ファイナンスで知るべきことってのは、実はそんなに多くはない。式としては 3 つあれば、理論としての用はだいたい足りる(それを実際に使うとなると、また話は別だけれど)。一つは CAPM、一つは M&M、そしてもう一つは、ブラック・ショールズの式、というやつだ。
CAPM というのは、リスクが高いと、それなりの見返り(リターン)が見込めなければ人はお金を出さないよ、というのをきちんとモデル化したものだと思えばいい。M&M というのは、企業の価値を決めるのはその企業がどういう事業をするかで、そのためのお金をどうやって集めようと関係ないよ、というのを式にしたものだ。
ここまではまあ、わかりやすいといえばわかりやすい。が、最後のブラック・ショールズの式というのは、ちょっとたちがちがう。これはオプションというものの値段を理論化したものだ。そしてオプションというのは、いわば、ないものねだりのいいとこ取りみたいなものだと思えばいいだろうか。「もしかしたら」という希望の、自分に都合のいい部分だけにお値段をつけるにはどうしたらいいか、という理論なのだ。
たとえばある株があって、値段は上がるかもしれない、下がるかもしれない。あがったときの儲けはもらえて、下がったときの損はかぶらなくていいというムシのいい話があったら、いくら出すね? オプションというのはそういう話。なぜそんなことができるかというと、いまお金をよけいに出して将来絶対に損をしないようにしたい人がいる一方で、将来損をする可能性があってもいいから、いまお金がほしい人というのもいるからだ。そしてこの例で、もしその株が下がるのが確実なら、だれもそんなオプションにお金は出さない。ベースとなる資産(ここでは株)が上がるか下がるかわからないほど、つまり不確実な部分が多ければ多いほど、オプションというのは価値が高くなる。オプションはそういう不思議な性質を持っている。たとえば、1,000 円の株が来年には 1 円上がる/下がるかもしれないとする。だれも大して心配しないだろう。でも、それが 1,000 円上がる/下がるかもしれなければ? 下手すりゃすっからかんだ。いまちょっとでもお金を払っても、損をしないように保険をかけておきたい人はそれなりにいるはずだ。
ちなみにこの理論の片割れショールズ先生は、1997 年のノーベル経済学賞をとり、そしてこのオプション理論に基づいた投資ファンドをつくった。それが LTCM (Long Term Capital Management)。新聞を読んでいれば、どこかでこの名前をきいたことがあるだろう。1998 年の秋に、突如すさまじい損失を計上し、ウォール街中が大恐慌に陥って、アメリカ政府が火消しに乗り出してきてやっと騒ぎがおさまった。オプションは、確実だと思っていたところにちょっと不確実さが出たとたん、こういうすさまじい落とし穴もつくりだす。
で、それがどうした? うん、ぼくはいまのインターネットの通俗的な人気が、このオプション価値の考え方で少し理解しやすくなるんじゃないかと思っている。そしてそれが人類にとって決していい影響でもないことも。インターネットを通じて、ひきこもりがちの人が新しいコミュニケーションを獲得するという一部のお医者さんの楽天的な意見を、ぼくはとってもバカにしている。インターネット上で展開されているのは、往々にしてコミュニケーションではないのだもの。むしろそこにあるのは、いま説明したオプション価値――つまり「もしかしたら」成立するかもしれないコミュニケーションの期待――により、実際のコミュニケーションがいつまでも先送りにされている現象だからだ。そしてそのベースとなる「価値」を考えることで、たぶん携帯電話なんかでみんながのべつまくなしに際限なくしゃべっている現象についても、少しは考えやすくなるんじゃないかと思っているのだ。
まず一つ押さえておくべきこと。インターネットのもたらした影響は、ビジネスより個人のほうが圧倒的に大きいはずだ、ということ。
