結局、というわけでもないけど、意志の強さや継続って、体力と健康に依存してると思うなー。身体と心のメンテナンスをやり続けないと、ハードワークというか、アクションって続かない。健康第一!
— ペトロニウス (@Gaius_Petronius) 2024年12月18日
年の瀬は仕事が忙しい。診療、執筆、打ち合わせなどが立て込んでくると、体力がぎりぎりだと感じることも多い。もう少し身体が弱かったら、これだけの業務はできなかったか、健康を害して退場していたと思う。
若かった頃、才能といえば「早くて正確な読解力」「一を聞いて十を知る力」「アイデアのひらめき」とか、そういったものを連想していた。「コミュニケーションの機敏」も大切だ。でもって、それらが社会適応にとって重要で、創作活動にも仕事にも重要だという認識は中年期を迎えた今も変わらない。
しかし、この年齢になって特別に高く評価するようになったものがある:それは、体力と、その体力の土台となる健康だ。
人間は体力が続く限り努力できるが、体力が尽きれば努力できなくなる。健康も同様だ。ロールプレイングゲームでいえば体力や健康とはヒットポイントにあたり、これが尽きてしまえば戦闘不能になる。知識レベルでは「体力や健康が尽きれば戦闘不能になる」とは前々から知っていたが、実感がぜんぜん足りていなかった。健康を害して生きることで精いっぱいだった時期でさえそうだったし、化け物みたいな体力で超人的な働きをしている人を間近に眺めてさえそうだった。
ところが半世紀近く生きてみて、体力や健康に対する見方が大きく変わった。なぜなら、若かりし頃に素晴らしい才能を発揮していた人々が体力や健康がボトルネックになって力尽きていく姿を、しばしば見かけるようになったからだ。あんなにアイデアの火花が美しかったのに、あんなに精力的に活動していたのに、あんなに人の心を掴むのがうまかったのに、体力や健康に問題が生じて去っていった人の多いこと! そうした人たちのなかには、体力や健康が尽きる前に作品を残せた人もいる。でも、そうして名前と作品を残せた人は幸運な部類で*1、そのまわりには体力や健康が足りないために原石のような才能を研磨できなかった人や、研磨の過程で力尽きてしまった人がたくさんいることを私は知ってしまった。
対照的に、若い頃から一貫して活躍し続ける人々は皆、体力があり、健康をも維持している。彼らは技芸に優れているだけでなく、体力オバケ・健康オバケであることが多い。
スポーツ選手などはその最たるものだと思う。
長く活躍するスポーツ選手は故障が少ない。故障が少ないぶん、たくさん練習でき、たくさん試合に出ることができる。生まれ持っての強靭さも大切だろうし、ライフスタイルやトレーニングの工夫、健康管理のプログラムなども大切だろう。どこまでが先天的でどこからが後天的かはわからないが、とにかく、故障しないこと自体が長い活躍やさらなる熟練を可能にするから、体力や健康は才能の基盤というほかない。
芸能人や政治家や研究者も同様だ。タイトなスケジュール、泊まり込みの仕事、野戦病院のような環境、等々でも体力がもつ人・健康を害さずやっていける人は、ライバルたちよりもチャンスを得られる。芸能人なら仕事をこなせるだろうし、政治家なら有権者のもとを回れるだろうし、研究者なら論文を読んだり研究したりできるだろう。それって有利ですよね? 逆に、体力が乏しく健康を害しやすければ、こなせる仕事量も、握手できる有権者の数も、読める論文の数や挑める研究の数も、少なくならざるを得ない。
人脈づくりも、体力や健康に大きく左右される。体力や健康に秀でている人は、そうでない人がドン引きするほどパーティーや飲み会に出て回れる。それらはお酒の飲みすぎや御馳走の食べ過ぎといった健康リスクを伴うけれども、本当に顔が広い人は、そうしたことをしていても案外健康が保たれていたりする。社交力とは、案外体力や生命力の反映かもしれないのだ。
もちろん、そんなのは体力や健康のもたない人には不可能な芸当だし、できているつもりでいてもじきに健康を害してしまう人も多い。とてもじゃないが、「彼らを見習って夜の街を飛び回りましょう」だなんて言えない。ところが、体力や健康のオバケみたいな人はいるもので、20~30代の頃はもちろん、還暦を回っても社交的であり続けている。
繰り返すが、体力や健康がどこまで先天的な素養に依っていて、どこから後天的なライフスタイルやトレーニングや管理プログラムの賜物なのか、私には区別がつけられない。しかし健康面や体力面においてレジェンダリーな人たちはだいたい両方に秀でていて、ハードワークに耐えているだけでなく、身体を酷使しすぎないようなインターバルを入れているものだ。それで言うと、効率的に休めることもまた才能であり、健康や体力の一部といえる。ロケの移動中に熟睡できること、激務の最中でも食欲が落ちないこと、研究室の硬い床に寝転がってもへっちゃらなことは、体力という才能、健康という才能の最たるものではないだろうか。上を見ても下を見てもきりがないことだが、そういう、いつでもどこでも回復できる人が私はうらやましい。回復が早ければ、そのぶん体力も健康も維持しやすくなり、そのぶん、“手数”も増えるだろうからだ。
それから意志。意志は、意志の強さやしなやかさと、それを支える諸要素*2から成り立っていて、それ自体、体力や健康に匹敵する才能だ。意志薄弱では、どうあれ何事もなすことはできない。
だが、その意志は体力や健康と根っこで繋がっていて、体力や健康を害されながら強い意志を持ち続けるのはとても難しい。たとえば痛みや不眠といった悪条件が積み重なれば、たいていの人は意志が弱くなり、維持できているつもりでもしなやかさを失う。ときにはねじれ、強い願いが強い呪いに転じてしまうかもしれない。一般論としては、体力や健康が保たれているほうが意志は強くて柔軟で建設的な状態を維持しやすい。逆に、半年や一年程度ではビクともしない強い意志も、健康問題に長時間曝されていれば徐々に変質する。
人生がダカールラリーのような様相を呈してくるにつれて、活躍の与件としての体力、才能の一環としての健康の重要性がしみじみわかってくるようになり、「ああ、私の体力と健康では残りのトライアルの回数はたかが知れているだろう」と自覚するようになった。また、そうした重要性が若いうちにはピンと来ず、ある程度年を取ってからでなければ実感がわかないところに、人間をやっていくことの難しさを思った。
健康寿命が残り20年あると思うと、あともうひと仕事、いやふた仕事くらいは出来るかなと少し気が楽になるな。
— a2see@VNOSバーチャルCEO (@a2see) 2024年12月19日
健康の維持というのももちろん並行で気を付けてやっていかなければならないけれど。
長らく最前線で戦い続けている人がなお、「健康寿命はあと20年、あと20年は戦える!」って言えるのは、大変な強みだと思います。私もあやかりたい。