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才能の枯渇について

2010-12-26 dimanche

クリエイティヴ・ライティングの今年最後の授業で、「才能」について考える。
天賦の才能というものがある。
自己努力の成果として獲得した知識や技術とは違う、「なんだか知らないけれど、できちゃうこと」が人間にはある。
「天賦」という言葉が示すように、それは天から与えられたものである。
外部からの贈り物である。
私たちは才能を「自分の中深くにあったものが発現した」というふうな言い方でとらえるけれど、それは正確ではない。
才能は「贈り物」である。
外来のもので、たまたま今は私の手元に預けられているだけである。
それは一時的に私に負託され、それを「うまく」使うことが私に委ねられている。
どう使うのが「うまく使う」ことであるかを私は自分で考えなければならない。
私はそのように考えている。
才能を「うまく使う」というのは、それから最大の利益を引き出すということではない。
私がこれまで見聞きしてきた限りのことを申し上げると、才能は自己利益のために用いると失われる。
「世のため人のため」に使っているうちに、才能はだんだんその人に血肉化してゆき、やがて、その人の本性の一部になる。
そこまで内面化した才能はもう揺るがない。
でも、逆に天賦の才能をもっぱら自己利益のために使うと、才能はゆっくり目減りしてくる。
才能を威信や名声や貨幣と交換していると、それはだんだんその人自身から「疎遠」なものとなってゆく。
他人のために使うと、才能は内在化し、血肉化し、自分のために使うと、才能は外在化し、モノ化し、やがて剥離して、風に飛ばされて、消えてゆく。
長く生きてきてそのことがわかった。
豊かな天賦の才に恵まれた多くの若者を見てきた。
彼ら彼女らは若くからはなやかな業績や作品を生み出し、高い評価を受け、すてきなスピードで社会的なプロモーションを果たした。
彼らは自分の才能の効率的な使い方については十分に知っていたが、「才能とは何か?」という一般的な問いを自分に向けることはあまりなかったようである。
なにしろ、生まれたときからずっと才能があり、才能がいきいきと活動している状態が天然自然なので、あらためて自分の才能の構造や機能について省察する必要を感じなかったのである。
それも無理はないと思う。
でも、ある程度生きてくれば、現在自分の享受している社会的なアドバンテージのかなりの部分が「自己努力」による獲得物ではなく、天賦の贈り物だということに気づくはずである。
それに対して「反対給付義務」を感じるかどうか、それが才能の死活の分岐点である。
反対給付義務とは、この贈り物に対して返礼の義務が自分にはあると感じることである。
贈り物がもたらしたさまざまな利得を自分が占有し退蔵していると「何か悪いことが起こり、自分は死ぬことになる」と感じることである。
才能がもたらしたアドバンテージは「私有物」ではない。だから、返礼をしなければならない。
ただし、それは「贈与者に直接等価のものを返礼する」というかたちをとらない。
とりあえず相手は「天」であるから、返しようがないということもあるけれど、あらゆる贈与において、「最初に贈与した人間は、どのような返礼によっても相殺することのできない絶対的債権者である」というルールがあるからである。
世界で最初に贈与した人間が「いちばんえらい」のである。
その原初の一撃(le premier coup)はどのような返礼を以てしても償却することができない。
それゆえ、返礼義務は「贈与者」に対して、債務の相殺を求めてなされてはならない。
してもいいけれど、「贈与を始めた」というアドバンテージはどのような返礼によっても、相殺できないからやっても無意味なのである。
この被贈与者が贈与者に対して感じる負債感は、自分自身を別の人にとっての「贈与者」たらしめることによってしか相殺できない。
自分が新たな贈与サイクルの創始者になるときはじめて負債感はその切迫を緩和する。
そのようにして、贈与はドミノ倒しのように、最初に一人が始めると、あとは無限に連鎖してゆくプロセスなのである。
才能はある種の贈り物である。
それに対する反対給付義務は、その贈り物のもたらした利益を別の誰かに向けて、いかなる対価も求めない純粋贈与として差し出すことによってしか果たされない。
けれども実に多くの「才能ある若者」たちは、返礼義務を怠ってしまう。
「自分の才能が自分にもたらした利益はすべて自分の私有財産である。誰ともこれをシェアする必要を私は認めない」という利己的な構えを「危険だ」というふうに思う人はしだいに稀な存在になりつつある。
でも、ほんとうに危険なのである。
『贈与論』でモースが書いているとおり、贈り物がもたらした利得を退蔵すると「何か悪いことが起こり、死ぬ」のである。
別にオカルト的な話ではなくて、人間の人間性がそのように構造化されているのである。
だから、人間らしいふるまいを怠ると、「人間的に悪いことが起こり、人間的に死ぬ」のである。
生物学的には何も起こらず、長命健康を保っていても、「人間的には死ぬ」ということがある。
贈与のもたらす利得を退蔵した人には「次の贈り物」はもう届けられない。
そこに贈与しても、そこを起点として新しい贈与のサイクルが始まらないとわかると、「天」は贈与を止めてしまうからである。
天賦の才能というのは、いわば「呼び水」なのである。
その才能の「使いっぷり」を見て、次の贈り物のスケールとクオリティが決まる。
天賦の才能を専一的に自己利益の増大に費やした子どもは、最初はそれによって大きな利益を得るが、やがて、ありあまるほどにあるかに見えた才能が枯渇する日を迎えることになる。
前に「スランプ」について書いたことがある。
スランプというのは「私たちがそれまでできていたことができなくなること」ではない。
できることは、いつでもできる。
そうではなくて、スランプというのは「私たちにできるはずがないのに、軽々とできていたこと」ができなくなることを言うのである。
「できるから、できる」ことと、「できるはずがないのに、できる」ことはまるで別のことである。
「できるはずのないことが、自分にはできる(だから、この能力は私物ではない)」と自覚しえたものだけが、次の贈与サイクルの創始者になることができる。
自分は世のため人のために何をなしうるか、という問いを切実に引き受けるものだけが、才能の枯渇をまぬかれることができる。
「自分は世のため人のために何をなしうるか」という問いは、自分の才能の成り立ちと機能についての徹底的な省察を要求するからである。
自分が成し遂げたことのうち、「これだけは自分が創造したものだ」「これは誰にも依存しないオリジナルだ」と言いうるようなものは、ほとんど一つもないことを思い知らせてくれるからである。
才能の消長について語る人があまりいないので、ここに経験的知見を記すのである。