インターネットを使って多くの企業は、極端に効率があがったりはしていない。もともと通信コストはそんなに高いものじゃなかった。総コストの 1、2% くらいかな。それがちょっと下がっても、多勢に影響はしないし、さらにもちろんそしてこれまで情報流通の効率の悪さだと思われていた部分が、実は情報の信頼性を高めるための手段だったことも、なんとなく理解されつつあるだろう。たとえば稟議とかね。もちろんいまの稟議というのが、連帯責任という名の無責任を醸成する場なのは事実なんだけれど、ではそれをネットでどう置き換えるか? 代案はまったく出ていない。もちろん、小さい個別の改善例はあるだろう。でもそれが全体としての効率化につながっているか? そして予想外の副作用(たとえばウェッブサーフィンで半日費やす社員)をもたらしていないか? よくわからないが、一時みんなが口走っていたような、革命的な生産性の向上なんかは起きていないのは確実だ。
そしてインターネットで世界に情報発信といって、アメリカの花屋さんに世界中から注文がきたエピソードは華々しく紹介されたけれど、そこに一時的な物珍しさ以上の何があったか? なにもないだろう。すでに熾烈な情報収集合戦の行われていたビジネスの世界では、知ってほしい相手にはすでに自分の企業のなんたるかぐらい伝わっているし、だれがライバルかだって、インターネットもウェブもなしにちゃんとわかっていたはずなのだ。そうでなきゃ商売やってけるもんか。
むしろそれが大きな影響を与えたのは、個人の意識の領域だった。個人レベルで見たとき、インターネットは潜在的なオーディエンスの母集団を広げることになった。もちろん、それがいつまでも潜在的なものであり続け、顕在化することは滅多にないけれど、可能性はある。そして「世界に向けて情報発信」というお題目はそういう可能性をみんなに浸透させる役にだけは立っているのだ。
なぜああも無数のホームページができて、しかもそれが続いているのか? しばらく前に「インターネットの中年化」という文を書いたときには、ぼくはそれが物珍しさのせいだと思っていた。あきれば個人ページなんてみんな、いずれ投げ出されて風化するだろうと思っていた。いや多くの人は、更新する中身もなく、いずれ己の出している情報の中身のなさに赤面して自分でやめるかも、とさえ思っていた。
しかしそうはなっていない。そろそろ新規の参加も、一時ほどの勢いを失っているはずなのに、ネット上の活動はあまり変わったようには見受けられない。消えるページもあるけれど、そんな極端に多い感じではない。
一方で中身的には、大した変化は見られない。身辺雑記にお愛想の身上書。ちょっとはやりとしては、まあ掲示板をつくる例が増えているくらいだろうか。そしてそれが以前より何か反響が増えるとかしている様子はあまりうかがえない。
なぜ相も変わらぬものばかりなのだろうか。なぜある程度反響がなかったりしたところでなんらかの質的な向上をはかるとかしないのだろうか。かつてぼくは、情報の発信よりも、受信するほうが大事かもしれない、という話を書いた。もし人のメッセージが(メッセージがないというメッセージも含めて)ちゃんと受信できていれば、それをふまえて何らかの改善や向上があってしかるべきではないか。
昔であれば、そうだったかもしれない。自分の情報が届く人の範囲はたかが知れていただろう。普通の人なら、せいぜいが自費出版に、雑誌の文通欄くらいだろうか。そしてその範囲で反応がなければ、あきらめるしかなかった。もちろん、あきらめない人はいたけれど、そういう人たちもそれ以上にうつ手はほとんどなかった。
しかしインターネットという環境では、必ずしもそういう必要はない。いまアクセスしている連中には無視されたり、批判的なことを言われるかもしれない。でも否定的な意見には耳を貸さなければいい。それは聴く側がわかっていないのだ。この世のどこかには、自分のメッセージに全面的に賛成してくれる人が一人でもいるかもしれない。「ありのままの自分」を受け入れてくれる人がいるのかもしれない。そしてこれまではたぶん届くことはあり得なかった「その人」にも、潜在的にはそのメッセージが届く可能性が出ていているのだ。いかにその可能性が低くても。いまはダメでも、数パケット向こうには、まだ見ぬその人からのメッセージがやってきつつあるのかもしれない。その可能性はすごく低いけれど、決してゼロだとは断言できないのだ。
いつか世界の人間についてあらゆる情報がわかるようになれば、そういう期待の入り込む余地はない。自分の情報と、世界的なニーズとを照らし合わせて、ニーズがなければそれでおしまいだ。しかしながら、情報が不完全なところでは、とりあえず様子を見るというのは有効な戦略となる。そしてベースとなるアセットが不確実であればあるほと、オプションの価値はあがる。
