「パワースポット」という言葉を最初に知ったのは、今年のはじめだった。
 正確に言えば、1月の下旬。さるお笑いタレントと女性歌手の交際報道を通じて、だ。

 件の二人は、アリゾナ州にあるセドナというパワースポットを訪れたのだという。
 ワイドショーが伝えていたところによれば、若い男女が連れ立ってパワースポット行くということは、その二人が真摯な愛を育みつつあることを示唆するエピソードなのだそうで、つまり歌姫と芸人は「デキ」ているらしいのだ。

 なるほどね。
 私は、そのニュースを聞き流した。
 プロモーションくさいと思ったからだ。

 「モテ男」と「歌姫」の「婚前旅行」。「口説きの達人」による真摯な「交際宣言」。アタマから終わりまで常套句だらけ。文体が手垢でベカベカに光っている。読んでいて気持ちが悪くなる。

 であるから、記事中に頻出していた「パワースポット」という言葉にも、あまり良い印象を抱かなかった。

 「婚活中」の「アラサー女性」の間で「話題沸騰」だとかいった書き方からして、もうダメだ。先を読む気になれない。折り込み広告だってもう少し上品な文体で書かれていると思う。

 交際報道は、既に沈静化している。
 続いているのかどうかは知らない。
 っていうか、知りたくもない。

 メディアが女性歌手を「歌姫」と呼び、お笑いタレントを「芸人」と称するのは、その呼称の対象となっている人々が、多少とも特別な存在である旨を強調するためのお約束みたいなものだ。

 歌姫は、そこいらへんの女性歌手とは違う。
 芸人も、ただのお笑いタレントとは別次元。そういう意味だ。
 いずれにしても、彼らは、特別扱いにされる。

 「歌姫」の不行跡は、「うた」への没入の証として、むしろ美化される。マネージャーやファンに対して尊大にふるまうことも、スケジュールをしばしばキャンセルすることも、PVの制作陣に些細なダメ出しを繰り返すことも、酒の上の不始末も、楽屋での大名行列も、すべては、「姫」ならではのアーティスティックなこだわりのあらわれとして肯定的に評価される。

 芸人の逸脱も同様。「芸」の肥やしとして、通常人のスキャンダルとは別枠で処理される。後輩芸人に対する「無茶ぶり」や女性関係の噂も、芸に生きる人間の勲章として容認され、過去の「やんちゃ」や時効となったあれこれについても、「男の向こう傷」ぐらいな神話として、おおいに美化称揚される。さすがは兄さん。シビれるわぁてな調子で。

 つまり、わが国の芸能界では、ある時期から、一定の知名度を得たセレブリティーに対しては、一段階ユルい倫理規定が適用されるようになったのである。彼らの私生活は、トーク番組における最もおいしい楽屋落ちとして、最大限に尊重される。そういうことになっているのだ。

 芸能マスコミはセレブリティーを商材にしている。

 彼らは、「知名度」を「オーラ」(←本来の語義は「曰く言い難い存在感」だが、実質的には、「取り巻きの土下座によってもたらされる周囲への威圧」と解されるべきもの。いずれにしても知名度および権力の一作用に過ぎない)と呼び変えることで、自分たちの事業を正当化している。逆に言えば、知名度それ自体が「ニュースバリュー」と認定されている限りにおいて、芸能マスコミの影響力は不滅なのだ。なんとなれば、知名度を生産しているのは、有名人自身ではなくて、メディアだからだ。有名人は、メディアから供給される名声無しには生きていけない。金魚鉢の中の金魚と同じ。そもそも水がなければ泳ぐことができない。

 とはいえ、知名度がニュースバリューとイコールで、認知度がそのままオーラであるみたいな自給自足の電波紙芝居に、視聴者たるわれわれは、ずいぶん前からうんざりしている。

