スパルタ教育という言葉がある。
賛否はともかく、この言い回しの意味するところを知らない人はそんなにいないと思う。
が、私が小学生だった頃は、誰も意味を知らなかった。というよりも、「スパルタ教育」という言い方自体が、まだ存在していなかった。一部のインテリ層が使っていた可能性はあるが、われわれのような普通の庶民は聞いたこともなかった。
「スパルタ? 誰だ?」
という感じ。スパルタが古代ギリシアの都市国家名に由来するということすら知らなかった。当時、この種のカタカナを使うのは洋行帰りの知識人に限られていて、そういう連中は「キザなヤツ」と見なされていた。「おそ松くん」に出てくる「イヤミ氏」がその典型だ。靴下が伸びている。もしかして、赤塚先生にとっては、ナイロンのソックスを履いているというだけで、キザだったのかもしれない。そういえば遠藤周作は「靴下のクサい文化人」という言い方で、キザな青年をクサしていた。どうして文化的な青年の靴下が匂うというふうに彼は考えたのだろう。謎だ。
「スパルタ教育」が一般人の使うボキャブラリーとして定着したのは、1969年にこの名前をタイトルとする本が発売されて、ベストセラーになったからだ。著者は当代の人気作家石原慎太郎。現在だったら間違いなく流行語大賞を獲得していたはずだ。それほどこの言葉は話題になった。しかも、一時的な流行語に終わらず、「広辞苑」にも収録される堂々たる日本語として、現在に至っている。見事。
私個人は、この言葉が嫌いだった。
中学校のクラスの担任がスパルタにカブれて、やたらと体罰を適用する教師だったからだ。
「スパルタ教育」は、多くの追随者を生んでいたのだ。
愚かな流行は世の中を変えることがある。実際、あの本の流行は、時代の流れを、何年か分、戦前に向けて引き戻していた。で、予科練への崇拝を隠さない数学担当教諭だったO崎氏は、「ピシっとした」空気を教室に導入すべく、体罰を多用したのである。
「口で言ってわからないヤツにはスパルタ式の指導が必要だ」
てなことを言いながら、彼は平手で、竹の棒(黒板に円を描く時、彼はこの棒とチョークをとても器用に使った)で、生徒を打擲した。時には学生服の襟元を両手で掴んで足払いをかけてきた。ぞうきんがけの仕方に心がこもっていないだとかいったどうにも恣意的な理由で、だ。たまったものではない。学生服を着た状態で足払いをかけられると、プラスチック製の「カラー」と呼ばれる薄っぺらな保護具(あれは襟首の汚れを防ぐための部品だったのだろうか)が喉に食い込んで、痛い思いをした。血がにじむこともあった。うむ。いま思い出しても腹が立つ。私は毎日のようになぐられていた。牛馬のように。
「いいか? これは体罰じゃない。指導だ」
と、頭にアクセントを置いた独特の発音で、O崎はその単語を繰り返した。
「オダジマ。前に来い。シドーだ」
スパルタ教育。ウィキペディアは「拷問教育とも言う」と解説している。拷問を教育と考える人間が存在していること自体、奇跡だと思うのだが、われわれはそういう人物をリーダーとして選んでいる。なんということだろう。
「スパルタ教育」は、出版されるや激しい賛否両論をまきおこした。
当時は、容認派が圧倒的に多かった。現在の状況とは比べるべくもない。ワイドショーの司会をやっている落語家などはモロなスパルタ教育推進派だった。泣きの小金治。私の記憶ではいつも激高していた。激高仮面のおじさん。どこの誰かは知らないけれど、誰もがみんな知っている。きっと、正義の味方のつもりでいたのだと思う。
「スパルタ教育」の表紙は、一糸まとわぬ少年の全身イラストだった。カラダの向きは正面。当然、性器は丸出し。隠すことなく正確に描写してある。正視をはばかるテの絵柄だ。当時もいまも。おそらく狙いはセンセーショナリズムにあったのだと思う。注目を引くためには手段を選ばない。スパルタにはそういう意味あいもある。気になる人は、「スパルタ教育 石原慎太郎」で画像検索をしてみてほしい。モロな絵柄が出てくる。見たくない人は検索を自粛しておくべきだろう。っていうか、検索すれば何でも出てきてしまうこの時代に、いったい都の役人は何を規制しようとしているのだろうか。まあそれはまた別の話だが。
とにかく、この表紙を掲げた書物を日本中の書店の店頭に陳列させた張本人が、40年後に「青少年健全育成条例」を改正しようとしているわけだ。そう考えると胸が熱くなる。
もしかして、知事閣下は非実在青少年の全裸イラストを表紙に採用した若き日の判断を後悔しているのだろうか。まっすぐに見て知事困るヘソの下、と? うむ。品の無い句だった。撤回する。知事は困っているのだろうか。で、自分の著書も無かったことにしたいのであろうか。あるいは、そういう細かいことはもう思い出せないのかもしれない。脳が縮こまっていて。
事実関係を振り返っておく。
3月12日掲載の当欄で触れた「非実在青少年」関連の条例案は、後に、6月の都議会本会議で否決されている。
否決を受けて、都側は改正案の文言を見直し、「非実在青少年」という概念を放擲した。
で、検討の結果「性犯罪を不当に賛美する漫画やアニメの18歳未満への販売を規制する」条例として、新たな改正案を提出し、その改訂版の改正案が、つい先日(12月15日)、あらためて可決されている。
ちなみに、新聞各紙の記事は、可決にあたって、議会が「作者が表現した芸術性、社会性などを酌み取り、慎重な運用を」との付帯決議で都に配慮を求めた旨を付記している。私にはこれがよくわからない。いったい、議会の皆さんは何を「酌み取る」つもりでいるのだろうか。
「ははは。クミトリは古いよなあ」
「それにクサい」
「クサいものには付帯決議」
「そう。水に流すのが衛生的なのだよ」
「何を水に流すんだ?」
「だから芸術性と社会性だよ」
芸術性と社会性。具体的に言ってどういうことなのだろう。
下水に流すべき何かだろうか。
今回は、「芸術性」について考えてみたい。
可決された青少年育成条例のうちの、付帯決議にだけ論点を絞って話をする所存だということだ。
条例全体については、いまさら何を言ってもむなしい。議論は出尽くしている。石原さんは火だるまだ。様々な場所で、完全に論破されている。なのに、それでも条例は可決され、事態は進行している。規制は実現し、既成事実化し、もはやどうにもならない。手遅れだ。非実在青少年は消去されたが、きっちりと子孫を残して行った。ということはつまり、あの東京都謹製の架空清純キャラクターたちは、やっぱり「行為」をしていたわけだ。見えないところで。なんとふしだらな。
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