立岩さんの本を久しぶりに読んだ。
立岩さんの本は眠くなる。
良い死/立岩 真也
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¥2,940
Amazon.co.jp
自分なりの問題意識で理解したことを立岩さん風に書いてみる。
立岩さんはもっとくどくどと書いている。
立岩さんの文章はわかりやすいように見えて、実はとてもわかりにくかったりする。
以下の文章もそんな類のものです。
公共サービスであっても赤字はいけない。
民営化すれば、競争原理が働き、市場のニーズにも素早く答えることができ、サービス自体が向上するばかりでなく、経営が効率化し、黒字になると良く言われる。
私には良くわからないのだけど民営化すれば、営利事業体にとって不必要なサービスは儲からないサービスであり、それは難病の人に対するケアとかニーズが少ない割には手間暇がかかるサービスだったり、あるいはそのサービスを必要としている人が、そのサービスを必要としているが故に貧しい場合であり、それは働くための必要な知識や技術を得るための教育費だったりする。そして、このようなサービスを必要としている人は、そのサービスを必要としているがゆえに、サイレント・マイナリティであり、その声が大きくなることはないので、そのニーズはあるのにないことになり、そのサービスはそもそも無駄だったものとされ、廃止することが正当化されることになるのではないかと思う。
一方、ニーズがあるサービスとは、利用者が多いサービスか、利用者は少ないけれど、わずかな利用者から多額の費用が徴収できるサービスであり、そのようなサービス・メニューは充実していくことになり、一見するとサービス・メニューが充実し、質も向上したかのように見え、民営化は正当化される。
その結果、従来サービスを受けていた少数派の人々がサービスを受けられなくなり、従来のサービスは必要ないけれど、新しいサービスを利用する人々が増え、格差は拡大する。
そして、格差が拡大したことに対して、民営化を推進する人々はサービス・メニューが増えたではないか、現に黒字化したではないか、そのサービスを利用しないのは自己責任と言ったりする。
確かに新しいサービスは利用者を増やし、収入も増やし、そのサービスを利用した人の能力を伸ばしただろうけど、少数派だからこそ(廃止された)従来のサービスを必要としていた人々が、そのサービスを受けられなくなり、彼らが能力を発揮する機会を失ったから、格差が増大したのだろう。
事業の効率化を考える上で持ち出される考え方に費用対効果というものがあり、今日もテレビで竹中何某がそのようなことを言っていた。
彼がいう費用対効果とは、お金をかけた以上の経済的利益をもたらすことができますか?ということをやる前に考えましょうということであり、それはお金をかけた以上の利益をもたらさないことにお金をかけないということだから、サービスを提供しても経済的利益としてなんら還元できない人が必要なサービスは、この考え方だと不要なサービスになる。
これは格差を容認していることになる。
確かに公共サービスであっても無駄な赤字はいけない。
そして、現在の公共サービスが不効率であり、必ずしも弱者のニーズにこたえている訳ではないと思うので、基本的には同意するが、それでもやはり赤字でもやらなければならないサービス、必要な赤字というのはある。
竹中何某も必要な赤字は認めているけれど、それは将来的には累積黒字なる事業であるので、いつまでたっても赤字だし、その額が多くなる可能性が高い事業であってもやらなければならない事業はないことになるのだけど、本当にないことにしていいのだろうかと思う。
そもそもその赤字は社会全体で補てんするものであり、そのために税金を徴収しているのではないかと思うが、最近では私たちは人より多く税金を払っているのだから、私たちの利益になるような事業に投資しろ、または払った以上の便益をもたらしなさいという声が大きくなり、そして小泉何某はその期待に応えるような政策をしてきたのだけど、そもそも国や自治体は民間企業ではないので、多額納税者は国や自治体の大株主でもないのだから、その主張はおかしいように思う。
このようなことをどんどんつきつめて考えていくと、利益を他者にもたらさない人間は早く死んでくれ、それを幇助するためにそのような人々が生きるために必要としているサービスを不効率なサービスとして廃止する。すなわちそのようなサービスを必要としている人間は人間失格だと本人に思わせ、生きる希望を失わせ、早く死んでもらうのだけど「自殺」ではまずいので、「尊厳死」という合法的な、自己決定という自殺、あるいは他殺の選択肢を準備しましょう。
それが周囲や将来世代から感謝される「良い死」なんですよということになり、それを自己決定の名のもとに、強制的に「尊厳死」を選択させられることになるのではないか、それは勘弁してほしい、まるで本当はいやなのに、お国のために喜んで戦死した、否、させられた旧帝国軍人と同じじゃないかということをクドクドと書いた本です。
