本著はレイモンド・カーヴァ―のいくつかの短編集の中から村上春樹の翻訳によってあらためて編纂(紹介)されたものである。たとえば、短編集『お静かにお願いします』から「ダイエット騒動」「隣人」「自転車と筋肉と煙草」、そして『カセドラル』からは「ささやかだけれど、役に立つこと」「轡」、このほか『象』『愛について語るときに我々の語ること』からもいくつかの作品が抜粋され、このようなスタイルで刊行されたことになる。
著者がアメリカ社会においてどのような生活を営みどんな暮らしをしていたか知る由もないが、彼が描く世界から全編を通じて感じとれるのは独特の文体から放たれる中流以下のいわばアメリカ社会の底辺に生きる者たちの日常的感覚そのもののようにおもわれる。また、これらの短編がきわめて的確で無駄のない言葉として短いセンテンスでつづられていることと詩的な表現にも似た趣きを感じとれることも特筆されていい。
先ずは「ダイエット騒動」「隣人」とつづくのだが、ある夫婦の他愛のない日常が描写されているにすぎない。ところがありふれた会話を通して現れてくるのはその日常の中にある絶妙な気もちの動きと心理的な働きがいいようのないリアリティを感じさせる。
表題作の「ささやかだけれど、役に立つこと」は短編集『カセドラル』の中から紹介されたものだがこの作家の作品の中でもやや異質に感じられるのはどういうことだろう。それは愛とサスペンスにあふれた圧倒的な臨場感と人間味あふれる暖かさを感じさせるからかもしれない。
誕生日をひかえた少年が交通事故にあい意識の戻らないままわが子につきそう夫婦の葛藤と緊迫したようすが時間の動きとともに過ぎていく。
「ねえスコッティ―、お母さんとお父さんよ」と彼女は言った。「ねえスコッティ―」少年は二人を見た。でもよくわかっていないようだった。それから口が開いた。目はぎゅっと思い切り閉じられた。そして肺の中のあらんかぎりの息を吐き出すようにして、彼は唸り声をあげた。それで彼はリラックスして、力が抜けたように見えた。末期の息が喉を抜けるとき、彼の唇はぽかんと開かれた。ぎゅっと嚙みしめられた歯のすきまからその息は安らかに抜け出ていった(p122)
少年は死んだ。
「ねえ、ほら、ハワード」と彼女は優しく言った。「あの子死んじゃったのよ、もう。私たちそれに慣れなくちゃならないのよ。私たち、私たちだけなのよ」(p125)
この状況下で誕生祝いにケーキを注文していたパン屋から電話がかかってくるのだが、気が動転していたためか夫婦にはそれが悪質ないたずら電話のようにおもえて互いに被害妄想に支配される。
「何を言っているんだい?」「ショッピングセンターよ。電話をかけてる相手がわかったのよ。誰だか知ってるの。パン屋よ、あん畜生がかけてるのよ。あいつにスコッティ―のバースデイ・ケーキを焼かせたのよ。そいつが電話をかけてきているのl。電話番号を知ってて、それで電話をかけてきているのよ。ケーキのことで、私たちにいやがらせしてるのよ。あのパン屋、畜生め」(p127)
「子供は死にました」と彼女は冷たい平板な声で言った。「月曜の朝に車にはねられたんです。死ぬまで私たち二人はずっと子供に付き添っていました。でももちろん、あなたにはそんなことわかりっこないわね。パン屋には何もかもがわかるってわけもないし。そうよね、パン屋さん?でもあの子は死んだの。死んだのよ、こん畜生!」それが沸きあがってきたときと同じように、その怒りは突然すうっと消えていって、何かもっと別のものに姿を変えてしまった。(略)こんなのこんなのあんまりだわ」
ハワードは妻の背中のくびれに手を置いた。そしてパン屋を見た。「恥を知れ」とハワードはパン屋に向かって言った。「恥を知れ」(p130)
パン屋は二人のためにテーブルの上をかたづけ「本当にお気の毒です」といった。そして「あたしは奥さんが電話で言われたような邪悪な人間じゃありません」といい話をつづけた。
「何か召し上がらなくちゃいけませんよ」とパン屋は言った。「よかったら、あたしが焼いた温かいロールパンを食べて下さい。ちゃんと食べて、頑張って生きていかなきゃならんのだから。こんなときには、物を食べることです。それはささやかなことですが、助けになります」と彼は言った。彼はオーヴンから出したばかりの、まだ砂糖が固まっていない温かいシナモン・ロールを出した。(p132)
二人はロールパンを食べ、コーヒーを飲んだ。それでも二人は疲れきっていて深い苦悩の中にいたが、注意深くパン屋の言葉にじっと耳を傾け肯きながらその話を聞いた。彼らは夜明けまで語り続け誰も席を立とうとは思わなかった、としている。
このほか「自転車と筋肉と煙草」「引っ越し」「メヌード」「象」など印象的でおもしろかった。
訳者の村上春樹はレイモンド・カーヴァーについて次のように言っている。「この人はとても正直に言葉を選んで文章を書いている」と。詩人だからといえばそれまでだが、訳者の想像力は言葉がもつ信ぴょう性や日常性を意識する感覚からそのように感じさせるのかもしれない。
