[go: up one dir, main page]
More Web Proxy on the site http://driver.im/
ILLUSTRATION: MELI

ILLUSTRATION: MELI

クーリエ・ジャポン読者のみなさま、はじめまして! かけだし西洋美術史研究者、めりと申します。

研究しているのは、「名作」と呼ばれる美術作品がドンドコ制作された奇跡のような時代、イタリア・ルネサンスの美術です。

ちなみに、「ルネサンス」はフランス語で19世紀に使われはじめた言葉ですが、16世紀当時のイタリア語ではこれを「リナシタ」(rinascita、再生)と呼んでいます。

さて、これらの名作はそもそもどのようにして「名作」になっていったのでしょうか。

現代の私たちがルネサンス期の名作と出会う場と言えば、美術館の展覧会がほとんどですが、当時はいまのような美術館というものがそもそもありませんでした。

では芸術家たちはどのように制作し、作品を世に出していたのでしょうか。

当時は「オーダーメイド」が常識でした。芸術家たちは、主な顧客である権力者や貴族のもとに営業におもむき、注文を取り、絵画や彫刻といった商品を納品するという、まさにビジネスマンだったのです。

そういうわけで彼らは、顧客にウケる商品のあり方をつねに模索しなければなりませんでした。商品が運良くヒットしようものなら、工房で大量生産するシステムを整えるなんてこともしました。

こうした美術ビジネス業界には、制作者としての芸術家だけでなく、彼らと注文主をつなげる仲介者、注文主に注文の仕方をアドバイスするコンサルタント、作品の優劣を決める評論家など、いろいろな「業界人」がいました。ここでは、そのような人々を、「芸術屋」と呼んでみることにします。

本連載では、そんなルネサンス芸術屋たちの成功体験や失敗談から厳選した12のケースを題材に彼らの仕事術を紹介し、ルネサンス美術の違った読み方をご案内してまいります。

記念すべき第1回では、15世紀初頭のフィレンツェで起こった、ある公共事業コンペの話をご紹介します。

ILLUSTRATION: MELI

ILLUSTRATION: MELI


コンペ優勝者は応募者のなかで最年少!?

花の都、フィレンツェ。

フィレンツェといえば大聖堂の名高いドームが思い浮かびますが、ドームが完成する1436年までは、大聖堂のすぐ前にある八角形のかわいらしい建物、サン・ジョヴァンニ洗礼堂がフィレンツェ市民の誇りでした(次ページの図1)。
今回のお話は、1390年代後半、その洗礼堂の入り口を飾るブロンズの門扉をあらたに制作しようという話が持ち上がるところから始まります。

図1 サン・ジョヴァンニ洗礼堂外観PHOTO: BRUCE YUANYUE BI / GETTY IMAGES

図1 サン・ジョヴァンニ洗礼堂外観
PHOTO: BRUCE YUANYUE BI / GETTY IMAGES


公共の建物を一部リニューアルするわけですから、立派な公共事業です。事業者も公募されます。というわけで、1401年、この門の事業者を決めるコンペが開催されました。

コンペにエントリーしたのは7人。そのなかでもとりわけ若いフィレンツェ人の2人、ロレンツォ・ギベルティとフィリッポ・ブルネレスキがトップを争いました。

結果を先に言ってしまうと、勝利を手にしたのは7人のなかで最年少のギベルティでした。

技術や実績が問われるはずの公共事業なのに、どうしてそんな若造が抜擢されたのでしょうか。
幸いなことに、ブルネレスキとギベルティがコンペに提出したブロンズパネル作品は両方とも現存しています。両者の作品を検証して、ギベルティが勝ち抜いた秘密を解き明かしてみましょう。

いろんな思惑の絡んだ洗礼堂装飾プロジェクト

ILLUSTRATION: MELI

ILLUSTRATION: MELI


その前に、新たな門を作ることになった経緯をザッと説明します。

まず、フィレンツェの洗礼堂が積極的に装飾されはじめたのは、お隣の都市ピサが原因でした。ピサは斜塔が有名ですが、その近くにフィレンツェに負けない美しい大聖堂があります。1185年頃、そこに立派なブロンズの扉が設置されました。