インターネットの場合でも、可能性がゼロではない以上、そこにはオプション価値がある。その可能性をかれらがどのように判定しているのかはわからない。でもそれは、どこかでけじめをつけて検証する必要のない期待である。企業なら、どこかで「アレは成果がなくて無駄だからやめよう」という判断が下される。しかし個人ではその必要はない。いつまでもいつまでも、その期待を先送りにしていい。そしてもちろん、一部の人のように、テレビや電波経由でそうした期待に反応がかえってきてしまう人もいるのだ。したがってそのオプション価値は、いつまでも(定額で)残り続けるのだ。そしてそれは、いまのプロバイダに払う毎月数千円程度の金額に充分見合う価値なのだろう。いまのままの自分に対していずれだれかが関心をもってくれるかもしれないという期待が、そこで価値を生んでいる。満たされない(であろう)期待だけが、そこではどこまでもふくれあがり、価値として存続し続けているのだ。
人間についてすべてが知られることは(当分)ない。したがってそうしたオプション価値が、最終的にきちんと評価されることもない。ある意味でいまのネット社会と称するものは、その不確実性が産むオプション価値によって成立している。情報の伝達効率を上げるとともに、まだ自分に届いていない情報や、情報化されていない部分への期待を拡大したことでネット社会の価値が生まれている。ネガティブなフィードバックは無視すればいい。自分のほしい、都合のいいフィードバックにだけは反応すればいい。
さらに WWW がとてもすばらしかったのは、中身すら自分でつくる必要がないという期待をも産み出したことだった。どんなところへリンクしているかで、その人のすべてがわかるはずだ、という議論は、WWW の普及初期(1994 年頃)にはかなり真剣に行われていた。もちろん、だれかが価値をきちんと創り出さない限り、リンクだけで世の中が成立するわけはないのだけれど、でも、そうやって他人に寄生するだけでそこそこいけそうだとみんな思っている。表紙と自己紹介ページとリンク集の 3 点セットがあれば、とりあえず初心者向けのホームページはできあがる。
しかし、もちろんこの期待の裏にあるのは、いままわりにいる人たち、いま自分のメッセージを読んで賛成してくれていない人たちとは、コミュニケーションをとらなくていい、とりたくない、という考えである。趣味のリンクだけ公開しておけば自分はすべて表現され、自分で何か中身を考えるという努力はほとんど不要となる。さらになまじオプション価値があるばかりに、実際のコミュニケーションはますます否定されて成立しなくなる。
コミュニケーションと似たことばとして、コミュニティというのがある。コミュニティは、同好会でも仲良しグループでもない。気に入った部分でだけつきあって、あとは無視するわけにはいかない。むしろ、いいとこどりだけをするわけにはいかないという事実こそが、コミュニティ成立の条件であるはずだ。メリットを得るために、いやな相手ともつきあって、ギブ&テイクでどのような妥協をお互いにするかが、コミュニティであり社会だったはず。そしてその中で、みんながなんらかの価値を創っていかなくてはならないのだ。同様に、コミュニケーションというのも、聴きたい話だけをきき、しゃべりたいことだけをしゃべるというものではない。一方的に話を伝えるだけではコミュニケーションにならない。他人と何らかの情報やメッセージのやりとりを通じ、自分の知らなかったことやまちがえていたことを知らされ、最終的には、それを通じて何か自分が変わるような、コミュニケーションとはそういうプロセスである。
ネットワーク上で行われている公開「コミュニケーション」の例としては、掲示板のようなものがいちばんわかりやすい。だが、多くの掲示板は、ここで述べたようかコミュニケーションになっていないこともわかるだろう。ネットワークで、好き者同士が好きなテーマについてだけつるみ、そこからの離脱も参加も意のまま――それはコミュニティでも共同体でもなんでもない。ごく一部の、参加者の多くが自主的な情報提供とコミュニティの醸成に自覚的な掲示板(というかその参加者たち)だけが、本当の意味でのコミュニケーションとなっているにすぎない。その他多くの掲示板を見ると、そこには新しい情報はほとんど含まれず、お互いに知っていること、わかっている(と思っていること)の相互のなぞりあいがあるだけなのだから。多くの掲示板(特にアイドル系)はそういうものだ。「ですよねー」「ねー」「ねー」という相づちだけが飛び交う世界。
