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知識の哲学 (哲学教科書シリーズ) 単行本(ソフトカバー) – 2002/6/20
戸田山 和久
(著)
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知識を獲得するとは、科学を営むとは、いかなる「現象」なのか。正当化は知識に必要なのか。認知活動の目的は真理に至ることなのか。古典的な「知識の哲学」を解体し、自然現象としての知識を捉える新たな認識論のパラダイムを構築する、意欲的・個性的な教科書。
- ISBN-104782802080
- ISBN-13978-4782802083
- 出版社産業図書
- 発売日2002/6/20
- 言語日本語
- 本の長さ272ページ
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
これまでの「知識の哲学」を解体し、自然現象としての知識を捉える新たな認識論のパラダイムを構築する、ユニークな教科書。
登録情報
- 出版社 : 産業図書 (2002/6/20)
- 発売日 : 2002/6/20
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 272ページ
- ISBN-10 : 4782802080
- ISBN-13 : 978-4782802083
- Amazon 売れ筋ランキング: - 43,334位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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戸田山和久 Todayama Kazuhisa
1958年東京都生まれ。89年、東京大学大学院人文科学研究科単位取得退学。専攻は科学哲学。現在、名古屋大学大学院情報学研究科教授。
著書に『科学哲学の冒険』(NHKブックス)、『「科学的思考」のレッスン』『恐怖の哲学』(以上、NHK出版新書)、『論理学をつくる』『科学的実在論を擁護する』(以上、名古屋大学出版会)、
『知識の哲学』(産業図書)、『哲学入門』(ちくま新書)、『教養の書』(筑摩書房)、『思考の教室』(『新版 論文の教室』の姉妹編、NHK出版)など。
カスタマーレビュー
星5つ中4.5つ
5つのうち4.5つ
21グローバルレーティング
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上位レビュー、対象国: 日本
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- 2014年10月30日に日本でレビュー済みAmazonで購入
- 2014年1月13日に日本でレビュー済みAmazonで購入知識の哲学は、本当の教養人を育てるために、もっと普及すべきだと思う。
そのためには哲学者は、もう少し素人向けの、レベルの高い本の出版を考えてほしい。
どこやらの下卑た、お笑いのできそこないの本は、もうたくさんである。
- 2010年6月6日に日本でレビュー済み哲学の一分野である認識論の入門書。
基本的な専門用語をひとつひとつ説明してゆくところから始まり、
当該分野における主張の歴史的展開をあくまで批判的に読み解いていくため、
予備知識のない素人でも核心に迫ってゆくことのできる好著。
初心者・門外漢としての引け目やストレスを感じさせることなく、
読者の気付かぬうちに本格的な議論へと引き込んでゆく自然な流れは見事である。
ただし、本気で考える意欲が必要であることは言うまでもない。
本文で触れた用語には必ず翻訳元にあたる英語を付し、
巻末の文献一覧にも英語文献を豊富に紹介しているため、
これから真面目に認識論を勉強してみようとする読者には心強い。
まさに入門書の鑑と言ってよかろう。
哲学的思考の雰囲気を掴むことができるため、
認識論にとどまらず、哲学への入門書として一般人に最適である。
- 2020年12月15日に日本でレビュー済みAmazonで購入この本は自分がいた大学の「哲学」でも参考書の筆頭に挙げられていました。おそらく哲学界隈では入門書として重宝されているのでしょう。
