10月27日(土)午後1時から5時20分まで、神戸女子大学教育センターで開催された中原中也生誕百年記念セミナーに参加しました。初めて訪れる大学でしたが、三宮駅から徒歩5分ほどで、立地条件の非常によい場所でした。
中原中也と言えば、高校国語教科書に「朝の歌」「一つのメルヘン」などが掲載されていることから、広く人口に膾炙しています。10月22日に命日だった今年は、七十周忌かつ生誕百年という記念すべき年なので、各地で中也にまつわるイベントがあるそうです。詩人に縁の深い地として山口、京都、鎌倉が知られていますが、京都近郊に住んでいる今、それだけでも独特の感慨があります。
新聞の告知欄を見てファクスで申し込んだところ、きちんと名簿に名前が載っていました。中原中也研究会(1996年設立。10名ほどが手仕事で活動し、会員は400名以上)にとって、後に何らかの資料になるのでしょう。今回は、130名ほどの人々が集まり、補助席も出たほど会場はびっしり埋まっていました。参加費は一人2000円。案外、5,60代が多く、男女半々の割合でした。学生風の若い人もちらほら見かけたのですが、ほとんど女性。中には、詩を書いていらっしゃる方も含まれているとか。中也の詩は、思春期から青年期の感受性に響くところがあるので、いわゆるニートとかワーキングプアの悩める若者に受けているのかな、と想像していましたが、そうではなく、比較的堅実な暮らしを送っていそうな中高年層が熱心に出席している様子に、時代の投影を見る思いでした。
ところで、2007年10月15日付「ユーリの部屋」に、ドストエフスキー・リバイバルの話を書きました。金原ひとみさんが、亀山郁夫先生に対して「わたしってぇ、意外と宗教のことって知らないんですぅ」みたいなことを言っていて、(それでも芥川賞か)と呆れたのですが、それに対して加賀乙彦氏が、「感覚だけで書いていると、読者は飽きてくる」とおっしゃっていました。ちなみに私は、最近の芥川賞作品を全く読んでいません。近代文学の方が、現代文学より遙かに硬質で読み応えがあっておもしろいからです。
冒頭で、戦前、中也と共に『四季』派に属されていた杉山先生という方が、挨拶されました。生前はあまり知られることのなかった詩人中也なので、所属は同じでも中也と親しく会ったことはないそうです。また、お話の中で、特高警察からプロレタリア詩人と間違えられた時、「詩人とは何をするのか」と問われ、「それは難しいなあ」とおっしゃっていました。
最初の講師であった北川透氏は、愛知県のご出身で、以前、詩について地方新聞で連載されていたことがあります。初めてお目にかかりましたが、とても勢いのあるお元気な方で、昔見た写真とちっとも変わらぬお姿でいらっしゃいました。また、「中也の詩で100人以上も集まるなんて」と驚かれていました。(それはそうですね。マレーシア研究会でも100人も集まったことなんてないですから。)それから、仏文学者の宇佐美斉先生(名古屋出身で京大人文科学研究所名誉教授)のお話も、フランス語はわからない私ですが、フランス語訳の朗読をテープで聴かせていただき、非常におもしろくて勉強になりました。
一方、第二部のシンポジウムの方は、現職の大学教員も含まれているのですが、正直なところ、内輪のおしゃべりのようで、人に聴かせる話の準備があまりできていないような感じでした。それならいっそのこと、朗読会でもしていた方が、よい時間が過ごせたように思います。ちなみに、インドネシアでは文芸作品の朗読が盛んで、1999年2月に、大阪市上本町の国際交流センターで、インドネシア人作家セノ・グミラ・アジダルマ氏の朗読を生で聴いたことがあります。その時は、フリー俳優の冨岡弘氏が日本語訳を朗読され、大変魅了されました。