まあそれでもいいのかもしれない、という考え方はある。実際のオプション市場では、人の立場によって「いいとこ」がちがう。円が上がって喜ぶ人もいれば困る人もいるという意味で、ある人の「いいとこ」は別の人の最悪の事態だったりする。そして各人が、そういう自分のいろいろなポジションを切り売りして流通させ、それが組合わさることで市場が成立している。理論的にはこれと似たようなことがネットワークでもできるのかもしれない。自分を全人格的に肯定してくれなくても、こっちの部分はあの人に認めてもらい、あっちの部分はあの人に、という形で、ある個人を見たときにまあ全体としては満足して生きていけるという状況になるのかもしれない。
しかし一方で、オプション市場が成立しているのは、金さえ出せばいやなこと、リスキーなことでも引き受けてくれる人たちの存在があるからなのだ。それは最終的には均質なお金という価値にすべてが還元されることで、いろんな価値のでこぼこがならされる、という効果があってはじめて機能している。
ではネットワーク上でそれに該当するものがあるか? たとえば金さえ払えば、おまえのページを月に 20 回は必ず見て応援メールを出してやる、といったシステムができるだろうか?
実際に、広告なんかではこういうシステムがまじめに検討されたこともあったのだけれど、たぶん個人のホームページの分野では、これは使えないだろう。これだと、関心は金のほうで自分のページそのものではないことがあまりに明らかだからだ。
ほかに方法がないわけではない。ネット上で流通している価値については、諸説あるものの、たぶんその中でいまのところもっとも有力な理論は、エリック・レイモンドが提出している「名声や評判」だろう。フリーソフトは、稀少性に基づく交換経済よりは贈与経済に基づいており、評判や名声、すなわち自分(あるいはその成果物)に対する関心を最大化するために、無料でコミュニティに貢献し、労働や時間をつぎこむのだ、という考え方である。
ただしフリーソフトでそれが成立するのは、最終的な成果物がはっきりしているからだ。どんなにえらそうなことを言ってみても、そいつ書いたコードが動くかどうかは見ればすぐわかるし、その人の評判はそれで決定されてしまう。技術的な評価には外的な基準があり、それがこのシステムを支えていると言えるだろう。そのコミュニティにとっての良し悪しがきちんと定義できる限りにおいて、このシステムは成立するのである。
それ以外の部分でも、分野を限定していけばなんとかなるだろうか。ただし、それに対してある程度の外部からの客観的な評価が成立し得ないところでは、そのコミュニティが果てしなく分裂して消滅していくことに対して歯止めはほとんどかからない。ランダムに発生する大きなフレームとそれに伴う混乱、そして掲示板などの場合には、管理者がたいがいいやになって、その場やコミュニティ自体が消滅してしまうのが通例である。
さらにもちろん世の中には、情報的な価値も提供できない、つまり情報の中身で勝負できない人たちは山ほどいる。圧倒的に魅力のない人というのもいるのだ。こういう人たちが使う手段としては、あの相互リンクというぼくには理解しがたい風習がある。自分も関心をもってやる(あるいは関心を中継してやる)から、他人にも関心を持て(あるいはそれを中継しろ)という考え方。これは、ある意味で自分の関心を稀少財として切り売りしようという考え方だろう。そしてそういう人々に最後に残されたもっと確実な「流通価値」があって、おそらくそれは、時間だ。
携帯電話でだべっている人々は、話の中身はどうでもいいのだ、というのは端できいていて明白だし、本人たちもそれをよく認識している。それはグルーミングやマウンティングのような、関係の確認動作であって、メッセージがあってそれを媒体が伝えるという形のコミュニケーションモデルにはあまり当てはまらない。相手の関心がどれだけ自分に向けられていたかということを、純粋に時間として定量的にはかろうというのが、携帯電話の長電話という行動である。
