現代の自由主義(リベラリズム、英:New liberalism, Reform liberalism)は、自己と他者の自由[注釈 2]を尊重する社会的公正を指向する思想体系のことをいう[5]。レッセフェール(自由放任)を基本原理とする古典的自由主義や自由至上主義とは異なり、それが人々の自由をかえって阻害するという考え方が根底にある。現代において個人の自由で独立した選択を実質的に保障し、極度の貧富差における経済的隷属や個人の社会的自由を侵害する偏見や差別などを防ぐためには、政府による介入をなくしたり制限する(無政府資本主義、リバタリアニズム、新自由主義)のではなく、政府や地域社会による積極的な介入も必要であるという考えに基づく。
ロックは出発点においてホッブズと異なり、自然状態を各人の自然権が鋭く角逐する場とは見ていない。自然法は自然状態からの脱出を命ずる理性ではなく、自然状態において行われるべき正しい法である。自然権は、自然状態における自然法が保障する各人の正しい取り分である。(他人に、十分な良い物(goods)を残す限り、各人は好きなように収穫して良い、とする)
つまり、ロックは「自然状態」にも法があって無秩序な状態ではないと言っているわけだ。なお、ここで言う「自然法」とは、現在の一般的な「自然法」の意味ではない。むしろ「慣習法」に近いだろう。この立場を取れば国家の役割は「自然法を守らせる政治力」にあるということになるし、それ以上のものではない。
この考え方は「最小国家主義」に通じるものである。
最小国家主義(さいしょうこっかしゅぎ、英: Minarchism, ミナキズム)とは、自由な社会における政府の規模・役割・影響力を、全ての個人の自由を侵すこと無しにその自由を守るのに充分な程度に、小さくすべきであるとする考え方である。最小政府主義とも言う。
このロックを持ち出して片山さつきを批判するリベラルというのは実に滑稽なものである。
リベラルの思想的土台はルソーにある。
ルソーは自然状態では人間は真に自由であったし、自然権も調和して保たれていたと説くが、悪い人間が他人の自然権を掠め取り、自由を剥奪してしまったとする。一見自然状態が自足的・持続的で理想的と思えるが、他人が奪い取り得るのだから、やはり脆弱なのである。 よって、やはり自由の回復は、単純な自然に還ることでは成し遂げられず、社会状態という第二の自然に入ることでしか得られないのである。
「自然状態」は弱肉強食の世界であり弱者の自由・権利は阻害される。だから国家によって格差を是正し平等な世の中を作ろうということだ。国家が積極的に介入して「自然状態」では阻害されやすい「天賦人権」を守ろうということだ。当然、国民にはロックの言う「自然法」を守る義務だけではなく、平等を実現するためのより多くの義務が課せられる。それを「義務」と言おうが別の言葉で表現しようが、義務は義務である。
したがって片山さつきの主張を文字通りに受け止めて批判するリベラルはリベラルの意味を理解していないのである。批判するなら「片山さつきの言ってることは文面的には正しいが、片山さつきを信用できない」とか「本心から言っているのではなく裏があるのだろう」とか、そういった種類の批判をするしかないのである。