これまでの歴史的経緯や、世界的なトレンドを考えると、
経営を理解してない労働者は、
どんどん居場所がなくなり、年収も下がって
いくと思います。
逆に、経営*1を理解している労働者は、ますます活躍の場が広がるし、
たとえ運悪く挫折しても、何度でも復活するチャンスが得やすくなっていくと思います。
そして、後述するように、これは全世界的なトレンドであって、
この流れを一時的に阻害するぐらいはできても、
歴史の歯車を逆転させるようなことは、もはやできないと思います。
そもそも「経営」を勘違いしている人が多い
よくある「経営」に関する迷信に、以下のようなものがあります。
【迷信1】企業の目的は金儲けである
【迷信2】非営利組織に経営は必要ない(善意だけで運営できる!)
【迷信3】経営スキルがなくても仕事には困らない(経営は経営者の考えることだろJK。。。)
以下、これらについて解説します。
【迷信1】企業の目的は金儲けである
経営学の巨人ドラッカーの著作でも強調されていますが、
企業の目的は金儲けではありません。
これを忘れると、中長期的には、逆に、売上も利益も減少していくことが多いです。*2
自動車会社の目的は
金儲けじゃない。
顧客に自動車を提供すること。
衣料品メーカーの目的は、
金儲けじゃない。
顧客に衣服を提供すること。
企業は、経済的な富を生み出すことを目的とした唯一の社会的機関です。
経済的な富を生み出すことこそが、企業の社会的使命です。
一本の草しか生えないところに、二本の草を生やすようにすることが、企業のなすべきことなのです。
実際、我々の豊かな経済生活を支えているもののほとんどは、
企業が生み出したものです。
冷蔵庫、エアコン、アパート、窓、電球、ソファー、
便器、シャワー、パソコン、光ケーブル、ケータイ、
コンビニ、スーパーマーケット、爪切り、ボールペン、
本棚、カーテン、カーペット、ニコニコ動画、
マンガ、エロゲ、検索エンジン、はてなブックマーク。
企業が第一に果たすべき社会貢献とは、
これらの、経済的な富を顧客に提供することです。
顧客を真に満足させることです。
消費者に不満を抱かせるような製品を売っておきながら、
砂漠に木を植えることが社会貢献だというのは、
本末転倒であり、偽善と言われてもしかたがありません。
したがって、おおざっぱに言うと、
経営者の使命は、
企業が顧客に経済的な富を提供するように、
戦略を立て、組織を編成し、方針を打ち出し、意志決定し続けること。
資本家の使命は、
企業が新たな顧客価値を創造するときに生じるリスクを
負担すること。
労働者の使命は、
このような企業の社会貢献活動(=顧客価値の創造)に貢献すること。
みたいな感じになりますかね。
【迷信2】非営利組織に経営は必要ない(善意だけで運営できる!)
企業経営だけが経営ではありません。
教会、病院、孤児院、障害者施設、
ホームレスや多重債務者や貧困層などを支援するボランティア組織、
などの非営利組織にも経営は必要です。
非営利組織においても、経営の基本
(=顧客を定義し、顧客の真の欲求を見極め、目的を明確にし、
成果を定義し、戦略を策定し、戦略に合わせて組織構造を編成し、
目標を設定し、マーケティングを行い、方針を打ち出し、意志決定を行うこと)
は不可欠なのです。
ただ、企業にとっての成果が「経済的な富の創出」であるのに対し、
非営利組織の成果は、多くの場合、「変革された人間」です。
治癒した患者、学ぶ子供、自尊心を持った成人となる若い男女。。。
ようするに、変革された人間の人生そのものです。
「経営」の欠けている非営利組織は、恐ろしく非効率になります。
たとえば、「経営」のある非営利組織とそうでない非営利組織では、
同じ額の寄付金で救済できるホームレスの数が何倍も違ってきたりします。
また、ホームレスの人生の改善度も満足度も大きく異なってきます。
善意にも「生産性」が必要だし、「成果」の「質」が問われるべきなのです。
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【迷信3】経営スキルがなくても仕事には困らない(経営は経営者の考えることだろJK。。。)
労働者は労働力という商品を企業に売って、その売却代金を給料という形で受け取ります。
これはビジネスの一形態です。
全ての労働者は、「労働力販売業」というビジネスをしているのです。
いや、経験やスキルや資格のある労働者の場合、企業はその労働者の労働力というより、経験、スキル、資格にお金を払っているわけですから、単なる労働力販売業、というほどシンプルなビジネスモデルではありません。
それどころか、その労働者の人脈や、いざというときに情報漏洩したり裏切ったり不正経理をしないという「セキュリティ」もこみで買っているケースも多く、見た目よりはるかに高度で複雑なビジネスです。
そして、ビジネスをするからには、そこには「経営」が不可欠です。
