「警察を信じろ」というウソをガキに教えています
デヴィ夫人の発言の裏をとったわけではにゃーんだけど、これらが事実だとしても驚くことはありませんにゃ。警察はウヨに甘い、なんてことは常識の範疇にゃんな*1。
警察の人権意識の低さについては、元国家公安委員長も実体験に基づき指摘していることですしにゃ。
ケーサツ(特に公安関係)なんて信用できっかよ、市民を護ってくれるわけじゃねえだろ、という認識はそうそうおかしなものではにゃーかと。
もちろん、公安関連と刑事事件関連ではいろいろと違うということもわかるんだけどさ、冤罪の問題とか考慮すると少なくとも地続きだとは思うのですよにゃ。
おまわりさんは守ってくれるよね
最近ますますモンティ・パイソンが大好きなうちの4歳児を保育園に迎えにいき、車に乗せて帰ってくる途中のことですにゃ。
「手ーのひらをー たいよーにー すかしてみーれーばー♪
まーったーりー ながーれるー ぼくのちーしーおー♪」
と歌う4歳児。まったり流れるのかよ!
と、交番の横をとおる際に、
「ねーねー、おまわりさんとパトカーは、○○ちゃん(自分の名前)を守ってくれるの?」
ここで、僕としては
「そうだにゃー。おまわりさんはこどもを守ってくれるよ」
と答えましたにゃ。一応ね。
4歳児に対して、「警察は僕らを守ってくれない」と教えることは不適当であると考えますにゃ。警官に対する敵意を植え付けても、本人のためにはならにゃーんだよね。少なくともガキに対してヒデエことをするほど警察組織は腐っとらんとは思っているしにゃ。
教育とは体系付けられたウソ
ガキにものを教えるというのは、よく考えてウソをついていくことなのではにゃーかと思いますにゃ。
例えば、小学1年生には「1−2(いちひくに)はできません。小さい数から大きい数をひくことはできないよ」とウソを教えることが妥当ですよにゃ。小学校低学年のうちは自然数概念を操ることを教えればよく、整数だの無理数だのというものを教えることは不適当。ガキの理解力にあわせて数の概念を教えるということは、要するにウソを教えていくということなんですよにゃ。
4歳児に対しては、「警察はおまえを守ってくれる」というファンタジーを教えなければならにゃーだろう。サンタクロースもオバケもいるし、おまわりさんは信用できる、という世界をガキには与えておきたいところですにゃ。
ただし、サンタクロースもオバケもいないということは、ほっといてもどこかでわかってくれるだろうけれど、警察に対するスタンスは親が教えにゃーとならにゃーと思っていますにゃ。
さてさて
いつ、どんなタイミングで、どのように教えるべきか・・・・・
悩ましいところですにゃー。
三つ子の魂
小学1年生には「小さい数から大きい数は引けないよ」と教えても、中学になると「いや、ウソ教えてた。実は負の数というのがあってね・・・」と教えなおしてあげにゃーと、整数の概念はわからにゃーよね。これがわからんのは大人としてはいろいろと困ることが多いだろうにゃ。
同様に、ガキのころには「おまわりさんは信用できる」と教えても、適切な年齢になったら、「実は警察ってのはね・・・」と教えてあげにゃーと、警察のやることは何でも正しいとかいう困った大人が大量生産されかねにゃーよな。
ここしばらく、いまさらだけど、在特会デモがサイアクだったので、カルデロン一家問題について少しだけ言っておく。 - *minx* [macska dot org in exile]のコメ欄で遊ばせてもらったんだけど、とにかく判断基準が警察だというお方がいてどうしようもにゃーと思ったりしましたにゃ。
在特会のカルデロン追い出しデモは、警察が許可を与え監視している合法デモなので、やっていることはすべて合法で、違法行為があったら逮捕されているはずだとかいうことをいっているお方なんて、何度それは違うといわれてもわかろうとしにゃーしな。主張内容について警察は関知しにゃーし(したら大問題だ)、侮辱罪でいきなり警察が逮捕できるわけにゃーだろうに。
まあ、この手合は自分にとって都合のよい警察や行政当局の動きだけをひろってきて騒いでいるのだとは思うのだけれどにゃ。
