前回の記事-日本の大学入試制度は本当に間違っているのか-から結局5日経ってしまった。
待っていてくださった方は有難うございます。
今日は、前回の記事を受けて、現行の日本の大学入試制度を活用して、起業家とかグローバルな人材とかを輩出することは出来るんじゃないかということを書きます。
前回の記事は、日本の現行の大学入試は変なのか、それでは大学で企業家とかグローバルとかの人材を出せないのか、というのが論点だった。結局別に日本の入試制度が世界的に変なわけではない、それに変えるのはコストと手間がかかる、本当にやって意味があるのか、というところだった。
・小論文や面接による大学入試が行われるのは、米国の一部のトップスクールであり、
世界の大部分では、(記述式・選択式問わず)筆記試験一発で大学への合否が決まっている。一方で、起業家やグローバルな人材を生んでるのは、米国のトップスクールだけだろうか?そうではない。
・仮に米国のトップスクール式の入試を行うなら、入学審査官の組織を作るなど手間とコストが非常にかかる。一方米国トップスクール(大部分が私立)は、起業した大金持ちとか、レガシーとか、政治的に活躍して予算を引っ張れる卒業生がその大部分の寄付をまかなっている。だから、大学がコストと時間をかけて、将来起業したり、国際的に活躍する人材を論文や面接で選抜する意味が十分にあるのだ。日本の大学はそれを目指すべきだろうか。
・一方で日本の大学は、独立行政法人化後、組織改正などが実質的に困難になっており、実際に変えようとすると非常に時間がかかる。制度を変えるより、運用を変えるほうが現実的である。
これらを総合的に考えると、別に大学入試制度を変えずに、大学に入ってからの教育を変えることで起業家とか、グローバル人材とか、今の日本に必要な人材を育てていけばいいんじゃないかと私は思っている。要は、仮に百歩譲って今の大学入試が「試験しか出来ない人材しか取れない」制度であったとしても、そういう人の一部を4年間のうちに起業家とかグローバルに活躍できるような人材に育てていけばいいのだ。
じゃあどうやってそんなの育てるのか、を一言で書くのは難しいが、私がポイントだと思っているのは以下の4点だ。
1) もっと外国人や外部の(リスクとってる)人材をファカルティ(教授陣)に入れる。でなければ、起業家やグローバル人材のような「異質な」優秀な人は育たない。
日本の大学の先生って、すごく「均質」だ。殆どの人がアカデミアにずっといて外部に出たことが無い人ばかりで、そして皆が日本語(のみ)を話す(外国人教授も)。
起業家とかグローバルな人材とかを育てるというのは、基本的には「異質な人」を育てるということだ。大企業に勤めて安定志向が普通の中で、あえてリスクをとって起業しようと考えたり、日本文化の中で育ちながら、他国から来た色んな人をリードできる人とは「異質な人」だ。そういう人を、筆記試験を通るために勉強をしてきた「優秀な」学生から育てようとするのだ。「優秀な」学生ほど、教授陣が均質な環境では異質を目指そうとはしないだろう。
私がMITにいて思ったのは、教授陣にもリスクとって頑張ってる異質な人が多いということだった。起業したがうまく行かずアカデミアに戻った教授が、また新しい研究成果をネタに起業しようとしている。南米やアフリカに生まれ、英語が完全に話せない教授が沢山いる。話すとき、難しい英語の単語が出てこなくて、ネイティブの学生に聞いたりする。でもコンテンツがあって面白いからみんな話を聞く。南米の国から亡命してきた先生なんてのもいる。企業に勤めていたが30代後半にアカデミアに戻って博士号をとり、教授になった人もいる。こういうリスクをとってる多様な人材がファカルティにいるから、それまで試験ばかりで頑張ってきた学生は目が開かれて、初めてリスクをとって頑張るということを知るんじゃないか。
アイビーリーグやMIT、スタンフォードに行く学生も、多くが良いとこのお坊ちゃまやお嬢さんであり、留学生や移民が日本よりずっと多いことを除けば、試験勉強ばかりしてきた日本の学生と視野の狭さでは変わらないだろう。若い学生の視野を、大学に入ってからグーンと広げるのは、ファカルティの多様性だと思う。
2) 加えて、もっと色んな外部の人が大学内に入ってくるようにする。カオスな場が「有機的な」連携の場になるから