自分の「商品(労働力、スキル、人脈、etc.)」を買ってくれる「潜在顧客」を調査・分析し、自分自身をマーケティングしなければなりません。
また、自分の「労働力販売事業」の目的を明確にし、顧客を定義し、成果を定義し、
戦略を策定し、戦略に合わせて人脈を構築し、
目標を設定し、マーケティングを行い、方針を打ち出し、意志決定を行わなければなりません。
当然のことながら、自分自身を経営する労働者は「自分に何が出来るか?」という風には考えません。
「自分という経営資源を使って何が出来るか?」と考えます。
この場合、人脈とは販売チャネルだと考えるべきです。
自分の弱みを無効化し、自分の強みを最大化するような戦略を策定し、
その戦略に基づいてキャリアプランを設計し、
自分を使って最も効果的に顧客価値を創造する方法を考えます。
また、単に企業の一員、プロジェクトの一員として働くのにも、「経営」スキルは必要です。
プロジェクトの一員として、自分がいかなる情報を、いかなるタイミングで、どのような形で入手すべきで、
いかなる情報を、どのような手段とタイミングで、誰に対して発信すべきかを、定義しなければなりません。
また、それらの情報を作り出すために、自分はどのような方針で、どのような段取りで、どのような行動をしなければならないか、
考え抜かなければなりません。これらは、すべて経営の基本です。
すなわち、経営スキルは、ほとんどの労働者に必要なスキルなのです。
労働者にまで「経営スキル」が必要となるようなネオリベ社会は間違っており、是正されるのではないか?
「そもそも、労働者にまで経営スキルが必要となるような社会の方が間違っているのだ」
という考え方があります。
たとえば、ネオリベに対して懐疑的な左翼の方々は、以下のような認識です。
2008年05月23日 CrowClaw そもそも「経営学」が成立してしまう資本社会が理不尽だと思うんだけど。「合理性」を言うなら先進国の被災者より途上国の人間を救済すべきでしょ。経営学の外部としての社会は徹底して不合理の世界ですよ。
2008年05月28日 hokusyu ドラッカー読んだこと無いけど、反ナチスだから経営学ってのは、単なる「政治的なもの」の封殺に過ぎないんじゃないの。
(赤太字による強調は私が行った)
ネオリベの方々の中には、
ドラッカーも読まずに経営者と労働者の関係について語っている、以下のような記述を見かけると、
いかにも地に足のついてない机上の空論に見え、アチャー(ノ∀`)と思われる方も多いかと思いますが、
ttp://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080731/p2
そもそも、少しでも楽な仕事で少しでも多くの給料をというのはがんばった労働者に与えられる褒美ではなくて、労働者が持つ不可侵の権利なのですから、大学で変に経営者の理屈を内面化するよりも、経営者と殴りあう作法を学んだほうがよほど世の中に貢献できる気がしますけどね。
左翼の方々は、そもそも、経営者と労働者の関係を語るのに、経営学の巨人と言われるドラッカーを読むことが重要だとは考えていないのです。
そもそも、ネオリベの人たちが掲げるような意味での「経済的自由」がなければ、
労働者は「経営」などというものを、それほど気にする必要はありません。
ネオリベの人たちの言う「経営」とは、市場メカニズムを前提とした上で、
「誰が」「何を」「どれだけ」「どのようにして」生産し、供給するのか、
という判断を適切に行うためのスキルですが、
ネオリベを否定する社会主義的な国家においては、
それらは、基本的には労働者の選んだ政府の官僚が決めることですので、
労働者が考える必要性は低いのです。
あるいは、市場メカニズム的な需給バランスから決定するのではなく、
労働者同士が「話し合い」で決めるものなので、
ネオリベ的な市場システムを前提とした「経営スキル」など必要ないのです。
すなわち、ネオリベ的な経済的自由こそが、労働者に経営スキルを要求する元凶なのです。
ネオリベ的な経済的自由が無ければ、労働者には、たいして経営スキルは求められないのです。
そして、小泉-竹中的なネオリベ路線は格差を造り出したという声も大きく、
日本社会は、それを否定する空気になってきています。
そして、その考え方が正しく、今後日本社会がネオリベ的な経済的自由を否定し、
機会の平等よりも、結果の平等を重視する方向へ進むのなら、
そもそも論として、労働者が経営スキルを身につける必要性は、ネオリベ的社会ほどには高くなりません。
ということは、今後、社会がどのくらいネオリベ方向に向かうのかどうかを見極めないと、
労働者がどれくらい「経営スキル」を身につける必要性があるかが、わかりません。
そこで、次に、今後の社会がどの程度ネオリベ方向へ進むのか、
その辺を見てみたいと思います。
そもそも、ネオリベの人たちは何を主張しているのか?
