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費用対効果教育

2008-11-16 dimanche

全国私立大学付属・併設中学校高等学校教育研究集会という長い名前の集まりに呼ばれて一席演じる。
教授会がある時間帯なので、ほんとうは断るべき学外バイトであるのだが、なにしろお相手が全国の中高名門校の先生方である。
大学案内をかかえて「あの〜、進路指導の先生にお会いしたいんですけど〜」と腰を低くして職員室にうかがっても、「あ、そのへんに資料だけ置いて帰っていいです」というような扱いを受けてきた身としては、「まとめて営業」できる機会というのはこちらからお鳥目を差し出しても伺いたいところである。
研究集会のテーマは「教育の不易と流行-多様化する社会における一貫教育の役割」というものである。
ちょうど『街場の教育論』が出たところなので、「学校教育は惰性の強い制度であり、社会の変化に即応すべきではない。変化しないことこそが教育の社会的機能なのである」という持論を述べる。
直前の教務委員会で来年度の学年暦を審議していた。
半期15週を確保するために、国民の休日を4日つぶして、その日も授業をするというのが教務からの原案である。
何が何でも15週確保しろ、というのは政府筋からのつよい指導である。3年ほど前、厚労省が資格関連の科目についてほんとうに15週授業をしているかどうか実地検査を行い、不足が指摘された大学は次年度に補講を義務づけられた。「次年度に」というのは前年度の補講を4月以降にやったということである。すでに卒業した学生まで呼び集めて補講をした。
これで近畿一円の教務関係者はパニックに陥り、翌年からすべての大学が15週確保のために休日を削り、夏休みを短縮するようになった。
文科省はいまのところ次年度に補講を要求するようなことはしていないが、過年度におけるシラバス表記の不備を指摘して、助成金の返還を求めた前例に照らすと、過年度の学年暦を点検して、15週を満たしていない場合には、過去に支給した助成金の返還を求めるというような「おしおき」に踏み切る可能性は高い。
だが、このような外形的な数量的な規制に何の意味があるのか、私には理解できない。
大学生の「学力低下」というのは印象的にはたしかにそのとおりである。
けれども、これは、彼らの知的関心が手持ちの大学の教育プログラムや教育言語ではうまく掬い取れない活動に向けられているせいである。
「世代の知性の総量というのは変わらない。それが向かう先が変わるだけである」(@村上春樹)という考えに私も同意する。
「授業時数を増やせば学力が上がる」と文科省のお役人たちは考えているらしい。だから、初等中等教育でも「週6日制に戻す」というような動きになっている。
けれども、いまからはっきり予告しておくけれど、授業時数を増やしても学力は上がらない。
彼らの学力が低下しているのは、彼らが「どれほど費用対効果のよい仕方で学校教育という “苦役” の対価として教育商品を手に入れるか」という「賢い消費者」になるためにそのある限りの知力を投入しているからである。
このような心的傾向の人々に向かって「苦役」の絶対量を増やして負荷をかけるということは、さらに集中的に「費用対効果のよい仕方」の探求に知的リソースが投下されるだけの結果しか生み出さない。
「費用対効果」だけが問題なのだというイデオロギーのせいで、子どもたちの学力が回復不能的に低下しているときに、さらに「費用対効果」への気遣いを強化するような施策を行って文科省は何をする気なのであろう。
いささか先走ったが、子どもたちの学力が低下した理由は「この世でたいせつなものは『学力そのもの』ではなく、『学力をもつことでもたらされる利益』である」という考え方が支配的になったからである。
学力なんかあってもなくてもどうでもよろしい。
学力があることによって得られるとされている利益(競争における相対優位、威信、権力、財貨、情報、などなど)が得られるなら「何をしてもよい」というのが私たちの時代の風儀である。
子どもたちは「いかに少ない努力で多くの報酬を手に入れるか」ということにその知力の限りを尽くしている。
これはまさしく過去30年間本邦の教育行政がたかだかと掲げてきた教育理念である。
そんなことはしていないと額に青筋を立てる文科省官僚もおられるやもしれぬ。
そうですかね。
では、「シラバスの表記が不備なので、助成金を削る」というのはどういうことなのか。
それは要するに「なあに、大学を動かすのなんか簡単だよ。『助成金を削るぞ』と脅せば、たちまち顔色を変えるんだから」と彼らが思っているからである。
「欲得づくでしか人間は動かない」と彼ら自身が信じているから「そういうこと」ができるのである。
そして、その信憑は経験的には正しいのである。
