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ADHD関連

発達障害が教室に居る意味

 前回の高校生の場合につながるが、学校に出向いて発達障害について説明するときに私がよく使う説明の方法を書いてみよう。

 「多数派と発達障害の違いは、生徒の側から先生に合わせることが出来るかどうかです」。と私は説明する。

 小学校5年生以降の思春期の場合には、多数派の児童生徒は、「ここは学校で相手は自分を評価する権限を持った教師である」という「場の意味」をよく理解している。学校という「場」の最初の大前提だ。

 この前提から、直ちに「先生に逆らったら損」「自分は生徒で、先生は強い立場だから、ある限度までで自分の意見は引っ込めるしかない」という「場の理解」が直接帰結する。

 だから、多数派の児童生徒は、少々教師の説明が納得出来なくても、理不尽だと思っても、間違っていると考えてさえ、強く自分の意見を主張し続けることなく、教師に「合わせる」。こうして教室、学校という空間の平和は保たれている。

 中学以降の場合は、「高校受験の内申にひびく」と親も教えていることが多いだろう。

 これが、発達障害の児童生徒が一人でも教室に居ると状況が違ってくる。

 発達障害はADHDでもASでも、「自分が納得することが一番大事」であり、単なるスローガンでも「教育の目標」や形骸化していても「ルール」を杓子定規に(KYに)重視する。

 その結果納得しなければ、「先生が間違っている」と言い張って教室の平和を「破壊」する。「ここで逆らったら損」という場の雰囲気からのブレーキはかからない。

 この本質を私は「多数派の子は先生方が少々おかしなことをしても逆らったら不利だから何も言わない」「発達障害の子はストレートに先生方の教育へのリアクションをそのまま返してくれる」と説明する。

 「多数派の子達は何も文句を言わないが、発達障害の子だけが扱いにくい」という現象の理解は、「何か教師のやっているケアに問題があるのだが、多数派の子は教師に気を使って問題にしないだけ」という風に捉えることが妥当だと私は思う。問題は発達障害の子供のほうにあるのではないのだ。

 だから私はいつも、学校での説明は、「先生方にとって教育者としての技量を磨く格好のチャンスなんだ」と締め括ることにしている。

 校長先生はこの話を聞いて喜ばれることが多い。

 「強い立場に対して気を使って、納得出来なくても教師に合わせ反抗しない」ことは教師が「当たり前」に生徒に求めて良いことなのだろうか?


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  7. 発達障害と金銭①ADHDの浪費
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コメント

    • ヒゲ達磨(AS)
    • 2009年 3月 23日

    よくぞ、言ってくださいました!!
    >「多数派の子達は何も文句を言わないが、発達障害の子だけが扱いにくい」という現象の理解は、「何か教師のやっているケアに問題があるのだが、多数派の子は教師に気を使って問題にしないだけ」という風に捉えることが妥当だと私は思う。問題は発達障害の子供のほうにあるのではないのだ。
    以下の奈良・法隆寺の宮大工、西岡家の口伝は、管理職にいいたい。
    百工あれば百念あり、これを一つに統ぶる(すぶる)。これ匠長(しょうちょう、棟梁のこと)の器量なり。
    百論をひとつに止めるの器量なき者は慎み懼れて(おそれて)匠長の座を去れ。

    • ちょいな母
    • 2009年 3月 23日

    勇気付けられる内容に、心より感謝の気持ちをお伝えしたくて、初めてコメント致しました。
    現在の教育現場は、担任教師が持つスキル頼みで、辛い一年間になるか、すごしやすい一年間になるのか?。ひたすら神頼みしている、3月です。
    発達障害児への対応スキルの落とし込みがなされているかと、淡い期待をしていた時期もありましたが…。
    現実は、特別支援教育の概念や発達障害の概念のみトップダウンされていて、対応方法がわからないず困っている教師や概念だけで決め付ける無理解な教師に当たった一年間は、精神的フォローと学習指導と家庭での負担が増すばかり。
    何のために、学校へ行かせているか分からなくなる年もあります。
    学校内で、対処スキルが分からず困っている教師へのフォローも、きちんとできているか疑問でした、保護者が出すぎるとモンスターペアレント扱いなど、別の問題にされてしまうし。
    胃が痛くなる思いのこの時期、勇気をありがとうございます。