まず、むちゃくちゃ単純化して言うと、
「自由市場 + 機会の平等 + セイフティーネット 」
というのがネオリベの人たちにとっての理想社会です。
これらの意味がよく理解できず、
ネオリベの方々の主張を勘違いされている方が多いので、
ここで、ネオリベに対する迷信を整理しておきます。
【迷信1】ネオリベの人は、規制はどんどん撤廃すべきだと主張している。
【迷信2】ネオリベの人は、競争に負けた弱者は自己責任なので路頭に迷っても仕方がないと主張している。
【迷信3】ネオリベは、格差の固定化をもたらす。
【迷信4】経済効率ばかり追いかけるネオリベは地球環境を破壊する。
【迷信5】ネオリベの人は、格差の是正は一切すべきではないと主張している。
以下、これらについて解説します。
【迷信1】ネオリベの人は、規制はどんどん撤廃すべきだと主張している
一番誤解の多いのは、ネオリベの人たちが規制緩和・撤廃論者だという思いこみでしょう。
しかし、元祖ネオリベのハイエクやフリードマンの著作を読んで分かるとおり、
ネオリベの人たちの言う「自由市場」というのは、規制の無い市場のことではないです。
自由で公正な取引が円滑に行われるようにするためのさまざまな規制のある市場のことです。
たとえば、詐欺、契約不履行、通貨偽造、脅迫、
窃盗、私有財産の侵害、独占、談合などがあると、
自由な取引は妨げられてしまいますから、
それらをしっかり取り締まるような規制が充実している社会こそが、
ネオリベの人たちの理想社会です。
そういう、ウソとかズルとか卑怯とかがない「公正」な社会で、
みなが自由にwin-win取引し、みんなが豊かになるのが、ネオリベ的理想社会なわけです。
【迷信2】ネオリベの人は、競争に負けた弱者は自己責任なので路頭に迷っても仕方がないと主張している
もちろん、win-win取引といっても、誰かが欲しがるようなものを、ろくに持っていない人、
というのは、誰も取引に応じてくれません。
そういう人は、ネオリベ的自由市場においては、十分な収入が得られません。
ネオリベな人たちに言わせると、そういう人たちのために、
セイフティーネットを用意すべきだ、ということになります。
実際、dankogai氏はベーシックインカムを支持していますし、
ネオリベ系の経済学者の多くが、ベーシックインカムとよく似た「負の所得税」に類するものを、おおむね支持しています。
そもそも、元祖ネオリベであるハイエクやフリードマンからして、セイフティーネットの必要性は当然のこととしています。
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少なくとも、まともなネオリベ論者の中で、「セイフティーネットなど必要ない」
というような主張をしている人は、まずみかけません。
【迷信3】ネオリベは、格差の固定化をもたらす
貧乏な家の子供が十分な教育を受けられないために、
将来自分の望む仕事を得られないと、
格差は世代から世代へ引き継がれ、格差の固定が起きてしまいます。
ネオリベの人たちは、こういう格差の固定はそもそも
「機会の不平等」によってもたらされるものだとして、
断固否定します。
ネオリベの人たちは「機会の平等」を実現するために、
教育には手厚い政府保障をつけるべきだと言います。
フリードマンなんかは、より効率的な「機会の平等」を実現するために、
「教育クーポン」というシステムを提唱しています。
【迷信4】経済効率ばかり追いかけるネオリベは地球環境を破壊する
自由市場における、自由な取引が公害を生み出す場合があります。
経済学で言うところの、負の外部性の問題です。
この場合、自由経済体制自体が公害の原因であるように言われることがありますが、
これは間違いです。
第一に、自由経済諸国よりも、社会主義諸国の方が、はるかに酷い公害をまき散らしていました。
第二に、自由市場経済を阻害しない形で公害問題を解決する
経済学的手法が確立されています。
たとえば、マンキューの経済学の教科書のミクロ編第Ⅳ部「公共部門の経済学」で解説されている、
ピグー税と言われる手法です。
これは経済学で言うところの外部性を内部化することで、公害問題を解決する手法です。
ピグー税を導入すれば、ネオリベの人たちが理想とする自由市場を阻害することなく、
公害問題を効率的に解決し、社会全体の厚生を増大させることができます。
たとえば炭素税は、ピグー税の一種です。
このような正しい経済学的対処をすることで、
ネオリベ的な自由市場と地球環境保護が両立する、
どころか、むしろ、自由市場を認めない社会主義国家などよりも
はるかに地球環境にやさしい社会を作り出すことが出来る、
というのが、ネオリベの方々の言い分でしょう。
【迷信5】ネオリベの人は、格差の是正は一切すべきではないと主張している。
まず、「格差」の定義ですが、
格差には「機会の格差」と「結果の格差」の二つがあります。
ネオリベの人たちは、「機会の格差」はあってはならないし、極力是正すべきだと考えています。
また、「結果の格差」に関しては、論者によって意見が分かれるところもありますが、
「現実的な落としどころとしても、結果の格差は一切是正すべきではない」というような、
政治的にとうてい実現されそうにない主張をする論者はほとんどみません。
