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ツイッターとブログの違いについて

2011-12-29 jeudi

『街場の読書論』という本を書き上げた。
ブログコンピ本なので、ゲラをいただいたのは一年近く前なのだが、他の仕事が立て込んでいて、手が回らなかったのである。
ブログのコンピ本というのは、他にあまりなさっている方がいないようだが、私は「よいもの」だと思う。
書いているときに「これはいずれ単行本に採録されるかもしれない」と考えている。
だから、そのときになってあわてないように、引用出典とかデータの数値とはについては正確を期している。
ブログ上で他の方の著書から引用するときに、発行年や頁数まで明記する人はあまりいないが、こういう書誌情報は「あとになって」調べようとすると、たいへんに時間がかかるものである。
ほんとに。
それにそうしておくと、ブログが「ノート代わり」に使える。
ブログには検索機能がついているので、キーワードを打ち込むと、そのトピックについて私が書いたことがずらずらと出てくる。
その中に必要なデータのかなりの部分が含まれている。
Twitterはこういう使い方はできない(引用の書誌情報なんか書いていたら、140字分のスペースがすぐに埋まってしまう)。
だから、どんなナイスなアイディアが浮かんでも、論文の一章分くらいの素材をTwitter上に残しておいて、あとでそのままコピペして使うという芸当はできない。
Twitterには「つぶやき」を、ブログには「演説」を、というふうになんとなく使い分けをしてきたが、二年ほどやってわかったことは、Twitterに書き付けたアイディアもそのあとブログにまとめておかないと、再利用がむずかしいということである。
Twitterは多くの場合携帯で打ち込んでいるが、これはアイディアの尻尾をつかまえることはできるが、それを展開することができない。
指が思考に追いつかないからである。
だから、Twitterは水平方向に「ずれて」ゆくのには向いているが、縦穴を掘ることには向いていない。
そんな気がする。
ブログは「縦穴を掘る」のに向いている。
「縦穴を掘る」というのは、同じ文章を繰り返し読みながら、同じような文章を繰り返し書きながら「螺旋状」にだんだん深度を稼いでゆく作業である。
Twitterだと自分の直前のツイートがすぐに視野から消えてしまう。
誰かのツイートがはさまると、もう自分の先刻のアイディアの「背中」が見えなくなる。
「アイディアの背中」というのは、けっこうたいせつなものである。
自分の脳裏をついさきほど「横切った」アイディアがある。
それは「あっ」と思って振り返ると、もう角を曲がりかけていて、背中の一部しか見えない。
そういうものである。
長い文章を書いているときは、その「背中」がけっこう頼りなのである。
自分が進んでいる道が「どうも展望がない」ということがわかって、「そうだ、あのときのあのアイディアについてゆけばよかったんだ」と思うことがある。
振り返って、走り戻って、「アイディアの袖口」をがしっとつかむ。
そして、いっしょに「角を曲がる」。
長い文章を書いているとそういうことができる。
ほんとに。
言語学では「パラダイム」という言い方をする。
ある語を書き付けると、それに続く可能性のある語群が脳内に浮かぶ。
原理的には、文法的にそれに続いても破綻しないすべての語が浮かぶ(ことになっている)。
例えば、「梅の香が」と書いたあとには、「する」で「匂う」でも「香る」でも「薫ずる」でも「聞える」でも、いろいろな語が可能性としては配列される。
私たちはそのうちの一つを選ぶ。
だが、「梅の香がする」を選んだ場合と、「梅の香が薫ずる」を選んだ場合では、そのあとに続く文章全体の「トーン」が変わる。
「トーン」どころか「コンテンツ」まで変わる。
うっかりすると文章全体の「結論」まで変わる。
そういうものである。
このパラダイム的な選択を私たちは文を書きながらおそらく一秒間に数十回というぐらいのスピードで行っている。
そのときに「選択に漏れたもの」がある。
そして、そのとき「その語を選択したあとに続いたかもしれない文章と、そこから導かれたかもしれない結論」が「一瞬脳裏をよぎったのだが、もう忘れてしまったアイディア」である。
これをどれだけたくさん遡及的に列挙できるか。
それが実は思考の生産性にふかくかかわっていると私は思う。
自分の思考はあたかも一直線を進行しているかのように思える。
ふりかえると、たしかに一直線に見える。
でも、実際は無数の転轍点があり、無数の分岐があり、それぞれに「私が採用しなかった推論のプロセスと、そこから導かれる結論」がある。
分岐点にまで戻って、その「違うプロセスをたどって深化したアイディア」の背中を追いかけるというのは、ものを考える上でたいせつな仕事だ。
「なぜ、ある出来事は起こり、そうでない出来事は起きなかったのか?」
これは系譜学的思考の基本である。
「起きてもよいのに、起きなかった出来事」のリストを思いつく限り長くすることは知性にとってたいせつな訓練だ。
「起きてもよいことが起きなかった理由」を推論する仕事は「起きたことが起きた理由」を推論するのとはかなり違う脳の部位を使用するからだ。
これもたぶんreason backward の一つのかたちなのだと思う。
というわけで、来年からはもっとブログに時間を割こうと決意したのでした。