鼻歌ハッピーエンディング
『ごめん、今日無理になった また連絡する』
彼からのメールが入ったのは、スーパーの自動扉を数歩出た時だった。
雪が街灯の明かりや車のヘッドライトの隙間の夜にヒラヒラ舞いだしていた。もうすぐ三月だというのに。
そういえば。ついさっき急いで残業をこなしていたオフィスで同僚が、
「今日から明日にかけて雪降るんだって」
と、どこかワクワク嬉しそうな顔で私に言っていたことを思い出した。早く帰ることだけに夢中で聞き流していた。
この冬は暖冬だ・と思っていたら、年が明けた頃から堰を切ったように寒波が幾度も押し寄せ、普段なら珍しい東京での積雪にも動じなくなった。
じゃがいもやニンジンなど、シチューの材料でいっぱいのビニール袋を片手に提げた私は、数秒間彼からのキャンセルメール・その何の体温も感じない文字列が冷たく並ぶ液晶を見つめ。携帯をパタリ閉じた。
キンと頬を刺す冷気と、手に食い込むカサカサしたビニールの感触に、浅く息を吸い込んで歩きだす。
ふー・・・ふふふんふふふん・・・
いつからだろう。彼との約束が流れるたび・彼から放置されるたび、こんな風に鼻歌を歌うようになった。ふーっというため息ばかりつく自分が嫌で、自然に漏れ出たため息から無理やり鼻歌に変更したのがはじまりだ。
作曲は自分。デタラメな歌だ。けれど、その歌は何度も私を助けてくれた。
五年付き合った彼に、私以外の女がいることを知ったのは去年の夏の終わりだった。
私の部屋に泊まりに来ていた彼が、携帯操作の途中で眠りについた。仕方ないなと、タオルケットでも掛けようと携帯を取り上げた時、ふと見えた液晶にあったのは、私の知らない女性からのメールだった。
『今日は来ないのかな?寂しい・・・遅くなっても来て欲しいなぁ。私がもし寝てても合鍵でいつでも入ってきて!愛してる』
夏前くらいから、夜に連絡がつかないことが増えたのも、
忙しくて会社に泊まったと言いつつ違う服を着ていたことも、
服からふんわり柔軟剤の香りが漂っていたことも、すべての点が線で結ばれた。
私は常々、彼には
「浮気とかありえない。浮気なんてしたらすぐに別れる」
と、公言していたし、実際にそうするものだと自分でも思っていた。
けれど、私は別れなかったし、問い詰めもしなかった。
そのメールを見てしまってからの私は、彼の前ではいつも笑っているようになり、わがままも・仕事の愚痴も言わなくなった。
遊びに来た彼が部屋を散らかしても前のように不機嫌にならなくなったし、いつの間にか作らなくなっていた手料理も再開した。
約束をしても、急なキャンセルが増えた彼に対して文句のひとつも言わず、作った料理をひとり流しに捨てた。彼のために作った光るものを、ひとりで食べるような寂しいことはできなかったのだ。
そんな私の思いに反比例するように、物分りの良い女になっていけばいくほど、彼が私の部屋に来る頻度はどんどん減っていった。
雪が激しくなっていく。
つい三日ほど前にも積もるほど降ったのに、まだ降るか。
と、歩きながら見上げた黒い夜空からはサラサラした粉雪がそびえるビル群を埋めるように降り注いでいた。
ひらひら私のまつげや頬をそっと撫でては、すぅっと消えていく淡い雪。
私が大学進学のため、田舎から上京してきた五年前の三月のある日も、こんな風に雪が降っていた。
そう。
その後入学した大学の食堂で友達を介して知り合った彼と、上京して来た日にちが同じだと知り、雪降ってたね・そうだね、と話が弾んだのだ。お互い、方言のイントネーションに少し気を遣いながら。
彼のメガネの黒縁があまりに太くて、(太いなー太いなー)と、それにばかり目が釘付けになったのを覚えている。
それから、東京というきらびやかなメトロポリスに馴染んだり押し流されたりしながら、私と彼は五年間一緒に過ごした。
のに。
コートのポッケに突っ込んだ携帯のバイブが激しく揺れだした。
――彼から?!もしかしたら今晩大丈夫になったのかもしれない!――
と焦った私は、取り落としそうになりながら急いで携帯を開いた。
『元気?今度の日曜映画観ない?前に観たいって言ってたヤツが封切りになったよー』
大学時代の女友達からのメールだった。時間が有り余っていた学生だった頃はいつも遊べたのに、就職してからは少し疎遠になっていた。ここ最近よく誘ってくれてはいるのだけれど、私が遊ぶ気にならないのと(それよりも彼の連絡を待っていたかった)、彼女と会ってしまえば今のこの状況に泣き言を言ってしまいそうな自分が怖かった。
泣き言?