(一部に、痛い人たちがいますが。)
そもそも論として、ネオリベの人たちが言うような、
「自由市場 + 機会の平等 + セイフティーネット 」
を極限まで実行すると、必然的に「結果の不平等」、すなわち格差が拡大します。
そこで、現実的には、高所得者に重い税をかけて、それを低所得者に所得移転することになります。
ただ、これには副作用があって、高額所得者に重税をかけすぎると、
経済効率が落ちて、社会全体が貧しくなります。
つまり、結果の平等と経済効率はトレードオフなのです。
これは、まっとうな現代経済学の教科書にはたいてい出てくる、有名な問題です。
(人々のインセンティブをゆがめてしまうし、死荷重(deadweight loss)が発生してしまう)
また、もう一つの問題として、高額所得者への累進課税は、
ネオリベの人たちが重視する「経済的自由」を侵害するという点が挙げられます。
これは、経済学の問題というより、政治哲学の問題です。
たとえば、累進課税にすると、
生涯賃金が同じ場合、
公務員や大企業のサラリーマンのような安定した収入の人に有利で、
ベンチャーやフリーランスのような自由で不安定な働き方をする人には不利となります。
自由で冒険的で不安定な働き方をすると、
「ある年は年収が1500万だったけど、その後の2年間は無収入だった」
などということも起きたりします。
こういうケースでは、累進課税にすると、3年間、安定して年収500万円の人の方が、
はるかに税金が安くなってしまうのです。
これは、本来なら、どちらの働き方をする自由もあったはずなのに、
片方の働き方だけ不利にしますので、
実質的に、選択の自由が侵害されてしまうのです。
また、累進課税だと、どれだけ働いてどれだけ稼いで、どれだけ休んだり遊んだりするかの
配分を選択する自由が侵害されます。
たとえば、必死に働けば年収1000万円稼げる人が、必ずしも必死に働いて年収1000万稼ぐかというと、
そんなことはありません。
少しだけしか働かず、年収200万だけ稼いで、
のんびり本を読んだりネットで遊んだりするライフスタイル
を選ぶ場合もあるわけです。
ところが、累進課税だと、たくさん稼ぐと大量に税金を取られてしまうので、
猛烈に働きまくって年収1000万円稼いで都心のおしゃれなワンルームマンションに住んで、
女の子を自分の部屋に招いてきゃっきゃうふふするというような
ライフスタイルを選択する人が不利になってしまいます。
まとめると、結果の平等を追求すればするほど、
社会全体が貧しくなり、経済的自由が侵害されていく、
というトレードオフがあるのです。
なので、実際には、社会の大多数の人間が納得する割合で、
そこそこ経済効率と経済的自由を犠牲にして、
そこそこ結果の格差を容認する、
という、現実的な落としどころを探ることになります。
制限速度10Kmの社会
もちろん、左翼の方々は、こういうネオリベ的理想社会を否定します。
ttp://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080302/p1
小飼弾は、雇用の流動性とベーシック・インカムの必要性を説く。同様の未来像がhttp://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080302/1204438491で示されている。あなたが解雇されたとしても、あなたが競争に参加する意欲があり、自分の能力を磨いて「生産性の高い」人間になる限り、また仕事に復帰できる。そのような社会が望ましいと。
では、競争に参加する意欲の無い、あるいは意欲があっても「生産性が低い」人間はどうなるか?確かにベーシック・インカムがあれば最低限の生活は送ることができるかもしれない。しかし、彼ら/我々は社会にとって不用であり、足を引っ張るお荷物として処遇される。
当然、ネオリベの人たちは、これに対し、
「彼ら/我々は社会にとって不用であり、足を引っ張るお荷物として処遇される。」
などということはない、と反論するでしょう。
自由経済システムとベーシックインカムは、単なる経済システムであって、人間の価値を決定するシステムではない、と言うでしょう。
「競争に参加する意欲の無い、あるいは意欲があっても「生産性が低い」人間」も、ベーシックインカムで暮らしながら、
自分なりに豊かな人間関係を築き、自分なりの人生の意味を、自分で見つけていくことはできるし、それは自己責任だと。
国家が面倒を見るべきのは、あくまで経済的な豊かさまでであり、精神的な豊かさは個人の自己責任だ、と。
個人の精神的豊かさまで国家に与えてもらおうとするのは、勘違いも甚だしい、と。
まあ、実際には、自由経済システム下では、
働かずにベーシックインカムだけで生活する人たちを「足を引っ張るお荷物」と
考える人も出てくるでしょうから、hokusyu氏の指摘自体にまるで価値がないとは言えないでしょう。
しかしながら、それを理由にネオリベ的自由経済を否定するのは、
「時速50Km制限だと、運動神経がとても鈍い人の命が危険にさらされるから、
全ての道路の制限速度を時速10Kmにすべきだ。」
と言っているようなものではないでしょうか。
実際には、時速50Km制限の道路は、大多数の人にとって、自由に、気持ちよく走れるのです。