ぼくにとっては、ある人の一言は、別の人の要領をえない 30 分のだべりよりずっと価値があるのだけれど、携帯電話での会話は、往々にしてそういうものではない。かれらを観察していると、むしろ話し続けることが重要になっている。携帯電話では、場所の拘束もない。自分に感心があるということを、暇な限り表明し続けよ。電話で話している限り、少なくとも一人の人間の(おそらくはかなり全面的な)関心が自分に向けられるのだ。もちろんそのためには、自分も犠牲を払う必要がある。電話では、相手(の関心)を拘束する時間は、自分(の関心)が相手に拘束される時間でもある。自分の時間・関心と、相手の時間・関心が、一対一で等価に交換されているのが、携帯電話での長電話であるといえるだろう。そしてその時間配分しだいで、社会的な関係が決定されるというわけだ。
いや、社会関係はむしろそれ以前に決定されていると考えるべきかもしれない。この一対一の時間・関心の交換が成立するためには、お互いの時間が等価だという前提が必要となるからだ。相手が自分よりえらければ、おそらく同じ重みで時間の交換を行うのはむずかしいだろう。おそらくは、時間の重みが大きい人間のほうが、先にさっさと電話を切ることになる。かくして、自分と同じくらいの価値(あるいは無価値さ)の人間同士が、果てしなく時間を交換しあうことになる。
しかしこれはまた、絶望的な状況ではある。同じものが果てしなく交換され続け、浪費され続ける。相手と自分とが、きっちり同じだけ浪費することを相互に強要しあう。そしてそこで浪費されたものはまったく生産的な方向に向かうこともない。自分への関心をなんとか確保しよう、オプション価値のような将来期待より、自分の関心を支払って今の関心を確実に買おうという、悲痛な交換がそこでは展開されているのだ。
というわけで、インターネットの大部分では、いつかどこかにいる「わかってくれる」だれかに向けて、受け手のいない情報が発信され続ける世界になりつつある。そのオプション価値のために現実の価値が実現されないどころか、すでにある何らかの価値が破壊されてしまうような、ネット離婚の例などは、本書の別稿で報告されている通り。そして一部では、先送りされたオプション価値を実現させて回収しようと行動に出てしまう人たちもいる。予想もしないところに生じた不確実性が、大きな落とし穴に変貌しかねないオプションの性質が、ここにも顔を出しているといえるのかもしれない。さらに、現象としては大しておもしろいものでもないネット婚やネット不倫なるものに興味が集まるのは、まさにそのオプション価値がまったくの空疎なものではなく、現実の価値の裏付けがあるのだということをなんとか納得したい人たちのよりどころとなっているためなのかもしれない。
そしてその一方の携帯電話の世界では、相手も自分と同じくらい(あるいは自分以上に)無価値だという前提の中で、人々は相互に拘束しあって、時間ではかれる最低限の無価値な「関心」を(金を払って!)交換しつづける。さてどうしたものか。ここからは何も生まれないのは明らかなのだけれど、この先にどんな道があるのか、「そこのところがまだ見えない」。人が賢くなるか、あるいは我慢強くなるか。しかしいまのテクノロジーは、いずれもそれを支援するようにはできていない。人を愚かで、気まぐれで、無能にするように進んでいる。もともとは、愚かで不器用な人たちを賢くて器用な人のレベルに引き上げるためのものだったはずが、長期的には事態はその逆に向かいつつあるようだ。
別冊宝島 井野様
遅くなって本当に申し訳ないです。もう手遅れかもしれませんが、なんとか書けました。が、論証が全然なくて結論ばかり急いでいてかなりまずい出来です。ご期待に添えず申し訳ないです。
現在、バングラデシュにおります。回線が予想以上にひどく、電子メールが使えません。したがいまして、データでは送れません。このファックスのみとなります。申し訳ありません。連絡が必要な場合には、以下までお願いいたします:
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