「助成金のひもを握っているものが教育をコントロールできる」という文科省の考え方は「あらゆる問題は金で解決できる」という私たちの時代に取り憑いている「金の全能性」イデオロギーが行政の中枢までをも犯していることをはしなくも露呈している。
「あらゆる問題は金で解決できる」という前件から導かれる実践的結論は「だから、もっと金を」である。
そして、ひさしく文科省までもが無意識的に宣布してきたせいで「あらゆる問題は金で解決できる。だから、もっと金を(できるだけ少ない努力で)」イデオロギーは日本の子どもたちの中に深く内面化してしまったのである。
その結果、さまざまな徴候的な出来事が起きた。
何回か取り上げた「単位未履修問題」がそうである。
「できるだけ覚えることの少ない教科で受験することは費用対効果がよい」という命題に高校生も教師も保護者もメディアも全員が同意した。
教育を語るときにはまず「費用対効果」というビジネスのワーディングが用いられる「べき」だということが国民的合意に達したことのこれは破滅的な徴候だったと私は思っている。
だから、「できるだけ少ない知識、少ない学習時間によって、高い得点を得るものこそが競争勝者である」というルールを内面化した子どもたちの学力が地滑り的に崩壊するのは理の当然である。
子どもたちはいかに少ない知識、少ない学習時間、少ない知的負荷で、成績を上げ、競争に勝ち、社会的価値の高い学歴を手に入れるか、その「費用対効果」だけを今競っている。
先般ノーベル賞受賞者たちが口を揃えて「もう日本の教育はダメだ」といったのは、授業時間が少ないとかいうレベルのことではない。
官民一体となって「子どもたちが学習内容そのものにではなく、学習した場合に得られる報酬の獲得に熱中している」という教育システムに対して、「それではバカしか生まれない」とおっしゃっていたのだと私は理解している。
現に、超難関校といわれる大学を出た若者と話していて、あまりにものを知らないので、びっくりすることがよくある。
教養がないというレベルにとどまらず、専門課程で学んだはずの知識さえおぼつかない。
どうして、そんなにものを知らないのかと訊ねると、破顔一笑して、「いやあ、大学では全然勉強しなかったですから」と誇らしげな様子をする。
どうして、勉強しなかったことをこれほど自慢するかというと、それでも超一流校の学位記を獲得した自分のふるまいが「クレバー」だと思っているからである。
だって、わずかな苦役で大きな報酬を手に入れたわけだからである。
「ぜんぜん勉強しないで東大出ちゃいました」というのは、キーボードをちゃかちゃか叩いただけで1分間で数億円稼いだとか、1000円でベンツを買ったとか、それに類する「スーパー・クレバーな商品取引」なのである。
消費者マインドに立てばそういうことになる。
「学校なんかぜんぜん行ってねっすよ」「教科書なんか開いたことない」「試験なんか、ぜんぶ一夜漬けで、あとカンニング」というような言葉が「ほとんど誇らしげ」に口にされるのは学校教育で競われているのが「何を学んだか」ではなく「いかに効率よく競争に勝つか」だと彼ら自身が信じているからである。
日本の高校生の50%以上が自宅学習時間ゼロである。
ほかに用事があるから自宅学習をしないのではないと私は思っている。
いかに少ない自宅学習時間で進級し、卒業し、あわよくば有名大学に入学し、学士号を手に入れるか、それが彼らの「知的価値」の賭け金である以上、「どうやってできるだけ勉強しないですませるか」ということが喫緊の課題となる。
日本の子どもたちは日々死力を尽くして「勉強しないで競争に勝つ」ための工夫を凝らしている。そこにある限りの知的リソースを投じている。
その前提には、「勉強をしないで競争に勝つ人間がいちばん賢い」という価値観が同学齢で共有されているということがある(もし、うっかり「勉強って楽しい」とにこにこ勉強する子どもがいたりすると、大変なことになる)。
そのための子どもたち内部での「勉強するなイデオロギー」の宣布運動の熾烈さはいかなる宗教の勧誘も及ばない。
子どもたちが級友たちの勉強を組織的に妨害し、そのことを自分の「得点」に数え、それが「賢いふるまい」として賞賛される・・・というループの中で、日本の子どもたちの学力は構造的に低下している。
さて、どこから手をつけていいのか、私にもわからない。
いま政界では解散時期と定額給付金の「費用対効果」について政治家たちが狂躁的な論議を繰り広げている。
どのような政策についても、どうすることがもっとも「費用対効果がよいか」(今の場合は「票になるか」)という計算に夢中になっている政治家たちの脳裏に「費用対効果だけで教育を考えてはいけない」という発想が去来する可能性はゼロである。
そのような政治家や官僚たちが立案するものである限り、その教育施策が日本の子どもたちに「勉強することそのもの」の楽しさに気づかせることになるということは原理的にありえないのである。
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