一部の、極端に運動神経が鈍い人のために、時速10Km制限にして、
大多数の人が好きな速度で走れる自由を奪っていいということにはならないでしょう。
すなわち、一部の弱者のために、社会の大多数の自由を大幅に制限してもいい、
という倫理観はバランスを欠いているのです。
もちろん、フリーダムSNS(自由な生き方について意見交換するSNS)でip0氏が指摘したように、実際の道路はみんながびゅんびゅん飛ばすから、時速10Kmで走りたいという人は、後の車に迷惑をかけるし、時にはクラクションで煽られたりしてしまい、困ってしまうでしょう。「時速50Km以下」というように、建前上は0〜50Kmのどの速度でも自由に走れるようなにはなっていますが、実質的には時速10Kmで走る自由はないじゃないか!という指摘です。
この問題については、大多数の普通の人たちの走る時速50Km制限の道路をメインの道路にしつつ、プログラマの某氏の言うように、if文にするのかtry-catchルーチンにするのかはともかく、時速10Kmで走れる歩道?バイパス?のようなものを整備してべきでしょう。*3
ネオリベが台頭することになった歴史的経緯
数十年前、イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどは、
hokusyuさんが以下の文章で言うところの「労働者が持つ不可侵の権利」が拡大する方向へ社会が進んでいました。
ttp://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080731/p2
そもそも、少しでも楽な仕事で少しでも多くの給料をというのはがんばった労働者に与えられる褒美ではなくて、労働者が持つ不可侵の権利なのですから、大学で変に経営者の理屈を内面化するよりも、経営者と殴りあう作法を学んだほうがよほど世の中に貢献できる気がしますけどね。
つまり、成果(=労働者の顧客価値の創造量)に関係なく、労働者に楽な仕事と多くの給料を保証しよう、という考え方で、
ネオリベとは全く相容れない考え方です。
だけど、それらの社会は、結果として経済が停滞し、社会全体が貧しくなり、
つぎつぎに行き詰まっていき、
その反動から、大きな痛みを伴うネオリベ的大改革が行われることになってしまいました。
そうしないと、その国の未来がなくなると政治家達が思いこんでしまうほどに、
社会が停滞・荒廃してしまったのです。
そして、それらの改革は、やがて経済を立て直し、
成長軌道に乗せ、社会全体の豊かさを膨らませ、ましたが、
一方で、格差を拡大し、相対的貧困を拡大させました。
ただし、イギリスなどの例を見ると、絶対的貧困は削減されたようです。
すなわち、貧困層の実質賃金はおおむね上昇しました。
当時に比べれば、セイフティーネットも充実するようになりました。
つまり、低所得者も少しは豊かにはなりましたが、
それをはるかに超えるペースで中産階級や金持ちが豊かになってしまったのです。
元映画俳優のドナルドだかロナルドだかのおっちゃんや、
もっとも男らしい男よりも男らしいと言われたりした鉄の女さっちゃんが
大義名分にかかげたトリクルダウン効果は、
前宣伝にくらべると、えらくしょぼいものでしかなかったのです。
その後は、たとえばイギリスのブレア政権の「第三の道」のように、
基本的にはサッチャー政権のネオリベ路線を堅持しながら、
効率と社会正義を両立させようとする方向になりました。
すなわち、社会正義は追求するものの、もはや、以前の、
「少しでも楽な仕事で少しでも多くの給料をというのはがんばった労働者に与えられる褒美ではなくて、労働者が持つ不可侵の権利」
などというような社会へ後戻りするようなことはなく、
あくまでネオリベを社会の基本骨格にして、それと矛盾しない形での
社会正義を追求しよう、という流れになったのです。
たとえば、スウェーデンで始まり、イギリスにも導入された「積極的労働政策(失業保険などの消極的な労働政策に対し、積極的に失業者にジョブコンサルタントを付けたり、職業訓練などを施して労働力の需給ミスマッチを解消するなど)」のように、ネオリベ的な自由市場に規制をかけるのではなく、逆に、労働者の方をネオリベ的な自由市場に適応させるような形で、貧困や格差を是正していくような福祉政策がとられるようになりました。
すなわち、ネオリベ的な自由経済社会は、もはや前提となってきているのです。
左翼の論理が、世界的に信頼を失っていった
そういう歴史的経緯から、今では、
「少しでも楽な仕事で少しでも多くの給料をというのはがんばった労働者に与えられる褒美ではなくて、労働者が持つ不可侵の権利」
という思想をベースに社会を設計すべきだ、と信じる経済学者や経営学者は、主流派ではなくなってしまいました。
少なくとも、現在、最も多く読まれている現代経済学の教科書にはそんなことは書いていません。
むしろ、そういう主張をしがちな労働組合こそが失業を生み、社会全体を貧しくしている、
ととれるようなことが書かれています。(たとえば、マンキュー経済学)
そういう「主流派」経済学の教科書は、世界中の大学で膨大な数の大学生に教えられています。
たとえば、マンキューの経済学の教科書は、
アメリカだけも500以上の大学、世界の数十カ国の大学で採用されています。
