このニュースをはじめて聞いた時には、「また目立ちたがりのキラキラ医学生がとんでもないことをしやがって……」と思ったのです。
えっ?医学部生じゃなくて医者なの?40代?
僕の感覚としては、アルバイトがバックヤードで「テラ豚丼」を作っているとか、回転寿司で醤油なめてた子供とか、遊園地で迷惑行為をSNSにあげた学生の集団とかに対しては、「目の前でやられたらたまらないが、若気の至りとして、そういうことをやってしまうのは、気持ちとしてはわからなくもないのです。
いまは、バズれば(多くの人に見てもらえれば)正義、っていう世の中でもあるし、ちょっと友達に悪さ自慢をするような感じで調子に乗ってやったら、思いの外拡散されてしまった、という事例もあったはず。
迷惑行為が必ずバズる、というわけでもないし、インターネットには、炎上すらしない迷惑行為が溢れています。
誰も見ない美談、スルーされるお気持ち表明。
そういう状況で、これでもか、と「バズる」ことを志向していくと、いつの間にか、「なんとか許してもらえる閾値」みたいなものを踏み越えても気づかなくなってしまう。
それにしても、なんでこんなことをやったのだろうか、とは考えずにはいられないのです。
ご遺体の前でピースして写真を撮り、それをみんなに見える場所に公開するなんて、「炎上狙い」以外に何のメリットがあるのかわからない。
日頃、どんな状況で行われているかわからない系統解剖というものを、世間に認知してもらう、というような学術的な志は感じられないし、もしそういう目的であるのならば、ご遺体がいない状況(せめて映らない状況)での慎重な紹介にすべきです。
先日の兵庫県知事選挙の時に「社会の底が抜けた」という言葉が飛び交っていましたが、今回の件も「医者の、医療従事者の底が抜けた」と僕は感じています。
もっと率直にいうと、「底が抜けているのが、可視化された」と。
いわゆる、SNSの「医者クラスタ」のなかで飛び交っている、同業者や患者さん、スタッフへの悪口(その多くは、対象者がわからないようになってはいるのですが、一部そうでないものもあります)を長年みてきました。
僕自身も、いまは「医療」について、自分の仕事についての話題は、なるべく避けるように心がけています。
ネットで書き始めた25年くらい前は、とにかく目立ちたくて、読まれたくて、『日記才人』とか『テキスト庵』とかでランク入りしてみたくて、内輪話的なものを公開していたのです。
正直なところ、それは、多少なりともブログの営業成績には貢献したけれど、僕の人生や周りの人には、マイナスになることが多かった。
悪いことを書いたつもりじゃなくても、「世界に向かって、自分のことがコソコソ書かれている」と不快に感じる人も少なからずいたのです。
興味を持ってもらおうとすればするほど、虚飾は多くなり、露悪的になり、刺激が強いものを狙うようになる。
この「解剖実習投稿」は明らかに「常軌を逸している」し、むしろ、炎上狙いの自傷行為じゃなければ、良心や危機管理意識がアンインストールされているとしか思えません。
ただ、この投稿は、これまでSNSに積み上げられてきた、「目立つために、困った、迷惑だと感じた患者さんや同僚の悪口を書き連ね、同業者の『共感』を得てフォロワーを増やしていった『医療従事者の本音(だと思わせる)クラスタ』」という基盤があればこそ、行われてしまったのではないか、とも感じています。
医療従事者、とくに若手は理不尽な目に遭うことが多いし、仕事もハードです。患者さんもお行儀が良い人ばかりではないし、現場では「医者が日曜日に休むのはおかしい」という時代の教育を受けてきた中高年と「休日に休むのは当然だろ!」という若者のジェネレーションギャップがせめぎ合っています。
一日働き、ほとんど眠れずに救急対応をして、翌朝から通常業務、という「当直」は、僕が若手だった時代から、ずっとそのままです。
