児童虐待はなぜ解決しないのか
東京都目黒区で虐待を受けたとされる船戸結愛(ゆあ)ちゃん(5)が3月に死亡した事件を受け、東京都の小池知事は6月8日、都内の児童相談所の体制強化を指示。
具体的には都内11ヵ所にある児童相談所の児童福祉司、児童心理司や一時保護所の職員の人数を増やし体制を強化すること、また、東京都が警視庁と共有する虐待情報の範囲を広げる方向で、連携を強化するとの方針を示した。
小池知事だけではなく、国民民主党の玉木雄一郎共同代表は以下の5点を【必要な対応策】として明示している。
1. 児童相談所の人的拡充と機能強化
2. 親権の制限をより容易に
3. 児童相談所と警察の全件情報共有
4. 里親や特別養子縁組の支援
5. 児童養護施設やファミリーホームなど、一時保護施設の拡充
読んで考え込む。これらは虐待事案が起こる度に言われてきたことだからである。
問題は、なぜ今また同じことを言わなければならないか、政治の側の対応の遅滞にある。
一方で長年、子どもたちへの虐待や暴力が行き交う現場で活動している筆者としては、この内容では何年やっても虐待事案は止まないだろうとも思う。
つまり虐待現場は政治の想像を越えるもので、その認識の乖離こそ抜本的な解決策に至らない主因であるとも実感する。
公的機関をさける虐待親たち
まず、虐待家庭のほとんどは公的機関を「敵」だと思っているということを認識しなければならない。
実際に今回の船戸容疑者も「児童相談所がうるさかった」と香川県から東京とへの引っ越しの理由のひとつになったことを示唆している。
行政の目も手も入らない死角で、虐待は深刻化し、死に至る悲劇を生むのである。
ただし、当事者たちは最初から行政を敵視しているわけではない。むしろ助けを求めて市役所や区役所に何度も足を運び、窮状を訴えているケースが多い。
そこで彼らが経験するのは「たらい回し」である。
あちこちの窓口に行かされては何度も同じ話をさせられたあげく、上から目線の言葉を浴びせられ、望む支援は拒絶される。まるで「厄介者」扱い。
「人としての尊厳を傷つけられる」「二度と味わいたくない」屈辱の時間なのだ。
もちろん行政や福祉の現場で働く人々の多くは、相談者の状況を改善しようと努力しようとしていることも重々知っている。
しかし、それはあくまで法律や条例、過去の運用等に照らして一定の基準をクリアした、言わば「一次予選」を通過した人たち。最も助けを必要としている人々はその支援の網からも外れる(無戸籍者はその典型的な事例である)。
危機を目前とした人々でも「助けを求めること」は恥ずかしいことだという意識がある。
それでも勇気を出して役所に出向いたにも関わらず、冷笑され、結局は支援も受けられないとなったならば、その絶望は深い不信感になる。
彼らが二度と行政とは関わりたくないと思うのも無理はないのである。
そうした中で事態が深刻化するのだ。