- 作者: N.グレゴリーマンキュー,N.Gregory Mankiw,足立英之,小川英治,石川城太,地主敏樹
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もちろん、これは単にこうした歴史的経緯だけに起因するものではなく、左翼の方々の批判の多くが的外れであるとの認識が広まってきたことも大きいかと思われます。
たとえば「労働者は搾取されている」とおっしゃる左翼の方がよくいらっしゃいますが、少なくともマルクス経済学の文脈で言う「搾取」という概念は的外れです。
このあたりの左翼の論理破綻ついては、以下の本で分かりやすく解説されています。(作者自身は、あとがきで「これは左翼への応援歌だ」と自己フォローされています。)
- 作者: 稲葉振一郎
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
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ネオリベに代わる社会システムは、未だ見えず
こうしてみてくると、
「自分の労働によって、顧客をどれだけ満足させたか」という経営的価値観をあまり気にかけないような労働者が
「少しでも楽な仕事で少しでも多くの給料」を得ることを「労働者が持つ不可侵の権利」
として保証するような社会システムが、持続可能であると信じている人たちは、時代の波に取り残された人々のようにも見えますが、
彼ら自身は、むしろ、「自分たちの考え方こそが未来を先取りしている」と考えているふしもあります。
2008年07月11日 I11 どうでもいい。資本主義はいらないし壊れて消滅する運命の旧システム。そんなものにすがってなんになるか。大事なことは壊れゆく資本主義の次に到来する社会をどう描き、どう生き残るかだ。
しかしながら、現在少数派である彼らが、はたして時代遅れの遺物なのか、それとも、未来を先取りしたビジョナリーなのか、それが明らかになるのは、まだ先の話ではないでしょうか。
ネオリベと左翼の根源的な対立点
ネオリベの方々が労働と報酬が切り離せないと考えるのに対し、
左翼の方々は、労働と報酬を切り離そうとします。
ここは、ネオリベと左翼の方々の、一番よく見られる対立点なのではないでしょうか。
それは、たとえば、以下の文に端的に表れています。
ttp://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080731/p2
そもそも、少しでも楽な仕事で少しでも多くの給料をというのはがんばった労働者に与えられる褒美ではなくて、労働者が持つ不可侵の権利なのですから、大学で変に経営者の理屈を内面化するよりも、経営者と殴りあう作法を学んだほうがよほど世の中に貢献できる気がしますけどね。
なぜ、ネオリベの方々が労働と報酬を切り離せないと考えるかというと、
ネオリベ的世界観が「win-winの交換」によって成り立っているからです。
すなわち、ネオリベ的社会の構成員は、「お互いが得になるような取引」を四方八方に対して行うことにより、win-win取引の網の目を編み上げることで、社会を形成するわけです。
このwin-win取引ネットワークを成立させているのは、リカードの比較優位の原理です。
複雑な網の目のように張り巡らされた取引ネットワーク全てで比較優位の原理が働くため、
社会全体が豊かになるのです。
また、比較優位の原理は、分業をもたらします。そして、分業をすると、選択と集中により、生産性向上速度が上がります。
同じことばかりやれば、それに熟練する速度が高くなるからです。
また、ネオリベ的社会においては、「取引相手にとって価値の高いモノやサービス」を作り出すことにより、自分も高い価値のモノやサービスを手に入れることが出来ます。
従って、経営的な意味での「顧客価値の創造」をいかにして行うか、という方法論、すなわち、「経営スキル」が重要になってくるのです。
ネオリベ的世界観においては、全ての人間は、フラットで独立した自由で自律的な存在で、各人が自己責任で価値を創造し、価値を交換します。
労働者も経営者も資本家も、誰が誰を支配するということも搾取するということもなく、それぞれ自立した自由な存在が、互いに自己責任で自由な取引をしているだけ、という世界観です。
そういう、階層のないフラットなネットワークが広がって、そのネットワークが市場メカニズムで調整されて、世の中の秩序が保たれながら、世界全体が発展していくのです。
しかしながら、左翼の方々は、このようなネオリベ的世界観自体を否定します。
左翼的な世界観からすると、ネオリベ的価値交換ネットワークで社会が成立しているわけではありません。
左翼的世界観からすると、「顧客価値を少ししか創造していない労働者は、報酬も少なくて当然だ」というネオリベのロジックは受け入れられないのです。なぜなら、左翼的世界観*4からすると、その労働者の顧客価値の創造量とは関係なく、全ての労働者には、無条件で「少しでも楽な仕事で少しでも多くの給料」が与えられるべきで、それは「労働者が持つ不可侵の権利」だからです。
つまり、左翼の方々は、ネオリベ的な「交換」による社会形成自体を否定しているのです。
左翼的な世界観は、現実的に成立可能なのか?