    • あまがえる
    • 2009年 3月 24日

    この記事はとても興味深く拝読しました。
    これは家庭にも置き換わるのではないでしょうか?
    例えば、
    理不尽に権力を振り回し、自分の週刊誌から得た論理で家族を汚染し、反対意見をいうと暴言を吐く親父にとっても、真に平和な家庭が育まれるチャンスがあると言う事では?
    過去にこの親父に理詰めで反論したら帰ってこなくなりましたが。。。。。。

    • エイト
    • 2009年 3月 25日

    息子の場合も「上(教師)からの命令」、「上(教師)が一方的に決めた約束事」は必ず無視します。
    先日も「副校長が肩を殴ったから、体罰はしないでと言って」と言うので訳を聞くと・・
    「最後に食べ終わった子が配膳台を片付ける決まりだと副校長がいきなり言ってきたけど、そんなの聞いてないし訳がわからないから嫌だと無視したら殴ってきた」と言います。
    学校に確認していないのでここからは息子の言い分と私の憶測ですが。。
    今までは給食の最後の始末は担任の先生がやってくれていた。
    でも(休職中の担任の代理の)副校長は児童に始末させる方針。
    しかしクラス全員に説明と指導をしたわけではなくて、そのつど最後の児童に「決まり」と言ってやらせていた。
    多数派の子は文句も言わず従うのに息子は従わないので実力行使?あるいは反抗的態度にカッとした?・・ということだと思います。
    副校長が自分のやり方を振り返って考えてくれることを祈っています。
    息子が現在の通級の先生に対して家で不満を言わないのは、先生が本当に息子の立場に立って指導している事を直感で理解しているからだと思います。
    先生の本音が周りの平和のためというのが少しでも見えたり、先生からの命令だからという理由では従いません。

    • mario (AS)
    • 2009年 3月 27日

    “KYのAS”のところで「僕は空気読めるみたい」とか発言しましたけど… 空気を読む必要を感じていないと言うのは、外から見るとKYに違いないですね。
    そう言えば殆ど問題なく過ごした小中学生時代ですが、小学3~4年の時の担任とは合わなくて、通知表の生活態度の部分も酷い書かれようでした。今思えば、先生が間違っていると思えば食ってかかる子でしたから、ここに書かれた状況に一致するのかも知れません。
    ちなみに、他の先生の評価は全体に高かったのですが「協調性に欠ける」と言う点だけは全ての先生に一致してましたね(今でも協調性はありませんし)。
     :
    ASの子の育て方に関してですが、空気を読む事が必須な環境で育てると(非言語的に押さえつけると?)、受動的にならないでしょうか?ASは自分を守るのに必要なバリア(シャッター)を身に着けないと、相手に合わせてAS性を発揮するしか方法がなくなりそうです。あるいは物理的にバリアを作る(引きこもる)とか。
    空気が読めない(読む必要がない)ままで育って、積極奇異型的に世の中に出て行って、周囲とぶつかりながら傷付きながら自分の位置を見付けるのが(多数派に通じる外国語!を身に付けて必要に応じて使うのが)、ASの育ち方としてマシなのではないかと思ったりしています。
    以上は、私が個人的に考えてる事です。AS疑いの息子を育てながら、どのタイミングでどの位空気を読むことを教えるのが最適なのか、考え続けています。今は、他者には他者の意図がある事だけ、折を見て説明し続けていますが…
     :
    外国語、かなり上手く使えるようになって来ましたが、それでも使うのは辛いですよ~、嘘をついているようで。相手に伝わる意味では嘘ではないと自分を説得しながら、何とか搾り出しています。

