本書冒頭に置かれた「はじめに 翻訳者の神々」と題された前書きは、つぎのように始まっています:
「小説の翻訳のほとんどが、研究者や大学教員の「内職」であった戦前と違い、戦後、プロの翻訳者の手に移ったのは、翻訳の対象がフランス物から、アメリカ物に次第に移っていったせいもある。しかもその翻訳の多くは、文学青年や、詩人たちの生活の糧として行われることが多かった」
たしかに戦前はフランス物がさかんに翻訳されていたようで、ついで、数的にはそのフランス物には負けているかもしれませんが、旧制高校的な教養文化の影響もあってドイツ物の翻訳もそれなりになされていた事実をそこにつけくわえておくべきかと思います。いっぽうで、戦争前は『新青年』などの雑誌でも行われていた英米物の紹介は、戦中になると対戦国ということもあり、控えめだったのだろうと想像されます。
それが戦後になるとアメリカ物が、というわけですが、著者は、そのアメリカ物というか英米物の翻訳者として中村能三(よしみ)や井上一夫、また大久保康雄、田中西二郎についてそれぞれ名前を挙げながら、かれらのごく短いエピソードをそのあと書き連ねていきます。
評者など、新潮文庫や創元推理文庫における数多くの英米作品の翻訳者としてかつてかれらの名前を知り覚えたのですが、著者のいうとおり、戦後におけるまさに「翻訳者の神々」というべき人たちだったのでしょう。
つぎに本論に入っていくとしかし、その「はじめに」で言及された翻訳者たちの話はまったく出てこず、荒地派の詩人でもあった中桐雅夫、鮎川信夫、田村隆一など、詩を書きつつ生活の糧にと英米物の翻訳に手を染めていた人たちの当時のポルトレ(肖像)が素描されていきます。
そのあと、高橋豊、宇野利泰、福島正実といったこれはこれで名前のよく知られた翻訳家たち、そして仏文学者の斎藤正直、早川書房創業者の早川清のポルトレとつづきます。
じつは評者は、本書「はじめに」で名前の出た、戦後まもない時期に大量の翻訳をものし、「翻訳工場」を作った大久保康雄をはじめとした翻訳者たちのこと、そしてまたかれらが関わった戦後の翻訳出版における表と裏の事情などに興味があったので、それの詳細な記述がつづく本論ではなかったのが残念というほかありません。
翻訳出版の裏の事情というのはたとえば下訳のことですが、じつはしかし、本書「はじめに」には、中村能三は大久保康雄の「影武者」であったとか、加島祥造(彼も荒地派の詩人であった)が大久保の訳なる『怒りの葡萄』の下訳を、高橋豊が大久保の『ロリータ』の下訳をしたこととか、また宇野利泰は「下訳者の使い方の上手な人」で、「深町眞理子を初め多くの、優れた翻訳者を数多く世に送りだした」というように下訳事情についてごく簡単にふれた記述があることはあるのですが、残念ながらそこでおしまいになっています。
本書は、戦後著者自身が個人的に知り合った何人かのごく限られた翻訳者との交友録というべきものでした。
なお、1953年から早川書房で刊行がはじまったハヤカワ・ポケット・ミステリ、略してポケミスは、最初はあまり売れなかったということが本書で触れられています。
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戦後翻訳風雲録: 翻訳者が神々だった時代 単行本 – 2000/3/1
宮田 昇
(著)
- 本の長さ235ページ
- 言語日本語
- 出版社本の雑誌社
- 発売日2000/3/1
- ISBN-104938463881
- ISBN-13978-4938463885
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商品の説明
商品説明
明治維新以降の西洋文化の輸入と摂取は、その多くが「翻訳」によって担われてきた。『解体新書』の昔から、日本では、翻訳が近代を形づくるうえでの重要な技術の1つだったのである。そのため、翻訳の仕事は長いこと、主に学者たちの専売特許であった。
専業の翻訳者(プロ翻訳者)が本格的に登場したのは、戦後になってからのことだ。彼らの出現には、「翻訳」が学問や教養から解放され、一般向けの「娯楽」へと変身を遂げることが不可欠だったが、これを可能したのが、「翻訳エンタテインメント」の隆盛である。本書では、占領期に始まり、復興期と経済成長期を経た高度消費社会で完成した、「翻訳エンタテインメント」というこの国独特の文化が、その時々にどんな役割を果し、誰によって担われてきたのかが、紀伝体形式による「翻訳者」の豊富なエピソードを通じて語られている。
著者は、かつて翻訳出版社の編集者であり、一時は自身が翻訳者であり、その後、海外翻訳権エージェントとして時代を画した、斯界(しかい)のリーダーといえる人だ。その豪胆かつ繊細な交友の様子には、管理社会以前の世相がリアルに感じられて、副題の「風雲録」に見合った魅力がある。神々として語られた「詩人」や「編集者」、そして、「映画翻訳者」の群像には、たとえば田村隆一や清水俊二といった名がある。翻訳の側面から観た戦後出版文化史としても、十分価値のある1冊といえるだろう。(玉川達哉)
内容(「MARC」データベースより)
戦後しばらくの翻訳者たちには奇才、奇行の目立つ人が多く、逸話は事足りるほど多くある…。中桐雅夫、鮎川信夫、田村隆一、高橋豊、宇野利泰など、人間的な魅力溢れる翻訳者たちの逸話を、元編集者が語る。
登録情報
- 出版社 : 本の雑誌社 (2000/3/1)
- 発売日 : 2000/3/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 235ページ
- ISBN-10 : 4938463881
- ISBN-13 : 978-4938463885
- Amazon 売れ筋ランキング: - 932,434位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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著者について
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- 2021年9月10日に日本でレビュー済みAmazonで購入宮田昇(1928-2019)。1952年から早川書房に3年。その後タトル商会を経て、ユニ・エージェンシーを設立。翻訳出版業界の裏の裏を知る存在である。
本書は戦後の翻訳家たちの風雲録、あるいは辛口のレクイエム。存命であれば書けなかったこともたくさん出てくる。当時の下訳者や翻訳工房の裏話、人間模様がおもしろい。目玉は福島正実、早川清、田村隆一。
日本SFの礎を築いた福島正実は宮田と同年齢。20歳で知り合い、その27年後宮田は福島の最期も看取った。もっとも親しい者の書いた略伝とも読める。
早川清は早川書房の相撲好きの社長。そのワンマンぶりが時代を感じさせる(忘年会では自作のちゃんこ鍋を振舞ったという逸話が微笑ましい)。経営はワンマンだったが、企画・編集にはほとんど口を挟まなかったようだ。
田村隆一は早川書房での上司。のちに大詩人となるが、無頼、いい加減、そして無責任な行状の数々。彼の結婚・離婚問題に義憤を感じて、宮田は彼とは絶交状態になった。しかし、自分がいまあるのは「田村のひと言」だとも書く。田村は、本書の連載の直前に亡くなっている。
悲喜こもごも、愛憎相半ばする書き方に思わず引き込まれる。
(p.s. 新編もあるが、この旧編のほうがすっきりしている。)