その労働者の顧客価値の創造量とは関係なく、全ての労働者には、無条件で「少しでも楽な仕事で少しでも多くの給料」が与えられるべきで、それは「労働者が持つ不可侵の権利」だ、ということを前提とする社会は、果たして現実的に成立可能なのでしょうか?
おそらく、それは成立不可能だ、というのが、現時点での主流派の直感なのではないでしょうか。
それは、相次ぐ高福祉国家の破綻や、社会主義諸国の崩壊から、多くの人が思い至った結論なのだと思います。
そして、それだけでなく、少なくとも現時点では、現在の人間の欲望システムと物理的な制約のいかなる組み合わせを行おうと、労働者の顧客価値創造と報酬を切り離すような左翼的な世界は、どのように方程式をこねくり回そうと、解として、というていありそうに思えない、というのが、主流派の人々の直感なのではないでしょうか。
人間の遺伝子を書き換えて、人間の欲望システム自体を書き換えるか、あるいは、とてつもない技術進歩で物理的な制約のほとんどが取り払われるような、はるかな未来社会においてしか、そんなものはありえない、という直感なのではないでしょうか。
ドラッカー的な仕事観こそが、人生を豊かにする最適解なのではないか
現在の人間の欲望システムと、現在の人間の技術水準と、入手できる資源の量を組み合わせると、
おそらくは、ドラッカー的仕事観が最適解なのではないでしょうか。
だから、現実的な処方箋は、むしろhokusyu氏の主張とはまったく逆で、
大多数の普通の労働者(制限時速10Kmではなく、制限時速50Kmを望むような)は、少なくとも「はじめて読むドラッカー」シリーズぐらいは、しっかり読んで、経営の原理をよく理解しておいた方がよいと思います。
少なくとも、歴史的経緯と今後の世界トレンドを見る限り、見通せる限りの未来社会においては、
そうすることで、顧客も、経営者も、資本家も、上司も、部下も、自分の家族も、自分自身も、幸せにすることができるような、
そんな社会情勢が続くと思います。
高福祉と経済成長を両立させている国もあるけど?
もちろん、高福祉と経済成長を両立させているような、スウェーデンのような国もあります。
しかし、スウェーデンといえども、
「自分の労働によって、顧客をどれだけ満足させたか」という経営者的価値観あまり気にかけないような労働者に対し、
「少しでも楽な仕事で少しでも多くの給料をというのはがんばった労働者に与えられる褒美ではなくて、労働者が持つ不可侵の権利 」
を認めるというような意味での福祉などではありません。
スウェーデンといえども、労働者の顧客価値の創造と報酬を切り離すようなことはしていません。
それに、スウェーデンは、高福祉と経済成長を両立させ続けるために、
かなりの速度で社会システムのイノベーションを続けています。
逆に言えば、これほどの速度で社会制度のイノベーションを続けなければ、
これだけの高福祉は維持できないかもしれないのです。
あれだけ膨大な時間をかけて議論したあげく、
無駄な道路の建設計画すら取りやめにできない日本に、
これほどの速度のイノベーションは、とうていできそうに思えません。
というか、高福祉と経済成長を両立できているのは、どこも人口1000万人に
満たない小国ばかりです。
スウェーデンは900万人、フィンランドは500万人です。
昔、ゾウの時間ネズミの時間という本がベストセラーになりましたが、
もしかしたら、高福祉と経済成長を両立させるには、
フットワークの軽い社会システムイノベーションをし続けることが不可欠で、
国家がある一定サイズを超えると、それが不可能になるという可能性もあります。
さらに、それらの国々は、フットワークを生かして、
卓越した教育システムや積極的労働政策など、
国力を大きく引き上げる強力な国家システムによって、
経済力が底上げされている、という要因も大きいかもしれません。
そういうプラス要因で、高福祉からくる負担を相殺しているところも大きいかもしれないのです。
さらに言うと、高福祉を支えるために、スウェーデンの税負担は重く、
そのため、若くて優秀な人材の流出が続いています。
こういう人材流出は、やがて、ボディーブローのようにじわじわ効いてきて
今後、経済成長率を押し下げる力として働くようになるリスクもあります。