閑話休題。ここで、「現代における中也の詩の意味」や「なぜ今、中也なのか」などを私なりに考えてみると、埋もれていた一次資料が次々と見つかり、友人の大御所文人達がご存命中にはしにくかった定説の補足ないしは新説が登場しつつあることが大きいのではと思います。また、五・七・五調の日本語定型に従ったり、背伸びするようにフランス詩を学んだりした戦前の中也の努力が、鑑賞に堪えうる詩として一種の‘堅実さ’の素地となっているからではないか、と思うのです。故郷では受け入れられず、お酒呑みで喧嘩っ早く、二人の子どもも夭逝、奥さんもパッとしない短い人生と、家庭に恵まれず、感覚に訴える風来坊の吟遊抒情詩人のように思われている中也ですが、結構、ことばの組み合わせに凝った詩もあり、フランス語の詩を翻訳した時期もあります。自己流独学風ではあっても、勉強はしていたのだと思われます。
セミナーを聞きながら、中也の詩集2冊と小林秀雄や河上徹太郎や大岡昇平らの評論が、20数年を経た今、鮮明に思い出されてきました。(ああ、そうそう、そう書いてあった)と。私にとっては、「20数年前の解釈を再解釈する」機会となり、「現状における過去の再現性」の作業として、とても楽しい時間が過ごせました。考えてみれば、小林秀雄氏は私の大学入学が決まった頃に亡くなった方ですし、河上徹太郎氏が、日経の「私の履歴書」に連載されていたのを覚えています。夢中になって読んでいても、身の程を知る一介の学生には、敷居が高過ぎて言及しがたかったところが大きいです。
大学の時、国文学の演習では、自分の頭で分析的に作品を読むよい訓練を受けました。例えば、ある作品の発表が担当になった時、それに関する著名な評論を図書館で数本探してきて、関連箇所を抜き書きしたレジュメ(今と違って手書きの青刷り)を作って発表するような学生には、教授はコメントすらせず、相手にしてくださいませんでした。ある時には、黙って教室から出て行かれたこともあります。幸い私は、厳しく注意されている発表を聞きながら自分の番を待っていたため、おかげさまで叱られたことは一切ありません。ある日のゼミで、平安朝の古典に題材を取った堀辰雄の作品が割り当てられた時、下敷きとなった古典と当該作品の両方に関して、色や音や時を表わす語句の変遷に焦点を当てて分析した発表は、「卒論に使えるから取っておきなさい」と言っていただきました。実は、読めても自分の言葉で消化できない高邁な評論を引用して発表することが、20歳前後の自分にとって大見栄を張っているみたいで嫌だったから、そうしたまでのことですが。
今や何事も全般的に敷居が低くなり、アクセスしやすくなった分、感覚だけで反応していたり、無責任に言いっ放しになったり、ノリが軽くなっているのも否めないと思います。しかも、黙っていたら、知らないと誤解される傾向も顕著になってきましたし…。ブログやサイトで、誰でもコメントや論評が即座にできます。しかも、質はピンキリ…。昔なら、一言何かを思いつきで口にしようものなら、「十年早い!」「そんなこと言っていたら、笑われるぞ!」と叱咤されたものでした。ああ、なつかしき古き良き時代…!
一方で、例えば、現代詩人の谷川俊太郎氏はなかなかの戦略家で、ご高齢ながらも時代にしっかりと乗っていらっしゃいます。原稿用紙は使わずパソコンで詩作し、テレビにも積極的に出て、ホームページの掲示板に書き込みもされ、地方の学校でもどんどん巡回授業されています。2003年11月23日には我が町まで来られて、ご子息の賢作氏と詩の朗読と歌のショウまでしてくださいました。小学校低学年ぐらいの子ども達が大喜びしていたのが、印象的です。これを純文学の詩と呼べるかどうかはわからないのですが、現代において、「詩人が詩を書いて食べていく」という点では、一つのやり方なのでしょう。ただし、他の詩人が同じ模倣をしたとしたら、もうそれは価値がなくなります。
そうすると、詩人が詩を書くとはどういう意味があるのか、生前はほとんど世間に認められることのなかった中也の詩が、なぜ国語教科書に掲載され、100年後の今、暗誦され作曲までされる詩となり得たのか、充分考察の余地があるように思います。あの大江健三郎氏ですら、中也の詩を読んでいたというのですから。
すっかり忘れていた、学部時代に提出した中也レポートのコピーと、古い新聞切り抜きと、中原中也研究会の案内書などがでてきたので、さっそく、今回のセミナー資料と合わせて、新しくファイルを作りました。
セミナーで学んだことは、また別途、自分なりにまとめて、ご報告いたします。長くなりましたので、今日はこの辺で失礼します。