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アダム・スミスの「神の見えざる手」を多分、あなたも誤解している

「自由放任でOK」なんて言っていません

市場経済は、放っておけば「神の見えざる手」によって自然とバランスする——18世紀イギリスの哲学者・経済学者アダム・スミスのこの思想は、その後の国際社会に大きな影響を与えた。しかし、彼は単なる「自由至上主義者」ではない。『アダム・スミス 競争と共感、そして自由な社会へ』を著し、スミスの重要著作『道徳感情論』の邦訳も手がけた経済学者・高哲男氏が、巷にはびこる大きな誤解を撃つ。

「公共事業」は意外と大事

アダム・スミスは、現代的な市場経済システムが「自己完結的」であるということを、歴史上初めて明確に定義した経済学者である。

「自己完結的」というのは、人間が生まれつきもっている「自己利益の追求」という個人的な動機を自由に解き放っておけば、市場も社会もおのずと成長し続ける、ということだ。

たとえひとりひとりの行動が利己的な動機によるものであっても、それが無数に集積されると、個々人の意図とはまったく関係なく、社会全体の利益となる。スミスが『国富論』 (1776年)で説いたこの理論は、その後ひとり歩きするようになり、今では市場経済システム全体が「神の見えざる手」によってコントロールされているという、いわば途方もないスミス解釈が主流になった。

アダム・スミスの肖像が描かれたイギリスの旧20ポンド札(Photo by iStock)

政府によるさまざまな規制を撤廃しさえすれば、おのずと「自然的自由の体制」が確立するというスミスの分析は、確かに『国富論』の主要なテーマである。しかし、それだけがスミスの理論の全てであるとか、スミスは「自由放任主義者」であると考えてしまうと、彼が『国富論』で真に語ろうとした意図を汲みとり損ねてしまう。

 

スミスは『国富論』の末尾においた第5編「主権者または国家の収入について」で、上記のような「自然的自由の体制」が確立したとしても、なお欠くことができない政府の義務は何なのか、という重要な問題を考察している。

意外に思われるかもしれないが、スミスは自由市場経済における政府の役割として、「市民の財産や安全を守るための国防や司法の維持」に加え、「政府による公共事業」を提唱している。

橋や運河の建設といった、民間ではまかなえない巨額の資本投下が必要になる「公共事業」については、改めて説明する必要はないだろう。しかし、スミスのいう「公共事業」とは、「株式会社の法的整備」「青少年の教育」「科学研究の普及」さらには音楽・芝居といった「公共娯楽の新興」なのだ。

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