
  • 傅湛
  • 傅都

伝記資料