「若者フォビア」―なぜ年長者は若者を叩いてしまうのか―
それから15年くらいして、今から8年くらい前に同世代の男性編集者と話していたら、「今の男がだらしない」と言いだしたので、「今の若者は団塊やバブルよりよっぽどましだよ」と私が言ったら、驚かれて。それで「今の若者はましである」という企画で誰かに書いてもらおうと思ったんです。私はもともと単行本の編集者で物書きではないですから。そうしたら、「深澤さん、若い男を褒める企画なんか嫌だ」とみんなに断られたんです。
竹信 へえ。
深澤 「みんなそんなに若い男が嫌いなのか」と驚きました。それで「それなら、深澤さんが書けば」と言われて、2006年に「日経ビジネスオンライン」で始めたのが、「U35男子マーケティング図鑑」という、若い男性の面白さを中年男性に伝える内容の連載だったんです。
1回目は「リスペクト男子」といって、家族や友人を尊敬する男性を紹介した。その連載の中の1つに「草食男子」っていうのもあったんです。
竹信三恵子×深澤真紀 「家事ハラ炎上!」爆走トーク(2) 「草食男子」は褒め言葉だったのに | WAN:Women's Action Network
上の記事は、「家事ハラ」の提唱者である竹信三恵子氏と、「草食(系)男子」の提唱者である深澤真紀氏が、言葉の持つ意味がもともとの意図から歪められて世間に広まっていったことについて対談したもので、これ自体(一応)自分が名付けた「ダサピンク現象」の意味を歪めようとしてきた人がいた経験を持つ私としては興味深かったのだけれど、それとはまた別に、深澤真紀氏が提案する「最近の男子像」をことごとく否定してかかる「おじさん」たちの若者嫌いっぷりが凄くて興味深い。
深澤氏が“「今アメリカではセックスがすべてである、ペニスがすべてであるという思想に疑問を持つ人々が現れている」というまじめな企画書”を書いて出せば、“「深澤君、据え膳食わぬは男の恥といってね」と言われて(苦笑)。そこから部長たちのしょうもない武勇伝を延々聞かされて、しかも企画もその時は通らなかった。”ということになる。バブル期にフリーターが流行った頃に“「有名大学を出ても、社会に疑問をもって塾講師になる男たちがいる」”という企画書を出せば、“その部長たちの怒りに触れて。「俺たちが大学を出て、この会社と共にどうやって歩んできたと思っているのか」「フリーターなんて許さん」と、また怒られて(苦笑)。”ということになる。
「若者フォビア」とでもいうのだろうか。別に若者のほうから年長者にくってかかっているわけでもなく、若者が勝手にやっていることでも、年長者は気に入らないらしい。どういうことなんだろうと思うけど、何年か前の「今の若者に尾崎豊は響かないのか」的な論調(過去記事『自由になれていない気がする尾崎豊』)を見ると、まだくってかかられるほうがマシということなんだろうか。
ちなみに、「若者フォビア」という言葉は、「ダサピンク現象」と違って私が言い出したものではなく、以前この記事を読んだことが頭にあった言葉だ。
もちろん「甘えている」といったわかりやすい批判はほとんどの人はしない。データからは、「甘え」など差し挟む余地がないということは誰でもわかるからだ。
だから、若者は「弱者」である。誰が考えても、どのデータを見ても、どの「若者本」を見ても、若者はいま苦境に立たされていると書かれており、頭ではそれを理解できる。が、人気がない。というか、どうしても支持・共感されない。
こういう現象は「フォビア」という言葉で言い換えてもいいかもしれない。それは同性愛者への差別表現である「ホモフォビア」という表現にもあるように、理屈ではわかるがどうしても受け入れることのできない現象、といったものに近いのかもしれない。
だから、今の若者に対する不人気は、きちんと言うと、つまりは若者差別だと僕は思う。
若者フォビア(嫌い)をやめよう(田中俊英) - 個人 - Yahoo!ニュース
「若者フォビア」の一因として、自分が正しいと信じていた価値観が覆される恐怖感があるのだとすると、それは選択的夫婦別姓や同性婚に反対する人たちの「同性愛フォビア」と同じ構造とも言えるのかもしれない。「自分がそうしたかったからそうした」という人は、違う選択をする人のことを許容できるけれど、「それが世間で正しいとされているからそうした」という人の場合は、違う選択をする人を許容できない傾向があると思う。違う選択をする人たちも「正しい」ということになってしまうと、自分の正当性が揺らぐような気がするからなのだろう。
「据え膳食わぬは男の恥といってね」と言って武勇伝を語りだした部長たちも、ただ個人的に女とセックスすることが大好きだったというわけではなく、それが男として良いこと、価値があることと信じていて、そうでない男を見下していたから、「据え膳食わない男」を受け入れられないのだろうし、有名大学を出ても会社に就職しない若者を「許さん」という部長たちも、自分個人の選択と決断によって会社に就職したわけではなく、世間的にそれが正しいとされていたからそうしただけだから、それ以外の選択をする若者が受け入れられないのだろう。
