貞永式目とも。 西暦1232年に鎌倉幕府3代執権・北条泰時が定めた法律。ヒトニミニくい御成敗式目と覚えられる。 その頃、武士に関する法律がなかったため、源頼朝が口にしていた武士の道理を元に明文化した。
律令の変更をおそれる京人がいたため、発布に当たって「武士の規定であり律令を侵すものではない」とわざわざ注意されたが、実はこのころ既に律令は形骸化してしまっていた。
マンガ日本の歴史 16朝幕の確執 承久の乱へ石ノ森章太郎中央公論社1991年2月5日 初版印刷1991年2月20日 初版発行 『マンガ日本の歴史 15 源平の内乱と鎌倉幕府の誕生』の続き。 megureca.hatenablog.com 15巻では、壇ノ浦の戦いで平氏がやぶれ、源頼朝が鎌倉幕府を設立するまで。16巻では、頼朝の妻・政子の活躍から北条家の活躍。 目次序章 女人入眼の日本国第一章 尼将軍政子第二章 右大臣源実朝第三章 承久の乱第四章 執権北条泰時 1199年、年明け早々に53歳の生涯を終えた源頼朝にかわって、二代将軍となったのは、嫡子頼家。 頼家については、本書以外でも色々とかかれ…
泰時が真心こめた式目は道理を守り六百年も 鎌倉幕府の3代執権・北条泰時が中心になり、幕府の要人らの協議によってつくられた「御成敗式目」は、全51か条からなる武士政権のための法令です。源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定されました。後書きに泰時の言葉があり、一執権にすぎない自分ごときがこうした一種の憲法を出すのは大変あつかましいが、世の中の道理というものがそれを認めてくれるだろう、と記しています。 また、その完成に当たって、泰時は、六波羅探題として京都にあった弟の重時に手紙を送りました。手紙の中には、式目の目的について次のような意味のことが書かれています。 ―― …
今朝の中国地方は今日も雨模様。 無事に梅雨が明けますように。 先月、息子の健康祈願のために尾道市にある西國寺へ私と夫と娘の3人で行きました。 天気も良く、とてもいい心持ちで参拝することが叶い、心から感謝して帰途についたのでした。 その時の記事↓ そして 参拝して以降、息子の体調はみるみる改善していきました。 が、 なんと家族全員の体調も改善していったのでした。 気がつけば梅雨でじめじめした過ごしにくい季節に関わらず 「何か調子良いね。」 が続いています。 体調が良いと気分も上々で、家族皆が良い感じです。 ご祈祷をお願いしたのは息子のみ。 なのに、健康のご加護を家族全員にいただいている。 これは…
M-1やワールドカップのせいで1日遅れとなったが、NHKプラスで「鎌倉殿の13人」最終回視聴。 皆さんも見逃しているなら、再放送を待たずに配信どうぞ。 鎌倉殿の13人 🈡(48)「報いの時」 12/18(日) 午後8:00-午後9:00 配信期限 :12/25(日) 午後9:00 まで 反目する北条義時(小栗旬)を討ち取るため、義時追討の宣旨を出し、兵を挙げた後鳥羽上皇(尾上松也)。これに対し、政子(小池栄子)の言葉で奮起し、徹底抗戦を選んだ幕府は、大江広元(栗原英雄)や三善康信(小林隆)の忠言を聞き入れて速やかに京へ派兵することを決断。泰時(坂口健太郎)、平盛綱(きづき)らが先発隊として向か…
iPhone14に替えたので、試し撮り(^^)v この日は西高東低の気圧配置。強烈な西風が吹き荒れ・・・ 雲は吹き飛び何やら風雲波乱の気配。 手持ちスローシャッター(^^)v 801年前の鎌倉も、火災や天災が頻発する、重苦しい空気が満ち満ちていました。 そんある夜、政子の夢に天照大神が現れ・・・・ 「泰時が私を輝かせ、泰平の世になるだろう」 あくまで「吾妻鏡」の記述ですが (^.^) 政子は皇大神宮の神主の孫、波多野朝定を伊勢に派遣。 願文を神祇次官に提出。無事受理されましたm(_ _)m 事件はその二ヶ月後に・・・ 北条義時を討伐せよ! 刃向かう奴は皆殺し〜♪ そんな院宣が出され・・・ 京都…