いろいろ言いたくなったり、愚痴をこぼしたくなるのはわかる。僕も自分がそういう時期にSNSがなくて良かった。あったら絶対に「やらかしてる」から。
宅配便の人たちがSNSで声を上げたことにより、配達先不在に対する意識が変わったことなど、現場の人たちの言葉は、社会を変える力を持つこともあります。
まあでも、医者っていうのは、それだけで「好きでなったんだろ」「お金持ちのエリート」みたいな反発を受けやすいのも事実で、「なんだ医者か」で済まされてしまってまともに話を聞いてもらえない寂しさもある。ほとんどの人は競争の中で「負けたくない」人たちだから、リアルで愚痴を周囲にこぼしたりはできないのではなかろうか。僕もずっとそうだった。
僕はもう中年キャリアダウン惰性医者なので、「SNSで身近な人の悪口とか言っても、何の得にもならないし、むしろリスクばっかりでかいよな。もうブログでバズって一攫千金、とか、人気ブロガーになって稼ぎまくる、なんてことができる時代でもないから、面白くはないけれど確実に稼げる本業(医者)でリスクを背負うようなことはやらないほうがいいな、PS5Pro買っちゃったし(ちなみにディスクドライブ買ってから開封するつもりなのですが、まだ買えてません。そして、買った瞬間に「これは本当に必要だったのか?」と自分を責めております。だめだこりゃ)」と、自制しつつ、眠剤や安定剤に頼りながら何とか日々仕事をし、生活しています。
10年くらい前かな、飲み会で同僚と話をしていて、そんなにヘビーじゃないメンタル系の薬や眠剤を、けっこう多くの人(えっ、この人が、みたいな同僚も含めて)が内服しているということに驚かされました。
日々、病気の人と接して、間違えられないプレッシャーに晒されているのは、なんのかんの言っても「簡単ではない」のです。
脱線しました。
医療の世界では、僕から上の世代の人たち、インターネット、SNSネイティブじゃない世代の人々は、「医療職は、SNSでイキっている暇があったら、目の前の患者を診ろ!」みたいな価値観で生きてきた人が多いのです。
僕よりもひと世代下、いま30代以下は「医者だって仕事だし、人間なんだから、権利はあるし、理不尽には声をあげるのが当然だ」という人が増えています。
昔ほど医局によるプレッシャーもなく、いざとなったら、転職サイトに頼めばいいや、どうせ教授とかになっても昔みたいにすごい接待もないし、権力もふるえないのなら、条件が良いところで働くのは当然、というのもわかります。
僕も当直と救急をやらなくなってから、人生だいぶ楽になりました。というか、なんとか持ちこたえられている。
たしかに、この美容外科医は、とんでもない、ロクでもない、と思います。
さすがにこれほどまで善悪の基準がアンインストールされた人は、医師免許保持者にはあまりいないことにしたいけれど、SNSをみていると、「予備軍」は少なからずいそうです。
モラルとしては、この美容外科医は最悪だけれど、SNSには、「標準医療からかけ離れたトンデモ民間医療を、本人が本気で信じているかどうかはさておき、世の中に全力で広めようとしている医師免許保持者」がたくさんいるわけで、社会や医療への実害としては、そういう「トンデモ医療推進者」のほうが、はるかに大きそうでもあります。
「自己顕示欲や自分の都合のために、職業倫理を外れたことがない者のみが、彼女に石を投げなさい」
僕は、石を持ったまま、立ちすくむしかない。
同じような医者は、少なくないはず。
だからといって、この美容外科医を「許してあげて」とも言えないのだけれど。
(お金大好き、きついことはしたくない、というイメージを持たれがちな)美容外科医だものな……みたいな感情も、正直、ある。
倫理観の欠如や暗愚そのものは罪ではない。むしろ、どうしようもない。
そもそも、医者になるためには、医学部に入れて単位を取れて、国家試験に受かればいいので、「まともな人間」である必要はないし、それを問われる機会もない。