そこで、「ピサに負けてられない!」とばかりにフィレンツェの洗礼堂もブロンズ扉を制作することになりました。
そのためにピサの彫刻家を雇ったり、ピサにわざわざスパイを送り込んで大聖堂の扉をじっくり調査させたりという徹底ぶりでした。これが洗礼堂の一つ目のブロンズ扉です。

今回取り上げる1401年のコンペは、二つ目の扉を制作するために開かれたものです。

なぜ二つ目の扉が必要になったのか。

洗礼堂のお向かいの大聖堂も、1400年頃は建造の真っ最中でした。大聖堂と洗礼堂はどちらも教会の施設ですが、それぞれの装飾を管理していたのは別々の団体でした。

1390年代、大聖堂に新たな扉が作られます。これを見た洗礼堂の管理団体は、自分のところも同じものを作れるだけの資金があることを見せつけようと思ったのでしょう。

こうした公共事業は、他都市=外国に対しては、大規模なプロジェクトを敢行できる自国の国力や文化的成熟度のアピールになり、自国民に対しては、ライバル団体に負けないほどの財力を見せつける、またとないチャンスだったわけです。

ところが、そのコンペに応募してきた芸術家たち7人中5人が他都市出身者でした。当時のイタリアは都市国家が割拠していたので、その5人は「外国人」同然です。

フィレンツェのシンボルとなる洗礼堂なのに、一つ目の扉をピサの芸術家に作らせてしまったわけですから、今回こそはぜひフィレンツェ人を起用したいところ。

残りの2人とは誰か。それがブルネレスキとギベルティでした。
とりわけ若い彼らが有力候補になれたのは、フィレンツェ人だったからなのです。ちなみに、ほかの応募者たちの提出作品はもう溶かされてしまって現存しません。冷たいものですね。

最終的に問われるのはやっぱり技術

コンペ参加者には一定量のブロンズが渡され、40cm四方のパネルを1年以内に制作せよという課題が与えられました。

パネルの表面にあらわす主題は、旧約聖書に出てくる「イサクの犠牲」物語。アブラハムは、神から与えられた待望の一人息子イサクを生け贄として献げよ、という無茶な命令を神自身から受けます。それでもその命令に従おうとイサクを殺そうとしたとき、その神への忠実さが認められ、すんでのところで天使が止めます。代わりに小羊を神への供物として献げ、めでたしめでたし、というお話です。

「イサクの犠牲」は、美術作品の主題として人気の重要モチーフです。しかしこれが今回のコンペの課題に選ばれたのはむしろ、制作者の技術を見たかったから、としか考えられません。

この物語をあらわすには、老人と若者、着衣の人物とヌードの人物、動物、自然風景のすべてをきちんと表現できる腕と、それらを一枚のパネルにまとめあげる構成力が問われるからです。

審査員団はものすごく悩んだようで、勝者を決めるまでに、なんと2年もかかってしまいました。それもそのはず、この洗礼堂の扉装飾事業は、フィレンツェのプライドをかけて、莫大な予算がつぎ込まれる予定になっていたからです。

その金額は、当時のフィレンツェ共和国の防衛予算とほぼ同じと言えば、力の入り方がわかりやすいでしょうか。そんな巨額事業を託す人を決めるわけですから、慎重になるのも無理はないですね。

それではいよいよ、コンペに提出されたパネルを見てみましょう。
残り: 2223文字 / 全文 : 5531文字
無料会員になると記事のつづきが読めます。

さらに有料会員になると、すべての記事が読み放題!

PROFILE

Text & Illustration by Meli
めり 美術史研究者。ニューヨーク大学で西洋美術史を学んだのち、京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程研究指導認定退学。現在は東京藝術大学客員研究員。

読者のコメント 1
コメントを投稿するには会員登録が必要です。
クーリエのプレミアム会員になろう クーリエのプレミアム会員になろう

おすすめの記事

loading

表示するデータはありません。

注目の特集はこちら

loading
  • item.title
    • {{ item.type }}
    • UPDATE

    {{ item.title }}

    {{ item.update_date }}更新 [{{ item.count }}記事]

表示するデータはありません。