しかし、ここまでひどくなくても、在特会のあの醜悪なデモに反対して集まった連中が逮捕されたのをうけて、「どっちもどっち」「サヨのほうが醜悪」だのと言い出すお歴々なんかも、判断基準が警察になっちゃっているよにゃ。
ネットで見聞する限りでは、逮捕された連中は不用意で幼稚だと判断しているけれど、少なくとも外国人排斥の差別主義を振りまわしていたわけではにゃー。考え足らずのお馬鹿さんかもしれにゃーが、豚ではにゃー。公安条例や道交法よりも憲法とその理念を重視する僕としては、「どっちもどっち」などとはとてもいえにゃーですね。
警察に捕まったというだけで著しい社会的不利益をうけるのが僕たちの社会であり、つまりは日本社会というのは警察が判断基準になっちゃっている社会といえるかもしれませんにゃ。
警察組織が必要であることと、警察が判断基準になってしまうこととはまるで別のことなんだけどにゃー。警察に対するスタンスを、適切な時期にうまくガキに伝えにゃーと、このあたりは混同しちゃうでしょうにゃ。
ガキを自分の思い通りにできるなんて思ってにゃーけどさ、警察を自分の判断基準にしてしまうような破廉恥な娘を持ちたくにゃーしねー。
蛇足の自分語り
僕が母子家庭で育ったことは何度か書いていますにゃ。
僕の母親はもともとデモなんかもこなす中卒サヨクだったようだけど*2、どうもいろいろとサヨクの薄汚さを理解してすっかり嫌気がさしたようですにゃ。で、僕が小学校の高学年くらいから、ヤクザの幹部の情婦をやっていましてにゃ。60年代には東映ヤクザ映画はサヨ学生に大人気だったらしいし、心情的には矛盾はにゃーのでしょう。
このヤクザが昔かたぎの博徒で、組織が近代化して薬を扱ったり♀を転がしたりするのが嫌になって、僕の母親と逃げちゃったのが僕が高校のときね。幹部が逃げちゃうってのはなかなか大変なことのようで、あの時は僕もいろいろと貴重な体験をいたしましたにゃ*3。
母親は今でもこの元幹部と仲良く暮らしていますにゃ。もうすっかり善良な老夫婦然としとるね。
で、逃げる前には母親は一時競馬のノミ屋をやっていましたにゃ。
これががさ入れを食らっちゃいましてにゃー。しばらく警察に宿泊していたけど、結局は不起訴だったようですにゃ。
で
帰ってきたら僕と弟を座らせて、取り調べのやり口をいろいろと教えてくれましたにゃ。
「サヨクは汚いと思ったが、ヤクザはもっと汚いし、警察はそれ以下だ。
とにかく、警察は平気で嘘をつくし、くだらない脅しをかける。私といっしょに捕まったAは、自分が助かりたくて警察にぺらぺらしゃべった。警察は、しゃべれば罪は問わないとかいったようだ。
だが結局、Aは起訴された。しかし私は何もしゃべらなかった。だから今ここにいる。本当は私の方が罪が重いはずなのにだ。
天に恥じない生き方をしていても警察に捕まることはある*4。その時、警察を絶対に信用してはいけない。何もしゃべってはいけない。仲間を売ってはいけない。
それが自分を守ることになる。」
と、こういう教育を受けてしまいましてにゃ。
これはこれでちょい極端かもしれにゃー*5。おかげで、パトカーとか警官を見ると無意識的に「ムカ」っときてしまうようになってしまったし。
しかし、警察へのスタンスとしては、そんなに間違ってにゃーと考えていますにゃ。
とはいえ、自分のガキにはこのあたりをどう伝えようかにゃ?
母親が僕に語ったときには、有無を言わせにゃー体験の迫力があったので中学生にも伝わったけど、僕は今のところしょっぴかれる予定はにゃーしなー、うーん・・・。
みにゃさまはどうする?
*1:本当に反体制のウヨには警察もきついのだろうけれど
*2:本人いわく、成績は抜群によかったらしいのだけど、金がなくて高校には行けなかったとか。まあ、昭和16年生まれだし、そういう人も珍しくない時代だ
*3:さすがに身体的な危害は加えられなかったし、そのおそれもなかった。まあ、ガキを殴るのは不名誉だという田舎ヤクザの倫理が働いていたので助かっただけかもしれないけど
*4:僕の母親はノミ行為はまったく悪いと思っていなかった。「親方日の丸はやっていいのに、こっちがやっちゃだめなんてことはあるか! 国がヤクザであるいい証拠だ」といってた
*5:警察が敵という感覚はさすがに偏っていると相棒にもいわれるし