MITではそれ以上に、外部の人が大学内に沢山いた。例えば私はMITのビジネスコンテストの委員をやっていたが、コンテストには、昔MITを卒業した発明家とか、近所の起業家とか、よく分からない人が沢山入ってくる。長いこと周辺に住んでるので、そのあたりの起業家とか法律家を良く知ってるし、先生とも旧知だから、色々な情報を教えてくれて、学生にも役に立つ。学生はそういう人とチームを組んで、色々やることで学ばせてもらえたりする。
企業の人もしょっちゅう大学に来る。学業優先のため面接をオンキャンパス(キャンパス内)でやることが多いからリクルーターが出入りしている。また産学連携なんかも日本の大学より多く、普通に企業の研究者が出入りし、スポンサーがやってくる。ビジネスコンテストでも、いいアイディアを持った優秀な学生を採用したい企業でいっぱいで、積極的に学生に声をかける。
大学が、本当に多様な人々が集まって、何かを生み出す場になっているのだ。それぞれはMITを活用してうまいことやろう、という人々なのだが、余りにも沢山の人がいるので、こちらも学生の役に立ってもらうことが出来る。まさに「多様な人材が有機的に連携」する場になっているのだ。(ただし、変なことは起こらないように、大学の警備は徹底している)
3) 全ての学生を起業家とかグローバルに育てる必要は特に無いので、本当に伸びる学生を伸ばせる仕組みにする
例えば大学の授業を全て英語でやる、外部の人材が教壇に立つ、とかはどの大学でも試みてることだと思う。難しくなるのは、全ての学生にその機会を提供しようというところではないか。
私は、規模の大きな大学であれば4年間、ずっと英語だけで授業を受けられる環境が必要だと思うけれど、全ての授業を英語にする必要は全く無いと思う。ビジネスコンテストや起業家を育てる授業などもそうで、全員が出る必要など全く無いのだ。でもやる以上は、かなり負担も大きく、やる気のある人だけがついてこれるようにすればよい。
やる気があり、ちゃんと沢山の課題をこなす、「コミットメント」をしている学生には、先生も「コミットメント」をする必要がある。要はちゃんと時間を使い、指導する。起業したいとか、海外に出たいという学生には、そういう機会を与えれば良いと思う
4) 先生や学生が草の根でやっている新しい教育の仕組みを、足を引っ張らず支え、連携させる仕組み
昔から、日本の教育制度を変えるのは大変であり、民間や草の根の力がそれをサポートしてきた。大学でも同様で、教育システムを変えるのは大変だから、教授や学生が草の根的に色んな教育活動をしている。例えば起業家を育てるためのビジネスコンテストは各校学生が主催でやっている。グローバルなリーダーを育てる草の根活動で、私が注目しているのは、MITの学生と東大、東工大の学生が中心になって始まったSTELAという活動だ。学生だけでなく、協力を惜しまない大学の教授の力を得て、だんだん大きな活動になってきた。
変えていかなくてはならないのは具体的に二つ。
・こういう草の根活動に対し、大学が可能なサポートしたり、企業や卒業生など他の協力を得やすい仕組みにする。例えば、MITのビジネスコンテストは、出場することで単位が取れるし、企業のスポンサー探しも大学の卒業生室が全面的にサポートする。金は出せないが、時間や人脈で協力はする、というスタンスだ。日本だと、大学という公的な存在が、一部の草の根活動に加担するリスクをとるのを嫌がって何もしないケースが多すぎるんじゃないか。
・これらの草の根活動を連携させる。これは草の根でやってる側の努力だが、必ずどの大学にも、どの学部にも似たようなことを考えている人はいるので、仲良くやること。そのうねりは必ず世論を変えて、大学の制度改革につながるだろう
「制度が変わらないから、変わらない」ではいつまでも変わらないので、別に「試験のために勉強してきた」優秀な学生を、次はリスクをとったり多様な人材になれるようにサポートしていくのが、大学のあるべき姿だと思う
Special Thanks to STELA, @shige_sci, @ttakimoto for your ideas
学生のバイトといえば、家庭教師やマクドや吉牛や、、いまは違うんですかね。分かりませんけど。