これらのことから、スウェーデンの高福祉社会が、はたして今後も持続可能かどうかは、
まだ結論が出ていないと思うのです。
いずれにしても、フランスもとうとうネオリベ路線にかじを切りましたし、
人口が数千万単位の巨大国家で、
「少しでも楽な仕事で少しでも多くの給料をというのはがんばった労働者に与えられる褒美ではなくて、労働者が持つ不可侵の権利 」
と認めるような形での高福祉と経済成長を両立させ続けている国など、
少なくともこの惑星上には、どこにもないのです。*5
結論
こうして見てみると分かるとおり、今後ますますネオリベ化していく先進国社会においては、各労働者の顧客価値の創造量に応じて報酬が決まるようにならざるを得ません。
そして、顧客価値創造能力にとって極めて重大なスキルの一つが経営スキルです。
それだけではありません。
経営スキルを身につけた労働者は、自分自身だけでなく、プロジェクトチームの他のメンバーの価値創造能力も高めるので、多くの人に必要とされ、歓迎され、尊敬され、待遇もよくなっていきます。なぜなら、経営の本質とは、他人に仕事をさせることを仕事にするということだからです。顧客価値の本質を考え抜き、上司、同僚、部下に、適切な情報を適切なタイミングで伝え、適切な方針を示し、関係者全員が、適切な仕事を適切なタイミングで行えるようにするスキルこそが、経営スキルだからです。
一方で、経営を理解しない労働者は、単に自分の顧客価値創造能力が低いと言うだけでなく、プロジェクトの他のメンバーの顧客価値創造をも阻害します。顧客価値の本質について考え抜いていないために、顧客価値の創造のためのの適切な情報を、適切なタイミングで、適切な相手に伝えることができないからです。経営が分かっていない、というのは、そういうことなのです。
このため、経営を理解しない労働者と一緒に働きたいという人は少なく、どんどん居場所がなくなっていってしまいます。そのため、待遇もどんどん悪くなり、年収も下がっていってしまうのです。
この問題の解決策は明らかです。
もし、まだあなたが「はじめて読むドラッカー」シリーズを読んでいないのなら、
まず、それを読むことから始めるべきなのです。
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*1:ここで言う「経営」とは広義の経営のことで、ドラッカーの言う「マネージメント」の概念とほぼ同じだが、日本語で「マネージメント」というと、単なる管理職のことだと勘違いする人も多く、むしろ「経営」という言葉の方がニュアンスが伝わりやすいと考え、こちらの言葉を使うことにした
*2:だから、金儲けをしたければ、そもそも「企業の目的は金儲けだ」などという勘違いはしてはいけないのです。
*3:ip0氏の考えは、時速10Kmで走る人は、時速50Kmで走る人の1/5の収入でよい、というものです。なぜかというと、そうすると、時速50Kmの人たちは、経済学で言うところの機会費用による損失が生じるため、時速10Kmの道路に入ってこれなくなり、時速10Kmの人たちは、安心して快適に道路を走れるから、ということのようです。また、そういう形であれば、社会に無理な負担がかからず、政治的にも受け入れられやすいのではないか。唯一の問題は、いま、安心して走れる制限時速10Kmの道路がないことなのではないか、ということです。時速50Kmの道路のほかには、いきなり生活保護という、時速0Kmの道路しかないのでは困る、と。ネオリベ的な世界観からすると、1/5の収入になった場合、負の所得税によって補填され、2/5ぐらいの所得にはなるイメージでしょうか。いずれにしても、ネオリベ的には「選択の自由」は他の人たちの「選択の自由」をあまり侵害しない形で保証されるような社会が望ましい、ということになるのでしょうが。
*4:左翼というより、hokusyu氏特有の世界観か?そうでない左翼もいそう。
*5:道州制にして、福祉システムも、各州単位にして、好き勝手に変えられるようにすれば、もしかしたら、目がないではないかも知れないが、それにしても、「少しでも楽な仕事で少しでも多くの給料をというのはがんばった労働者に与えられる褒美ではなくて、労働者が持つ不可侵の権利 」というほどにはなりそうにない。