    • ぴよよ
    • 2009年 3月 28日

    >「強い立場に対して気を使って、納得出来なくても教師に合わせ反抗しない」こと
    確かに当たり前にしてはいけませんね。子どもが集団生活を始めたら、納得を目標として一から教えることではないでしょうか。
    社会に出たら前提になりますけどね。
    >ASの子の育て方に関してですが、空気を読む事が必須な環境で育てると(非言語的に押さえつけると?)、受動的にならないでしょうか?ASは自分を守るのに必要なバリア(シャッター)を身に着けないと、相手に合わせてAS性を発揮するしか方法がなくなりそうです。あるいは物理的にバリアを作る(引きこもる)とか。
    実際に私や、多くの凡才で薄幸なASはこうして生きる場所しか無い気がするのですが・・・?
    「空気を読む事が必須な環境」この記事の場合はそれこそ教室でしょうね。代表的な場所だと思います。
    ASは合わせることを当てにされると、爆発しないと裏切れません。
    大人も子どもも、合わせ方を覚えたら次の課題は事後の自己メンテナンスでしょう。これができないとみるみる病みます。
    でも現実は対処できる、インターネットなどでは所詮まるで駄目、独りで趣味没頭は止めずらくなり危険。
    周りは当然、現実の集団の場の適応力しか目に入らない、AS個人のイメージがそこでしか作ってもらえない。違う自分も知らせたいといくらサインを出しても周りは無視。
    ADHDは現実はぐちゃぐちゃにしやすいですが、インターネットのように、適当でも許される場では適応するようです。趣味は広げやすそうで、そこの人からさまざまなフイードバックをもらえそうですが、続かない。
    結局、ASもADHDも、理解と支援はどこまでも難しいですね。

    • mario (AS)
    • 2009年 3月 28日

    ぴよよさん
    私が書いたのは、家庭では子が親の顔色を伺うことが無いように育てたいと言う意味です。教室は既に社会ですから、自分でぶつかって、空気の読み加減を身に付ける必要があるだろうと思ったりしてますが… 息子がまだ園児なので、考えが甘いかも知れませんね。
    >ASは合わせることを当てにされると、爆発しないと裏切れません。
    これは良く分かりません。タイプが違うから?
    意識下では相手に合わせる必要を感じない精神力(?)に、意識して(必要性を判断しながら)相手に合わせる能力を加えれば、幾らか上手く社会に適応出来そうだと思っていますが、どうでしょうかね。

    • ぴよよ
    • 2009年 3月 28日

    marioさん、子育てお疲れ様です。
    >息子がまだ園児なので、考えが甘いかも知れませんね。
    marioさんが甘い考えで育てていらっしゃるという意味ですか?
    いえいえ! そうは思いませんよ。
    家庭で、しかも幼少時から肉親の空気を読ませすぎると、受動的どころかACになりそうですよ。・・・家庭限定の環境のコメントだったのですね。
    家庭と教育現場の役割分担について、ご自分のポリシーやイメージをお持ちなんですね。
    私個人の気持ですが、保護者がそういうものを持っていてくださると、個人懇談会とかの機会は、職員としてはなかなか(すごーく、ではないです。ニュアンス分かってもらえますか?)助かります。きちんと情報のキャッチボールになるからです。こちらの実態をある程度安心して伝えても、受け取ってもらえる安心感があるからです。(たまに否定されたり聞き流されるとね・・・こちらが反省して萎縮します。子どもの事実は事実なのに知らせちゃいけなかったかな・・・と。)
    大きなお世話ですが、保育士さんを怯えさせないようにしながら、のびのびお話ししていってくださいね。
    >これは良く分かりません。タイプが違うから?
    ごめんなさいね。そうかもしれません。タイプは違うのかもしれませんね・・・。
    別記事のコメントに書いたことなのですが、私は右脳が犬で左脳が少容量の使いづらいパソコンなのではないかという例えで最近考えています。
    半分、犬。これも・・・分からないかもしれませんね。
    いずれにしろ凡才で薄幸な発達障害は一人で動いても、本当の意味での成功をできないのが現状と思っていますから・・・自ら何かを続ける自信を得てウツや嗜癖依存を抑制でき健康になるとか、当事者の能力を評価して必要としてくれる人間関係を手に入れて、それがいっ時のレクリエーションを越えて自立に役立つとかの、本当の成功を・・・。
    だから人様からの支援なのでしょうが、難しいです。
    今の支援センターの支援は深く受けていませんが、ウィスクRと診断医師紹介の後はケースバイケースであろうかと思います。でもいつか機能の限界が来る気がしてならないのですがね・・・。

    • 外山
    • 2010年 5月 12日

    ネットサーフィン中にこの記事を発見し,拝読致しました.
    いや,まったく同感です.
    私は家庭教師をしておりまして,発達障害を持った生徒さんも多いのです.そういった生徒さんに教えてて思うのは,反応が非常にタイトかつダイレクトであること.
    同じ事を教えるのでも,あの方法だと全然伝わらないのに,この方法だとするっと理解してもらえたりする事はざらですね.すいません,すぐには具体例を出せないのですが..
    私はいつも,
    「生徒さんのタイプと教え方のマッチングが重要だ」
    と思っています.生徒さんのタイプを把握し,どの教え方が合うか考え,実行・反省する.この技能を磨かねば,と.
    発達障害を持った生徒さんに接すると,その思いが強くなります.