若者からくってかかられたわけでもなく、若者が勝手にやっていることでも年長者は気に入らないというのは、ミゾジニー(女嫌い)男性が、女から攻撃されたわけでもなくとも、男とは関係なく自由に振舞う女の態度に憎悪を募らせることと共通性があると思う。ミソジニー男性の根底には、女から構われたい、女は自分を構うべきだという思考があるので、女が男のことを気にせず勝手にやっていることそのものが、自分に対する裏切り行為ということになるわけだが、だとすると、年長者の「若者フォビア」の根底にも、若者から構われたい、若者は年長者を構うべきだという思考があるのかもしれない。実際、この社会には「若者は年長者を敬い、年長者の話を聞き、年長者の世話をするべきだ」という言説がある。そういう思考回路の人ほど「若者フォビア」が強くなるというのは、頷ける話だ。
多くの女性は、男性に嫌われること自体には何の痛手も感じてはいませんが、男性からの嫌がらせや暴力を恐れる傾向にあるようです。しかし、多くの男性は、女性は非力なものだと認識しながらも、女性から嫌われたり避けられたり無視されること自体に傷つく傾向にあるようです。
— 貧乏子育てbot (@harupiyo1582) 2015, 4月 1
これは、若者と年長者との関係でも当てはまるかもしれない。
「多くの若者は、年長者に嫌われること自体には何の痛手も感じてはいませんが、年長者からの権力を利用した圧力やパワハラを恐れる傾向にあるようです。しかし、多くの年長者は、若者は権力的に弱い存在だと認識しながらも、若者から嫌われたり避けられたり無視されること自体に傷つく傾向にあるようです。」
ということになるだろうか。
「今の若者はなんでこんなにダメなのか」ということはよく言われるし、様々なメディアで色々な理由をつけて発信されているが、「なぜ年長者は、かつては自分も同じことを言われて叩かれていたのに、若者を叩いてしまうのか」について考えたほうが、有意義なんじゃないかと思う。これについては、虐待を受けて育った人が、成長して親になると、自分の子供を虐待してしまうという、ある種の虐待連鎖なのかもしれない。私は、若者フォビアが激しいいわゆる「老害」タイプの人を「社会的毒親」と表現したことがあったけれど、そういうことだと思う。
私は、このブログの中で、機能不全家庭の構造は、そのまま組織や社会に当てはめることができると言って来た。「毒親」の概念も、そのまま「社会的毒親」として当てはめることができると思う。「社会的毒親」とは、子供や若者などの次世代を大事にしようとせず、それどころか、次世代をバッシングすることで自分の憂さを晴らす。にもかかわらず、将来、次世代に見捨てられる覚悟はなく、次世代に養ってもらって当然と思っている、毒親のような大人のことだ。この「社会的毒親」は、いわゆる「老害」と親和性が高い。
「俺を傷つけないような言い方をしろよぉ!」という、抑圧者の甘え - yuhka-unoの日記
虐待連鎖をしてしまう人は、「自分は厳しい育てられ方をして、それに耐えてきたからこそ、強い人間になったのだ」という思考から、「躾」のつもりで、自分の子供をかつての自分と同じように虐待してしまうというケースがよくあるが、これは、「若者フォビア」の傾向がある年長者によく見られる「自分の時代は厳しかった。それに比べて近頃の若者は甘えている」という思考と共通している。
また、自分の親について決して良い親だったとは思っておらず、子供には自分と同じ思いをさせたくないと思いつつも、「良い親」とはどういうものなのかを知らないため、ロールモデルがないのでどう接して良いのかわからないという問題を抱えてしまうケースもよくあるが、これも、若者叩きが繰り返されてしまう原因と共通性があるかもしれない。私たちは、メディアが若者叩きに傾いているため、年長者から叩かれることだけなら沢山経験しているが、ロールモデルとなる年長者に逢えるかどうかは、個々人の運ということになってきてしまう。
日本の社会では「親を悪く言ってはいけない」という世間の空気が強固に存在していたが、最近では、家庭内虐待の認知度が高まり、「毒親」という言葉が一般に広まり、歪んだ親子関係について語られるようになってきた。若者の問題についても、これまで年長者による若者の側の問題探しばかりが語られることが多かったが、年長者が若者を叩く心理についてこそ、もっと考察されたほうがいいのではないだろうか。
親から虐待されて育ってしまった人が、自分が虐待をしてしまう人間にならないように、ある種の身の施し方が必要で、その手法がある程度語られて共有されているように、若者叩きを受けて育った若者が、将来若者を叩く年長者にならないように、身の施し方をある程度共有できるようになると良いかもしれない。
深刻な問題としては、差別が、直接的間接的に差別される側を殺すように、「若者フォビア」もまた、直接的間接的に若者を殺しているという事実がある。ブラック企業で若者が過労死する背景には、「近頃の若者は甘やかされている」という年長者の思考が少なからず影響している。若者を殺してしまわないために、年長者はある程度自分に向き合い、「若者フォビア」を乗り越えなければならない。
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