構成は非常にわかりやすいです。哲学にありがちな、未定義語の濫用や難解な文章や結論の先延ばしは、だいぶ抑えられています。それぞれの哲学者の重要なアイデアを抜き出して整理しており、自分のような常人にも読めるものになっています。哲学者たちの議論を一般人の手に届くものにした、それだけでも素晴らしい業績だと思います。プラトン、デカルト、ヒューム、論理実証主義者たち、カルナップ、クワイン…先人が抱いた疑問について、哲学者たちはあーでもないこーでもないとこねくり回して苦労してきたのだという歴史がよく分かります。
最終章では、科学の成功を哲学が理解できるようにしなければならないという発想から生まれた(?)認識論の社会化なる議論へ話が進み、以下のように締め括られます。
「知識はさまざまな形でこの世界に実現しうる。たしかに、個人の心の中に信念という心的状態として実現している知識もあるだろう。しかし、それだけではなく、集団を担い手として考えざるをえない知識もあるし、データベース中にしかない知識、図書館に蓄えられた知識など、個人の信念ではない知識がたくさんある。新しい知識論はこうした知識を視野に入れなくてはならない。したがって、新しい認識論は、現代科学における知識算出の特徴を論文算出システムとしてとらえようとするジャーナルシステム論や、図書館やデータベースが科学的知識算出においてどのような役割を果たしているかを研究する図書館情報学をその一部として含むことになる」「新しい認識論という単独の研究プログラムはまだ存在しない。しかしわれわれは『最初の土台から新たに』認識論を再構築すべき時代に生きている。読者のみなさんはそれを寄る辺もなく心細く思うだろうか。それともとてもエキサイティングだと思うだろうか。私はとてもわくわくしている。新しい学問を生み出すことに哲学者として関わることができるという体験はめったにあることではないからだ。」
なるほど、その心意気、大いに結構です。しかし重要な観点がごっそり抜け落ちていないでしょうか。
それは、当の科学において、本書で取り上げられてきたような哲学主流派らの見解は、全く役に立っていないし、新しい知識論も要請されていないという事実です。(ここで、哲学ムラに洗脳された人は「いや、哲学と科学では知識の意味は違う」なんて言い出します。かわいそうに。以下は、そんな詭弁を詭弁だと理解できる心ある識者、まだ洗脳されていない哲学初学者に向けて書きます)
戸田山さんはデカルトを持ち上げます。確かにデカルトの時代には、人がいかに知識を獲得できるかという問題は未解決でした。ドグマ的な教義から離れ、自然の真理を探究する方法について、誰もはっきりとした手法を知らなかったのです。しかし、そんな時代はとうに過ぎ去っています。
本書を通して、一度も名前を取り上げられなかった哲学者がいます。カール・ポパーです。彼が1930年代にほぼ確立していた、科学と非科学の境界設定基準は、哲学者たちがなんと言おうと現実に全ての科学者に受け入れられています。
ポパーの議論を本書からごっそり消した意図はどこにあるのでしょうか。知識論の歴史上、彼の研究成果には言及するほどの特段の価値はなかったのでしょうか?しかし、「反証可能性」という言葉は誰でも知っています。科学の現場では仮説の設定、実験テストによる検証、そして、よりよい説明の追求がプロトコルとして埋め込まれています。科学者であれば「正当化された真なる信念」なんて言葉は使いません。
戸田山さんがポパーに関する記述を入れたくなかったのは、哲学へ新規参入する学生がポパーを知ってしまえば哲学の欺瞞が暴かれてしまうからでしょう。
この辺りの事情は、哲学という分野の背景的知識とも呼べるものです。哲学者は語りませんが、哲学はすでに根幹から腐っているのです。事情の説明は、アラン・ソーカルの本に詳しいです。
『「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用』 (岩波現代文庫,2012)
『「知」の欺瞞』はポストモダン哲学について特に批判したものですが、その議論の射程は哲学の界隈全体(や一部の経済学と心理学)に及びます。本書と直接関係する箇所は第4章の「危機にある認識論」での議論ですね。