私は降り続ける雪の中、赤に変わった横断歩道で足を止めた。走り出した車たちが雪をグルグルかき回して過ぎていく。
握り締めた携帯の、受信メールをひとつスクロールする。
『ごめん、今日無理になった また連絡する』
彼のメール。彼はいつしかキャンセルもメール一通で済ますようになっていた。
ふわり液晶画面に白が舞い降りる。粉雪が液晶に次々降りて・解けてキラキラ青白く光る。
『また連絡する』
の「連絡」という文字がその雫で歪んだ。泣けなくなっていた私の代わりに泣いているように。いつの間にか私は、彼からの連絡をただじっと待ち続けるだけの塊になっていた。
・・・・ふん・・・ふふふふん・・・
ため息をつきそうになり、また小さく小さく鼻歌を口ずさんだ。
かじかむ手で携帯を閉じようとした私の目に映ったのは、信号脇の植え込みに残った数日前に積もった雪だった。
寒さの中、まだ解けきらず・土にまみれながら、じっと新しい雪に降られている。その汚れきったマーブル模様をぼんやり見て、思ったのだ。
私に・似ている
私はすでにひとりだった。泥まみれの雪のように打ち捨てられ・ひとりだった。
時間の流れや気持ちの移ろいを認められず、平静を装っていたのは私のプライドだ。守り続けたはずの私のプライドは、彼に無言ですがり続けることでズタズタになっていた。
彼の気持ちが他に向くとは思ってもみなかったし、彼はずっと・永遠に私を好きでい続けるはずだった。
アレもコレも・たくさん約束したのだ。ずっと一緒にいると約束したのだ。
けれど、二人の恋が静かに息を引き取っていく様を、歯を食いしばりながら見つめ続けるしか出来なかった。離れていく心を繋ぎとめる術は私にはなかった。
だから、もういい。よくわかったから。
ひとつひとつ二人の未来をあきらめながら、私の心は別れへと収束していっていたのだ、と。泥雪を見た時、ハッと気がついた。
自分の人生の主人公は自分なのに、主人公不在の毎日だった。
ひとりになるのが怖かったはずなのに私はもうとっくにひとりだった。それなら・もう怖くはないはずだ。
鼻歌をやめ。携帯のリダイヤル一覧から彼の番号をさがした。前まではいつも一番に名前が出てきたのに。
私から電話をすることはいつの間にかなくなっていた。
彼が私からの着信を見て、携帯を閉じるところを想像するのも嫌だったのだ。
「もしもし?」
長い呼び出し音の後。面倒そうに出た彼の声を聞きながら、もう電話越しに彼の居場所を探るような真似はしなくていいのだと思った。
その時の、少しの開放感。
雲間からうっすら光が射す時のような、誰も踏んでいない朝の新雪を前にした時のような。
やっと、私に戻れるのだ。
そして、私は別れの言葉を口にしはじめた。
後悔する。かも。
けれど。春はもうすぐなのだ。根雪と呼ぶには泥臭過ぎる植え込みの残り雪ももうすぐ天に帰るだろう。
くっつきそうにカラカラの喉で、用意されたように別れの言葉を紡いでいく私の頭では、いつも独りで口ずさんでいた鼻歌がぐるぐる流れていた。
ぎゅっと携帯を耳に押し当てながら、頭を軽く払うとぱらぱら粉雪が散った。
あと、ひと月と少しすれば、サクラが咲き誇る。
この雪が桜の花びらに変わっている頃には私は笑っているだろうか?
わからない。
この凍てつく雪の中ではまだ想像もできないけれど、もう虚しい歌は歌わないのだ。辛くないフリもしない。友達とも遊びに出よう。携帯も変えよう。私が食べたいものを作ろう。
リハビリのようなそんな日々がいつか、ハッピーエンドに繋がっていく。
これから、死ぬほど辛いリバウンドや、終わりの見えない長い夜を経験するだろう。
きっと、泣くのだろう。何度も。でも、もうエンディングにする。
悲しい時とそうでもない時。そんな潮の満ち引きのような日々をくり返しながら、いつか辿りつける美しい岸辺を私は知っている。だから。
春隣の雪景色の夜。
電話の向こうで、彼はずっと黙っていた。
それでも、私は言葉を続けた。
今はわからなくても、長い時間をかけてわかるハッピーエンド。
私がハッピーエンドにしていく。
していくのだ。
終わり
※この話は、最近ひとつの恋にさようならした、女友達へのエールです。某A子。あんたよくやったよ!
あと、辛い恋をしてる全ての女の子に捧げまっす!!ぐへ
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