彼はいついかなる場合にも、本当の自分の言葉しか使わなかった。自分のからだを通過した言葉しか使わなかった。ある場合にはそれはいささかぎこちない、あるいはみっともない言葉でさえあった。陳腐な言葉でさえあった。でもその言葉がそこにふさわしいと思えば、彼はためらわずにそれを使った。小説的にもっとバランスのとれたまともな言葉・表現・用語が他にあるだろうと思えるときでも、彼はそれが自分の言葉だと思えば、そのぎこちなさ・みっともなさ・陳腐さを進んで選んだ。彼の文章にはそういう誠実さがある。(p263)
本当にどの作品をとってみてもそう思えてくるから不思議だ。つまり、この文章の<誠実さ>こそいうまでもなく作家と等身大の人物たちの話であり作家の日常と地続きである、ということではないだろうか。
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ささやかだけれど、役にたつこと 単行本 – 1989/4/1
レイモンド カーヴァー
(著),
村上 春樹
(翻訳)
全体的に使用感があります。 表紙カバーに汚れ、傷み、シミ、 紙面に汚れ、シミ、擦れなど。 ですが読むのに問題は全くありません。 本文は綺麗な状態です。
- 本の長さ269ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日1989/4/1
- ISBN-104120017842
- ISBN-13978-4120017841
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (1989/4/1)
- 発売日 : 1989/4/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 269ページ
- ISBN-10 : 4120017842
- ISBN-13 : 978-4120017841
- Amazon 売れ筋ランキング: - 351,695位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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- 2018年1月9日に日本でレビュー済みAmazonで購入原書が気になりますね。
訳をされた、村上春樹さんの世界になっている感じも受けました。
- 2012年2月15日に日本でレビュー済みAmazonで購入すごく透明な感じのする文章。訳もいい。
でも彼は文章家ではあるが作家ではない。玄人受けはするのだろうが。
彼がノンフィクションや伝記・史実物など書いているのであれば読んでみたい気はする。
- 2016年6月8日に日本でレビュー済みAmazonで購入内容はともかく、本が汚すぎてがっかり。
もちろん、中古品だということは、承知の上でしたが。
- 2022年12月16日に日本でレビュー済み年代追って翻訳が、あるんだけどその時によって好きなバージョンがあります。誰ともささやかなパンを分け合えない世の中になっていたとき、気づいてももう遅いかもしれないけど、やり直そうとする気持ちは唯一の望みかもしれないね。こんな国じゃ到底無理だけどもし子供がいたら名前を、望みにしたかったです。鈴木祥子さんの曲、私の望みが大好きだから。しかしすごな何も相手にもしてくれない相手に防衛って。もはやオラオラ!と先制攻撃しかけているとしかおもえない感情、複雑。孤独なさみしい国になったね。貧乏で誰も相手してくれないね。
- 2004年3月16日に日本でレビュー済み「A small, good thing」を村上春樹は「ささやかだけれど、役にたつこと」と名訳した。その当時つき合っていた女の子との合言葉は「ささやかだけれど、役にたつこと」だった。限られた時間の中、僕たちは精一杯二人きりの時間をむさぼった。ある事情で別れざるを得なくなったとき、最後に彼女は僕にこの本をプレゼントしてくれた。
- 2003年11月12日に日本でレビュー済み枝葉末節のない、伏線なんて全然ない短編ばかりで、しかも救いのない結末で終わる話が多いので、読み終わりと「えっ、これだけで終わり?」と思うことしきりです。でも後味の悪さの後に残る暖かさのようなものがどの話にも浮かんでいるのがレイモンド・カーヴァーの不思議な技。名作の「愛について語るときに我々の語ること」と「ささやかだけれど、役にたつこと」を読めるだけで、この本の価値があります。
- 2004年12月19日に日本でレビュー済み読んだ人によって、大分印象がや気が付くことが
違ってくるだろうなと思う本。
私には、??がいっぱい。
それだけに、普段知らないことや気が付かないことが
たくさんあるんだろうなと思わされた。
そして、
それは自分が幸せであるということなのかもしれない。
とも思ったりして。
でも、私にはまだこの本を手にとるには早かったみたい。