立岩さんの本は眠くなる。
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立岩さんはもっとくどくどと書いている。
立岩さんの文章はわかりやすいように見えて、実はとてもわかりにくかったりする。
以下の文章もそんな類のものです。
公共サービスであっても赤字はいけない。
民営化すれば、競争原理が働き、市場のニーズにも素早く答えることができ、サービス自体が向上するばかりでなく、経営が効率化し、黒字になると良く言われる。
私には良くわからないのだけど民営化すれば、営利事業体にとって不必要なサービスは儲からないサービスであり、それは難病の人に対するケアとかニーズが少ない割には手間暇がかかるサービスだったり、あるいはそのサービスを必要としている人が、そのサービスを必要としているが故に貧しい場合であり、それは働くための必要な知識や技術を得るための教育費だったりする。そして、このようなサービスを必要としている人は、そのサービスを必要としているがゆえに、サイレント・マイナリティであり、その声が大きくなることはないので、そのニーズはあるのにないことになり、そのサービスはそもそも無駄だったものとされ、廃止することが正当化されることになるのではないかと思う。
一方、ニーズがあるサービスとは、利用者が多いサービスか、利用者は少ないけれど、わずかな利用者から多額の費用が徴収できるサービスであり、そのようなサービス・メニューは充実していくことになり、一見するとサービス・メニューが充実し、質も向上したかのように見え、民営化は正当化される。
その結果、従来サービスを受けていた少数派の人々がサービスを受けられなくなり、従来のサービスは必要ないけれど、新しいサービスを利用する人々が増え、格差は拡大する。
そして、格差が拡大したことに対して、民営化を推進する人々はサービス・メニューが増えたではないか、現に黒字化したではないか、そのサービスを利用しないのは自己責任と言ったりする。
確かに新しいサービスは利用者を増やし、収入も増やし、そのサービスを利用した人の能力を伸ばしただろうけど、少数派だからこそ(廃止された)従来のサービスを必要としていた人々が、そのサービスを受けられなくなり、彼らが能力を発揮する機会を失ったから、格差が増大したのだろう。
事業の効率化を考える上で持ち出される考え方に費用対効果というものがあり、今日もテレビで竹中何某がそのようなことを言っていた。
彼がいう費用対効果とは、お金をかけた以上の経済的利益をもたらすことができますか?ということをやる前に考えましょうということであり、それはお金をかけた以上の利益をもたらさないことにお金をかけないということだから、サービスを提供しても経済的利益としてなんら還元できない人が必要なサービスは、この考え方だと不要なサービスになる。
これは格差を容認していることになる。
確かに公共サービスであっても無駄な赤字はいけない。
そして、現在の公共サービスが不効率であり、必ずしも弱者のニーズにこたえている訳ではないと思うので、基本的には同意するが、それでもやはり赤字でもやらなければならないサービス、必要な赤字というのはある。
竹中何某も必要な赤字は認めているけれど、それは将来的には累積黒字なる事業であるので、いつまでたっても赤字だし、その額が多くなる可能性が高い事業であってもやらなければならない事業はないことになるのだけど、本当にないことにしていいのだろうかと思う。
そもそもその赤字は社会全体で補てんするものであり、そのために税金を徴収しているのではないかと思うが、最近では私たちは人より多く税金を払っているのだから、私たちの利益になるような事業に投資しろ、または払った以上の便益をもたらしなさいという声が大きくなり、そして小泉何某はその期待に応えるような政策をしてきたのだけど、そもそも国や自治体は民間企業ではないので、多額納税者は国や自治体の大株主でもないのだから、その主張はおかしいように思う。
このようなことをどんどんつきつめて考えていくと、利益を他者にもたらさない人間は早く死んでくれ、それを幇助するためにそのような人々が生きるために必要としているサービスを不効率なサービスとして廃止する。すなわちそのようなサービスを必要としている人間は人間失格だと本人に思わせ、生きる希望を失わせ、早く死んでもらうのだけど「自殺」ではまずいので、「尊厳死」という合法的な、自己決定という自殺、あるいは他殺の選択肢を準備しましょう。
それが周囲や将来世代から感謝される「良い死」なんですよということになり、それを自己決定の名のもとに、強制的に「尊厳死」を選択させられることになるのではないか、それは勘弁してほしい、まるで本当はいやなのに、お国のために喜んで戦死した、否、させられた旧帝国軍人と同じじゃないかということをクドクドと書いた本です。