もちろん、現実的には、学生生活や臨床実習で、あまりにも常軌を逸脱した候補者は「脱落して」いくことが多いのだけれども、賢いっていうのは「普通の人間のふりをすることもできる」ってことだから。
僕が解剖実習を行なっていたのは、大学に入って2年目のことだった。はじめて実習室に入ったとき、ホルマリンの臭いのきつさに鼻と喉が痛くなった。
そして、目の前に横たわっているのが「人間」であることが、なんだか信じられなかった。
実習室の空気は常に重苦しく、寒い中、実習着で、少しずつ脂肪を除きながら人間の体の血管や神経の走行を辿っていくのは、とても大変で、実習の同じ組の人たちと、手を動かしながら、なんとなく、自分たちがこれまで生きてきた20年くらいの時間のことをぽつりぽつりと話していたような記憶がある。いつも実習室にいる人もいれば、義務の時間以外はあまり来ない人もいた。来ない連中の悪口も言っていた。最初のほうは、遅々としてして進まなかったのが、春になると、かなり大胆に解剖が進んでいくようになった。
実習が終わって、ご遺体を棺に収めたときには、その身体の重さに驚いた。そこには、確かに人間の「重み」があった。
解剖とはいっても、細かい人体の構造を半年くらいかけて少しずつ学んでいく系統解剖と、原因がはっきりしない亡くなりかたをした際に数時間程度で行われる(ことが多い)、主要な臓器や血管をみていく(一部は顕微鏡での検査になることもあり、結論が出るのに数ヶ月かかることもある)病理解剖の違いはある(僕は両方とも経験している)。
解剖実習でもうひとつ覚えているのは、年に1回、献体してくださった方のご遺族にも臨席していただいての「慰霊祭」が行われたときのことだ。
僕はそのとき、自分たちが解剖させていただいていた人の名前を、はじめて知った。
なんだか、この方の人生が、鮮明になった気がした。
「名前というのは、これほどまでに、人間を人間たらしめているものなのか」と圧倒された。
本当にとりとめのない話で申し訳ない。
こんな話をした後ではあるけれど、僕は将来、解剖実習は、3Dプリンターなどで再現された「模擬人体」で行われるようになるかもしれないし、それでいい、そのほうがいいのではないか、とも思っている。
実習は、医学生にとって「通過儀礼」的なものではあるのだけれど、構造的に再現が可能なら、そのために、亡くなった人の身体を刻む必要があるのか、とも感じているのだ。
外科や内科の侵襲的な検査や手術のある科を選ぶのであれば、いずれは生きている人を切ったり刺したりしなければならない。
生きている人の臓器や治療に際してやらなければならないことに、ご遺体の解剖は、経験としてはそんなに関係ないような気もする。
どちらかというと、「解剖実習で、医者として生きる覚悟をさせる、肝を据わらせる」みたいな要素が大きいのかもしれない。
人間の身体に対して、どう向き合うか、を学ぶ機会でもある。
とはいえ、「本当に解剖実習は必要なのか」という問題提起はけっこう以前からされていながらも、「自分たちもずっとやってきたから」という先人たちの思いもあって、ずっと続いているのだ。
医者は「聖人」ではないし、解剖も「聖なる儀式」ではない。
全てがブラックボックスの中で、何が行われているのかわからないのを疑問に感じる人もいる。
だからと言って、茶化したり露悪的になったりしてほしくないもの、というのは世の中に存在しているのだ。
こんな人に自分の身体をいじられたら怖い、と感じるのは当たり前のこと。
この美容外科医がバッシングされるのは致し方ないとは思うけれど、僕はこうして自分が発信することそのもののリスクと害悪も考えてしまう。
自分が絶対的に正しいと思い込んでいる時ほど、人は、間違う。誰かを傷つける。
僕たちだって、そんなに正しくなんかない。
"Big Brother is watching (you). "