学生の頃って「社会人」って何をするのか分からなくて必要以上にびびってた気がします。
「社会人」が何をしてるのかを学生時代に経験できれば「なんか大したことなくね?」と思う学生もでてくるでしょう、間違いなく。
インターンはちょっと違うんですよね。
どうしても採用を意識してしまうから「貴重な経験」って意識しちゃう。
アルバイトで日常の中で経験できる場があればなーって学生の時うっすら思ってました。(思ってただけで実際には麻雀してたんですけどw)
例としては、大して勉強しなくても卒業出来る大学、終身雇用で解雇・降格可能性の低い企業などです。
このようなインセンティブ設計のもとでは、均質化された“最初の壁”を超えることを目指すのが合理的であり(だからカンニング事件で大騒ぎ)、リスクを取り続けるインセンティブは極めて低くなると思います。
大学がリスクテイカーを生み出すものになるには、U+2460教育者サイドのインセンティブ設計変更(研究・教育で成果が出ないと解雇・降格)、U+2461卒業要件の強化(ビジネス英語+専門領域の研究論文で一定以上じゃないと卒業できず)とすればいいのではないでしょうか。
降格・解雇リスクにより教授陣に責任意識をつけ、“入学”よりも“卒業”のハードルをあげることで継続的な研鑽のインセンティブを高めれば、グローバルに通用する人材が増えるのではないかと思います。
ちなみに、amazedkoumeiさんがおっしゃるように、私は大学生の頃からいくつかの大企業にアルバイトで潜り込んだ経験から、日本企業で新卒として働く興味がなくなり、結局、大学院に進学を決めました。アルバイトとはいえ、社会に対する問題意識を高めることができてとても貴重だったし、損得勘定抜きの兄貴/姐さんたちに出会え、いまだに財産です。
私は、大学を卒業して何年も立ちますが、もしLilacさんのおっしゃる大学ができたら、今からでも行きたいくらいです。ワクワクしますね。
人に出会うことと生き様を見ることが一番の学びだと思います。
大学側を指摘するのと同様、それを受ける学習者側にも問題点があります。
大多数の学生は、大学とは自由に学べる場というイメージで、高校までの決まったカリキュラム以外を初めて自発的に選び、学ぶ環境になります。
自由という言葉は響きが良いですが、人間、しかも若者で、その中身は一時的な充実で溢れているような気もします。
基本的にはそんな「楽しみ」を望んで大学に入り、また大学の中でそのような生活を望んでいるのだと思います(大衆論的に)
学生のニーズに応えているという点に関して、大学側は入学時に関するニーズがほとんどで、外的イメージが優先されてしまっているのが現状なのだと思います。
一度入ったのに大学をやめる人間はかなり少数派だと思います(僕は嫌でやめてしまいましたが)。
実際に一度やってみないことには何事も分かりません。
大学にリベラルアーツを学ぶ環境も整っておらず、受験時にその後をほとんど決めてしまっているレールを選ぶことを必要とされる。
大学に置けるインターンシップというのも「あり」だと思います。
自分は理系の大学院生なので文系の事情は分からない.しかし,文系の方が少なからず大学で学んだことをほとんど生かさない,生かせない職業に就くのであるなら,そんなことのために大学に必要性がないのでは?と思う.もちろん,理系の人間でも,自分の学んだこととは異なる分野に就職する人もいるだろうが・・・
最近テレビを見ていると,ある方が文系の大学をなくしてしまえばいいということを言っている.専門で学びたい方は大学院で学べばいいということである.
自分もそう思う.大学に行って高い授業料払って4年も時間を使って,結局地方公務員になったり,資格を取ってそっちの方面に行くくらいなら,とっとと専門学校に行った方がいいと思うから.
大学は就職予備校ではないし,就職率の良さを売りにしてる私立の大学とかなくなればいいと思う.
さて,本題に入りますが,大学をより強く,魅力的なものにするには,民間との交流を進めた方がいいと思います.理系分野でいえば,民間との共同研究を盛んにすることで,研究のみではなく,営利事業というものを体感することができると思います.また,一緒に研究していた人材を,企業側も長期間直接見ることができるので,就職にも強く・・・のようなことも考えられます.