    • 道産娘
    • 2014年 7月 05日

    先生へ
    少し前の私のコメントですが、「冷凍食品」とか「可愛い」とか…他の方のコメント内容をかなり引用してましたね。
    私自身は「自分自身を振り返ったコメント」のつもりでしたが、その方と絡んでいると誤解されても仕方無いと思いました(のび太型の失敗ですね)。
    失礼致しました。
    以後、気を付けます。
    (以下は言い訳ですので、軽く聞き流してください)
    あのコメントは「フォローの意味で書いたわけではない」ということだけお伝えしておきます。
    むしろ「別の人のコメントを引用しないように」と考えながら書いていたら、あんなコメントになってしまったのですが…何れにせよ、「他者のコメントを引用した事実に変わりはない」ので言い訳にしかなりませんね。
    上記のコメントを書きながら「これが『言い訳』なんだな」と、「実感」として納得できました。
    まだまだ(AC時代の)思い込みを修正する必要がありそうです。
    最後に…
    >「ルール」を杓子定規に(KYに)重視する。
    >「ここで逆らったら損」という場の雰囲気からのブレーキはかからない。
    「これが本当の自分なんだ」と納得すると同時に、新たな自分が分かり、何だか嬉しくなりました。

    • 道産娘
    • 2014年 7月 10日

    (追記です)
    別記事のコメント二通はもう載らないだろうと思いますが、ついでに、この記事のコメントも二通ともブロックしていただけるとありがたいです。
    基本的に「自分の事を書くのに配慮はいらない」と考え、(言行不一致等の失敗は未だに多いものの)ルールに従ってコメントしているつもりですが「私がコメントするのを止めない限り、他の人も止めないだろうな」とは薄々気付いていたので、この場を収める為に私がコメントするのを止めるべきかも…と考えております。
    私自身は「自分のコメントのみ自己責任」であり、「私のコメントに対する反応コメントは、それを書いた人の責任」と捉えていますが、「責任を自覚できない方達」にそれを求めても仕方が無いし、無視してコメントし続けても、結局茶々を入れられ、同じことの繰り返しになりますから(…とは言え「何故私が折れなければならない?」という不条理な気持ちもありましたが、先生の立場になって考えれば「仕方無い」と納得できます)。
    なので、これまでの(承認前)コメントを全て削除していただけるとありがたいです。
    しばらくはコメントを自粛致します。
    お騒がせして申し訳ありませんでした。

    • 道産娘
    • 2014年 7月 22日

    上記↑の私のコメントについてですが、私の勘違いであり、折れる必要無かったですね。
    最新記事についてですが、率直に「たくましいなぁ」と思いました。
    私自身も環境が少し変わり、自分から動かざるを得なくなったというのもあり、少しずつドライな思考が身に付きつつあります。
    …と言うより、「自分と他者の問題の区別が付くようになった」と言った方が正しいかもしれません。
    不思議と「現実的必要」の再インストールより、ACの認知の修正に従って行動パターンを変えた方が気分が良いです。
    当たり前のように「他者に意見を求めるより、自分で考え(調べ)、実行する方が楽だし早い」と考えられるようになりました。
    今でもたまに、過去の自分の言動を振り返り、今現在の頭で考え直す作業を行っていますが、どうやら「自分が悪いからと言って自己評価が低下しない」よう、(要はACを正当化する)「独自の理論」を編み出して「思い込ませていた」ことに気付きました。
    それに気付いてからの回復は早く、周囲のASに振り回されることも無くなったので、きっと元々は「天然のび太」だったのだろうと考えています。
    では、お身体にはくれぐれも気を付けて下さい。

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