哲学者は20世紀以降、まともに科学に貢献していないにも関わらず、科学の成功を羨ましがり、その成果に「科学も社会学の一部」だのと言い掛かりをつけて分析しようとするのです。科学を理解せずにいたずらに話をややこしくして議論のための議論を繰り返す哲学者たちの欺瞞的な態度を暴いた『「知」の欺瞞』について、哲学者たちは当然、言及したがりません。「現代思想」誌ではソーカル事件後に何度か特集が組まれました(1998年7-8月号,11月号)が、これを読むと日本の哲学者たちは批判を受けたポストモダン哲学者たちを概ね擁護する姿勢であることがわかります。相対主義については戸田山さんの本書でも批判が加えられているところですが、ソーカルを読んで免疫を獲得した上で本書に戻れば、その批判は全く不十分で、むしろ科学者の研究プログラムに対する哲学者の舐め腐った典型的態度を読み取ることができます。(ただ、戸田山さんを擁護するならば、より最近の『哲学入門』などは科学のうち特に哲学的に絡みのある分野を網羅的に紹介しようと努力してはいると思います。また、戸田山さんご自身も哲学の界隈の権威主義的な空気に嫌気をさしているのではないかとも思います。)
ということで、本物の知識論を学びたいのであれば、ポパーを読もうということです。『推測と反駁』や『フレームワークの神話』(クーンらへの反論)あたりが筆頭ですが、重いので、通常目的なら岩波文庫からでている自伝『果てしなき探究』を読むだけで十分だろうと思います。量子コンピューターの発明者である理論物理学者のデイヴィッド・ドイチュや、元トレーダーの認識論者ニコラス・タレブは、ポパーが哲学ムラから除け者にされてきた歴史事情もわかった上で認識論をブラシアップしていますから、読み応えがあります。将来の不確定な事象をどう知りうるかという問題は統計と関わりますが、この辺りはタレブのほかシャロン・バーチュ マグレイン著『異端の統計学「ベイズ」』などで学べるしょう。
哲学が、自然の真理を探求するという、本来のあるべき姿に戻りますように!
- 2014年2月26日に日本でレビュー済みAmazonで購入20世紀以降の英米の分析哲学に於ける知識の問題を扱ったものとしては比較的読み易い。但しそれ以前の認識論や懐疑論の系譜は殆ど扱っていないので(辛うじてヒュームやデカルトがちょいと触れられている位)、大陸系の哲学も期待している読者にとっては肩透かしも良いところ。逆に古臭い伝統なんか無視して今時の哲学の最先端だけ知りたいんだ、と云う読者には大いにお薦め出来る。分析哲学の本に有り勝ちな細々とした分析も少ないので、余り頭を痛めずに読み通すことが出来るだろう。本書で扱っている様な問題のみが「知識の哲学」の問題なのではないとさえ心得ておけば、それなりに使える。
- 2005年7月6日に日本でレビュー済み伝統的な認識論(知識の哲学)は紀元前4世紀から2300年間にわたり,知識を「正当化された真なる信念」として捉えてきた。そして正当化の根拠について,探求してきた。
或る信念は,その信念が得られる元となる信念から推論によって導出されるとすれば,どこかまでも遡ることによって,もはや正当化される必要のない不可謬の基礎的な信念に行きつけるのだろうか。不可謬が無理でも,せめてかなり確実な信念に行きつけるのだろうか。もし基礎的な信念が無理なら,これに代えて直感やセンスデータでもって基礎づけられないか。これも無理なら,外界との関係性,あるい信念導出のプロセスの信頼性でもって,信念を基礎づけられないか。
著者は片っ端からだめ出しをしていく。信念がなんらかの正当性の根拠によって知識に格上げされねばならないという固定観念を批判する。
信念を基礎づけによって正当化することを放棄することは,自然科学を哲学的認識論で根拠づけることの放棄となる。むしろ認識論は自然科学の一部として,われわれが実際にどのように信念に達しているか,脳科学,認知科学,生物学,心理学の成果を活用して,考えるべきである。この現実を認めず,伝統的認識論に固執するのは,怠け者の哲学者である。
ところで,そもそも「真理」や「信念」とは認識論にとって大切なものか。もし真なる信念の形成が生物の生存にとって最適な戦略ではないなら(そしてないらしい),認識論の前提自体があやしい。真理や信念に関わる必要はない
のではないか。ということは,「心」なんて問題ではない。
そこで,新しいこれからの認識論は,真理や信念を問題とせず,プラグマティックに,しかも自然科学の一部として学際的になされるべきである。
認識論の伝統からの脱却は,心からの脱却らしい。唯物論者や人間機械論者にとってはそれでもよいだろうけれど,なんか悲しいお話だった。