また,現在,就職のために必死こいている自分ですが,ふと思うことがあります.企業の側としては,自分の欲しい人材を自分で作ればいいんではないかと.つまり,現在の国立,私立の大学だけではなく,「企業立」の大学を作ればいいと思います.じっくり時間をかけて自分の会社に必要な人材を育て,優秀だった人材を上の方から自社に入社させれば,雇用のミスマッチも起こらず,優秀な人材も確保できます.一社のみで大学を運営するのは難しいと思いますので,業界で協力するなりして,数社,数十社で運営すればコストも低くなるでしょう.企業立大学の授業料をとることはできると思うので,新人の育成コストも抑えられるのではないでしょうか.また,優秀者の上位の方は入社のメリットや授業料の免除などを設ければ,学生はしっかり勉学に励むでしょう.
文系に関してはよくわからないので,何とも言えません.こちらに関しても,企業立の大学は考えられますが・・・
ツイッターの方も見つけたので拝読させて頂きます.
最近は、外資系やベンチャー企業を中心に学生のアルバイトを雇う(インターンではなく、半年以上とかある一定期間以上のアルバイト)ことが増えてきたと思います。外資金融機関でのニュースのクリッピングの仕事とか、外資消費財の会社でのマーケティング調査の分析の仕事とか、それなりに仕事の醍醐味を味わえる入門的な仕事を任せるケースが増えてきているように見えます。
一方で一般の日本企業が遠慮してるのは「学生の学業を邪魔してはならない」という体面を気にしてるんじゃないでしょうか。経団連の許可とともに皆で横並びで動かないとダメという嫌いもあるでしょう。
実際には就職活動の早期化などで学生の機会を減らしてるのは日本企業のほうなんですけどね・・・
@Keizoさん
おっしゃるとおりで、その「受かれば既得権」をなくすために大学卒業認定をもっと厳しくしろとかいう議論はよくありますよね。
@kumasukeさん
人に出会い、人の生き様を見るというのはおっしゃるとおり非常に大事だと思っていて、結局私も大学に長くいて心に残ったものはそれだったのかなと思いました。それ以外の勉強だの研究だのは、自分の努力で結局は何とかするものだからです。でも人との出会いはそうとも限らない。
@unubole5さん
たしかに。しかし若干18歳の人々に「学ぶ側の意識の問題」を投げかけすぎても仕方ないので、やはり出来るだけチャンスを与えるほうに振りたいな、と思います。
@機械系の大学院生さん
「大学院生が授業を受けても仕方ない」という意識の日本人学生は結構多いですが、ちょっと残念です。日本の大学の授業が、如何に役に立たないか、そして学生の視野が狭いかということをあらわしているように思います。
たとえ大学院生のとき「自分は将来研究者になりたい」と思っていたとしても、研究に役に立たない授業はとらないという考え方は余りに短絡的ではないかと思うわけです。実際には研究を進めるとしても、研究分野の大枠や概略が分かったり、他の分野の最前線が分かったりすることが非常に重要だったりします。研究者になるからこそ、そういう色々な分野の学問の全体像を捕らえられることが大事ではないかと思うのです。
確かに、大学院生は研究のプレッシャーが強くて時間も無く、というのは分かりますが、近視眼的思考には走ってほしくないなとかつて研究者を目指していた人間からは思えます。
一方、大学のほうも、そういう研究者や社会に出て行こうとする学生に対し、役に立つ授業を提供できていないのだろうとも思います。そもそも授業の時間数が少ないし、授業の中で学生にやらせる課題も少なく、結果として何も得られないというものは多いです。何十年も同じ内容で授業している怠慢な先生も多いです。こういうのは変えていかなくてはならないと思います
通常頭の中のイメージを伝えるには、言葉という手段を用いなければならない訳で、それが母国語である場合はそれ相応の精度が要求されるのだと思います。日本にもバイリンガルの方が増え、とても頼もしいと思う反面、それに伴って正しい日本語がそれ程重視されなくなるとしたら残念なことです。高尚で文学的な表現を求めてはいません。しかし、稚拙な表現は時にコンテンツの質まで落としかねないと危惧します。
いきなり失礼なコメント差し上げた事お許し下さい。本文の主張とは関係ないし、Lilacさんにとって日本語が第一言語でないのなら全く的外れな指摘です。どうぞ削除して下さい。(なお、私自身は言葉以外での表現活動を生業にしている monoglot です)