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」について前回投稿したのがおよそ半年前、源義経が亡くなるタイミングでした。このドラマについて、更なるコメントは野暮だと思っていましたが、先日11月7日の放送「夢のゆくえ」を見て、「続編」を取り上げたくなりました。 nmukkun.hatenablog.com 前回投稿した後、物語の前半を引っ張った源頼朝が亡くなり、阿野全成や源頼家など、頼朝の弟や子が、坂東武者たちの思惑もあり、次々と葬られていきました。 合わせて幕府の「宿老」たちも次々と政争に巻き込まれて、命を落としていきます。比企能員、畠山重忠、和田義盛。そして幕府創設の功労者である北条時政も引退に追いやります。 …
拝殿の右側に、この掛け札が掛かっています。 神は人の敬を以て威を増し 人は神の徳に依って運に添う 神様は、人の尊敬する気持ちにより、力を増して行きます。そして人は、神様の徳をいただいて、神様と一緒に運命をひらいて行きます。 この言葉は、御成敗式目(西暦1232年)の第1条の一節です。 御成敗式目は、鎌倉時代3代執権北条泰時がまとめたもので、律令を参考に51条からなり、その後長い間武家法の基本とされました。 子供の中学の教科書「見て読んで考えよう!ビジュアル歴史 東京法令出版」に北条泰時消息文として、御成敗式目を作った経緯を紹介しています。 「この式目は、ものの道理を書いたものである。真実よりも…
「北条泰時って何した人?」 「北条泰時に関する面白い逸話はある?」 「北条泰時のお墓や子孫は?」 このページをご覧の方はそのようなことをお考えかもしれません。 北条泰時は鎌倉幕府の3代執権で、承久の乱での勝利や御成敗式目の制定などで活躍しました。 そして、合議制を確立するなど鎌倉幕府のシステムを整備した人物でもあります。 今回は北条泰時のプロフィールやしたこと、逸話、お墓や子孫などについてまとめます。 鎌倉時代全体について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ! kiboriguma.hatenadiary.jp イラストAC (adsbygoogle = window.adsbygoogle |…
御成敗式目ってどんな法律だったの? 武士だけに通用した基本の法律だよ!51箇条あって、鎌倉時代に作られたんだ。 さて、その武士の基本法となった御成敗式目。これまで基本となる法律がなく、裁判やルールが曖昧だったこともあり、この法律が作られました。紛争にともなう訴訟も多く、公平に判断する必要があったのですね。 御成敗式目とは何か 北条氏の行った政治 五十一箇条の内容とは 守護の任務 地頭について 女子についての財産問題 御成敗式目まとめ 御成敗式目とは何か それでは、御成敗式目とはどのようなものだったのでしょうか。 1232(貞永元)年、執権北条泰時が定めた、武士のために作られた法律です。貞永式目…
「御成敗式目ってそもそも何?」 「御成敗式目の目的は?」 「御成敗式目ってどんな内容?」 このページをご覧の方は、こうした疑問を持っていると思います。 御成敗式目とは、1232年に鎌倉幕府3代執権北条泰時が中心になってつくられた武士のための法律です。 全部で51か条あり、鎌倉幕府の基本法となりました。 貞永式目とも関東式目とも呼ばれました。 御成敗式目は源頼朝以来の先例や道理(武家社会の慣習や道徳)を文章化したもので、 のちに不足を補うため「式目追加」とよばれる追加法が出されました。 御成敗式目の適用範囲は武士たちでした。 しかし、幕府の影響力が拡大すると適用範囲も広がります。 御成敗式目の内…