「……で?」

 と、だから、芸人と歌姫の交際についての世間の関心は、報道した側の人々の期待とは裏腹に、至極冷淡だった。

 かくして、業界側が仕掛けたアドバルーンは三日でしぼんだ。

 あたりまえだ。
 交際が事実であったのか否かを問わず、あるいは続いているのか途絶えたのかにかかわらず、いずれの場合であれ、こんなニュースには、そもそも需要がなかったからだ。

 だってそうだろ? どこからどう考えても、誰にとっても、まったく全方位的にどうでも良い話ではないか。
 で、視聴者は、無反応&放置という正しい対処で臨んだわけだ。素晴らしい。

 さてしかし、記事のおまけとして連呼されていた「パワースポット」は、以来、ワイドショーの黄金郷として、珍重されることとなった。

 たとえば、二人の交際報道以来、セドナには、日本人観光客が殺到した。いや、一部のメディアがそう言い張っているだけで、本当のところはわからない。

 もしかして、交際報道の真の狙いは「パワースポット」の宣伝にあったのかもしれない。
 野心家芸人と中堅歌姫の交際報道を契機に展開するパワースポット認知PR活動。結果からみればそういうことになる。
 ともあれ、交際報道が沈静化している一方で、「パワースポット」は、すっかり市民権を得ているわけだから。

 明治神宮にある「清正井」(きよまさのいど)という施設(←わき水?)は、ここしばらく、人々が行列を作るポイントになっている。どこかの芸人が、この井戸の写真を携帯電話の待ち受け画面に設定したところ、ほどなく冠番組のオファーが来たとかいった話が広まって、以来、行列はさらに長くなっているのだそうだ。

 携帯の待ち受け画面にパワースポットを置く。まことによくできたプロモーションだ。
 どこの代理店の悪党が考えたのだろうか。

 そもそも、「セドナ」は、「パワースポット」だったのであろうか?
 というよりも、アメリカの人たちは、特定の場所に霊的な力が宿るといったような考え方をするものなのか?

 百歩譲って、ネイティブアメリカンの伝承の中に、その種の自然崇拝があったというところまでは、認めるのだとして、でも、そうであるのだとして、霊力を備えた土地を訪れる人間に力がもたらされるというふうに考えるのは、やはり拡大解釈ではないだろうか。

 それ以前に、英語の辞書を引いてみても、「パワースポット」なんていう言葉は出てこない。さよう。これは、まるっきりの和製英語なのだ。

 なるほど。
 そういえば語感がどこかウォークマンっぽい。
 あえて再和訳するなら「パワーな地面」「自動的な地点」ぐらいだろうか。あるいは「リキんだ人間の顔に浮かぶ斑点」とか、現地の人間には、そういう感じに聞こえている可能性もある。うん。恥ずかしいぞ。

 こういう言葉を使う日本人が、この大型連休に大挙してアリゾナを訪れていたのだとすると、これは、国辱ということにならないか?

「ワタシ尋ねるのこと。力のスポット、何処にて存在するアルか?」
「ん? 動力地点? なんだ? 発電所か?」
「我、せどなの名において訊問するの志あり」
「ああ、セドナね。あんなとこ行ってどうするんだ? なーんもねえぞ」

 調べてみると、セドナは、既に日本語のホームページを用意している。
 和製英語トーカー向けの米製和語サイト。

 サイトには、こんなことが書かれている。

※ セドナ旅屋&セドナパワースペース: スピリチャルな婚活、瞑想、リーディング、通訳などを提供するスピリチャルツアーのオペレーターでスピリチャルサロンのセドナ・パワースペースを営業。
※ ハイヤーセルフディスカバリー・ウィズ・クレッグ・ジュンジュラス: 日本語通訳を介してのオーラ視、スピリチャルガイドのクラスなどを受講可。

 うむ。「スピリチャルな婚活」……テキはわかっている。
 非常に申し上げにくいことだが、われわれは、どうやら舐められている。
 舐めていない人間に対して、いったいどこの誰が「スピリチャルな婚活」などという、絶妙な言葉を用いることができるだろう。

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